【003】
扉を開けると、直ぐに広がったのは、血の匂いだった。ゲームセンターのピンク色をした壁には、血が流れていた。壁に寄り掛かるように男は倒れ込んでいたが、その上半身は、食いちぎられていた。それを見て、思わずルークは吐き気を催す。
「……あまり、見ない方がいいな」
メソトはそう言うと、足早にゲームセンターを通り過ぎていく。床も同じように血に溢れていた。
床にはいくつもの肉片が転がっていた。それが凡て人間だと思うと、彼の中から何かが込み上げてくるようだった。
「……落ち着け。大丈夫だ」
メソトがルークに、必死に話しかける。
そんなメソトであったが、彼も不安で一杯だった。
もし、この仕業があの猫の仕業だとして、この牛乳がたっぷりの皿に目を向けるだろうか? もし、その皿ではなく、メソトたち自身に目を向けられてしまったら?
そうしたら、もう彼らには逃げ場などない。
だが、今そんな悪い状況などを考えている暇もなかった。
(もしそうなったら、そのときはそのときだ。……あの猫から逃げること、今はそれだけを考えるしか、ないんだ)
メソトはそれだけを考えて、ルークとともに、ゲームセンターの中をゆっくりと歩いていた。
ちょうど、その時だった。
「メソト、見てくれ」
ルークに言われ、メソトはその方を見る。
そこに居たのは、猫だった。猫は地面に顔をこすりつけていた――いや、正確には、地面にある何かを頬張っていた。そして、それが肉塊ということに気付くのに、そう時間は要さなかった。
それを見て、ルークはどうするか考えていた。そのまま置いたとしても、どうやってそれに注意を引くか。いや、もしかしたら、今のうちに逃げてしまえば成功するかもしれない。
そんなことを――考えていた。
しかし、その淡い希望は簡単に崩されてしまった。
――気づかれた。
そう思ったときは、ルークとメソトはそれをおいて、走り出した。猫はそれを見て、彼らめがけて飛び出す。
十メートルもの体長がある猫と、高々一メートル六十センチほどしかない人間。
その歩幅の差は、もはや歴然だ。
まるで、巨人と小人のようだ。
「どうする!? 急いで逃げるって手もあるが、あの感じからすると、どうも無理だぞ!!」
ルークの問いに、メソトは答えない。
そして。
メソトは唐突に立ち止まった。
それを見て、ルークは振り返る。
「おい、メソト。どうした!?」
ルークの問いに、メソトは小さく微笑むだけだった。
「おい! メソト!」
「いいから走れ! 俺を置いていけ!」
メソトの背後には、猫が迫ってきている。
「何を言っているんだ! 急げよ!! 今なら、まだ間に合う!!」
「このままじゃ二人ともやられる!! だから、お前だけでも逃げろ!!」
そして。
メソトは――猫に頭から噛み付かれた。
首がちぎれて、頭が噛み砕かれる。
クシャリ、と小さな音を立てた。
人間の最後とは、ここまで呆気ないものなのか――ルークは真っ白になった思考の中で、それだけが黒く埋まっていた。
だが、立ち止まってなどいられなかった。
メソトの遺志を、継がなくてはならなかった。
まずは、工場へ出向かねばならない。
泣いている場合では、ない。
◇◇◇
リンドンバーグ社、ニュージャージー工場。
工場のラインには、百人を超えるおばあちゃん――グランマがひたすらにクッキーを焼く作業に入っていた。
グランマといっても、ただのグランマではない。
農業が得意なグランマ、工場にいるグランマ、鉱業が得意なグランマ、宇宙進出により自らの身体をエイリアンとさせたグランマ、錬金術によって自らの身体をも金に変えてしまったグランマ、『クッキーバース』という異界の扉を開けたことにより、その瘴気を浴びて変化したグランマ、タイムマシンによって連れてこられた過去のグランマ(彼女たちからは大グランマと揶揄されている)、反物質コンデンサーによってあらゆる知識を吸収したグランマ……その種類は様々だ。
そのひとり、大グランマはこのリンドンバーグ社の経営をも担っている。
「……工場の経営が滞っている? 毎秒一億枚にパフォーマンスを向上させるために、ポータルを増強する予定だったんじゃなかった?」
大グランマは予想外の報告に、スーツの男に強くあたっていた。
スーツの男――レイジは大グランマの愚痴を聞くのにもあきていた。
結論から言えば、この工場はもう限界を迎えていた。そして、この工場は何れ生産率が低下し、廃止されることだろう。大グランマはそれを恐れているのだ。彼女たちは、クッキーを作る上で様々な技能を完璧に積んでいるのだが、裏を返せばそれ以外はまったくダメなのである。
だから、工場を潰されると一番困るのは、ほかならぬ彼女たちだけだったのだ。
「……聞いているのか」
大グランマの冷たい言葉に、レイジは気を取り直し、小さく頷く。
「だったら、さっさとさっきの言ったことをやってもらいたいもんだね。皆のやる気が無くなってきているのは、間違っていないんだよ。クッキーを作ることしか、私たちは能がないんだからね」
だったらそれ以外のことを頑張る努力もして欲しいものだがね、とは言えなかった。たとえ落ちぶれていたとしても、リンドンバーグ社の主要商品は彼女たちが作るチョコチップクッキー、それにほかならないのだから。