仰々しい門をくぐるのかと思っていたら、開閉が面倒だという理由から、裏口から入ることになった。
祖母も力がないので、裏口からの出入りが多いらしい。
もう門が使われることのないただの壁のようで、勿体ない気もする。
裏口の扉は簡素な板を取り付けたもので、父はそれの鍵を取り出して開けてくれた。
「カア、今帰ったぞ!」
矢張り父は自分の家に帰ってきたことが嬉しかったようで、僕と母の案内をほっぽって勝手に家の証明入り口へと歩いていった。
強引に扉を開け、普段の父からでは想像もできない大声を張り上げると、奥の方から小さな足音が聞こえてきた。
「やあやあ、よく来たねえぇ、直人も大きくなって、疲れただろう昼の準備はしているからたんとお上がり」
数枚の板を貼り付けた床を滑るような足使いで、ひたひたと歩いてきたのは、白い髪を耳が隠れるほど伸ばした祖母だ。
抹茶色の濃い着物に淡い青の帯を巻いている姿は、一瞬タイムスリップしてしまったような妙な気分になった。
祭りの日でもなしに、普段から着物を付けるという明治あたりまでの習慣に慣れていなかったからだ。
「帰ったよカアさん」
「ああ、よう来た…お前も立派になったのう」
母とこの再会、二人の間には言葉では言い表せられない深いものがあるのだろう。
母は、父と祖母の邪魔をしないようにそっと僕の側にやってきて、何か微笑ましいものを見るように眼を細めていた。
身長が低く、人形のような祖母は、顔を綻ばせて僕達を歓迎してくれた。
玄関の入り口も、大豪邸の威厳がある立派なもので、靴をしまう棚や、傘をおいておく木も規格外だった。
壁には掛け軸が当然のようにかけられ、通路の至る所に高そうな壺や置物が置かれている。
靴からスリッパに履き替えて、祖母に案内されるまま客間に入れば、宴会場のような広さに僕の家としての概念か壊れそうになってしまう。
緑色の畳は、手入れが行き届いているようで、部屋に入った瞬間から植物の良い香りが漂ってくる。
「ちょっと待っててな、料理を持って来るから、直人凄い美味いから覚悟しとき」
「あ、手伝いますお義母さん」
厨房へ入っていく祖母を追いかけて母もいなくなり、部屋には疲れがたまって、船をこぎ始めた父と二人だけになってしまった。
座布団にあぐらをかいて、こくこくと首を動かしている父の姿は、少し滑稽で笑いがこみ上げてくる。
「父さん、大丈夫? ちょっと横になった方がいいよ?」
電車の中で寝ていたのに、まだ眠たいというのは、相当の疲れが溜まっているに違いない。
僕は自分の座っていた座布団を引っ張って、父の座る座布団とくっつけ、簡単なベッドを作った。
そこへされるがままになっている父を寝かせ、家から持ってきたバックの中に入っていた上着を上から被せてやる。
夏といえども、油断して無防備な格好で昼寝をすると風邪を引くと、当人が教えてくれたのだ。
「ん、悪いな、寝る」
一言だけ僕に礼を言って、父はすぐに寝息を立て始めた。
自分の住んでいた家は安心するのだろう、眠っている父の顔は何の緊張もない安らかなものだ。
しばらく暇を持て余して床に寝転がっていると、ふすまが開いて、料理の皿を持った母が入ってきた。
「あら、お父さん寝ちゃった?」
「良いさ、あいつの分はちゃんと残してやれば、私達で先に食ってしまおうね」
後ろから高級レストランで見かける、木で作られたワゴンを押して現れたのは祖母。
ワゴンの棚いっぱいに並べられたら、色とりどりの料理からは、食欲をそそる匂いが漂ってきた。
寝ている父を起こさないように、部屋の隅に寄せて、僕は黒い漆塗りのテーブルを母と協力して部屋へと運んだ。
大きなテーブルに純和風の料理が並べられていく様を眺めていると、つい唾が口からこぼれそうになる。
やがて祖母は全ての料理を並べ終え、急須をそっと持ち上げて、3人分の湯のみを満たした。
それぞれテーブルに座って、手を合わせ「頂きます」の言葉と共に料理を食べ始めた。
祖母が手によりをかけて作ってくれていた料理は、右から肉じゃが、味噌、さんまの塩焼き、マグロのさしみ、冷や奴、いなり寿司、マス寿司、と10品目以上のレパートリーだった。
どれもこれも頬が落ちそうになるほど美味しかったので、箸を止める暇がなかった。
「ねえ、お婆ちゃん、お婆ちゃんってどういう人なの?
何かえらい人の子孫だったの?」
お腹が沢山の料理で満たされて、食後のお茶を飲んだ後、来たときに思ったことを祖母に聞いてみたのだ。
「へ?ああ、そうだねぇ、直人ももう10歳だし話しても言いかのう。
直人、不思議なものって信じるかい、奇跡とか幽霊とかそういうものさ」
にこにこと笑顔を振りまいていた祖母は、急に額にしわを寄せ真剣な目つきになったので、僕は面食らってしまう。
祖母の先祖と言うものは、僕の想像を越えるほどの、真剣にならざるを得ない大物だったのだろうか。
唾を飲み込んで、僕は祖母の言った言葉を頭の中で呟く。
不思議な事、そう祖母は言った。
奇跡や幽霊と言う意味での不思議な現象を信じるかと、僕に聞いてきたのだ。
当然、僕は首を縦に振る。
何故なら、最近僕の身体に浮き出る痣こそ、不思議なことの一部だと思ったからだ。
奇跡でも幽霊でも無いが、人間の理解を越えた何かを感じるのだ。
「文恵さんはどう思うかい、不思議なことを信じるのかの?」
文恵(ふみえ)とは僕の母の名前だ、母はお皿を片づけている最中に話をふられ、戸惑った様子だったが、すぐに頷いてくれた。
「直人が私達の前に生きていてくれる、それだけでもう奇跡だもの」
「母さん…」
いつの間にか湿っぽい話になってしまった、母は瞳に涙を浮かべ、そそくさと部屋を逃げるように出て行ってしまった。
多分泣き顔を見られたくないのだ、身体の細い母は、優しくそして笑顔を絶やさない人だったが、人前で泣くことを嫌っていた。
理由を聞くと、皆が悲しい気分になってしまうからだそうだ。
だから極力、泣かないように心掛けているし、どうしても泣いてしまうときは席をたってトイレの中や自室で泣くのだという。
寂しくないのかと聞くと、僕や父が悲しい思いをするよりはましだと、それに僕が心配してくれるだけで悲しくなくなると笑ってくれたのを思い出した。
「文恵さんも昔から涙もろいねぇ、でもまあ、内のアイツはそんな純情な所に惚れたんだろうけどさ」
ずずっと湯のみのお茶をすすって祖母は、母と同じく目元に滴った涙を指で掬い取った。
「そう、不思議な事は身近に起こるもんだ、でもこの頃の人間はそのことを忘れがちなんだよ。
とーけーがく的にとか、ろんり的にとか全部が全部科学で説明しようとしてしまう。
奇跡なんて何%の確率で起こり得るものだ…なんてね、どうしてだと思う?」
祖母は悲しそうに、視線をしたに向けて、失ってしまったものを思い出すかのように、そっと僕に問いかけてきた。