神有月 作:蟠蛇ヶ森
西暦2035年、日本国は世界から切り離された。
第108代総理大臣、
未来では無く、過去に向けて逆行を開始することとなった。
その方法は科学が浸透し尽くし、伝説を駆逐しかけたこの時代では想像もつかないオカルティックな儀式を、
三基の原子力発電所から供給される電力で実行するというものだった。
世界から切り離されたことで様々な影響があった。
まずはグローバルな情報交換や経済が完全に過去のものとなったこと。
物理的に永遠の鎖国が完成し、他国の情報や製品や作物が一切入らなくなった。
そして国防もそれまでの意義を失った。警戒すべき他国が存在しなくなった以上、
諸外国からの侵略に備える必要性は最早皆無だった。だが、寧ろ更に
とはいえ、その集団の構成員は大きく様変わりすることとなった挙げ句、名前も変わった故に、最早同じものとは呼べないが。
新しくなった日本では、特殊な
海外からの輸入が見込めなくなった為に、農業の需要が増したり、食糧供給の観点から人々が都会から田舎に移ったりした。
石油資源も輸入できなくなったことは極めて大きな打撃だった。他にも、衛星との連絡も遮断されている事も大きな弊害を生んだ。
そして何より、防人省と名を変えた防衛省が立ち向かわなくてはいけなくなった新たな
具体的には気が触れる人々を警察庁と統合した防人省の職員が検挙したところ、それは薬物によるものでは無く、
その犯罪の目的は、薬物の様に金銭であるわけでは無かった。ただ単純に呪いを拡大することだ。
己の持つ
…いや、寧ろそれが殆どだ。
嘗て科学が跋扈する前は、様々な説明のできなかったことを、神霊や妖怪のせいだとして片付けていた。
日本国はそのかつてに逆行するように、いや、現実が人間の想像に先んじて逆行を始め、人々はそれを受け止めざるを得なかった。
心霊スポットで肝試しをすれば当然のように憑かれるし、廃神社で悪ふざけをすれば当然のように死ぬ。
石油製品が供給されない事もあるが、ポリエステルには霊的守護力が皆無なため、人々は言祝ぎ済みの絹や麻などの繊維を使用せざるを得なかった。
氏神の神社へのお参りはかつてと比べものにならない程に増えたし、宮司の増加は国家の急務ですらあった。
旧き伝承を識る老人は地域で大切に扱われるようになった反面、経験と知識を持たぬ老人が焦り、嘘の言い伝えを作り混乱も起こった。
当てずっぽうで対策を行い、幽世との境を拡げるような真似をした老人のせいで、集落一つが消え去り、
防人省の職員が数週間かけて、それを解決する事態も起きた。
――そしてそれから十年も経てば、人が急に失踪したり、発狂したりすることも、テレビや新聞でよく見るニュースの一つになっていた。
そこから、更に五年の歳月が流れ、そこからこの物語は始まる。
頼人は私立はにえ学園の一年生である。十五年前の総理大臣の起こした神代復古の大号令によりインフラや様々なものが崩壊した日本で、
当然のようにかつてとは様変わりした高校生活をこの春から送っている。
彼の事を少しばかり紹介すると、彼は資産家の家に生まれたが、母を直ぐに亡くし、その事で母方の実家と不仲になり、
血族では唯一の味方である祖母からの仕送りで独り暮らしをしているが、それまでの過去や本人の性質もあって、
学校をよく休んでは様々なところへと足を運んでいる。
色んなものに好かれる性質の彼だが、その筆頭は幼なじみの
所謂THE・幼馴染みを地でいく彼女は、確かに美少女だが、いまいちぱっとせずメインヒロインの当て馬になりそうな、まさに幼馴染み系少女である。
彼女との出会いは今は潰れた学習塾で隣の席になったことが始まりだった。
そんな彼女が、
「よーくん、一緒に学校へ行こう…よ……?」
と頼人の家の鍵を開けて入り込んだその場には、頼人を押し倒して首筋を舐めている艶のある黒髪の少女がいた。
「お取り込み中だからかえって下さる?」
頼人と杏奈の目が合った。頼人は固まっている杏奈から目の前の少女に視線を戻し、
「放してくれ、
唇が接触するかというほど顔を近づけて告げると、少女は一瞬不思議そうな表情を浮かべ、その後に、ニヤァと湿った笑みを作ると、頼人に返答した。
「…そう。貴方にそう言われるならそういうことにしておきましょう」
キスでは無い。ギリギリそう言える少年の唇付近を赤い舌でなぞると、智織は頼人を解放した。
「では、私は準備がありますから」
邪悪な笑顔、それでいて世の男を虜にする様な、絶世の美ともいえる笑みを浮かべると、智織は去って行った。
智織とはどういう関係か、聞かれなくては自分からは答える気は無い頼人。
それを知っている杏奈は、この場で聞くのは得策では無いと判断しつつも、悶々としながら再び共に登校することを頼人に提案した。
ドアを出て、鍵を閉めると、そこから約2kmの通学路という名前のデートコースが待っている。
からかうことでしか嫉妬を誤魔化せない有象無象の、心地良い声を耳にしながら、高校まで向かう様を杏奈は想像するも、今までにそういう声が聞こえることは殆ど無い。
というか、大半は男なら無視、女ならさも杏奈がいないかのように頼人にアプローチをかけてくることが多い。
だけど、負けない私だって女の子だ。杏奈は気合いを今日も入れ直す。
そして遂に楽しいデートも終わり、教室に着く。
杏奈を睨む数名を除き、基本的には偶にしか登校しない頼人へと視線が向かう。特に女子。
そんな屈辱の時間を杏奈が耐えていると、担任教師の
紫がかった黒一色のミニスカ巫女装束でやってきた。
別にこれはふざけた格好では無く、彼女の所属する宗派の正式衣装である。
この日本において、教師の資格を取るためには、霊的な素養が必要な資格を取る必要があり、その関係で教師を志す者は、
有名所の神社で修養する事が多い。彼女もまた、稲荷神社系列の寡名の派閥である裏式を修めている。
彼女の衣装は裏式の女性の正統な衣装なのである。制定した人には万雷の拍手が送られるべきであろう。
尚、稲荷神社系多数派では真っ当な巫女装束が採用されているのは言うまでも無い。
穀生は存在感薄い系女子である杏奈を一瞥すると、心底気分が悪そうな声で、クラスの者達に転入生が来る旨を発表した。
そして、教室の扉が開く。
その時、世界が静寂に包まれた。ツカツカツカとその転入生の足音だけが、その空間に響き渡った。
転入生の一目で効果だと判る金と黒で彩られた和装もそうであったが、何より転入生の少女自身が高貴かつ恐ろしい気配を放っていた。
穀生の横で立ち止まり、濡れたような黒髪を指で払いながら、少年少女達に振り向いた絶世の美少女は、誰もが虜になるような笑みを浮かべ、口を開いた。
「皆様初めまして。赤城山智織と申します。転入生故に、この土地に不慣れなことも多々ありますが、皆様のご支援を期待します。
…先生、私の席は頼人の隣ですよね」
杏奈は、つい先程頼人を押し倒していた女と再会した。
深く考えると、否、深く考えなくとも偉そうな上から目線を隠さない智織だったが、クラスメイトの殆どが空気に飲まれたのか、
一切不満や不快感を感じる様子も無い。一部驚きや不思議そうな視線の者もいないでは無いが、少数派だ。
因みに、頼人は極めてどうでも良さそうな顔をしていた。
当然のように、クラスメイトとなる者達に頼人の横に一席を設けさせると、智織は頼人の横に座った。
「…下の名前にしたのか」
「だって、その方が親しみを感じるでしょう?」
頼人は視線を合わせること無く智織に告げたが、智織は軽く赤い舌を見せては、にこやかに返した。
それと、その名前はあからさま過ぎると思ったが、取り敢えず最初に己がチオロと呼んだ手前、
己のセンスも恥じることになる為、黙っておくことにした。
普通、転入生にはクラスメイトからの質問攻めの洗礼が来るものなのだろうが、その事に智織への不敬を感じてしまうのか、級友達はおとなしかった。
もし頼人が例えて言うなれば、蛇に呑まれた蛙みたいなものであったと言っただろう。
昼休みも頼人にべったりな智織のせいで、杏奈が付け入る隙は無い。
折角
因みに、新参者の筈なのに、智織の女王様っぷりは凄まじく、ゆで卵を頼人に食べさせたり、
『山紫』と書かれたどう見ても未成年が呑むべきで無い五合瓶を開けているが、誰も注意するものはいなかった。
「これは良いものよ。頼人もどう?」
しなを作って媚びたように薦める智織を余裕のスルースキルで断り、水筒に入った薬草茶を啜る頼人。
驚異のマイペース。流石に杏奈が堕とせなかっただけはあった。
「つれないのね」
智織は、『山紫』を空にして、『尾瀬の雪どけ』を開けているが、酔った様子は見られない。
まさに酒豪と言うことなのだろう。うわばみと言っても良いかもしれない。
昼休みが終わり、午後の最初の授業科目は
霊的な能力を向上させる授業だ。
基本的にこの学園では私服を着用しているが、この授業の時は、体育の時と同様、服を着替える事もある。
事もあるという書き方をしたのは、着替えなくても良いからである。
寧ろ着替える必然性が無い故に、着替えない者が圧倒的に多い。
この魂育の服装も、霊的な素養を高められる服装であれば良いのだ。統一の服で行動する全体主義はこの時代には生きていなかった。
――嘆くべきなのか、喜ぶべきなのか、生徒達の衣服は和服と言うよりは改造和風コスプレというのが印象だ。
小学生の時はそうでも無かったが、流石に高校生となるとファッションをアレンジし始めるせいである。
色んな意味で防御考えてる? と思わず聞きたくなるような、
長いブーツと合わせたニーソックスと太もも付近が妙に露わになったハイレグ衣装の上から、大きめの赤い合羽の様なものを包むように羽織り、上から茶色の帯で絞めている女子生徒や、
透けた藍色のフリル襦袢を身に纏った女子生徒など、男性からは眼福ものであろう格好も数人はいる。
当然、見た目は防御力皆無だが、呪術的に意味を持ったオーダーメイドであるので霊的な防衛力は馬鹿に出来ない。
というか、あからさまにオーダーメイドな衣服故に、それを主張したい成金の出であることが少なくない。
勿論、この授業のために着替えたりせずに、普段から着ている言祝ぎ済み衣服でそのまま授業に出る者も多い。
そもそも、学校だけで無く通学中、下校中にも危険はあるのだから日頃から備えるのは理にかなっている…といえないことも無い。
つまり、常日頃からそういう服装をしているお嬢さんが一定数存在するということでもある。
男子生徒は通学時に着ている甚平だったり、作務衣だったりと、地味な衣服そのままである事が多いのだ。
まあ、そういうご都合主義というか、効率主義的なのはお約束なので仕方ない。
因みに、智織は今時珍しい、ポリエステル繊維で出来たメタリックなブルマーだった。
ちょっとしたおふざけである。
ポリエステル繊維は霊的な電動効率に乏しく、数値に表せば普通の霊衣と呼ばれる言祝ぎ済みの麻や絹の装束が霊力の補正が5倍とか20倍などであれば、
智織の着ているエナメル光沢のあるポリエステルブルマーは良くて1.01倍程度の補正しかない。
今では衣類としては殆ど使われなくなった素材である。
授業内容は、日本古来からのおまじないなどを真剣に学ぶのである。
一般人に高名な霊能力者のレベルを求めるのは、かえって危険であるとの判断から、一般人が行って問題ない程度のことしか教えない。
例えば兎歩の方や、お百度参りの方法、鬼門・凶方の影響の教育などの域を大きく超えることは無い。
よって、一部の素質ある生徒には欠伸の出るような授業内容となっている。
とは言え、この授業のレベルでさえついていけない生徒へ合わせて、授業内容を更に下げるつもりは学校には全く無いようであったが。
色んな意味で注目を集めていた智織だったが、その威圧感というか、肌で感じる存在の格の違いから誰も何も言えない。
それに、巨乳美少女のサイズ小さめの光沢繊維ブルマというのは、男子生徒には刺激が強すぎる程度には役得であったのだろうし。
だが、それはただ一人、頼人が、
「痴女か」
と呟いたのを例外とする。とは言え、有象無象の言葉よりも優先すべき例外の言葉である故に、
智織は次以降は今後は再び、清楚系かチラリズム方面で攻めることにした。
その後も、下校の時には、それまで頼人と杏奈の二人で帰っていたところに、
これでは、折角そろそろ機が熟してきたと思ったのにあんまりだ。
杏奈はそう不満を持ったが、その不満はそれ以降も続くことになった。
頼人が何処へ行くときも、智織がついてきた。自分のことを棚に上げて、頼人について回る智織に、遂に杏奈の不満が爆発した。
「あなたには解らないだろうね。ずっと、ずっと狙っていたのに。漸く良い具合に育ってきたのに。
――私の執着を煽ったアナタガワルイノ」
ある日…、杏奈は智織を一人呼び出して、
少女の身体が風船の様に皺だらけになって萎んで消え去ると同時に、空気が抜ける様に、その中から暗い茶色の液体の様なものが浮び上がった。
…本来の南熊杏奈の肉体の持ち主は既に彼女の家族共々生きていない。
杏奈の父が家族を乗せて山道を運転中に、何かを避けようとしたのか急にハンドル操作を誤り、
交通事故で亡くなった両親に遅れて、消えかかった命の灯火をこの世のものでないものに喰われたのだ。
南熊杏奈はただの参考イメージを持つ霊体である。幽世の存在が少女の貌をとっているだけの霊体であった。
故に、殆どの者に見ることも出来ないし、声を聞くことも出来ない。ただ頼人の魂が熟すのを待って
これが、存在感の薄い幼馴染みの正体である。
――尤も、智織の正体も似た様なものではあるが。
「執着? しかりと理解しているつもりよ。
それも貴方よりもずっと、ずーっとね…」
杏奈は最初自分が見下された様に感じた。いや、それは実際に間違ってもいなかった。
脆弱な人間の身で、己に逆らうことを杏奈は赦せなかった。
嘗ては、山中の小さな祠ではあったものの、近隣の農民に生け贄を捧げられることもあった、
巨大なアナグマの姿を持った高位の霊であるという自負があった杏奈、いや■■■サマとしては、とうていそれは赦せるものでは無かった。
だが、名前を失って尚、この世界に存在し続けた霊をして、見下す道理が智織にあることを■■■サマはその直後に理解することになった。
理解…させられることになった。
「…マサカ…ニンゲンデハ、ナカッタノ…?」
智織が自身を脱ぎ捨てる様に消えると同時に、そこに顕れた大蛇が、■■■サマの頭上に鎌首をもたげていた。
無様なものを見る様に、哀れなものを見る様に―――――餌を見る様に嗤う更に巨大な大蛇がそこにいた。
■■■サマと視線を合わせて、その自由を縛り、動けなくなった■■■サマの恐怖で食前酒を味わう様に舌を転がすと、
一気に丸呑みにした。
それから数分後、その場にはアナグマや大蛇の姿は何処にも無く、赤城山智織という少女だけが風に髪を靡かせて佇んでいた。
そこに彼女が執着している少年がやってきた。
頼人は周囲を軽く眺めて、目を瞑って息を吐くと、智織に告げた。
「…成る程、喰らったのか」
「事が終わるまで、女同士のことに顔を突っ込まなかった姿勢を私は評価するけれど、
別に貴方に手を出すまで、他の何も食べないと約束した覚えも、非難される謂れも無いわ?
それにしても他者のものに手を出すなんて行儀が悪いわね。アレが目を付けるずっと前、ずーっと前から私が貴方を選んでいたというのに」
「同じ穴の狢だろう」
「…アナグマだけに? お上手ね。面白いわ」
頼人は智織から目をそらすと、暫く空を見上げた後、誤魔化す様に話を切り替えた。
「仕事が入ったのを伝えに来た。
場所は栃木県。依頼人曰く、霊の仕業で人が消えたそうだ。…行こうか」