クライムとブレインが八本指の拠点の一つを調査しているよりも少し前、王都内にあるセバスらが使っていた屋敷ともクライムらが向かっていた八本指の拠点とも違う屋敷にて、女は妙な喉の渇きで目を覚ました。
キングサイズほどの大きさのベッドの上で蠢きながら、ベッドわきに置いておいた水差しに手を伸ばし、グラスに注いだ水で喉を潤していく。しかし、何度飲んでもその喉の渇きはなくならず、むしろ焼け石に水かの如くに喉が渇いていく。
水差しの水はなくなり、結局その渇きが無くなることはなく女はそのまま眠ろうとするも渇きが煩わしいのか、女は苛立ちながらベッドを降り近くにかけていたローブを羽織ってから空の水差しを持って部屋の外に出ていく。
そうして、廊下に出た際に女はふと違和感を感じた。
この屋敷は女、八本指に属する麻薬取引部門の長であるヒルマの王都での本拠地であった。この屋敷には本拠地であるため、何十人もの部下たちがせわしなく働いておりこのような時間であっても交代制で働いているはずなのだが、何故ゆえか誰もいないかのような静寂さと妙な空気の渇きを感じた。
下火月であるのにこの妙な空気の渇きと静けさにヒルマは訝しく思いながらも廊下を歩いていく。
歩き続けるとヒルマはこの違和感に少しずつ少しずつ、疑問が強くなっていく。あまりにも静かすぎる、まるでこの屋敷にいるのが自分だけかのように。
いったい何が起きているのかわからないが、何かが起きていることをヒルマは理解していた。ヒルマは裏社会を牛耳る組織の一部門の長を任されているだけはあり、その頭はそれなりに回った。故にこの異常事態において、自室に戻って篭るというのも、誰かいないか声を上げるという手段も選ばず真っ先に自身の保身を選んだ。
水差しを廊下の片隅において、その足を別の場所へと向けた。
そこは自分とごく一部の人間だけが知っている隠し部屋だ。いくつかのマジックアイテムや宝石、そして逃走経路が用意されており、本拠地のここを投げ出し、王都内にある他の拠点へ移動するべきだ、とヒルマはかんがえたのだ。
足音を忍ばせながら歩いていくと、ヒルマはとある異変に気が付いた。
「なんだい…こりゃ」
思わず声を漏らしてしまったのは仕方がないことだろう。
彼女の視線の先にあるのは屋敷の窓だ。いや、正確に言えば窓の外の異状。窓を蔦が這って何重にも覆っているのだ。外の光がほとんど入っておらず、彼女は思わず窓を開けようとするものの、まるで始めから固定されているかのようにびくともしない。
他の窓に視線をやるがどの窓も一様に蔦で塞がれている。
ヒルマは自分の記憶をあさり、寝る前の光景を思い出す。
渇いていた喉がより一層渇いていくのを感じた。たった小一時間で、自然にこんなことになるわけがない、そう胸中で吐き捨てながらヒルマはこの異常事態が魔法によるものだと導き出して走り始めた。
この現状を罵声を吐き出そうにも張り付くような渇きにうまく舌が回らない。そのことに舌打ちながら、ヒルマは少しでも早く隠し部屋へ逃げ込むために走る。静かな屋敷を駆けて階段を蔦の間からわずかに差し込んでいる月明かりを頼りに注意深く降りていき───
「─────ッ」
ヒルマは自分の口から息が漏れたのに気が付かなかった。
自身の視線の先、一階の廊下より一つ影がこちらを見ていることに気が付き、言い知れぬ恐怖が肌の表面を走ったために。ぞわり、と鳥肌が立つのを感じながらもヒルマは動くことは出来なかった。
暗闇に溶け込むよう立っていたそれは盗賊が影に潜んでいるのと違い、あくまでその外見故にそう見えていた。闇に溶け込んでいるように見えたのは肌が黒く、闇妖精と呼ばれる類の少女でその手には黒い杖を持っており、どこかおどおどとした雰囲気が感じられもしもこの場のような異常事態でなければ微笑ましさを感じられただろう。だが、いま感じられるのは恐怖、闇の中で爛々と輝く左右で色彩の異なる瞳がより恐怖を際立たせる。
逃げろ、そう本能が訴え始めているのを感じた。
この異常事態に闇妖精の少女。それでも少女一人、なんて考えるほどヒルマは馬鹿ではなかった。そして、同時にこの本能の判断に対して、ヒルマは長年培ってきた経験による予感が出した逃げてはいけないという判断を信じた。
故にヒルマは恐怖を呑み込みながらも震える声で
「ね、ねえ、ぼく、こんなところで何をしてるの?」
かつてトブの大森林に住んでいたが今ではその姿を見せることはなくなったという闇妖精の少年に少女の服を着せるという倒錯し退廃的な趣味を感じさせる少年に対して、ヒルマは恐怖を押し殺し極力敵対心の欠片も見せない様に声をかける。
そうすれば、少年から質問で言葉が返ってきた。
「お、おばさんが、この館で一番偉いひとですか?」
「そ、そうだよ。私がこの館で一番偉いんだ」
少年の言葉に一瞬否定しようとヒルマは考えたがすぐに肯定した。それは先ほどの予感同様に否定すれば最悪に繋がりかねないと嫌な予感が過ったからだ。
故にヒルマは少年の言葉を肯定し、それに対して少年は純粋無垢と表現するような安堵の笑みを浮かべた。一瞬、ヒルマはその純粋さを汚してみたいという欲求が自分の中で鎌首をもたげ始めたのに気づきすぐさま、それを黙殺する。
今この場において、もっとも重要なのは生存。不用意な欲望は死に直結しかねない、とヒルマは判断していた。その判断は正しかった。
「あ、あのえっとここの人たちに聞いたのは間違いじゃなかったんですね」
少年の言葉に反応するように近くの扉が開く。そこからゆっくりと姿を見せた人影にヒルマの予感が警鐘をより強く鳴らし始めた。
出てきたのは一人のメイド。ここらでは見ないような変わったメイド服に身を包んだ可愛らしいメイド、だがその身に漂わせている匂いはまったくもって可愛さの欠片もない。
血なまぐさい臭いを漂わせているばかりか、その手に男の腕と思わしきものをぶら下げていたのだ。
思わずヒルマは悲鳴を上げそうになるが、手で口を押え悲鳴を呑み込む。ヒルマの中で恐怖と疑問が渦巻き始め、少年はそんなヒルマの疑問を察したのか相変わらずおどおどとした口調で話していく。
「え、えっと、あの、この館を襲う人たちがいるみたいなんで、その人たちが来る前に色々とやらなくちゃいけないから、えっと、一緒に来てもらったんです」
「気にしないでくださいぃ。久しぶりにぃ、お腹いっぱい食べられてぇ、私も満足してますぅ」
口を動かしていない筈なのにメイドから声が聴こえた。
そんな不思議な事よりも、ヒルマはメイドの言ったお腹いっぱい食べられて、とはいったい何を食べたのかという恐怖ばかりがよりいっそう膨れ上がっていく。
だからだろう、ヒルマは気が付けば口を開いていた。
「ね、ねぇ、わ、私も?わ、私も食べるの?」
「え?あ、あの違います。おばさんにはついてきてほしくて」
一瞬の安堵、しかしより恐怖が生まれる。
いったい、どこへ行くのか、そこでは何が待っているのか、そんな疑問が加速していきヒルマは逃れるために何かないか、と思考を巡らしていく。
そうして思いついたのは彼女の身体にあるマジック・アイテム。
刺青の蛇が強力な神経毒を有する本物へと実体化する、そんなヒルマの切り札ともいえるマジック・アイテムで少年をこれで仕留めよう、そんな考えが浮かんで────怖気が走った。
もしこれで少年を殺せたとしよう、それでこの状況は変わるか?ここにはメイドがいる。メイドの持つ腕をよく見てみればまるで引き千切ったような断面で、少年を殺した場合の自分の末路が脳裏に過り少しでも生き長らえる為にヒルマは抵抗する、という判断を思考の片隅へと追いやった。
「……ど、どこに行けばいいんだい?」
「えっと、じゃあついてきてください」
そう歩き始めた少年の後をヒルマは大人しくついていく。逃げようものなら間違いなく殺される、とヒルマは予感しているからだ。この先にいったい何が待っているかはヒルマには予想することなど出来やしないが……