魔が注ぐは無償の愛   作:Rさくら

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On Your Mark 01

 

 

 

 

 アインズ・ウール・ゴウン魔導国属国、バハルス帝国領土内にて、背の低い太っちょ男の良く通る声が、早朝の澄んだ空気に響きわたった。

「コキュートス城方面行きー!間もなく出発ー!」

叫ぶ男の隣には、大人しく出発の時を待つアンデッドの馬に繋がれた幌馬車があった。

それは、魔導国とその属国や友好国も含む各国内の大型都市部を繋ぐ、魔導国営の自動循環馬車である。そして、その国営馬車の出発時刻を告げたり、運賃と停留所の管理を任されている叫ぶ彼は、馬車停留所管理係員だ。略されて係員さんと、馬車の利用者からは親しげに呼ばれている。

 その馬車の白く頑丈な幌は縦長の半円状に客席部分を覆っており、外側左右には、小さな木箱と旗が括り付けられている。箱には掠れた文字で緊急時用と赤く書いてあり、旗には、どこから来てどこに向かう馬車なのか都市の紋章で描かれていた。

 出発前の馬車に乗車しているのは、親子やひとり旅の老人、それから出稼ぎから故郷に帰る者達だ。向かい合う形で並んだ席に固定された、少し草臥れたクッションに、思い思いに彼らは座っていた。

簡素な幌馬車とは言え、庶民にとっては有り難い値段で運行している国営自動循環馬車は人気がある。そのため早朝発の馬車だが、席は既に埋まりつつあった。

「間もなく、しゅっぱーつ!!」

静かな空気に、明朗に掛け声が振動する。

そして、その大声に応えるが如く、慌ただしく駆ける足音が遠くに現れた。石畳を乱暴に蹴り飛ばすその音はどんどん大きくなり、馬車へと近づいて来る。

「すみません!乗ります!!」

遠目からでもヒトではないと分かる、二足歩行で体格の良い昆虫の様な姿。しかし、属国とは言え魔導国の庇護下で生きる民がそんな姿如きに怯む訳もなく、じとりと非難の目で係員は彼を睨めつけるだけだ。

「駆け込み乗車はご遠慮くださーい!」

「はい、すみません!」

叱られ、謝りながらも運賃を駅員に投げ渡し、息を切らしながら彼は、馬車に乗り込んだ。

 そしてその異形種、たっち・みーは、以前自分が居た世界を思い出すようなやり取りに懐かしさを覚え、少しばかり口角を上げる。

そんなたっちの後ろから、係員は馬車を覗き込む。幌馬車の中に無賃乗車犯が居ないかチェックし、懐から出した支給品の時刻表用の懐中時計を見て、係員は満足げに頷いた。

「コキュートス城行きー!発車しまーす!危険ですので、馬車には近付かないよーに!」

係員は再度、馬車が動き出すのと同時に腹の底からよく響く声を絞り出した。

まるでその声に押し出されるように、命令通りに動くアンデッドによって、幌馬車は定刻通り問題なく進み始めた。

 

 動き出した馬車の後部、風雨と日光に晒されるので他の席より人気が無く空いていた席に腰掛け、たっちは乱れた息を整える。そして、暫く暮らしていた帝国の風景を暫し眺めた後に、軽く彼は頭を下げた。

帝国での暮らしにおいて大変お世話になった老夫婦と、商人に向けて。

 ふと少し前に老夫婦と済ませた、感動的ではなく笑い話のようなお別れを思い出し、たっちは苦笑する。

これが最後だからと、ついつい夜遅くまで語り明かしてしまったせいで寝坊してしまい、寝起きから早々に文字通り必死の全力疾走をするはめになったのだ。当然、最後の挨拶をゆっくりしている暇など無く、慌ただしく済ませてしまっている。それは少し申し訳ないと思うが、しかしそれでも、これから会う予定の相手を考えると、様々な意味でたっちは遅刻をしたくなかったのだ。

 

 暫くして呼吸もようやく落ち着き、たっちは汗を拭った。そして次に、あくびを噛み殺す。

(それにしてもコキュートス城か…。ネーミングがそのまんま過ぎないかな。まぁ、今はあの面子しかナザリックに居ないなら、マシな名前に落ち着いたと思うべきか…)

そんな取り留めのない、若干失礼なことを考えながら、彼は自身の影を見つめる。

 

 その中に潜む影の悪魔が、死の支配者と世界の災厄からの言葉を伝えてきたのは五日前のこと。

そろそろ会ってお話しませんか、なんて、アンデッドと悪魔からのメッセージにしては可愛らしい言葉。それを断る理由も上手く見つけられず、たっちは唯、その誘いに頷いたのだ。

(……答えを出さなきゃいけないか)

自分が一体どこに立つべきなのか、その答えを。玉座の間に居る彼らは、たっちの出す答えを首を長くして待っているのだから。

 

 朝ぼらけ、目覚めの時。馬車は決められた通りに進み行く。それに揺られながら、彼は刻々と向かってゆく。

スタート地点へと。

 

 

 

 ガラゴロ、ガラゴロ。

 小さな幌馬車は陽光に照らされながら、石畳の上をのんびり走っていた。

 気持ちの良い晴天、退屈なぐらい延々と続くだけの森林、爽やかな香りを運ぶそよ風。遠くの方に、この辺りに昔から住むという蜥蜴のような亜人の村が視界に入ったり、その亜人達から手を振られたりが、道中の盛り上がりに精々該当する。穏やかで退屈な、幌馬車の旅。

「ねぇねぇ!もう少しかな!」

「ええ、そうね。そろそろ到着するんじゃないかしら。だからほら、大人しく座ってなさいな」

元気なその声に答えつつ、母親はその太い腕で子供を自身の膝に座らせ、縫い止めた。腕白そうな子は、大変不満そうに足を揺らしている。放っておいたら何処までも駆けて行ってしまいそうな程に元気が有り余っている様子で、露骨につまらなそうにして口を尖らせていた。

その穏やかで豊かな、微笑ましいとされる光景を、たっちはそっと見守っていた。

 その子が大人しくなり、また静かになった馬車内で、まずはその子自身が船を漕ぎだした。うららかで暖かな空気に、つられて皆がうつらうつらと夢へと迷い込んでいく。

同じく眠ってしまいそうになるたっちの影から、それに潜む悪魔がそっと合図を送ってきた。それにハッとして飛び起き、慌ててたっちは走行中の馬車から飛び降りる。

「え!?ちょっ、ちょっと何やってんだい!?」

「お兄ちゃんが落ちた!」

「平気です!わざと飛び降りましたから、気にしないで!」

無事をアピールして手を振るたっちに、乗客達は皆ぽかんとするばかりだ。そんな彼らは、命令された通りに走り続けるアンデッドの馬車によって運ばれて行き、どんどん小さくなっていく。

「コキュートス城も近いから、散歩してから行こうと思って!」

子供がにこにこと手を振り返し、隣にいた亜人にビックリしたねと、話し掛ける。亜人も獣の顔を綻ばせ返事して、楽しそうに、種族など関係なく話し始めた。

それをたっちは、じっと眺めていた。

その優しい光景を齎した骨の王と、彼は間も無く対談予定だ。未だに迷うたっちにとって、ほんの些細なことでも、判断材料になり得る情報が欲しかったのだ。

 

 暫くして、先に進み左へと緩かに曲がって行ったことで馬車は完全に見えなくなる。その消えた方向には、蒼白の美しく細長い塔のような城が森林から突き抜けてそびえ立つのが見えていた。

「迎えに来ましたよ、たっちさん」

空から降ってきた声のした方へ、名を呼ばれた彼は顔を向ける。最初は何も見えなかったが、おそらく魔法を解除したのであろう悪魔は唐突にその姿を現した。

だがしかし、現れたのは見知らぬ存在で、たっちは戸惑ってしまう。

「…何ですか、その姿?」

「見ての通り執事ですよ。一応表向きの役職は、『アインズ・ウール・ゴウン魔導王陛下の執事』ってことになってますので」

長い銀糸を少し乱れたオールバックで流し、切れ長な金の瞳を持つ人間が無愛想に答える。

見た目だけなら全くの見知らぬ赤の他人なのだが、その声と露骨な嫌悪の滲む雰囲気は確かに、たっちの良く知るウルベルト・アレイン・オードルだった。

「あっ、そうだった。《飛行》」

「?」

飛行魔法をかけられ空に浮いたたっちは、訳が分からないままウルベルトに続き空に浮かび上がる。そして続けて周りの景色をよく見ておくように指示を受け、首を傾げながら辺りを見渡した。

とは言え、辺りで特徴的なものは瓢箪型の池ぐらいなものだ。周りには後は、ひたすらに木しかない。

「はい、見終わりましたね。《転移門》」

開いた門にさっさと入って行くウルベルトに対して何なんだと思いながら、たっちもその後に続こうとする。

まるで獲物を喰らおうとするかのように開かれた穴の様な門に、一瞬だけ躊躇した後、たっちはその闇へその身をとぷりと浸した。

 

 

 

 そうして転移した先には、静かな青の空間が広がっていた。

 ターコイズブルーとホワイト、紺が僅かに混ざるタイル画が、渦を巻いて咲いて花火のように散る様を描いている。そのタイル画は床と少しばかり壁を埋め尽くしており、タイル画の上に広がる壁は白の土壁だ。

それらが長閑な日光を浴びて反射し煌めく様は、まるで海の底に招かれた様な気分にさせる。白く薄い、僅かにレースを施されたカーテンがはたはたとひらめいている様も、まるで波に揺蕩うかのようだ。

「綺麗ですね…」

「この世界はカラフルで良いですよね、そればかりは、たっちさんに同意ですよ」

「…、本当に、驚くことばかりです。空の青さも、何もかも」

室内を見渡すと、たっちは緊張を忘れ爽やかな気分になれた。

 部屋の調度品も、これまた水や氷、海を想起させるような繊細な硝子製と濃紺の陶器製ばかりが置かれている。しかし中には、まるで海底で家具が浮かばないようにしているかのような、太い足の見るからに重そうな机もあった。ダイナミックなそれは、碧い巨大な鉱石をくり抜き作られており、全体がエメラルドグリーンに鈍く輝いている。その豪快な家具の隣にはしかし、添えられたかのように儚い硝子製の椅子が置かれていた。

そんな少しちぐはぐな所が、部屋全体を絵本の中のような不思議さを感じさせる空間にしていた。

「たっちさん、ほら、あそこにさっき外で見た瓢箪型の池があるでしょう。あぁ、テラスには出ないでくださいね」

ウルベルトに話しかけられ、たっちは彼が指し示す外を伺う。確かに、そこには見覚えのある特徴的な形をした池があるのが視認できた。

そしてたっちが視線を戻すと、先程まで執事服の人間が居た場所には、彼が良く知っている姿の悪魔が立っていた。

「逃げたくなったらお好きにどうぞ、ここはたっちさんの見知らぬ土地ではないって意味ですよ」

先程までの行動の意味がやっと分かり、たっちはウルベルトの雑さに少し呆れる。その雑さから、その気遣いはウルベルトの考えや配慮ではなく、もう片方のギルドマスターの彼が考え慮ったことだと、たっちに良く伝わった。

「それじゃあ、俺とモモンガさんは隣の部屋で待ってますから、準備や話し合いが終わったら来てください」

準備や話し合いとは一体何のことだと首を傾げるたっちの口から問う言葉が出る前に、その答えは自ら現れた。ノック音がして、ウルベルトが許可を出して開かれた、その扉から。

「失礼致します」

現れたのは、その白銀の髪と老齢さを感じさせる見た目には不釣り合いな、がっしりした体格を黒衣で包む執事、セバス・チャンだ。

そして後ろに控えるメイド達がワゴンに乗せ持って来たのは、嘗てたっちがギルドマスターに預けた、世界最強の証明でもある、懐かしい鎧。

 その鎧は、たっちの思い出の中と同じ煌めきと存在感を未だ放っていた。預けた相手がそれをぞんざいに扱わなかったのだと、無言のまま雄弁にその身で物語っている。曇り一つすらなく、どこか誇らしげに、相応しき誰かが自身を身に纏う瞬間を待ち侘びているかのようだ。

「………………」

「………………」

掛ける言葉を見つけられなかったたっちと、何も言えなかった執事は黙り込む。

目を離せば相手が消えてしまうかのようにセバスは造物主を見詰め、そして我に返り、その片膝を床に付けた。胸に手を当て、ゆっくりと頭を垂れ、重みのある静かな喜びの滲ませた声を、生み出された存在は絞り出す。

心よりの祈りと、敬愛と喜びを込めて。

「…今生で再度、たっち・みー様にお会い出来たことを心より感謝致します。御健在のようで…、誠に、何よりで御座いました…」

「……セバス、」

その泣き出しそうな震える声に戸惑いつつ、何か声を掛けねばと焦るたっちよりも早く、軽い調子の声が響いた。

「何日でも待ちますから、こちらのことは気にしないで、気が済むまでどうぞ」

そう言うと背を向け、セバス達が入って来たのとは別の赤銅色の扉から、さっさとウルベルトは出て行ってしまった。その出て行った扉を見詰め、そして、自身が生んだNPCだったセバスを見、最後に己の鎧をたっちは見た。

此処にある全てを使い、何に備え、何の準備をするのか。それは全て、たっちに委ねられていた。

 

 

 

 懐かしい白銀の鎧に、柔く微笑むメイド達と硬い顔した執事に手伝われながら、たっちは着替え終えた。

 着替えの手伝いなど恥ずかしいと、たっちは初めは断わろうとした。だが、可愛い顔立ちをしたメイド達に悲哀に満ちた顔をされ、結局受け入れざるを得なかったのだ。

根負けして頼んだ瞬間に、晴れやかな笑顔になった彼女達は実は結構したたかなのではと、たっちは内心思いつつ、無心で着替えを手伝ってもらった。

 ゲームと違い装備メニューをワンタッチで済む楽さは、さすがにない。

だが、ただ鉄から作られただけの鎧と違い、ユグドラシル製のワールドチャンピオン専用装備なだけあって、その装着は実に簡単なものだった。

鎧は、たっちの手足、胴体、頭、それらに合わせ変形し、留め具は勝手に繋がり合う。その締め付けも、装備者の身体に合わせ、機動力と防御力、共に決して損なうことのないように自動的に調整された。

その機能とメイド達の手伝いもあったため、装着はほんの一瞬で終わる。

 最後に兜を被り、瞑っていた視界を開き用意された姿見を見れば、そこには、とても思い出深い、誇らしい姿が写っていた。嫉妬も称賛も憎悪も尊敬も呆れも怒りも、ありとあらゆる熱情を受けてきた、輝かしいワールドチャンピオンの雄姿が。

「あぁ…、懐かしいな…」

ふつふつと血が沸き上がるのを、たっちは確かに感じ取っていた。静かな興奮が、じわじわと足元から競り上がり、襲ってくるような感覚を。

そんなたっちの脳裏に浮かんだのは、行きしなに見た腕白な子供。その子に、今更たっちは同情した。静かにしていろとは、大人しくしていろとは、何と酷なことを母親は言うのだろうかと。

「っ…!」

抑えるのが難しい程のエネルギーが身の内で発散場所を探し、のたくりまわっているように、腹奥が熱かった。

駆け抜けて、斬り伏せて、武勇を示せと何かがガンガンと思考の奥から叩きつけてくる。その幻聴は、凶暴なる囚人が檻を叩き喚く音に非常に似ていた。

「たっち・みー様、帯刀も許されておりますが、如何されますか?」

「……いや…、それは、まだ預かっていてくれ」

「畏まりました」

執事から恭しく差し出された剣を受け取ることを、必死の思いでたっちは断った。それを握ってしまったら、ずっとずっと大人しくしていた何かが、牙を隠すのを止めて駆け出してしまいそうだった。

未だ自身の立ち位置も、あり方も決めかねる身で、それはいけないことだ。深く呼吸をして、必死にたっちは自身を諌めた。

 

 鎧の装着手伝いを終えたメイド達はセバスと二言三言交わしてから、その小さな頭を下げて至高の方への挨拶を済ませると退室していった。若干不満そうにしつつも大人しくそうするのは、予め段取りでそう決まっていたのだろうと、メイド達を見送り室内に残るセバスを見てたっちは推測する。

何もかも、誰かさんの段取り通り、という訳だ。

「そう言えば…」

懐かしい鎧の感触をじっくり味わいつつ、あの、マントをはためかせる機能はどうなったのだろうと、たっちはふと思う。それと同時に、説明できぬ感覚でそれが使用可能だと分かった。やってみたい誘惑に駆られるが、さすがにたっちは自重した。

「たっち様、如何なさいましたか?」

「いや、何でもない。久々に装着したから、色々と確認していただけだ」

「何か問題は御座いましたか?」

尋ねる執事に、たっちは何も問題ないと伝える。それは気遣いではなく、本当のことだ。懐かしさを伴う喜びはあっても、違和感や不快感などは何も無かった。

「それは宜しゅう御座いました。それでは、こちらにどうぞ御掛けなさってください」

「あぁ、ありがとう、セバス」

セバスが引いた椅子に近づき、たっちは腰掛ける。そしてその隣の一歩下がった所で、執事は深々と頭を下げた。そのまま不動の姿勢を貫かんとする自身が作成したNPCに、頭を上げ、腰掛けることをたっちは促す。

薄っすらと想定していた通り、頭は上げても腰掛けることはなく、執事として彼は真っ直ぐに立ち続けることを選んだ。

相手は立っていて自分だけ腰掛ける状態に違和感を抱きつつ、しかし掛ける言葉も何が妥当で正解か分からなかったので、諦めてたっちは自分に都合よく話を進めることにした。

「セバス、モモンガさんとウルベルトさんを傍で見てきたお前の意見が聞きたい」

「意見…、で御座いますか」

「僅かな間だがこの国で暮らして、まるで…、いや、正に理想郷のようだと思った。この世界を、今のように変えたのはモモンガさん達なのか?」

「左様で御座います。モモンガ様は大変慈悲深い方、我らナザリックの者達以外にも情けを掛けられます。ウルベルト様は…、失礼ながら多少悪趣味と言えますが…、あくまで自業自得の罪人や、敵対者などにしか残虐な行為は行われません」

たっちの予想が当たっていたと知り、そして戸惑う。ならば問題は無いなと、片付けようとした自分自身にだ。

 

 それは、ウルベルトと再会したあの夜、冷たい石畳に転がっていた死体を見つめ、悪魔から“まだ人なのか”と問われた時と同じ感覚だ。

 

 今、たっち自身の心は、ナザリックの者達から苦しめられている者達に対して、実際は何も感じてなどいない。

その思考にあるのは、誰かが困っていたら助けるのは当り前という、捨てたくない自身の誇りと意志。そして、記憶にある正しく善良な人間の判断方法、唯それだけだ。

可哀想だとか、怒りだとか、特別な感情がわざわざ湧き上がることはない。

あの死体も、突然目の前で自分の知己が人殺しをしたから驚いただけで、死刑囚だと言われ冷静になった頭で見た時に思考したのは、ただ死体が転がっているという事実の確認だけ。

憐憫の欠片さえ、湧き出なかった。

しかしそれが間違っていることは、人間だった時の記憶が指摘してくる。違うだろうと、五月蝿く喚き立てるのだ。しかし、では一体何が違い、誤っているのかと聞き返せば、それは黙り込むのだから、なんとも勝手なものだった。

「…自業自得の罪人相手なら、何をしても問題ないと思うか?」

自分が答えを探し、そして見つけ出せなかった問を、従順なる執事に押し付けるのは意地が悪いと、口に出してしまってからたっちは気付く。しかし問われた相手は、真剣に考えて、意見を出してくれた。

「…答えにはなりませんが、罪無き存在が理不尽な暴力を振るわれるよりかは、真っ当なことかと思います」

「罪無き存在が…。確かに、その通りだな…」

たっちは、かつて居た世界のとある光景を思い出し、俯く。

冤罪や陰謀の被害者となった者達、大切な人を奪われた者達が列を成し、恨み辛みを吐き出す光景。それを、たっちは真正面から何度も見てきた。

そして、流れ作業の様に、彼らは皆地獄へと送られた。それは、治安を良くするための正義だと言われていたが、全くもって真っ当なことには思えなかった。

「はい、嘗て私が愛したツアレという女性がいましたが、彼女は、」

「すまない、セバス、ストップ。…今なんて言った?」

しれっと出てきた驚愕のパワーワードに、今までの思考が全て吹っ飛んだたっちは待ったをかける。

 自慢にはならないし当の本人には絶対に伝えられないが、たっちはセバスの設定を仲間達に比べそこまで作り込んでいない。そのシンプルな見た目から伝わる通り、そのままなのだ。

ギャップ萌えとやらを入れたり、古今東西のエロゲキャラの設定を注ぎ込んだりなどもしていない。性格設定だって、凝り性でこだわりの強かった仲間達に比べれば薄い設定なのは、たっちも自認している。

だから、たっちの知る限り間違いなく、設定上セバスには、嘗て愛した女性なんて居ないはずだ。

「…?私が愛したツアレという女性がいましたが、と申し上げました」

繰り返された言葉の意味を、たっちは噛み締める。少なくとも聞き間違い、言い間違いではないのだと。

それはつまり、この世界に来てから出会い、セバス自身の意思で関わり、更には恋愛関係にまで発展した女性がいると言うこと。なかなかに驚愕の事実だ。

NPCのセバス・チャンの生みの親としても、かつては子供までもうけた一人の男としても、とても気になる話だった。

(まさか、セバスが…!!お相手は竜なのか?異形種?人間か?子供は居るのか?…過去形なのは、死んでしまったのか…?)

急に黙り込み、じっと見詰めてくるだけの至高なる存在であり生みの親であるたっちに、セバスは困惑する。そして戸惑いながらも、恐る恐ると尋ねた。

「たっち様、私めは何か、おかしなことを申したでしょうか?それとも何か無礼を…、」

「いやいや、そんなことは無い。それよりもだな、」

たっちは早々に、色々と諦めた。どうせ答えが出ないのだしと、投げ遣りな言い訳を心の中で済ませ、そして居住まいを正す。

「そのツアレさんとセバスの話を、馴れ初めから、初めて会った時から、じっくり詳しく聞こうか」

ひとまずそれを聞かないとすっきりしないことだけは、たっちにとって間違いなく事実だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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