「どうぞ」
「ああ」
桜花から受け取った淹れたてのお茶を受け取ってずずずと一息。肌寒いこの季節に丁度いい温度と渋さで、すっかり染みついたデスクワークに凝り固まった身体を温めてほぐしてくれる。絶妙なタイミングでやってくるこの差し入れがここ最近の楽しみになっているのは秘密だ。喜んで手が付けられなくなるから。いや、バレてそうだけど。
「何を見られていたのですか?」
「ししおどし」
「うふふ、一夏様が風情を満喫されるなんて…」
「そう思うよな」
目線をかこん、と音を立てる古風な細工に戻す。もう言われすぎて耳にタコができた事だ。それで未だに揶揄うのは桜花だけだぞ。それに対して毎度同じ答えを返す俺も俺か。
初めてあれを見たのは楯無が襲名される時……だったか? もっと前に見た気がしないでもない。今でこそ頭はすっきり冴えているけど、あの頃が一番ひどいもんだったから自信が無いけど。まぁ、こんなもののどこがいいのか理解できなかった。デカい鯉しかり、盆栽しかり、無駄な維持費がかかるだけだーって。
今ではそれを見て和んでるんだから、人生わかんないよな。一番混乱してるのは周囲の使用人達だな、間違いない。
くみ上げられた水が竹に注がれて、やがて溜まっていって、いつかそれは切っ先を石へ打ちつけて中身を吐き出し、かこんと甲高い音を立てる。ただそれを繰り返すだけの絡繰り。
「どこがどう気に入っているとか好きとか、そんな具体的な事は何一つ言えないけど、ただ何となく落ち着く。甲高い音はとても耳心地が良いんだ」
「はい」
この話も随分としたっけ。その割に自分の答えも桜花の返事も一字一句変わらないんだけど、案外そういうものかもしれないと最近気づいた。ふんわりとした好きは幾つあっても良い。
仕事も会話も忘れて、二人並んでぼうっと眺める。時折てのひらを温める湯飲みの存在を思い出してずずずと茶を啜り、苦みと温かさを、安らぐ音色を、時間も忘れてただ日常に浸るのなんと贅沢な事か。意味を見出せない事は自主的に行動しなかった昔では考えられないな。
「そう言えば、忘れておりましたが」
「んん」
「今朝の■■新聞、御覧になられまして?」
「いや」
静寂を破った桜花は脇に挟んでいた朝刊をそっと俺に差し出す。新聞は各社ごとにバイアスがかかるので数社まとめて購読しているが、流石に全部目を通すのは骨が折れる。最近になってようやく文庫本や自己啓発が読めるようになったレベルの俺には到底難しく、重要なものだけピックアップしてもらいそこだけ読むことから始めていた。
桜花はその辺り管轄外で、養父の代から使えるウチの使用人が担当している。彼女は業務と関係の無い記事だから弾かれることを察してわざわざ持ってきてくれたという事だ。
「なになに……ブリュンヒルデの再臨なるか!? 日本代表三代目は織斑秋介! と」
「そこじゃないですわ」
「え」
これ以外にどんなニュースがあるんだよ。知ってたからびっくりしないけど、一面だぞ? あの男性操縦者だぞ?
「下の方の…会見の写真が、ほら」
「あるね」
「蒼乃様(ビジネススーツVer)が」
「そこ!?」
「切り抜かないのですか?」
「俺は漫画に出てくる表向き反対だけどこっそり応援してる頑固おやじか!? そんなことしてないから…」
「くすくす、冗談です」
「遊ぶな」
波乱万丈という言葉が相応しいIS学園での三年間。あっという間に過ぎて、知り合いと言えなくもない間柄の専用機持ちは各々の国に返って本来の生活に戻った。少々恥ずかしいが、常に話題の中心にあった俺達……特に男性二人とその周囲の女子ということで、帰国してからも注目は未だに途絶えることが無いのだ。
更識の関係者は家に帰って家督を継いだ。ウチは姉さんが当主なのだが、国家代表と学園教師の兼任で忙しく平日は家を空けている。その間の案件が全て俺に回って忙殺される毎日を送っているのだ。学生時代、楯無が逃げ出した気持ちがよーく分かるよ。
その楯無は場所が生徒会室から本家に移ったぐらいで代わり映えしない。学生の仕事が無くなった分だけ楯無の仕事が増えた。週に一回ほどお邪魔すると、大体干乾びて机に突っ伏している。
簪は束さんについて行ってるので居たり居なかったりだが、帰る度の置き土産がまた恐ろしく、技師が裸足で逃げだすものばかりなので、色々と順調なのが伺えた。マドカは護衛として付き添っており、揃って留守。
姉さんは教師にハマったらしい。更識一派の卒業と同時に退職するかと思われたが、まだIS学園で教鞭を振るっている。楽しいからだけじゃない気がするものの、珍しくやる気を出している姉さんに物を言える人はおらずといったのが現状。ちなみに、織斑千冬と人気を二分している。
そういうわけで、近くに残ったのは楯無と桜花+他だけ。寂しいといえば寂しいが、そんなことを思う暇もないぐらい充実した毎日を過ごしている。
織斑は一面トップの様にあるとおり。日本代表を目指してその権利を勝ち取った。元々センスは人一倍ある男だ、腰を据えて努力を惜しまなければどの分野でも活躍できる才能がある、羨ましい事。引継ぎがどういうものか知らないが、一応姉さんも認めたということだろう。これ以上はノーコメント。
篠ノ之は神社の後を継ぐと言って、剣道場ごと家督を譲り受けたと聞く。旧姓を名乗っているが、あのぶきっちょな彼女が何をどうやったのか知らないが織斑のハートを見事射止めて籍を入れた。一生メディアに付きまとわれる運命だが、本人たちはさほど気にしていない。
オルコットは代表と政治家の二足草鞋。女尊男卑の典型例だった自身が変わった事で視野が広がり、全ての男性が下劣ではないのだと、真の男女平等という理想を掲げている。支持率はまだ低いが信頼は厚く有望とされており、青い理想ながらも美貌だけでない魅力があるのだとか。
凰はメディア越しに情報が入ってくることは無くなった。国家代表の最有力候補とまで噂されたというのに突然の引退を宣言し、一般人として生活しているようだ。相応に生きたい、という最後の願いを汲み取ってか、彼女の話が上がってくることは無く、一般人として奔放な生活を送っているのだろう。目指す動機が織斑なら、辞める動機もまた織斑か。しかしフットワークの軽さよ。
デュノアは社のパイロットとして業績に貢献し、次期国家代表に指名され交代の時を待っているそうだ。任期が定められているわけじゃないが、なんと前任からのご指名が入った。織斑と同じ肩書を背負う日は近い。
ラウラは軍隊に復帰し特殊部隊隊長として勤務している。代表候補生は入学のためだけに与えられた方便で、卒業して帰国した今現在、候補生から外されている。入学前は少佐だったが、この間電話をしたときは中佐と呼ばれていた。キャリアは順調らしい。
リーチェはお世話になった博士のいる研究所に就職し、デュノア同様にテストパイロットを務めている。将来の展望を聞かされたことは無いが、彼女も持っている側の人間なので食いっパぐれることは無い筈。そのうち、さらなる加速装備を引っ提げてヴァルキリーとして名を遺すだろう。
織斑千冬は教師として勤務し続けている。きっと定年まで働くに違いない。食えないじいさんが学園長をやってると楯無から聞いてるが、次は彼女かな。例によってノーコメント。
束さんは……うん、いいだろ。
他にもお世話になった人達は意外と多いが、語り切れないし消息不明な奴もいるのでこのあたりで良いだろう。亡国機業は滅びていない筈だが、更識の情報網が掠りもしないので、スコール達は今日もどこかで犯罪に手を染めているに違いない。こちらに害があると分かれば情け無用で処分してやるが、どうなることやら。
いや、あっという間だった。楯無様と同い年で一つ下の学年に編入されたので、卒業したのが19歳。今が23歳だから……四年前になる。懐かしいね。
ずずずと残りを一気に飲み干して湯飲みを返す。
「簪とマドカは何時に帰って来るって?」
「午後三時頃なので……あと三十分ほどでしょうか」
「ん。支度しよう」
「はい」
仕事はやめにしよう。今日は久しぶりに二人が帰ってくる日だ。
※※※※※※※※※
夕食を済ませてテレビをつけっぱなしにしながら、土産話に盛り上がる。束さんについていってる、と言えば聞こえは良い。実態は家政婦扱いにしか聞こえてこないから不思議だ。勿論、色々と教わっているんだろうけど、それにしたって勉強と世話の時間割合がどうも納得いかない、とマドカが毎度の様に唸る。四年目ともなると、もう聞き飽きた話だ。
見ろ、簪はおろか嘘も本音も引き攣った顔してるんだぞ。
「全く、何が良いお嫁さんになる花嫁修業だ。体のいい便利屋扱いをしてくれて……」
「ははは。一体何度同じ話をすれば気が済むんだお前は。なぁ織姫」
「ねー」
「絶対意味を分かってない」
観念するがいい妹よ、胡坐を掻いた俺の上にちょこんと座る愛娘は四歳の癖に空気が読めるイイ子なんだ。ニコニコと笑みを浮かべて崩さないところといい、周囲を揶揄うところといい、変なところで中身が母親と瓜二つなところが悩みの種だけど。
即答する織姫をじとーっと見つめるマドカ。中々鋭い目つきのマドカに見つめられても微動だにしない四歳児、ニコニコ顔を一ミリも崩さない胆力も母親譲りで度胸もあると来た。将来が楽しみで仕方がない、我が子ながら実に恐ろしい。
「だいたい、織姫はお風呂の時間だろう。なんで兄さんの膝に座ってるんだ、簪叔母さんが一緒に入ってくれるからさっさと代われ」
「えっ? 私をダシにした?」
「や」
「ダメか…」
「ダメなんだ…」
四歳児と張り合う妹といい、勝手に利用されたと思えば釣られてくれない義妹って色々とかわいそうだな。マドカは冗談なのか本気なのか分からないし、簪は結構凹んでる。それでも諦めずに「嘘は?」「本音は?」「桜花は?」と周囲を巻き込んでいくが全て一刀のもとに切り伏せられていく。
とても面白いがそれぞれ大なり小なり傷を負っている様子。そろそろ止めるべきか。
「お、おのれ織姫……」
「織姫。そろそろだな…」
「はーい」
ぴょんと飛びのいた織姫は音を立てずに畳の上を歩いてはマドカの肘をぐいぐいと引っ張って離さない。これ幸いと立ち上がろうとしたマドカはどうしたと問いかけて織姫を見つめる。
「叔母さま、一緒にはいろっ」
いつの間にかトドメを習得していた織姫は綺麗に決めて見せ、マドカはフリーズしたかと思えば鼻血を垂らして息を荒くし、何かはっきりと聞き取れない呟きを漏らしながら娘を拉致しようとしている。だっこをしてマドカは見えてないが、にやりと四歳児がしてはいけない笑みを浮かべている時点で俺はもう諦めた。
「え、いつもあんな感じなの?」
「楯無を二人相手にしてる気分だ」
「お姉ちゃんが、二人……」
外見はどちらかというと父親の俺に似ているのにねぇ。今からが成長期だから変わっていくだろうけど。
楯無を二人相手にすることを想像し始めた簪はとても複雑な表情を浮かべ、最終的に苦笑に落ち着きお疲れ様と労いの言葉を掛けてくれた。最後に会ったのが半年前だから、あまりの成長と変わりように驚くのも無理ない。
簪の視線の先には、お風呂に誘われたというのにいつまでもマドカは愛でるばかりで流石に疲れた様子の織姫。確かに半年前までは年相応に我儘で駄々をこねたもんだが、いつの間にかこんな人たらしになっちまって。心当たりは大いにある。
「織姫ちゃーーん……」
「お、お母さま…! 使用人ラッシュをこんな短時間で捌くだなんて…」
「私を出し抜こうなんて百年早いわ。さ、お仕置きのげふんお風呂の時間よー」
「おしおき! おしおきって今はっきり言いました!」
「私のプリン勝手に食べるからよ!」
「いやー! 叔母さま助けてー!」
あの親にしてこの子あり。という言葉がこれほどぴったり当てはまる光景は無い。
妻の楯無と娘の織姫はマドカを中心にどたばたと走りまわり、次第に机や壁を使い始め、最終的に屋敷中を駆け回って嘘が両方を説教するんだろう。どうせ今日もそうなる。子供相手に何をと思うかもしれないが、この娘、俺の超人スペックだけをノーリスクで引き継いでる。小柄で身体の使い方が上手くすばしっこいのだ。十年もすれば手が抜けなくなりそうなくらいには。
毎回思うけど、しょーも無い理由で屋敷中を使って追いかけっこするのは何とかならないものか。
※※※※※※※※※
予想通り嘘の堪忍袋の緒が切れたところで追いかけっこは終了した。そこから正座でお説教まで発展しなかったのは簪達が帰ってきたからだろう。もう諦めたから、とは思いたくない。俺? あっちの方が口が上手いから言い負けちゃうんだよね。
「織姫は?」
「やっと寝たわ。普通の子みたいに手がかからなくなるのは助かるんだけどね…」
「うーん、楯無に似てきたな」
「そうなのよ…子守りしながら仕事してたんだけど、真似しちゃったみたいで」
楯無はマドカの突っ込みにも冷静に同意する。肩透かしをくらったマドカは目をパチパチとさせた。すっかり母親が板についた彼女にとって、人を揶揄うのが楽しいという自分の好みよりも、娘がそれを真似して変な迷惑をかけていないかが大切なのだ。嫌いになったわけじゃないが、悩みの種ではあるらしい。
様子を見る限りは問題なさそうだから、俺を含めた家の人間は特に気にしていない。子供ゆえに問題を起こしてしまう時もあるが、二度も同じことをやらかさないし、相手や程度も加減できるし、TPOを弁えている。何より出来ることも少ないからチャチなもの。
……あれ、本人より手のかからないのでは?
「お姉ちゃん、一夏が失礼なことを考えている」
「そうね、あれは織姫よりも私のほうが面倒くさい悪戯をしてるって顔よ」
「今日も意思疎通が取れて何よりだ」
「一方通行で良いのか、兄さんよ」
相変わらずのぼろくそぶり。考えていることが筒抜けである。父親らしい威厳なんて一生無縁だろうな、これ。
お手上げというより、最初から勝ち目はないので諦めて足を投げ出し縁側に寝転がる。そろそろ日付が変わる頃合い、特に何か大事なイベントがあるわけじゃないが、今日は満月が綺麗に浮かんでいるので場所を変えたのだ。これが秋なら団子でも用意したくなるような、良い夜。
「……アレはまだ、あのあたりを漂ってるのかな」
ぽつりと呟いた簪にみんなが注目する。
五年も経ったというのに昨日のように思い出せる、月での一幕。高校生活のおよそ半分を費やした大事件だ、ISが初めて宇宙空間で使用された例でもあり、篠ノ之束自らが安全性を立証したというお墨付きもあって、今ではぐずっていたのが嘘のように、当初そう望まれたように宇宙進出が進んでいる。
当事者だった俺達にとっては、そんな晴れ晴れした思い出なんて一つも無いが。一つ間違えれば宇宙空間を漂って死ぬか否かのカーニバルだった。干乾びた人間なんてもう見たくない。
奇跡的に、奇跡的に誰一人欠ける事無く生還できたが……何か一つでも手違いがあれば死んだ奴がでてもおかしくない。入学前は日常だった戦場のヒリつく感覚を久しぶりに味わった。いつの間にやら世間一般の普通に馴染んでいた俺にとって刺激的だった。
「どうかしら……なるべく遠くへ流れるように計算したって博士は言ってたけど」
「見つかったって情報は回ってきてないから、少なくとも地球と月周辺には無いだろうな」
「……直接聞いたけど、一ヶ月前に太陽に接近して燃え尽きたって」
「へぇ」
マドカの少しためらったような新情報に、知らずくすぶっていた心残りがすいていく。
IEXAは束さんの主張に全員が賛同して宇宙空間に廃棄された。今の話を聞くに、適当に放り出したと見せかけていつか燃え尽きるよう綿密に計算でもしていたんだろう。解体という確実な手段を取らないなんて、と思っていたが……太陽で証拠隠滅とは。やる事が違う。
束さんは終始アレについて自分で作っておきながら肯定的な発言をしなかった。スペックを語るときや、乗り回している俺達の感想には素直に喜んでいた気もするが、ISと違って純粋な兵器でしかないIEXAは主義に反するものだったから、と思っている。
役目を終えたから廃棄する、とだけ口にした束さんに同意したのは、一重にISがいよいよ兵器として認識されてしまうのを避けなければならないから。特に説明をせずとも、織斑でさえ察した。スコールとオータムは違うだろうが、彼女らなりに同意するだけのメリットがあったんだろう。あるいはそういう契約だったか。
何にせよ必要ないものだ、だってISはまだまだ発展途上の新技術だから。今思い返せば、わざと大和に武装を一切搭載しなかったのはそういう意図があったからかもしれない。……考えすぎか?
「結局、奴等の目的は何だったんだ? 地球侵略か? 復讐か?」
「どうなの一夏」
「……」
「はぁ、この人こうなの。この話題をふるとだんまり」
「いや、正直俺もよく分かってないんだって」
《頭では分かってるんです。うまく言葉にできないだけで》
「ふぅん。で、出てきて大丈夫?」
《寝たふりじゃない事は確認済みですよ》
夜叉の待機形態にこっそり追加されていた拡声スピーカーから声が発せられる。あまり会話に加わることが無い……というよりもバレると面倒なので黙っているが、夜叉にとっても特別なのか今日は上機嫌に喋っている。そしてさりげなく俺の心の内をさらけ出さないで欲しい。
「一夏の私見でいいから聞きたい。私達は、最後まであの場に居なかったから」
「…おかえり姉さん」
「ただいま」
さも当然のように俺達の背後を取って登場する姉は俺の頭上で腰を下ろし、流れるように膝の上に俺の頭を置いた。遅くまで働いて今帰ってきたというのに疲労の色を見せない姉さんはにこりとほほ笑んで俺が語りだすのを待っている。
してやられた気分だ。
「はぁ」
……初めて会ったばかりの敵同士で、時間に余裕も無かったしそう多くを語り合うことは無かった。それでも今俺が聞かれたような事は聞いたし、その返答も確かに受け取った。一語一句しっかりと脳に刻まれている。
その上で言わせてもらうなら、昔の自分だなぁ、と思った。具体的には夜叉と出会うまでか。
織斑一夏だった頃も、研究体のA-1だった頃も、森宮一夏と名を与えられたばかりの頃も、俺には自由が無かった。一緒に剣道を習いたいという事も、帰り道でお菓子を買い食いしたいという事も、実験拒否も、任務を放って休むことも、思い出せる限りでそれらを許されたことは無い。義務のみを与えられて、一切の権利を奪われた生活だったと思う。一つ、大きな道を目の前に敷かれてその上を歩くことだけを強要されてきた。それが段々と変わってきたのはつい最近の話だ。
月の惨劇の後や奴の話から察するに、組織内で揉めて自滅したのは間違いない。奴はその中の歯車の一つでしかなくて、ただ与えられた義務を果たそうとしていただけに過ぎないんだと思う。自分が顔も合わせた事の無いような祖先が募らせた怨み辛みだけを注がれて出来上がった、それ以外を知らない純粋な侵略者だ。姉さんが居ただけ、まだ俺の方がマシだったかもしれない。
言われたことを淡々とこなして仲間を殺し、偶然生き残った。かといって何が出来るわけでもないし、何かしたいと思えるほど物が溢れてもいない、自分で考えて行動することをしたことが無いんだから、言われたことを律儀に守る事しかできない。
とても可哀そうな奴だった。自分がああなっていたかもしれないと思うとぞっとする。中々にハードな生き方をしてきたつもりだったけど奴ほどじゃない。思った以上に恵まれていると感謝したぐらいだ。
「…だから、目的は知らん」
「そう」
この姉はまぁ淡白だねほんとに。こっちは意を決して話したっていうのにさ。
「一夏。幸せって何だと思う?」
「そう急に言われてもな…」
「私は不変であること」
「不変?」
「……普通であること。何事も無く、幽明の境を超えて夜が明けて、燦々と青空の下でお日様を浴びて、偶に傘をさして雨音に耳をゆだねて、夜にはこうやって団欒を過ごす。それが何よりも輝いて見えるの。それが私の幸せ……願い。ずっと私の周りがそうあり続けてくれたらいいのにっていつも願ってるけど、現実はそうならない。だからと言ってそれを夢見続けては、いつかそれは願いじゃなくなって…」
「呪いに変わる」
「そう。次の世代に願いを託したつもりでも、受け取った彼にとっては呪いでしかなかった。願うものであって、押し付けるものではないから。だから人には心があるのね。人は思い出だけでは生きていけないもの。寄り添う誰かと、巡ってくる明日への希望と、幸せと願いへの祈りがあって初めて人は前を向ける」
ぼうっと満月を見上げる姉さんの表情はどこか暗い。言葉にしていることとあまりにも噛み合っていなくて、何が言いたいのか測りかねる。
「ごめんなさい、変な話をしてしまった」
「いや、いいけど……何かを反省してるの?」
「……そうね、反省してる。以前の私は一夏さえいればいいと思ってて、他はどうでも良くて、ずっとそばに居ればいいと願っていた。貴方にもそれを押し付けて。でも、臨海学校での一夏は自分で自分の道を選んだ、家族の為に家族を裏切って。だから間違いに気づいた。私が願っていたのは私自身と貴方の幸せ。貴方が願っていたのは楯無と簪とマドカと私との幸せ。だから私は、ここにいるみんなが何事も無く穏やかな毎日をずっと送れることを願っているわ。一夏は私の呪いを願いに変えてくれた。
優しい弟、だから、どうか自分が無能だともう蔑まないで。立派に使命を果たしているから」
「そうかな…」
「あら、蒼乃さんの言う事に疑問を持つなんて珍しいじゃない。でも、そうね…一夏は立派なのは確かよ。ね」
《だからパートナーに選んだんですよ、マスター》
「うん。家を離れてても一夏が居るからって、安心できるよ。それに、帰りたいって思える」
「それもこれも、きちんと日々の業務に真剣に取り組まれるからこそですわ。もう少し自信を持っても良いと思います」
「私は最初から疑ってないし信じてるし頼りにしてるから。兄さんだからな」
自分がそんなに大それたことをしたつもりはないけど、姉さんにはそう映っていたということか。してもらう側になってばかりだから、誰かの……自分の大好きな人達の助けになれたことがとても嬉しい。
まだまだ出来ない事の方が多いと痛感している、望まれるような意識を持つにはまだ早いかなって思うけど、いつか必ずそれに見合う人間になりたい。昔なら考えもしなかったけれど、期待されているからには応えてみたいんだ。
「一夏、貴方は何を願うの?」
姉さんに倣ってぼうっと月を見上げて考えてみる。
どうだろう俺。
願いかぁ……。
……。
うん。
「俺は―――」
これにて、本作は終了となります。
まだまだ明かしてないこともありますが、追加の予定はありません。
完結のご挨拶は長くなるので活動報告にて。
あとがきでは簡潔に、お礼の言葉だけで〆とします。
とても長い長い作品でしたが、なんとかここまで漕ぎつけることが出来ました。
私一人ではとてもモチベーションを維持することはできなかったでしょう。筆をとろうと気力をくれたのは、いつも皆様の感想でした。
ここまで読んでくださった方、本当にありがとうございました。
ISでも新しいものを始めましたので、是非手に取っていただければと思います。
お疲れさまでした。またお会いしましょう。