「ふっ、ふっ、ふっ、………」
もう小さくすら見える屋敷の庭で、僕ーーーー
剣を振る、という単純な動作でも、意識というものは得られる経験値の量にとても影響する。
芯のブレなさ、姿勢の崩れなさ、呼吸の間隔、足運び、体重移動、目線の位置………。
にしても、効果の話を抜きにすれば、なんとも地味な特訓ではある。無論これを疎かにすれば何も為すことはできないが、僕は正直これに飽き飽きしていた。
ーー何せ、僕はこんな日々を毎日過ごしてきた。
何故?………簡単な話である。
剣術とは何か?
強さを極める武力。自己把握のための手段。
答えは個人個人によってそれぞれ違い、その全てが「剣術」としてあっていいものだ。
ただ、剣術はやはり、孤独だけでは語れない。
要するに、僕はずっと一人なのだ。
ずっとずっと、剣を交わしたことなどない。
まだ見ない「誰か」を打ち砕くため、あるいは殺すために振るう剣は、まだ誰も斬ったことはない。
「ふっ、ふっ……っつ!……はぁ………」
夏の日差しに汗が滲む。
その雫が、赤黒い皮膚を撫でて、そこには痛みが走る。
それこそ、僕が誰とも稽古が出来ない理由ーーーー皮膚の病、『
先天性だが、目に見える形に症状が現れるまでは時間がかかる。どんな症状があるのかは不明である。だが、爛れた皮膚の醜さ故に患者は一人の例外なく隔離されてきた。
だから誰も知らないのだ。炎皮症が何を生み、何を招き、どうなるのかを。
例えば、爛れた部分が皮膚下の脂肪を熱し、ある日突然火だるまにしてしまうかもしれない。
例えば、どろどろと溶け出して、鉄さえも溶かす酸液に変わってしまうかもしれない。
例えばーーー剣を交わすだけで、伝染するかもしれない。
「………慣れないなぁ、やっぱり」
もう何万と味わったこの痛みは、変わらずに僕に痛みを与える。腕で汗を拭い、剣を握った。
そしてもう一度、息を吸ってーーーー。
「誰かおりますか」
尋ねる声が響いた。
僕の家は剣術道場を営んでおり、こうして尋ねてくる客も少なくはない。父はこの時間稽古をつけている。仕方なく僕が応対する必要があるのだ。
「はい、少しお待ちをー」
縁側に置いてある手拭いを取り、右目辺りの爛れた肌を結んで隠す。どうせ道場の門下生と関係者は皆が僕の病気を知っているのに、世間体の為にわざわざ邪魔ったらしく隠さねばならない。
ーーー面倒だ。
「こちらが辰頸道場でしょうか?」
声はくぐもっていて、少し上ずった印象以外は感じ取れない。
身体のラインをも覆い隠すほど大きな黒衣を全身に纏って、来訪者の顔は見えない。不気味な外見だが、僕も言えた容姿ではないし、割とこんな人間が訪れることも珍しくはないので、あまり驚きはせずに受け答えする。
「はい、道場の門は裏にありますので、そちらの方へどうぞ……」
そう言って踵を返そうとした。例に違わず、見えない顔の下では僕の外観を笑っている、あるいは憐れんでいるのだから。そんな下らない視線を長く向けられるなんて御免だ。
「ということは、……貴方が御子息の祟楽?」
「ええまあ、……子息、といえばそうですね」
何も言葉に詰まらせることはなかった。血の繋がりもある。愛情もおそらくはあるはずだ。少なくとも僕は虐げられようと父を父として慕っているし、皮膚病の厄介者を無視するだけにとどめ、剣を学ばせ、人目に出なければ家の中で自由を保障してくれた父も、人並みには僕を愛してくれているはずだ。
……愛の形は歪みに歪んでいるけれど、彼がそれしか知らないなら、僕はそれに口を挟むことはできない。
だが、僕は意味深に返答した。
そう、僕はなんら構わないのだ。別に、孤独なうちに生きてゆく僕が、「父の息子」として呼ばれることはむしろ誇らしくさえある。
しかし、……絶対にあり得ないことだが。
もし父がこれを聞いていれば、どう思うだろうか。
もし父が、出来損ないの息子が自分の息子として他人に認識されることを、ほんの少しでも不愉快に思えば、僕は絶対にその瞬間、僕自身を許せなくなる。
そういう女々しい予防線を忍ばせた言葉の裏側には気づかない様子で、来訪者は続ける。
「……じゃあ、とりあえず上がらせてもらうぞ?」
「…へ?」
来訪者の声色が変わる。今度ははっきりとした、快活な声だ。
そして口調は途端に、古い友人に語るような軽いものへと転じた。
戸惑いを隠しきれない僕の体を軽く押しのけ、屋敷の門を気軽に、のれんでも潜るような風にまたいで見せた。
「へ?って………悟の奴から告げられていないのか?」
気安く呼ばれた悟という名は父のものだ。どういう関係なのかと問おうとしたが、もっと問うべきことがあるだろう、とすぐに脳内でかき消される。
何を言っていないのか、それを口に出そうとした瞬間ーーー。
何かが大きく爆ぜる音がした。
一瞬で広がる衝撃と爆風が、熱の波と焦げる臭いを運んで来た。
体が一瞬浮遊したかと錯覚するほどの振動が、すぐそこで爆発が起きたことを
示していたーーーー。
そこで気づく。傍らの来訪者の黒衣が、いつの間にか剥がれている。
白髪がなびく。中性的な見た目からは、性別を推し量ることはできない。
ただ、黒い黒い瞳は、吸い込まれそうなほどに冷たい光を秘めている。
ち、と舌打ちした来訪者は、こちらを流し目で見てぼそりと「仕方ない」と溢し、顎をしゃくって門の外を指して言う。
「付いて来い、悟のせがれ」
そう言うが速いか、来訪者は駆け出した。
僕もそれなりに鍛えているつもりだが、それでもついていくのがやっとの速さだ。ぼやぼやしていると見失うことは明白だった。
道場からは悲鳴が聞こえる。僕も泣き叫んでしまいたいくらいに、ここ数分の激動は理解しがたい。ただ、それよりも今は来訪者についていくことの方が大事に思えた。根拠は無いけれど、強いて言うならばここにいても自分にできることはないと直感したのだ。
何故だかもう、この庭に戻ることはない気がした。
僕は縁側の竹刀を握り、手拭いを外し、それから、孤独に過ごしたこの屋敷の風景に低く一礼した。
それから僕は、駆け出した。
孤独なあの日々を置き去りにして、もう振り向かなかった。