太陽が沈み、どこか暗く鈍い輝きを放つ満月が天へと登る午後七時。
「このマグネタイトの感覚、彼はシトリーを呼び出すつもりなのかな」
「おそらくは」
完全に日が暮れた林、一の頭公園の藪木に身を潜めたまま、ルイ少年とその守役の女はヒソヒソと呟きあっている。
「しかし、おかしいな」
「はい」
少年達が見つめる視線の先、そこには今まさに異界から悪魔、この世の生物とは異なる存在を呼び出そうとしている、軽子坂高校生徒「狭間偉出夫」の姿が映っていた。
「堕天属シトリーを呼び出す理由など、人間の男には一つしかないと思うが」
「左様でございます」
「彼から感じるマグネタイトの流れは」
両手に持つ木で身を隠したまま、中腰で悪魔召喚者ハザマを瞬きもせずにじっと見つめ続けるルイ少年達が二人。春から夏にかけて育ち、覆い繁った緑の葉の塊が彼らの姿をハザマのその目から捉えさせない。
「必ずしもダークサイドの力に満ちたものではない」
悪魔、天界から堕天した物達へと属するシトリーを呼び出す者は、ほぼ全てが利己的な、情欲に満ちたマグネタイトを放っているものだ。
「坊ちゃま」
「何だ?」
「結局の所、今の坊ちゃまの力はどのくらいで?」
チャ……
その五森婦人の言葉に対して、なるべく少年は音を立てないようにしながら、自分のポケットから可愛らしいマスコット・キーホルダー「ヒーホー君」を取り出して見せる。
「この霜の妖精と同じくらい」
「不便をなされるでしょうか?」
「どうかなぁ」
ブゥ……
二人の近くへ耳障りな羽音を立ててやってきた蚊をその小さな身体から放つ冷気、冷たい風で追い払いながら、少年は無邪気な笑みを彼女へ向けて浮かべてみせた。
「この中腰姿勢はこたえるけど」
「歳でありましょう」
「そうなのかな……?」
再び、身を屈めてハザマを見つめている二人へヤブ蚊が忍び寄ってくる。
「ニホン、蚊が多い」
「仕方がありませぬ、坊ちゃま」
「うちのあやつ、蝿の主人に苦情を言って、何とかならないだろうか?」
少し蚊の羽音に神経を苛立たせたのか、今度は冷気で退散させるだけではなく、魔方陣の近くにいるハザマに気がつかれない位に彼、ルイ少年の持ちうる力を放ち、その害虫を凍りつかせてみせた。
「蝿と蚊では全くちがいましょう」
「同じような虫同士、知り合いに司っている奴の一人や二人はいそうだが」
「そうそう上手くは……」
眉をひそめてそう言いかけた五森婦人を、少年は素早くその細い手を伸ばし彼女の口を遮る。
「始まったようだ」
二人が見つめる魔方陣から軽い火花と同時に、金と紅の光が増し始めた。
――――――
「あの光はなんだと思う、センセ」
闇に包まれた木々の間を油断なく周囲へ懐中電灯を振りながら歩く慎二達の視線の先に、何か色、黄色に輝く煙やら紅い光がぼんやりと映りだした。
「怪しい光と言えば、プラズマに決まっている」
「あぁ、そうですか、そうですか……」
夜の闇に閉ざされていなければ、慎二が自分に対して舌を出している姿を、教師である大月は咎めていたであろう。
「あの人影は……」
「ハザマ君、かな?」
その純白の特注制服に包まれた細身の少年のシルエット、月明かりに照らされてもなお薄暗い林の中でも、そうそう軽子坂高校、その中である意味「名物」となっている彼と見間違う事はない。
パチッ……
「なぜ懐中電灯を消す、黒井君?」
「いや、何となく……」
何か、何か今の狭間偉出夫に姿を見せるのが危険な予感がし、反射的にその手に持つ電灯を閉まった慎二。
「もう、帰らねぇか、先生?」
「何を言っているんだ、君は」
ジロリと眼鏡越しに大月に睨まれながらも、慎二はその口から出す弱気な言葉を止めない。
「あの小僧達がここにいるとも限らねぇしよ……」
「あれがハザマ君なら」
ザァ、ザ……
「ルイ君達を知っているかもしれん」
「おい!?」
遊歩道からその脚を離れさせ、謎の光を放ち続ける場所へ向かい、最短距離を突っ切ろうと草むらを踏みしめ始めた教師大月を慎二は慌てて止めようとする。
「おい、待て大月!!」
無謀なのだか何なのだか性格が掴めない大月を、それでも懐中電灯をつける事をためらいながら慎二は慌てて彼の後を追った。
――――――
「シトリー召喚、成功……」
魔方陣から立ち上る黄金色に光る煙の中に、おぼろげながら人影らしき物を確認したハザマ。そのまま携帯端末タブレットを手に持ちつつ、その視線を微塵もその影から離さない。
「我が名はシトリー」
人影の頭部らしき場所に乗っかっている猫、いや豹のようなその面から透き通るような、それでいてどこか禍々しい性別不詳の声が辺りへと響く。
「初源の神が創りし二対の人の末裔、その者達が持つ原罪の一つを叶えし魔の者」
何かを宣言するようなその魔物の言葉と同時に、魔方陣から周囲へと紅い光が舞い散る。
「汝の望みは何だ、少年?」
「ある女の姿を映してほしい」
そのハザマの秀麗な唇から掠れたように吹き出される、ハッキリとした言葉に対して魔物、住まう天から堕ちた者であるシトリーはその鼻をひくつかせながら微かに笑ったようだ。
「それの大罪以外に、我が呼び出される理由はないか」
「この女だ」
カソッ……
ハザマの懐から差し出された一枚の写真を、シトリーが魔方陣からその身体を乗り出して覗き見る。
「美しい女ではないか、人間」
「僕の母親である」
「フン……」
シトリーは召喚主であるハザマの顔を再度睨み付け、再び悪魔は彼を嘲笑った。
「まあ……」
フシュ……
その悪魔の吐息には強いジャコウの匂いが絡み付いている。
「昔から数多の邪淫の願いを数多く叶えてきた我が、いまさらこれしきの事で、気に止める事ではないのであろうな」
「何も望まない、ただ母さんの姿を録ってくれるだけでいい」
シィ……
魔方陣から立ち昇る金色に輝く煙が、魔物の姿を覆い隠した。
「その願いは我の管轄にあらず」
「召喚者はこの僕だ」
またしても、そのハザマに対して再度の冷笑を投げかける堕天者シトリー。
「他のその手の、いわゆる清冽な願いを叶える立場へと属する者を呼び出せば良いものを」
「召喚したのは僕だと言ったはずだ……!!」
「フフ……」
その声にヒステリックな物が混じり始めた彼ハザマに対し、からかうように堕天使シトリーは自らの身体を纏う黄金色の煙と紅い粒子を軽く吹きかける。
「まあ、良い」
その不満げとも興味をそそられたともどちらともつかない、あるいは両方の感情を込めた笑みを浮かべながら、シトリーは自らの右手を天の月を指差すように振り上げた。
「我にしても、たまには暗黒に満ちた欲望を感じさせない願いを望む男は」
瞬時に、その豹面をした異形の姿から三十がらみの女の姿へとその身を変えてみせる悪魔。
「嫌いじゃないわ、偉出夫」
「母さん……」
「久しぶりね」
その女の微笑みに、ハザマはその手に持つ大型携帯端末を気にしつつも、両の腕を広げて彼女、悪魔が化身した存在へと抱きつこうと、足を僅かに魔方陣へと進める。
バキィ……
「誰だ!?」
「ハザマ君!!」
大月が足元の大振りの枝を踏みつけながら自分へ向かい駆け寄ってくる姿に、ハザマのそのまなじりが強く跳ね上がった。
「邪魔をするな、先生!!」
「そのプラズマは!?」
「邪魔をするなと言ったはずだ!!」
コッ……
激昂をしたハザマの手からタブレットが滑り落ち、魔方陣の中へ向かい投げ込まれてしまう。
「しまった!!」
バ、チィ……!!
そのタブレットが魔方陣中央へと置かれていた召喚の為に必要な物質群、マグネタイト結晶体と謎の妖蟲が入れられた瓶へとあたり、その陣から立ち上る煙と光、そして悪魔シトリーの姿が揺らぎ始めた。
「何をやっているんだよ、ハザマ……?」
ハザマ、狭間偉出夫にそう問いかけながらも、慎二は日が昇っている間であれば公園の名所である澄んだ池、しかし今では異様な気配、淀んだ空気しか醸し出さないその魔方陣周辺の光景を見て、教師大月の後を追ってきたことに激しい後悔の気持ちをその心の中へと抱く。
「おのれ……!!」
シトリーのその姿、ハザマの母を形どったその身体が水蒸気が蒸発をするかのように消え始めたのを目にし、彼軽子坂高校の生徒、狭間偉出夫が憎しみに満ちた視線を大月、そして彼の後を追ってきた黒井慎二へと強く向けられる。
「許さんぞ、貴様ら」
「許さないって……」
そのハザマの形相に怯み、一歩後ずさりしながらも慎二は虚勢を張り、彼ハザマへとぎこちなく肩を竦ませてみせた。
「こんな夜更けに何かのトリックをやると、近所の目がうるさいぞ、ハザマ」
「黙れ!!」
怒りに満ちたハザマの怒号と共に、彼の右手が制服のボタンを外しながらその内側へ入り込む、その時。
「何だ、よ……?」
ゴク、リ……
唾を飲みながら掠れた声を出す慎二の声、その彼の声色へと混じっている脅えの色にハザマは大月、慎二達へと投げつけていた憎しみの視線を再度魔方陣の方へと戻す。
「まずい……!!」
シトリーの姿が消え去った魔方陣から再び赤い光、先程とは異なる毒々しい赤黒さを放つ火の玉、生物の臓物を彷彿とさせるそれらが飛び出してきた事態にハザマは。
「召喚魔方陣が暴走してしまったか……?」
黒井慎二達、彼らを無視して狭間偉出夫は険しい顔つきをし、その光景をじっとその双眸で凝視をし始めた。
――――――
「いいところだったのになあ……」
ハザマとシトリーのやり取りを面白そうに眺めていたルイ少年は、そう呟くと共に軽くその舌を打つ。
「しかし、坊ちゃま」
「ああ」
暗い林の中へと描かれていた魔方陣、そこから次々に飛び出てくる、赤黒い光を放ちながら脈打つ「玉」を見つめながら、少年はその自身の唇へ軽く舌なめずりをしてみせる。
「第二ラウンドの始まりだ」