ゼビル島の夜は人工の光がなくても、星明りと月明かりで十分周りがよく見えた。
先ほどからイルミはちょうどいい大きさの岩に腰を下ろして何をするわけでもなくぼんやりと過ごしていたが、もちろん見た目ほど油断しているわけではない。何でもない顔をしながら神経は刃のように研ぎ澄まされているので、もしも不用意に近づく者がいればすぐさま針の餌食となるだろう。そもそも、念能力者でなければイルミの存在に気付くことも難しいに違いなかった。暗殺者として普段から気配を消すのは癖のようなものだし、そこへさらに絶を行えば、こうやって堂々と姿を現していてもその存在は酷く希薄である。もしかすると四次試験はこれまでの試験の中でも一番つまらないかもしれないと、そんな柄にもないことまで考えてしまう。
(あ、変装解きっぱなしだった)
急に吹き付けた風が長い髪をそよがせ、それを手で押さえたイルミは、自分の顔面に針が刺さっていないことを今更のように思い出した。自分のプレートを揃えた後は完全に寝るつもりだったので抜いてしまっていたのだ。それなのに、リリスが急に念を使ったせいで叩き起こされたにも等しい。今からもう一度変装しなおすか迷ったが、それもなんだか億劫だった。正直キルアにさえ見られなければ問題ないし、イルミが弟の気配に気づけないはずもない。あの変装は大幅に骨格を変えるので、やっているほうはなかなかにキツイのだ。
己の変装についてまぁいいか、と随分適当な判断を下したイルミは、それにしても、と掘り返されて少し色の変わった地面を見る。この下にはリリスが埋まっているのだが、もちろんイルミが殺して埋めたとか、そういう話ではない。
まさか自分以外で、土の中に寝ようとする人間がいるとは思わなかった。野宿をするなら外敵に襲われにくく寒い気候でも保温性の高い土の中がよい、というのは知識として父親から習ったことだが、イルミは実際にシルバがそうしているのを見たことがない。
基本的にゾルディック家に依頼が来るような人間は、莫大な依頼料に見合うほど恨まれている一方、表の世界、裏の世界問わず、成功者であることが多いのだ。そんな相手は核シェルターばりの堅牢な建物に護衛をわんさか連れて引きこもることはあっても、野宿の必要な山中に身を隠すことなどほとんどない。だから、土中での睡眠方法は、本当にあれば便利くらいの知識でしかなかった。
イルミも今回、滅多にない機会だと土の中を試してみたが、やはりあまり快適なものではなかった。仕事の一環だから仕方がないとは思っているものの、正直に言えばシャワー付きの個室が欲しいところである。一方リリスは特に文句も言わずにこうした状況に適応しているように見えるが、やはり流星街出身というところが大きいのだろうか。ゾルディック家に来てもある程度の毒ならば平気な顔をしているし、そう言えば彼女の念だって自らの体を危険に晒さず細かい操作が可能なので暗殺にうってつけだ。
イルミは父親同様、血統や家柄には拘るつもりはないので、こうやって条件を見るとリリスは妻としてはなかなかに優良物件かもしれない。それにしてもまさか自分がこんなにも早く自分が身を固めることになるとはと、イルミはどこか他人事のような気持ちで左手に視線を落とした。
さて、今までのイルミならばきっと、これ以上リリスについて考えることはしなかっただろう。重要なのは“今現在”でしかなく、過去などどうでもいい。他人の念能力について知りたいと思うことはあっても、それが形成されるに至った過程や事情などにはまったくもって関心がないのだ。
しかしリリスに関しては、どういうふうに生き、どうして今のように育ったのか少し気になった。それこそがずっとイルミが気になっている、“なぜリリスはイルミを目の
(これ、もし今あの夜泣きが始まったらわざわざ土から出てくるのかな……)
それは想像しただけでも、なかなか強烈な光景だった。何も知らない者が見れば、死者が起き上がったと誤解するかもしれない。
そもそも、土の中で泣きだしたら呼吸はうまくできるのだろうか。今は中が空洞になっている木を空気穴代わりに数本刺しているようだが、あの状態のリリスは何かと危険だ。自分のいる場所も目の前の相手もわかっていなかったのだから、パニックを起こしてしまうかもしれない。
「はぁ、世話が焼けるな」
思わずこぼれたイルミの呟きは、しんとした夜の闇の中へ吸い込まれていった。他にやることもないし、となんとなくリリスのことを見張っていたが、そろそろ彼女の呼吸が寝息に変わってから2時間ほど経つ。もしもあれが起こらなければ朝方にでもまた埋め直せばいいかと考えて、結局イルミは彼女を掘り起こしにかかった。
そうして見つけた土の中で眠るリリスは、死体というより胎児のようだった。土よけに被せてあった大きな葉を退ければ、背中や手足を丸めた状態ですやすやと眠っている。これにはさすがのイルミも神経の太い女だなと呆れたが、呆れながらも衣服にかかった土を払ってやった。
「ん……」
背中と膝裏に手をまわして抱き起せば、リリスはむずかるように鼻を鳴らす。しかしそのまま子供を抱っこする要領で膝の上に乗せると、落ち着いたのか大人しくなった。こうやって静かに寝ていれば、可愛げがないこともないと思う。眠った人間特有の温度と重みは、不思議とイルミ自身をも穏やかな気持ちにしてくれた。余計な邪魔さえ入らなければ、このまましばらくこうしていたことだろう。
「覗きなんて良い趣味だね。そこにいるんだろ?」
イルミが暗い森に向かってそう声をかけると、闇の中に鮮やかな色彩の男がぬうっと浮かび上がる。「……おやおや、見つかってしまったみたいだね」おびただしい数の紅血蝶にまとわりつかれながら、ヒソカはゆっくりとこちらに近づいてきた。
「そんなねっとりとしたオーラ出しておいてよく言うよ」
「ボク今すっごく機嫌がいいんだよねぇ」
見ればヒソカの胸には、彼のものではない286番のプレートがつけられている。紅血蝶が過剰に反応しているのは、どうやら返り血のほうらしかった。
「ターゲット見つけたんだ」
「うん、でもそれはどうでもよくってさ。はぁ……青い果実って本当にそそるよねぇ」
てっきりターゲットが骨のある相手だったのかと思ったが違うらしく、一人で悦に入っているヒソカはいつもの五割増しくらいに気味が悪い。「あんまり近寄らないでくれる?」無意識のうちにリリスの身体を庇うように引き寄せると、ただでさえ上機嫌な様子のヒソカはさらに笑みを濃くした。
「まったく。お楽しみの最中だったのはわかるけど、そう邪険にしなくたっていいじゃないか」
「お楽しみ?これはリリスが寝相悪いくせに土の中で寝るって聞かないからだよ。
さすがに埋もれて死んだんじゃ可哀想だったから」
「聞き苦しい言い訳はやめなよ。彼女が起きてる間もそうやって優しくしてあげればいいのに」
「だからただの気まぐれだってば。ヒソカだってたまにやるだろ」
「ボクはちゃんと相手を選ぶよ。本命にはそこまで回りくどいことしないさ」
「……」
機嫌がいいのはわかるが、本当に煩わしいほどよく回る口だ。ため息をついたイルミは、リリスを少々乱暴に土の穴に横たえる。それを見たヒソカがあーあと呆れたような声を上げたが、聞こえなかったふりをした。
「まったく素直じゃないんだから」
「もともと朝にはこうするつもりだったし」
もしもリリスが目覚めるまでこうしていれば、彼女はまた盛大にイルミを糾弾するだろう。ちょっとした親切心だというのに、変態などと不名誉な誹りを受けるのは勘弁である。「やだ……」しかし彼女から離れようとしたイルミの服を、リリスはぎゅっと握って離さなかった。
「……」
一瞬、起きていたのかとどきりとするが、冷静に考えれば意識のあるリリスがこんな甘え方をするはずがない。嫌なタイミングで始まってしまったな、と思ったが、思った時には後ろからヒソカに覗きこまれていた。
「へぇ、本当はうまく行ってたのかい、キミたち」
「これは違う……。言っただろ、寝相が悪いって」
また泣き出しそうな気配を感じて、イルミは仕方なく彼女を再び膝の上に抱き上げる。途端にあやされた幼児のようにすり寄ってくるリリスを見て、さすがのヒソカもからかう気が失せるくらいに驚いたようだった。
「一体どういうことなんだい?」
「オレに聞かれても知らないよ。ただ、夜はときどきこうして幼児退行して、朝になると本人は忘れてる」
「それはまた……難儀だね」
迷惑してる、と言おうとして、イルミは口を噤んだ。このくらいのことは、これまで手を焼かされたことに比べたら可愛らしいものだ。それにぐずる彼女を宥めるのもさほど難しいことではない。「わかったらあっち行って」リリスを庇うように再度警告すると、ヒソカは肩を竦めて数歩後ろに下がった。
「まるで産後の猫だね。キミ、いい母親になるよ」
「誰が母親だよ」
「はいはい、ごめんね。じゃあもうボクは行くからごゆっくり」
言われて一瞬むっとしたが、そういえばリリスも自分のことを母だと呼んだ。顔は似ていないそうだが、こうやってあやすとすぐ落ち着くところから考えて、深層心理では母親を求めているのかもしれない。
初めから殺すために娘を産んだ非道な母親なのに、当の娘からすればそれでも母親だということだろうか。ずっとリリスは母親を憎んでいると思っていたが、憎いだけではないのかもしれない。
イルミは今更になって彼女がゾルディック家にやってきた理由が理解できたような気がした。リリスの母親にとってキキョウは、自分の娘を殺してでも会いたかった友人なのだ。興味が湧かないわけがない。そこで単純な憎しみに転ばなかったのがなぜなのかはわからないが、少なくとも彼女は実際に会った“母親の友人”という存在に納得した。納得して、今度は自分の理想とする母親像をキキョウに重ねたのだろうか。そしてその延長で、理想の家族としてゾルディック家に執着を見せたのだろうか。
なるほど一つ謎は解けた、と思った。
道理で、しつこいわりにはゾルディック家に対して害意のひとつも見せないわけだ。
いや、害意はないが敵意は確かにあったか。
イルミは自分の服をしっかり握りしめるリリスを見ながら「一体、オレの何が気に入らないわけ?」と呟いた。