コーヒー・ブレイク   作:クレナイ

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最高の取引

いよいよ一世一代の大舞台を、明日に控えていた。アイドル、安部菜々にとっては、長く諦め切れず憧れていたアイドルとして大舞台に立つ夢が、ついに叶うときが近づいていた。

 今は前日の練習を終え、彼女は電車で一時間ほどの距離にある自宅アパートへと戻ろうとしている途中だった。秋も終わりに近づき、少しずつ吹きつける風が、冬の到来を告げるかのように冷たく、肌に差すような痛みを残していく。はぁーっと、吐く息は白く、少しだけ漂ってから、消えていく。

「ううぅ、寒い……」

 ぽつりっと呟いて、コートを着ている身体を抱きしめる。

 全力でやるのに、体力が持つのは一時間程度。調整程度の練習とはいえ、元気の有り余っている他のアイドルたちとは違い、肩で息をするほど身体は疲れていた。自分の体力のなさが恨めしい……そう思い悩んだことは数え切れないほどある。

「あれ、これは……?」

 ふと、視線を落とした。ドアの前に、なにか小包のようなものが置かれていたのだ。菜々はしゃがみこみ、誰から送られてきたのだろうと確認してみる。しかし、そこには差出人の名前は書かれておらず、割れものと注意書きと“安部菜々”と宛先名の記載された紙が貼られているだけだった。配達人の間違いではないのは確かだ。とはいえ、菜々が最近割れものに分類される品物を注文した覚えはなかった。とりあえず、部屋に入って中身を見てみようと思った。  

 居間の中央にある丸テーブルの上にその小包を置き、品物の包装を解いていく。

「えっ……これって――壺?」

 中に入っていたのは、骨董品とも言えるような古びた壺だった。しかし、相当年季が入っているようで、手で触れたら汚れがついてしまうのではないか。いらないゴミを押しつけられたようで、少しだけあった期待が、みるみる萎んでいくのがわかった。

「はぁ……。こんなものを押しつけられたって、困るだけなのに。花瓶にするにしたって、見た目がよくないし……。骨董品店に持って行ったって、悪徳商法に引っかかったと思われるだけかも……」

 落胆の気持ちを溜息とともに吐き出す。この気持ちのまま明日の大舞台を迎えるわけにはいかない。こんなときは、一杯やってゆっくりとするのが一番だ。そう思い、よっこらせと菜々は立ち上がろうとした。

 その際偶々、肘辺りが壺に当たってしまい、被さってあったフタがポロリッと畳の床に落ちてしまった。「あっ……」と菜々が声を零したときにはすでに遅かった。壺の中から、なにやら黒っぽい靄のようなものが立ち上った。菜々は慌てて目を閉じて、身の危険に怯える。しかし、十秒、二十秒経っても特に被害に遭う気配がないことがわかり、やがて少しずつ恐る恐るというように目を開けてみる。すると、壺のそばに――正確に言うと、壺の口から飛び出しているように、見知らぬ何者かが立っていた。天井に頭がつくほどの大きな身体をしている。身体つきからして、性別は男のようだった。だが、すぐに菜々はその男が人間ではないことに気づく。肌の色が黒人よりも深い黒色をしており、耳は異様に尖っていて、さらには尻尾まである。化け物という言葉がぴったりの存在だった。あまりの驚きに、畳の上にへたり込んでしまう。腰が抜けたのだ。

「な、な、なんなんですか……あなたは」

 怯えて声が震えながらも、なんとか尋ねてみると、その男は、興味深そうに菜々を見つめながらにやにやとした笑みを浮かべながら口を開いた。

「壺の悪魔……というのは、やはり語呂が悪いな。ここは飾らずに、我は悪魔だ」

「あ、あ、あく……ま? あくまって……あの、ゲームとかに出てくるような悪魔、ですか?」

「そう、貴様の言う悪魔だ。信じられないかもしれないが、我のような存在が人間でないことを、貴様でも理解できるだろう」

 何度も瞬きをしたり、頬を抓ってみたりとこれはきっと夢なのだと自分に言い聞かせるが、なにをやっても目の前にいる悪魔という存在は消えることはなかった。頬の痛みもじんじんと残っていた。いったいどうして壺の中にいたのか。どうして現れたのか。菜々は、おっかなびっくりに尋ねてみた。

「ランプの精と同じよ。我はこの壺に宿り、渡る先々で人間の望みを叶えてやっているのだ」

「ランプの精って……。悪魔と聞いて、良い聞こえはないんですけど……」

「それは望みを言う本人次第だ。我はその望みを叶えてやるだけしかできないのでな」

「望みを叶えるって……例えばどんなことができるんですか?」

「どんなこととは、悪魔である我を愚弄しているのか? どんな望みも叶えてやれる、さあ、貴様はなにを望む、なにを願う?」

 菜々は考えるまでもなく、すぐにこう言った。

「お願いします。菜々を若返らせてください」

「ク、ハハハッ。な、なにを言うと思ったら若返りを望むか。まあ、女子なら望むだろうこと。良いだろう、その望み、叶えてやる」

 悪魔は菜々の頭の上に、その丸太のように太い腕を伸ばしたかと思うと、なにかを引き抜くような動作をした。それと同時に、菜々は自分の中からなにかを抜き取られたかのような感覚を覚えた。しかし、それは決して不快なものではなく、むしろ身体が軽くなるような、生気が満ちるような、そんな快感にも似たものが全身を駆け巡ったのだ。

「す、すごい……。あ、ありがとうございます。菜々、すごく感激してます」

 ここで菜々はふと思った、どれくらい若返ったかはわからないが、もう少し願いを叶えてもらえば、本当にぴちぴちの十七歳になれるかもしれない。そうと決まれば、躊躇いなどない。相手が悪魔であろうと、今の彼女には関係なかった。

「あ、あの。菜々の願い、もう少し叶えてくれませんか」

「ああ、構わぬ」

 そう言って、また悪魔はその手で菜々からなにかを抜き取った。きっと目に見えない、老いかなにかなのだろうと、胸中で独り言つ。

「ええい、もう一声」

「若さにどん欲だな。まあ、当然だろうがな」

「当然ですよ。なんたって、菜々は十七歳になるんですからね」

 菜々は何度も若返りを願い、その都度悪魔はその願いを叶えてくれた。老いが身体から抜けていくにしたがって、肌がきれいになり、髪はつやつやに、身体からは無駄な肉が落ちていくのがわかった。

 何度目かの若返りをしたところで、不意に悪魔が待ったをかけた。「おい、もうそのあたりにしたらどうなんだ」菜々からすれば、悪魔にしてはらしくない言葉だと思った。

 そう言った悪魔だったが、菜々の要求は止まることなく、さらに熱が入った。若返りだなんて、ファンタジーであり、メルヘンチックである、本来ならあり得ないこと。当然、このチャンスを逃せば、もう二度と巡り合うことはできないだろう。

「なら最後のお願いです。菜々を、誰からも愛されるくらい若返らせてください」

 菜々の願いに、悪魔はこれまで同様頷き、大きな腕を伸ばして老いを引き抜いた。

 突然、菜々の身体から力が抜けた。ゴロンッと畳の上に転がり、天井と悪魔を仰ぎ見る態勢になる。慌てて力を入れて、起き上がろうとするけれど、思うようにいかない、否、まったくできなかった。自分の身に、いったいなにが起きたのかと焦りと不安を覚える菜々は、ようやく顔だけを横向きにすることができた。すると、偶然にもその視線の先に鏡があることに気づく。そして、その鏡に映る自分の姿を見て、鈍器で殴られたような衝撃を受けた。

「願いは叶えた。これで貴様は、誰よりも愛される存在だ。我に感謝せよ」

 悪魔はそう言って、笑い声を上げながら、再び壺の中へと消えていった。勝手に蓋が閉まり、その壺は最初から存在していなかったように消えてしまった。

 部屋に残されたのは、赤ん坊に若返った安部菜々、ただ一人だけだった。

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