比企谷、P辞めるってよ   作:緑茶P

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( `ー´)ノ嫁といちゃいちゃをぽいっとな


ぬくもりは、そこに

 カーテンの隙間から差し込む柔らかな光にぼんやりと意識が引き起こされるのを感じて、目を開いた。

 

 朝独特の冷え込んだ空気に気だるい体の輪郭を感じつつも体を包む布団の柔らかなぬくもりと清涼な澄んだ空気が心地よくて深く息を吸い、隣から感じるもう一つの温かさに身を寄せることで少しだけあった心の中の不安と共にゆっくりと息を吐き出してゆく。それを何度か繰り返すうちにすっかりと覚めてしまった瞳を隣に移せば、今ではすっかりと見慣れた男の顔がすぐそばで無防備な顔で静かに寝息を立てている。

 

 昔より短く揃えられた鴉の様な真っ黒な髪の毛に呑気に揺れるアホ毛。出会った頃に比べれば少しだけ鋭くなった顔つきと特徴的な澱んだ目は起きていれば初対面の人が息を呑んでしまう様な雰囲気も出すようになったが、今は瞼の奥で呑気にお休み中だ。

 

 その見あきる位に見た顔もこんな身近で見ることも最近は少なかったせいか新鮮に感じられて、少しだけ体を乗り出して見つめ、輪郭を確かめる様にゆっくりと撫でその感触を味わうように感じる。

 

 毎日の現場に少しだけ焼けた肌はろくな手入れもしていないせいかざらつく感触で、少しだけ伸びた無精ひげはチリチリとした反発を返してくるのが面白くて何度も楽しんでしまう。そして、大きな枕をクッションに身を預けつつもう少しだけ体を乗り出すと素肌を冷えた空気を撫でてゆくが気にせずにその特徴的な髪の毛を撫でる様に触れば、行水程度の手入れしかしてないそれは思いもしないくらい柔らかく、しっとりとした手触りを伝えてくる。

 

 何度体験してもイジリ飽きないこの感触と数本だけ跳ね上がったアホ毛の独特の弾力が面白くて夢中になっていると小さく呻く声が聞こえてきた。

 

 その男の瞳が胡乱気に開かれて、寄りかかるようにして髪の毛を梳いて遊んでいる自分を捉えて緩く腰に手を回しつつ引き寄せてぐずるように私の胸元に顔を埋めた。

 

「……まだ、早いだろ」

 

「早朝から嫁より先におっぱいに挨拶とはお大臣様やなぁ」

 

 もごもごと人の胸元でくぐもった声を漏らす旦那に苦笑を漏らしつつもそのまま抱き寄せつつ抱え込む体勢に切り替え、こちらももうしばし彼の髪の毛と体温を楽しむことにする。

 

 時計を見れば時刻は早朝と言ってもいい時間。だが、ありがたい事にアイドルを引退しても色んな仕事に追われる有名タレント“比企谷 周子”と、日本指折りの建築会社で結構な役職についている旦那“比企谷 八幡”の平日といえばこんな時間に目が覚めたら真っ青になって家を飛び出さなければならない生活なのだが――――たまに揃った朝からオフの日くらいはこれくらいのんびりと夫婦の時間を楽しんでも罰は当たるまい。

 

 そんな独白を一人心の中で呟きつつも鼻歌交じりに自分の男の毛繕いに腐心して、ゆったりと時間の流れを楽しんだ。

 

 あれだけバイト時代は“楽に生きたい”とか嘯いていたくせに、結局346を辞めたあとも

就職先が限られていたとはいえ激務が予想される建設業で奔走しているのだから本人の言はともかく社畜根性が沁みついている。その反動か、こうしたたまの休日の朝はこんな感じで蕩けているのはご愛嬌という奴だろう。

 

 そんな不器用な男の生き方にクスリ、と笑いを零していると小さな電子音と白い湯気が上がってポットが朝の一仕事を終えた事を伝えてきた。

 

 無精な性分が二人揃ってるもので休日の朝は台所まで寝起きのコーヒーを淹れに行くのも嫌がった結果、ベットの脇の台に湯沸かしポットを置くことに満場一致で可決した。結果、それ以来から彼は職務を忠実に果たして私たちの朝の始まりを伝えてくれる必需品となっている。

 

「おにーさん、お湯わいたで。コーヒーと紅茶どっちがええ?」

 

「………コーヒー。あまいやつ」

 

「ブレへんなぁ」

 

「こだわりは貫く主義でして」

 

 必死に朝の訪れを拒んで微睡を味わっていた彼も習慣化された日課には敵わないのか渋々といった感じでソレを手放して、私の胸元から離れつついつものオーダー。ちょっと離れた温もりに寂しさを覚えつつ口ずさんだ言葉に帰ってきたいつもの軽口に苦笑を漏らして、常備してある彼用のあまーいコーヒーのインスタントの封を開けてお湯にとく。

 

 瞬間、部屋に広がる柔らかな香りと湯気が広がってソレを二人揃ってベットからちょっとだけ身を起してソレを舐めるように啜っていく。

 

 会話もないけど、気まずさもない空気に身を任せる様に肩を寄り添って味わうコーヒーに負けないくらい甘いこの空気が休日で一番最初に味わう幸せだったりもする。そんな折に、彼がまじまじと私の顔を見つめてくるので首を傾げて聞き返す。

 

「んー、美人な嫁の顔に朝からむちゅーかーい?」

 

「顔面偏差値だけは相変わらず高いのは認めるがな――――いや、懐かしい夢を見てな」

 

 ひねくれてるのか素直なのか分からない返しに肩を軽く叩いて返していると、そんな私に苦笑を浮かべつつも歯切れ悪くそう答えた。

 

「昔って―――アシスタントしてた頃?」

 

「いや、正確には俺はまだ木っ端のアルバイトで――――お前に初めて会った時の事だな」

 

「………うへ、嫌なこと思い出すなぁ」

 

「まぁ、今となっちゃ感慨深い思い出だな」

 

 彼が続けた言葉が出来れば思い出したくない類の黒歴史だった事にげんなりとしてコーヒーを脇に置いて枕に倒れ込んで睨んでみれば意地悪気に答える彼が憎らしい。膝で軽くこずくとおかしそうに笑って彼も枕に倒れ込んでくる。

 

 ちょっとだけ舞う風圧に目を眇めるふりをしつつ隣でケラケラと笑う男を見つめ、当時を思い出した。

 

 

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 歴史ある和菓子屋の情緒と言えば聞こえのいい古臭い日本家屋に朝早くから漂う和菓子の甘い匂い。その住み込みで働く男衆を支える女衆の朝だって早かった。ドタバタと大人数の飯を炊き、手早く店を綺麗にし、家事をこなして一息ついたと思ったら学校に飛び出していく―――そんな毎日。

 

 別に小さな頃からソレが普通だったし、店のみんなも可愛がってくれた大切な家族だったから役に立てるのは普通に嬉しかった。それに、溜まったガスは学校で気楽に遊んでれば十分に抜くことが出来たから別に不満もない。だからこうやって、暮らして普通に過ごしてくんだろうなと漠然と考えて生きていた。

 

 そんな日々の転機は、ある日突然やってきた。

 

 高校を卒業するときに問われた進路相談だ。

 

 両親を交えて交わされた担任との相談は私が一つも言葉を挟むこともなく双方が最初から“家業を継ぐ”という方向で話に花を咲かせていた。私がその時に発した言葉は『しっかり家業を継いで頑張るんだぞ、塩見!』と力強く肩を叩いた担任に『あ、はい』なんて反射的に答えたそれだけだった。

 

 それに、誰も、私も―――疑問を抱かなかった。

 

 そうあるべきなんだと、疑いもせずそのまま時を過ごして当たり前のように卒業し――― 一人古ぼけた和菓子屋に立つ日々が始まった。

 

 甘い匂いに、忙しく家事と店を切り盛りする日常。

 

 学生の頃には任せられなかった計理や、得意先への挨拶。

 

 苦も、楽もなく、ただこなしていく日々の中で――――魔が差した。

 

 長期休暇で帰ってきた県外の大学に進学した友人達からの誘いのメール。

 

 誰もが楽し気に言葉と予定を話し合うグループを店番の合間に覗いて苦笑を漏らしていた時にふと思ってしまった。“たまにはいいじゃないか”、と。出勤票を見れば今日の売り子さんは挨拶回りの母以外は全員出てきている。大きな仕事も終わって、後は大した事はない事を確認して―――――人生で初めて仕事をさぼった。

 

友人たちのトークに『今から合流する』なんて送るやいなや、さっそく部屋に引っ込み作業着を着替えて家をひっそりと抜け出して遊びに出かけた。

 

 きっと、普通に言えば誰も怒らずに笑って送り出してくれただろう。

 

 でも、初めてやったその悪事に湧き上がる不思議な背徳感と興奮は不思議と気分が良く“してやったり”という不思議な達成感があった。そんな子供じみた反抗をする自分も無性に可笑しくてその妙なテンションのままかつての学友たちとの再会を祝って大いにはしゃいで回った。

 

 何度もなる携帯も煩わしくて電源を切った。

 

 家に帰ればこっぴどく叱られるんやろうなぁ、とか しばらく休みは返上で連勤させられるかな? なんて呑気に考えつつも友人と分かれたのは夜も更けてからの事だった。友人たちはこれから更にどこかに行くのだというが、流石にこれ以上はまずかろうと思い直して別れを告げた。

 

 夜の京都は町並みを抜ければ、一気に静かに暗くなる。

 

 さっきまでの陽気な気分は街の影に飲み込まれ、着信履歴が凄い事になっている携帯を見ると更にげんなりとしつつも言い訳を考えているウチにあっという間に家についてしまい、玄関先に仁王立ちしているシルエットに息を呑んだ。

 

 普段から気性の荒い父がどんな罵声を浴びせてくるか予想と覚悟を決めて引戸を開ければ―――予想に反した静かな声が耳を叩いた。

 

 

『お前なんぞ、いらん』 そんな端的な一言。

 

 

 ぞっとするほどの冷たい温度のその声に何よりも心を抉られた。

 

 こんな事ならばいっそのこと、怒鳴って欲しかった。だが、こんな事態になったからは少しでも下手に出て事態の収束を測らねばと一歩を踏み出した瞬間に頬を張られた。

 

 意識がぶっ飛ぶと思うくらいの速さで振りぬかれたそれにふらつく足を何とか堪えて踏みとどまった私に冷たい声が更にのしかかった。

 

『あんたの様な卑怯な子を育ててしまったんは人生最大の失敗やわ』

 

 それから、どうしたかっていうのはあんまり覚えていない。

 

 でも、今まで堪えていた何かが一気に弾けて滅茶苦茶に怒鳴った事は覚えている。

 

 燃える様に怒ってもいた。押しつけがましい人生に苛立ってもいた。頑固な性分にも呆れていた。でも、あのとき私の胸に一番溢れていたのは間違いなく悲しさだった。

 

 短い人生でもこの家は好きだった。家の手伝いでみんなの助けになれているのが嬉しかった。他の子達が遊び呆けているのだって羨ましくても我慢した。自分の人生がこの店の為に使われる事にだって、文句はなかった。

 

 でも、私のその覚悟は―――――たった一度の過ちで全否定されて、捨てられるようなものだったと正面切って言われてしまった事で私の心はバラバラになった。

 

 

 そっから店の人に止められ、部屋に押し込められてから数週間部屋に引き込もった後―――――私は家を出た。

 

 

 しばらくは友達の家でも渡り歩いて過ごそうかとも思ったが、“歴史”だの“伝統”だのが嫌でも目に入るこの街の全てが憎たらしくて、嫌気がさして目の前の夜行バスに飛び乗った。行き先なんて見もせずに、ただただこの街を離れていく無機質な街灯の羅列に胸の中に溜まるヘドロと奇妙な爽快感が溢れていくおかしな感覚。それら全てから目を逸らすように瞼を閉じて暗闇を進むバスの重低音をただただ聞き続けた。

 

 行きついた先は、下品なネオンがあちこちで輝いて煩わしい雑踏がどこまでも続くこの国の首都だった。人生で一度はなんて思っていたにも関わらず、感慨もわかず何処からか漂うドブの様な匂いに眉を潜めた程度でその事実を受け入れて、近くの満喫を渡り歩く日々を過ごした。

 

 目減りしていく残高がついには切れかけるまでに稼ぎ口を探しては見たが、身分証明も住所を持たない厄介者を受け入れてくれる場所はついに見つからず―――その頃には、全てがどうでもよくなった。

 

 だが、いきなり風俗で体を売るというのも抵抗がありネットで見つけたのは“神待ち”という奴だった。家出した少女が住み込みをする代わりにそういう対価を渡すというものらしい。ただ、それなりにリスクはあるらしく色々と調べて考えてみた結果……やっぱりどうでもよかった。

 

 どうせ、価値なんてない身の上。

 

 そんな自嘲をしてショーウインドウを鏡代わりにして眺めれば―――見た目は悪くない。

 

 適当に、好みの人間に声を掛ければそのうち捕まりもするだろうし。それに、少なくとも脂ぎったオッサンが待ち合わせ場所に現れるという事もなく顔ぐらいは外れ無しで楽ができるというのもいい。そう考えた瞬間に気分も楽になって腹が減っていた事と、微かにかぐわしいラーメンの匂いが漂っていた事にも気が付いて――――結論はあっさりと出た。

 

 匂いを辿って街からちょっと離れた場所に煌々と輝く赤ちょうちん。中を覗いてみれば明らかに旨そうなこってり味噌の全トッピングが目の前を運ばれて行くところだった。それに釣られて店内にも視線を回してみてもみるが、どうにも客は一人だけらしい。

 

 後ろ姿から見るにちょっと猫背で根暗そうな真っ暗な髪の色。

 

 見るからに陰キャっぽいが、逆にそういう方が手玉に取りやすいとも書いてあったし、何より―――ラーメンが届いた瞬間に見えたアホ毛をピンと立たせて嬉しそうに笑った顔が、随分と可愛らしかったのが決め手だった。

 

 

 そこから、意気揚々と乗り込んだ先にある私の風変りな運命と騒がしい日々に――――まだ私は気が付いていなかったのだけれども。

 

 

---------------

 

 

「いっそころせ……」

 

「嫁が急に物騒な事を言い始めて暴れ出した件について」

 

 当時の事を思い返した私がその特大の黒歴史の重圧にくじけてシーツと枕をもみくちゃにしつつ悶えると、ドン引きしつつも脇にあるカップを寄せつつ私をシーツごと取り押さえて緩く笑っている。

 

「まさかラーメン屋で人生初のナンパをされるとは思わんかった」

 

「それ以上その話を続けるなら、しばらく解凍されてない冷食だけが食卓に並ぶことになるで」

 

「くくっ、分かったよ。でも、まぁ、あの時のお前の夢見たあと、目が覚めた時に今のお前を見れてほっとしたんだ。――――ちゃんと、あの時に捕まえておいてよかった」

 

「………“人生最大の失敗”とか言ってたの忘れてると思ったら大間違いやで?」

 

「下手すりゃお縄の大博打だったんだからそれくらい見逃せよ」

 

 しれっと体に巻き付けたシーツを剥いて臭いセリフを吐くようになった男を恨めし気に睨みつつ嫌味を返せば、苦笑と共に額にキスが落ちる。その甘やかすような優しさが込められたそれに絆されそうになるが―――こんなもので済ましてやるものか。

 

 離れていく彼の首に腕を絡めて、唇を重ねる。驚くように固まった彼にねだるように何度もついばむように重ねてゆけば力強く骨ばった手が私の背中に回されて、唇を、首筋を鎖骨を―――体中に自分の物だと証明するように証を残していく。

 

 その痛痒いようなこそばゆさと、彼の物だと証明されていくその被征服欲が心の深い所を満たされるのを感じて思わず熱い吐息が漏れ出た。

 

 明日の撮影の事がちょっとだけよぎるが―――夫婦円満の証拠だ。むしろ、見せつけてやってもいいかと開き直って負けじと彼の体にも所有権証明を付けていく。警戒すべき悪い虫は自分の事務所の外にだってたくさんいるのだから。

 

 そんな馬鹿な事を考えながらもお互い、真っ赤なあざだらけになった事を見てひとしきり笑った後に、もう一度身を寄せ合って布団に潜り込む。

 

 起きてから予定していた外出の予定にはもうちょっと時間がある。

 

 今しばし、この時間が続いたって罰は当たらないだろう。

 

 

------------

 

 

 

「で、お前は何してたんだ?」

 

 ひとしきりいちゃついてラブ注入にも区切りがついた頃、私に腕枕をしている彼が思い出したように問いかけてきた事に一瞬首を傾げるが寝起きに彼の頭を弄っていた事を言っているのだろう。ソレに思い至って私は伝え忘れていた事を口に出した。

 

「んー、おに―さんも白髪が生えてきたなーって」

 

「…………マジか」

 

 彼の背に回していた手を髪に伸ばしてそのあった部分を緩く撫でまわしていると、信じられないといった風に驚いた後に憮然とした顔でため息を吐く彼が面白くてつい笑ってしまう。

 

「くくっ、気にせんでもまだ2,3本やで? そんな気にせんでもええのに」

 

「生えてきたってだけでも自分が歳食ったていう自覚が芽生えて嫌になるんだよ。―――お前は元から地毛が銀だから気になんないよなぁ」

 

 そういって彼は私の髪を梳くように撫でて、その感触を楽しむ様に流したり握ったり匂いを嗅いだりして楽しみ始める。なるほど、やっている時には気が付かないがやられると結構に気になるものだな、なんて一人笑って髪を弄ぶその手を取る。

 

「どうせならおにーさんも“白”やのうて綺麗に“グレー”になってくれたらええんやけどなぁ……」

 

「夫婦お揃いってか? 髪の毛の色までは自分で選べたら世話ねぇだろ」

 

「ふふ、なんかそこまで行けたらちょっと嬉しいやん。というか、抜けるほうが早かったりして?」

 

「おまえ、それはマジでナイーブな問題だからやめろ」

 

 げんなりとした顔で本気で嫌そうに答える彼に思わず吹き出してしまった。ひとしきり笑った後に取った手を意味もなく触って、握って、頬に添えてその骨ばった感触を楽しんでいく。出会った頃よりずっと固く、苦労を重ねた事が分かるその手に重ねた時間を感じる。できれば、この手がもっとよぼよぼでゴツゴツになって、髪の毛が抜けるか染まってしまいきるまでずっと寄り添っていけたらと思う。

 

 そして、どうかその最後の瞬間までこうしてこの温もりを感じていたい。

 

「急にニヤニヤしてなんだよ」

 

「んふふふ、もうちょっと年季が入ってきたら伝えることにするわ」

 

 訝しむ彼を笑って誤魔化し、彼の腕を引き寄せてもっと強く抱きしめる様に要求すると彼も困った様に笑いながらもそれに答えて力を強めてくれる。それが嬉しくて笑いを零しつつも彼の顔を見上げて、おねだりをしてみる。

 

「な、なんか歌ってぇや」

 

「あぁ? やだよ。プロの前で歌うとかなんの罰ゲームだよ」

 

「ええやん。おに―さんの歌が聞きたいやって」

 

 渋る彼に懇願するようにお願いする事数分。ようやく彼がガックリと肩を落として“期待すんなよ”なんて言いながら少し思案した後に――――歌を口ずさんだ。

 

 “春よ、来い”と、物悲しくも歩みを止めずに進み続ける思いを重ねる唄。

 

 何度も冷たい雨に曝されても、想い人を胸に待ち続ける―――懐かしい歌だった。

 

 考えた末にソレを選ぶ彼と、その道の先に彼の隣に居続けられるその幸運を味わいつつも、私はその声を噛みしめる様に聞く。 聴く。  きく。

 

 

 そして―――――――ゆっくりと唇を重ねてその歌を終わらせた。

 

 

「………歌えないだろ」

 

 

「うん。でも、私の春は もうあるから。 何度だって巡るから。 八幡は、もうその歌は歌わなくていいんだって伝えたかった」

 

 

「身勝手なやつ」

 

 

「旦那さまに甘えるのは、奥さんの特権やろ?」

 

 

 困った様に笑う最愛の人に、私はもう一度優しくキスを落として彼と布団の中へ潜り込んでいく。

 

 

 

 

 今日のお出かけは―――午後からでもいいだろう。

 

 

 お互いがそこにあることを確かめる様に激しく求めあう中で私はそんな事を考えて、小さく笑った。

 




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