英雄殺し(スタゴナ・アステリ)   作:カリギュラ伯父上大好きマン

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東方の大英雄

 

 5月某日、その日世界が震撼した。

 

 ギリシャ、首都アテネを中心にまつろわぬ神が降臨。国家が滅ぶ寸前の大災害に襲われたのである。

 

 マグニチュード8.7の巨大地震や、それに伴う大津波、突如発生した大嵐や、小規模な火山の噴火などが副次的に(・・・・)発生したのだ。死者、行方不明者併せて約4万人。歴史的大災害であった。

 

 恐ろしい事に、顕現したまつろわぬ神の数は不明。霊視による観測は、その基盤となる霊的情報記録帯から遮断され、少なくとも複数の存在───まつろわぬアーレス、まつろわぬポセイドン、まつろわぬアテナ、まつろわぬゼウス、そしてまつろわぬヘラクレス(・・・・・・・・・・)の五柱は確認済み───が何らかの目的を持って行動した結果と思われる。まさしく神話の再現、としか形容できない大破壊に世界はてんてこ舞いである。

 

 或いは、それこそが目的だったのか。神話を再現することで、古き神代を再来することが真の目論見だったのかもしれない。

 

 しかし、現実にそんなことは起こらなかった。全世界、計八人の『神殺しの魔王』が一挙に集結し、まつろわぬ神々の尽くを弑逆してのけたのだ。しかし、いかな魔王といえども、無傷とはいかなかった。

 

 南米、中米の庇護者を僭称した三代目ジェロニモが激戦の末ロサンゼルスの守護聖人ジョン・プルートー・スミスを庇い殉死。

 

 そして、現在確認されている五柱を単騎で相手にし、まつろわぬアテナを除く四柱を撃滅したアンダマンの女勇者(公式に名は知られていない。本人の育った環境故に、部族外の人間に強い警戒心を持っていた事に由来すると思われる)が、その際に負ったヒュドラの猛毒によって没した。

 

 現存する魔王が六人に減り、その他にも数多の神殺しが負傷したことが、今回の一件が如何に強烈だったか、その脅威を物語っている。

 

 ちなみに、アンダマンの女勇者と親交があったイタリアの魔術結社『百合の都』所属の当代聖ラファエロは、姉と慕った彼女に哀惜の言葉を残している。

 

 さて、様々な思惑と暴虐が絡み合った本件だが、グリニッジ賢人議会、その長であるアリス・ルイーズ・オブ・ナヴァールと、イギリスはコーンウォールに拠点を置く魔術結社『王立工廠』の黒王子アレクサンドル・ガスコインによれば、神話進行はイーリアス紙片のトロイア戦争時代末期にまで進んでいたとされる。

 

 恐らくは、既存のギリシャ神話を完遂して新たな神話時代を築く(・・・・・・・・・・)ことで、その力を取り戻すのが狙いだったのだろう。本来の神々ならばありえない、まさにまつろわぬ神であるからこその埒外。異端的発想である。

 

 だからこそ、成就の可能性は大きかった。新たな神話を形作る以上、主神が死のうが問題はない。ギリシャ神話の主役は、神ではなく人間だったのだから。重要なのは、新たな時代の基礎となる旧い物語の完遂のみ。

 

 ヘラクレスがヒュドラの毒に倒れ、アキレウスがパリスに踵を撃ち抜かれる。この事実が必要だったのだ。

 

 そして、その完遂寸前、何者かによって結末が否定された(・・・・・・・・)

 

 何者かが、まつろわぬ英雄を殺したのだ。

 

 神殺しがやったのか。現実的に考えればそうだろう。しかし、肝心の生き残った神殺したちは、気がついたら終わっていたの一点張り。ならば殉死した二人の神殺しのどちらかが成したのか。否、確かにまつろわぬヘラクレスを打倒した女勇者の功績は規格外だが、その倒し方(ヒュドラの毒に塗れた体で特攻)故にまだ神話の致命的欠陥に至ってはいなかった。

 

 何者かが、ギリシャ神話最後の主柱を打ち崩した。これがなくては完結しない、という最大のピースをまつろわぬ神々から奪い去って霞のごとく消え失せた。

 

 グリニッジ賢人議会は、今回の争乱の裏に、神殺しとはまた違う例外的な人間が存在したと見ている。

 

 魔術師かもしれないし、戦士かもしれない、或いは単なる一般人が、知られざる英雄としてまつろわぬ神々の計画を頓挫させた。

 

 事件後、復活した霊視能力者たちの多くが、輝く巨星を撃ち落とす人影を捉えたことが、神殺しを含めた関係者たちに伝わったことで、この説は強固に補強されることとなった。

 

 かくして、世界に新たな伝説が刻まれる。

 

 見えざる英雄、逆光の勇者。

 

 

 すなわち。

 

 

───英雄殺し(スタゴナ・アステリ)

 

 

 その後数ヶ月。この英雄殺しを探す活動が行われたものの、その行方はようとして知れなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 面倒なことに巻き込まれるようになるだろう、と予測したアキレウスの言葉は正しかった。

 

 俊足でもって森に逃げ込み、円盾の裏に背を預け、うずくまって息を潜める。やっとの思いでアキレウスの鎧兜を身に着けた。

 

 疲労と負傷とでまたもや満身創痍となった次郎は、遠い目をして円盾のふちから空を見上げた。

 

「あれ、全部が矢ってことか……?」

 

 アキレウスとの邂逅からはや数ヶ月。中東、イランにて。

 

 次郎は国境の近くで物々しい雰囲気を感じ、急いでトルコへ抜けようとしたが、その前に邪魔が入った。

 

 普段は木漏れ日と爽やかな風で満ちる森に、それらの気配はない。不穏さに見上げれば、空が黒い(・・・・)のだ。信じられないことに、それは暗雲でなく、空を覆うほどの矢の集団に間違いなかった。

 

 そう。恐ろしい事実だが、矢、である。

 

「ちくしょーどっから射ってんだ! 上から落ちてくるせいで方角と射角が分かんねえ!」

 

 降り注ぐ矢の豪雨は、なんとアキレウスから与えられた不死身の加護を透徹して次郎に傷を与えるほどの力を持っていた。どうやらこの矢は、神の加護によるものか、或いは神によって造られたものであるらしいのだ。

 

 不死身の加護は、あくまでも神の寵愛から発現したものである。神そのものや神に連なる者、或いは神に祝福された武器なとからの攻撃を防ぐことはできないのだ。

 

「どうする、いっそ本気で走って逃げるか? ダメだ、知覚範囲から抜けられねえ」

 

 思い出すのはその初撃、そして二の矢。遠方から頭を狙って風のように飛んできた矢を反射的に持ち出した剣で弾けば、二の矢はその真後ろを駆けて来た。あまりに急なことだったので、鎧兜を展開する時間もない。全力で上体を反らせてようやく、辛うじてやり過ごせば、頬に切り傷を残して、矢が着弾した地面が砂のように破裂した。恐るべき威力だった。

 

 これはまずい、と遁走を始めた次郎は、しかしアキレウスの俊足を以てしても射手から逃れることがかなわずにいた。

 

「しくじった! どんな目と腕をしてやがんだよ、詐欺だろ詐欺!」

 

 思えばファーストコンタクトの後の選択を間違えたのだ。

 

 あの瞬間、防御のための盾ではなく迎撃のための剣を用いたからこそ射角は理解できていたのに、反撃ではなく逃走を選んだのは痛恨のミスだった。射手は狙撃地点を悟らせないために、空から射ち下ろす制圧射撃に攻撃を移行していた。ただし、実際に上空から狙撃するわけではなく、矢を自然落下(と言うには威力が高すぎるが)させるという、より高度なものだったが。

 

「どうする、被害なんざ考えずに国中を駆け巡ってみるか? んなことすりゃ一瞬で踵を射ち抜かれて射殺されるだろアホめ」

 

 アキレウスを射ち抜く矢は神話にも存在した。トロイアの王子パリスの放った矢だ。アキレウスの死因にして、天敵。対する射手は、そもそもからしてアキレウスの俊足を超遠距離から見切り、曲射という非常に難易度の高い方法で直上から的中させるという未来予知染みた神業を披露している。

 

 森に隠れてすら睨めつけられるような殺気が感じられるのだ。ここから飛び出ようものなら即座にハリネズミにされること請け合いである。

 

 ここまでくればあのパリスより段違いに優れた名手であることは疑いようがなかった。もしやすれば、射手座として天に召し上げられたアキレウスの師、ケイローンすら上回るかもしれない。

 

 不安が心を削る。思考が深まる代わりに、状況の悪さが次郎のコンディションを劣化させていく。

 

「まずは、あの物騒なゲリラ豪雨をどうにかせにゃならん」

 

 着弾まで後4秒。円盾で凌いだら、もう遮蔽物となる森は更地になってしまう。そうなればもう、本当に射手を見つけ出す他になくなってしまう。どこにいるかも分からない、超常の狙撃手を。

 

「腕に力を込めて、片膝は地面に、姿勢は低く」

 

 頭上に掲げるようにして、円盾を構える。さぁ、覚悟を決めろ。

 

 死にたくないなら剣を執れ(・・・・・・・・・・・・)

 

 

 

 着弾。

 

 

 

 衝撃。

 

 

 

 轟音。

 

 

 

「ッ〜〜〜!!」

 

 思考が白く染まる。

 

 一矢一矢が名高き英雄たちの渾身の一撃としか思えないほどの威力だった。その凄まじい破壊力が、盾を徹し、鎧を徹し、肉を徹し、骨に伝わる。

 

 これが盾だけの防御であったなら、即座に全身が砕け散っていた、そう確信する豪雨である。鍛冶神ヘパイストス謹製の、鎧に施された反射の細工があってこそ次郎の生存は辛うじて約束されていた。

 

 次郎にとって耐え難い時間が続く。防具を貫通する衝撃に腕が痺れ、刻一刻と感覚が消えていくのが分かる。力が抜けていくのが直に理解できることが恐ろしかった。

 

 歯を食いしばる。

 

 いよいよ限界だ。使いたくはなかったが、アキレウスの円盾が持つ真の力を用いる時が来たのかもしれない。

 

 実は、これを使うと中々に疲れるらしいので次郎本人は使いたがらない。このことが災いして、今まで試したことがなかったりする。自分にキチンと使えるか、ぶっつけ本番だったので、不安は拭えなかった。

 

「ぐぅ、くっそォ……っ!」

 

 悪態をついて、円盾に満身の力を込める。さぁ、今こそ窮地を打破する時だ。失敗したら死ぬだろうが、成功すれば生き残れる。

 

 解答に自身の死を含めないなら、選択肢はハナから一つなのだ。迷う余地はまったくない。

 

 いざ、参る。

 

蒼天囲みし小世界(アキレウス・コスモス)!」

 

 その真名()を叫ぶ。呼び起こすは英雄の歴史、輝きに満ちた世界の在りようを示す最大最強の神秘結界。

 

 理論上は国が滅ぶ火力すら防ぎきる(・・・・・・・・・・・・)埒外の権能は、空をまるごと覆い、それでなおも尽きる様子のない矢群を容易く蹴散らした。

 

 次郎は再び空が青さを取り戻したのを確認する間もなく、亜空間から呼びつけたアキレウスの戦車に全速力で跳躍した。戦車に乗りさえすれば、脚を止めて迎撃に集中できる。アキレウスの武技と、次郎の心眼をもってすればまず死にはしない。

 

 だから、ここが分水嶺だった。

 

 騎乗する瞬間を、あの射手は見逃さないだろう。隙をさらす己を、しめしめと狙撃するに違いない。鎧兜の隙間を射抜かれるか、否か。

 

 御者台に着地した次郎の、その心臓を狙い澄ました射手渾身の一射が襲う。英雄の知覚能力ですら捉えきれない、疾風の如き矢である。

 

 直撃を受けた次郎はあまりの衝撃に転倒したが、実に幸運なことに鏃は辛うじて鎧に跳ね返されていた。弾かれた矢が戦車の御者台の端を抉り取る。受け身をとってすぐさま立ち上がると、その顔に不敵な笑みが浮かんでいる。

 

 射手よ。功を焦ったな?(・・・・・・・)

 

 一瞬の交錯。次郎は射手と視線が通ったのを確信した。片や目に見えない遠方、片や転倒しながら戦車に騎乗した直後。どうあっても目など合わないだろうに、しかし確信の念は力強かった。

 

 身体への衝撃から、射角、方位ともに特定。今こそ反撃の時だ。

 

 次郎は、目があった瞬間に、知らず知らずの内に恐怖で固まった体を再起動し、前を見据える。この空の先に、恐るべき射手がいる。

 

「クサントス! バリオス! ペーダソス! 今こそ力を貸してくれ!」

 

「ぶひひ、いいですとも!」

 

 戦車を牽く三頭の一角、さる女神より言語を操る術を授けられた不死身の神馬クサントスが、野卑な哄笑と共に総意を告げる。この通り、アキレウスより託されたものたちは、新たな主を戴いたことにおよそ好意的だった。

 

 結果的に、アキレウスを上回ったからこその態度なのか。それとも次郎という人間に対しての純粋な興味なのか。

 

 手綱を握る次郎に、堰を切って押し出された瀑布の如く、一直線に矢が襲いかかる。射手も気がついたのだろう。事ここに至ってはもはや五分だと。

 

 戦車が使い物にならなくなるのが先か、射手に肉薄するのが先か。

 

「上等だ、真正面から突破してやる!」

 

 トロイアを蹂躙した恐るべき突撃が、今ここに蘇る。

 

疾風怒濤の不死戦車(トロイアス・トラゴーイディア)!!!

 

 駆ける。駆ける、駆ける。駆ける、駆ける、駆ける。猛進する戦車は風を蹴散らしなおも加速する。

 

 真っ黒な巨壁に衝突する。やはり、矢だ。不死身であるはずのクサントスとバリオスが苦悶の嘶きを上げ、唯一加護を持たぬ身であるペーダソスはその暴威によって早々に磨り潰された。馬刺しどころかミンチである。

 

 当然、次郎も無事とはいかない。盾を構えて踏ん張るも、災害級の質量を誇る矢の濁流は凌ぎきれない。鎧兜がなければ、なすすべもなかっただろう。

 

「命懸けで突っ走れェ! 押し負けたらそこで終いだからなお前ら!」

 

「もう既に一頭脱落済みなんですよねぇ」

 

 クサントスが矢傷に呻きながら嘆く。脚が止まらないあたりは、流石にトロイア戦争を駆け抜けた神馬である。余裕を見せるクサントスに、次郎は軽口を叩いた。

 

「馬力が足りないってかクサントス?」

 

「ご冗談を。最後の一頭までは前に進めますよ、舐めないで頂きたい」

 

 力強い断言は、いっそ心地よくもあった。こういう所があるのだから、普段から真面目にしていて欲しい次郎である。屋台のトルコアイスを見たときに、呼んでもいないのに異次元から下ネタを囁きまくって次郎の精神を損耗させたのは記憶に新しい。

 

 ともかく、心強い発言に次郎も応えた。

 

「なら頼んだぞ!」

 

 なにせ時間がない。馬を含め戦車はもうボロボロだ。もう20秒すら保つまい。アキレウスの力の中でも特に強力なものですらこのザマ。握りしめた盾で矢を受け止める毎に、自らの命運が燃え尽きるような寒気が次郎の背を伝う。

 

 それだけの矢を放つ敵手に、怪物めいた鬼気迫る気迫をひしひしと感じるのは気のせいではないのだろう。

 

 水際の食いしばり、九死の瀬戸際。死に瀕した者に稀に見られる、捨て身の決意(・・・・・・)

 

 次郎に宿るアキレウスの力が強く訴えかける。これは、あの時の輝く兜(ヘクトール)と同種のものだ。フラッシュバックするのは、復讐を果たす千載一遇の機を得て昂ぶっていたアキレウスが凍りついたその恐怖。決闘の末に致命傷を負ったヘクトールとの決着がつくその瞬間に見た眼光。

 

 死んでも殺す(・・・・・・)

 

 ギラつく殺意。人とはかくも恐ろしくなれるのか(・・・・・・・・・・・・・・・)。だから、アキレウスは反射的にトドメを刺したのだ。これ以上生かしておけば、必ず殺されると本能が理解したから。

 

 極まった意志は、神すら殺す。恐るべき弓の射手は、実のところ既に窮鼠だったのだ。だからこそ、これほど恐ろしく、そして虚しいのか。

 

 猛進は続く。永遠の如き一瞬、無数に過ぎ去るその瞬間の連続が、次郎を追い詰める。

 

 まだか、まだなのか。もはや馬は潰れる寸前で、戦車は前の片輪が千切れ飛んだ。一刻の猶予もない。

 

「う、オ、オ オ、 オ ア ア ア ア ! !」

 

 次郎は悲鳴じみた雄叫びを上げながら、夢中で手綱を手繰った。

 

 果たして、ついに次郎は弓兵に対面する。

 

「───まいった。まさか本当に追いつかれるとは思わなかったぜ」

 

「追いついたぞ、弓の射手!」

 

 大破した戦車を乗り捨て、ハリネズミと化した馬たちに目もくれず、神速で槍を打ち込んだ次郎。しかし、英雄殺しの槍の穂先は目にも止まらぬ速さで射られた矢によって至近距離にも関わらず容易く弾かれた。

 

 衝撃で砂埃が立ち込めるのを槍の一閃で消し飛ばすと、その姿が明らかになる。

 

 日に焼けた小麦色の肌、真っ黒な頭髪。革鎧を身に着け、軽装に見合わない真紅の大弓を携え、目には爛々と生気に溢れた光を湛えているその男。しかし、その五体からは流血が散見され、よく見れば全身に亀裂が走っている(・・・・・・・・)ようにも見える。

 

 とても死にかけとは思えない、微笑みすら浮かべながら凄絶な決意を同居させる異様なありさまに、次郎は言葉を失った。

 

「自己紹介でもしたほうがいいか?」

 

「……お好きにどうぞ」

 

 どことなくマイペースな感じのするこの男に、次郎は面食らった。あれだけの猛攻の後、死ぬ寸前でありながらこうも自分の調子を保てるのか。呆れ混じりの驚嘆である。

 

「おう、俺はアーラシュ。しがない兵士だ」

 

 伝説に曰く、誰よりも速き矢を放つペルシャの大英雄アーラシュは弓の射手の代名詞なのだという。カマンガー───ザ・アーチャーの名を賜る名手。次郎を追い詰めたその手腕は、まさしく人の臨界を窮めた極点の射であったのだ。

 

「あぁ、いや、この場合はまつろわぬアーラシュって名乗るほうがいいのかね、これは」

 

 困ったように頬を掻く姿が痛々しい。次郎は答えるついでに目を逸らさずにはいられなかった。

 

「こっちに聞かれても困る」

 

「それもそうだよな。急に射掛けちまったことも含めて謝るぜ。すまなかった!」

 

 気持ちのいいくらい爽やかな快男児。そんな印象を受けた次郎だが、アーラシュの今にも千切れて消えそうな儚い姿に心当たりがあることに気がついた。五年前に亡くなった父が死期を悟った頃の様子によく似ていたのである。

 

 あの日の父のように、末期の人間が最期に遺言を残すさまがピッタリと当てはまった。

 

「あんた、俺に何して欲しいんだ?」

 

 こっちがそっちの意図を理解したことが分かったのだろう。苦笑いを浮かべたアーラシュはようやく本題を切り出した。

 

「あぁ、実は世話になった女神さまが人質に取られちまってな。どうにか救ってやってほしいんだ」

 

「……」

 

 何故これほどの男がこんなことをせざるを得なかったのか。なんとなく分かった気がした。恐らく、まつろわぬアーラシュは件の女神さまが囚われてから顕現したのだ。そうでなくば、これほどの射手が何者かの言いなりになるなど考えられない。

 

 アーラシュの胴を走る亀裂が深くなっていく。

 

「奥の手も射たされちまったから、もう俺じゃあ女神さまを救えんのさ」

 

「そうかい」

 

 奥の手は一回限りなんだ。と困ったように微笑むのは、多分俺に負い目があるからだろう。無理矢理にやらされたこととはいえ、無関係だった俺を殺そうとしたことは、この優しくて寂しい男の信条に反する行為だったことは間違いない。

 

「殺されかかったお前さんからすれば虫のいい話で、この願いなんざ恥知らずもいいところだが、どうか頼む!」

 

 頭を下げる動作に淀みはない。英雄なんていう、プライドの高い者たちの例には当てはまらないその姿に、どこか納得するところがあった。

 

 たぶんこれが、アーラシュという男の本質なのだろう。本当の彼は、きっと英雄なんてガラじゃないのだ。

 

 人の世界に産まれてしまった化物。それが人の暖かさに育まれ、優しさを獲得した大きな異物。

 

 孤独な英雄、獅子の如く勇敢な彼。だから、寂しい(・・・)のだ。ずっとずっと、この男は一人で守る側だった。ただ、それができるだけの強さを持っていただけの、ひとりぼっちの優しい化物。

 

 大切で、大事だというのは真実なのだろう。だけど、本当のともだちは一人だっていなかった。歪な関係は、彼を英雄として祭り上げたのだ。

 

「……あんたさ、もう死んじまうんだろ?」

 

 何故、ここまでアーラシュという男が分かるのか。次郎は不思議だった。

 

「ん、まぁ元から死人だからな。いまこうして動いてることの方が不思議っちゃ不思議だが……もうそろそろ限界だな」

 

 いよいよ、亀裂が大きくなってきた。もう、胴体は繋がっているだけで、腕も一本落ちている。気丈に笑うのは、強がりではないのだろう。それだけ心が強かったから、何を視ても(・・・・・)この男は外道に落ちなかったのだから。

 

 ふと、疑問が鎌首をもたげた。

 

「……なぁ、あんたのような人が命をかけるほど、その女神さまは尊いのか?」

 

「……そりゃあ、難しい質問だな」

 

 アーラシュが死んだのは、身も蓋もない言い方をしてしまえば神々のメンツのためだ。マッチポンプと言い換えてもいい。そのための技術と武器をお膳立てした彼らに、怨みはないのだろうか。

 

「答えてくれなきゃ頼みは聞けない」

 

 きっと、言い難いだろうけど。それでも聞かなきゃ気が済まなかった。

 

 案の定、アーラシュは答えづらそうに口をもごもごさせた。少し躊躇って、そして最後にはしっかりした口調で答えた。

 

「……尊いわけじゃあない。ただ、俺の恩人が殺されそうだから、助けることができそうなお前さんに頼んでる」

 

「そっか。あんた、大事な人たちに死んでほしくないだけなんだな」

 

 すとん、と腑に落ちた。最初から最期まで、アーラシュという男はこの調子(・・・・)だったのだろう。

 

「まぁ、そういうわけだ」

 

「人も、神も、関係なく。大切だから、消されたくないんだな」

 

「プライドの高い神様たちには、不敬かもしれないけどな」

 

 口が自然と回る。こんなに、話しやすい人間と出会ったのは初めてだった。アーラシュの人徳か、単純に相性がいいのか。

 

 本当は、その境遇が自分と少し似ているからかもしれない。

 

「あんたは、他人(ひと)を思いやれるんだな」

 

「俺だけじゃないさ」

 

 実感のこもった強い言葉に圧倒される。アーラシュは、人と人とが手を取り合えると信じて疑わない。だからこその偉業だった。民草の守護者たる己が死した後に、必ず彼らが手を取り合えると信じていたのだ。

 

 そして、そのように信じられた人々もまた、アーラシュの献身に応えてみせた。

 

 自分だけじゃない(・・・・・・・・)。あぁ、なんて、美しい言葉だろう。

 

「あぁ、そうなんだな」

 

「受けてくれるか?」

 

 是非もなし。語るに及ばず。

 

「かたじけない。もはや四散を待つだけの身だが、餞別にこれを持っていくといい」

 

 そう言って、アーラシュは赤い大弓を差し出した。神技を披露した無骨な手が砂の如くに乾き、指先から砕けて、割れて、散っていく。大地を砕く聖なる蛮行の報いが、アーラシュに牙を向く。

 

「あんたも、俺に託して逝くのか」

 

「ありがた迷惑かもしれないけどな、継いでくれる奴がいるのは嬉しいことだぜ?」

 

 弓を受け取ると、胸に暖かいものが現れた。アーラシュはそれを見届けて、光と共に千切れて消えた。

 

 その頑健な肉体は、数多の戦場において傷一つ負わず、また病や毒を尽く撥ね退けた。

 

 瞳に宿る神秘は、千里を見通す光となって未来すらも鮮明に捉えた。

 

 女神より授けられた弓矢の作術は、この世に並ぶ物のない至高の(クオリティ)を形作った。

 

 そして、その最期。大地を砕く不遜。大いなる一射は一条の流星へと昇華され、壮大な国境を築き、悲劇の絶えなかった二つの国の惨たらしい戦争を終結させた。

 

 アーラシュは、真実ひとつの平和を築き上げたのである。

 

 神々によって不遜とされたその行いが、数えきれない人々を救い出した史上最大の聖なる献身(スプンタ・アールマティ)である事実は、神の傲慢を前に置き去りにされた。

 

 英雄とは、かくの如く死に果てるのが常なのだという。

 

 

 

 あぁ、なんたることか。これほどの男を、神々はプライドのためだけに殺したのか。

 

 

 

「約束だ。約束は破っちゃいけない、そう親父に教わった」

 

 だから、あんたの女神さまは助け出してやる。

 

 必ず。

 

 

 


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