猫を倒す方法を考えるのは、難しいことだ。
例えば、猫じゃらし。
猫じゃらしは、正式にはエノコログサといい、これを使って猫がじゃれつくからそう呼ばれているのだ。
だが、彼らが対峙している猫の大きさを改めて考えてみることにしよう。
体長十メートルの猫をじゃらす猫じゃらしが、あるのだろうか?
「……あるわけねえよな」
メソトはそう言うと、項垂れた。彼らは、ゲームセンターのスタッフルームで作戦会議を開いていた。素早く逃げ込んだためか、猫はあたりを彷徨いていた。だが、ここが見つかるのも、時間の問題だろう。
「なら、猫じゃらしは無理だ。なら……正攻法か?」
「それはもっと厳しいだろ。何しろ、体格差が半端ないぞ」
「だよな……」
ルークの意見が即座に却下されると、彼は小さくうなだれた。
しかし、それでも考えることはやめなかった。
そうこうしているうちに、猫はどんどんとゲームセンターの内部を捜索している。ここが見つかるのも時間の問題だ。
「こうなったら、逃げるしかない」
行き詰まっていたかと思われた会話だったが、メソトの言ったその言葉を聞いて、ルークは思わず聞き返す。
「……なんだって?」
「だから、逃げるんだよ。ここから。それしか手段が浮かばない」
メソトの言うこともそのとおりではあるが、あの猫から逃げられる算段でもあるのだろうか。
ルークは考えていると、メソトは小さく呟く。
「正直、成功するかどうかは五分五分だ。どう転ぶか、解るもんじゃない。だが、試してみないと解らない。試さないと、その可能性が正しかったか、間違っていたかすら解らないままだ」
「…………そうだな」
ルークはメソトの言葉に小さく頷き、立ち上がる。
そうと決まれば作戦会議である。そして、この部屋にあるものをフル活用すれば、もしかしたら猫から逃げられるかもしれない。
そう思って、ルークは部屋を見渡す。
部屋は小さくこじんまりとしたものだった。真ん中にはテーブルが置かれ、壁に付いている棚が幾つかあった。
棚の中にはチョコチップクッキーが瓶詰めにされていくらか置かれていた。
「……おい、ルーク。冷蔵庫があるぞ。まだ電源も繋がっているらしい」
メソトがそう声をかけてきたので、そちらを見るとそこには確かに冷蔵庫があった。上は冷凍庫、下は冷蔵庫となっていた。しかし、中には殆ど食料と呼べるものが入っていなかった。
「……食えるもんがないかと思ったが、言うほどなかったな。もしかしたら……とか淡い期待を抱いた俺が悪いっちゃ悪いんだが。見ろよ。こんなに牛乳買い込んで、なにしていたんだ? しょうがないから、瓶詰めされているチョコチップクッキーでも齧るか?」
「いや、そいつは一応この世界での財源だぞ。そんなもん食ったらバチが当たる」
「バチとかなんだよ。そもそもクッキーが財源とか頭おかしいわ。だったら、それを食っていたほうが幸せだとは思わないか?」
「というか、そもそも神様なんて居るかも怪しいぞ。考えてみろよ。もし神様なんて居たら、この世界はとっくに救われているはずだ。それがどうだ? 全世界の何十億という人間が祈っても、神様が助けてくれたことなんて、これっぽっちも無かったじゃねえか」
ルークの言葉に、「その通りだ」とメソトが頷くと、何かを思い出したかのようにルークに訊ねた。
「……なあ、ルーク。そっちの棚に皿ねえか? 深い皿だ」
「皿? ……ああ、確かにあるぞ。シチューみたいなもんが入る、でっかい皿が」
ルークのその言葉を聞いて、メソトは何か考えついたらしかった。
「……どうした、メソト? 何か考えついたのか?」
ルークの言葉に、メソトは小さく頷く。
「ああ、ここから脱出するための、手段をな」
「……なぁ、こんなので成功するのか?」
ルークが訊ねると、メソトは皿に牛乳を注ぎながら言う。
「だから言ったろ。五分五分だ、って。そもそも成功するか怪しいが、その僅かの可能性にかけてみようじゃないか、ってやつだよ」
その僅かの可能性というやつにルークは疑心暗鬼だったが、少なくとも今は彼の言葉に従うほかなかった。
今ルークは冷蔵庫にある牛乳パックを取り出し、メソトに渡すというとても簡単なお仕事をしている。
そして、それを受け取ったメソトは深い大皿に牛乳を注ぎ込んでいる。
その作業に意味があるのか、現時点ではルークは理解していない。だが、メソトの自信はたっぷりだった。だから素直にそれに従った。
深い大皿に牛乳が並々注がれたのは、ちょうど冷蔵庫にあった牛乳パックのストックが無くなったときだった。
「……よし、これで大丈夫だ。はじめはストックが足りなかったらどうするか考えていたが、何とかなりそうだな」
「なぁ」
ルークが声をかけると、メソトは振り返る。
「どうした?」
「いい加減、お前が何をしたいのか、話してくれないか。でないと、納得いかない」
ルークの言葉に、メソトは口元を綻ばせる。
「なんだ、そんなことか。どうせ、話しても減るもんじゃないしな。……というか、俺のやっている行動でピンとくると思っていたが、案外鈍感なんだな」
鈍感と言われて、ルークは腹が立ったが、それを抑えて訊ねる。
「……どういうことだ?」
「猫は牛乳が好きだろ?」
「あぁ」
「だったら、簡単な話じゃないか。それだけの事だよ。猫は牛乳が好きだから、誘き寄せるのさ」
メソトが考えた作戦は、至極簡単だった。
先ず、どうにかしてこの牛乳たっぷりの皿を外に運び出す。
そして、猫がそれに気を取られている内に逃げ出す――といったものだった。
だが、この作戦は冒頭にして不安ばかりが過ることになる。
「作戦は大変シンプルなんだが……、その皿をどうやって持って行く?」
牛乳たっぷりの皿は、牛乳パック三十本分の牛乳が入っている。即ち、三十キロだ。
普通に三十キロの重りを持って行くだけなら、ルークかメソトどちらかで出来るだろう。だが、問題は猫だ。運んでいるうちに襲われたら、本末転倒である。
「だから、そこには細心の注意を払わなきゃいけない。何せ失敗は出来ないからな」
「一度きり、ってことだな」
「あぁ、一度も失敗は許されないこの役目。……どっちがやる?」
メソトの言葉から、その後沈黙が生まれた。提案し、了解したとはいえ襲われたらひとたまりもない。進んでやるには、あまりにも厳しい。
どれくらいの時間が経ったか、彼らは正確には理解出来ていなかった。
その沈黙を破ったのは、ルークだった。
「……じゃんけんをしよう。負けたほうがこれを行う。オーケイ?」
「恨みっこなしだぜ」
「勿論」
二人はそう話し、構える。
じゃんけんはグー、チョキ、パーの三種類がある。グーはチョキに強く、チョキはパーに強く、また、パーはグーに強い。そんなことは自明だ。
そして、彼らが出したのは――。
ルークがパー、メソトがグー。メソトの負けだった。
「……よし、恨みっこなしと言ったからな。俺がやるよ」
メソトは落ち込むこともなく、牛乳たっぷりの皿をゆっくりと持ち上げた。
「なぁ……やっぱり、二人で持っていこうか」
ルークが言うと、メソトは小さく首を振った。
「いいや。じゃんけんという、二人の同意の上で決めたことだ。最後までやらさせてもらうぜ」
メソトはそう言ってゆっくりと部屋を出ようとした。
ルークはそれを見て、メソトに言った。
「……お前、俺が先手パー出すのが癖だと知っていたのに、わざとグーを出したんだろ」
それを聞いて、メソトは立ち止まる。
「何を言っているんだ、ルーク。俺はお前の癖なんて知らない」
「そんなことを言っておいて、お前はいつも先手チョキを出して勝ってたじゃないか」
「……じゃあ、お前は負けるつもりだったのかよ」
「ああ、そうだよ」
ルークは小さく頷く。
「何故だよ。じゃんけんのほうが公平に勝ち負けが決まる。だと思って俺はお前の意見を尊重したんだぞ」
「違う。お前も……じゃんけんを提案されてほっとしたんじゃないか?」
メソトはその言葉に、思わず微笑む。
「……何でだ」
「恐らくは、俺にこれをさせないためだろうな。そして、俺もお前にこれをさせないために、じゃんけんを提案したんだ」
「……お前は自己犠牲過ぎるんだ」
観念したように、メソトが大きな溜め息をついた後、話し始めた。
「お前はいつも遠慮して、自分だけが損をする立ち位置に、自分から立とうとしていた。それが、解らなかった。そして、許せなかった」
メソトの話は続く。
「確かに、そういう役割に立つ人は必要なのかもしれない。だが、それがお前じゃなくてもよかったはずだ。だが……お前は進んでその役割をしていた。それが理解出来なかったんだ」
「そうだったのか……」
メソトが、ルークが知らなかったメソトの思いを話し終え、少し愕然としていた。
「……だが、君の言ったその言葉、それは少し間違っているんじゃないか?」
メソトの言葉に返した、ルークの発言は、メソトにとって予想外の反応だった。
「どういう……ことだ?」
「第一に、俺は確かに進んでその立ち位置にいるかもしれないが、他にもその立ち位置にいる人間は居るだろうか?」
メソトはその問いに答えられなかった。
「進んでいく人間が居ない。だから、俺が居る。ただそれだけのことだ。生きていく上で重要な役割だと思うよ。ガス抜きを一手に任される、というのも」
「でも……!」
メソトの言葉に、ルークは首を横に振った。
「いいんだ、それで。一人の犠牲で、多数が救われりゃ、安いもんだ」
ルークは呟くと、メソトが持っていた皿の片側を持った。
「それじゃ、行こう。あの化け猫の場所へ」
そう言うとルークは、目の前にある扉を開け放った。