神有月 作:蟠蛇ヶ森
ある村に、禁忌を破り兄妹で愛し合った者達がいた。
その兄妹達はある神を信仰する一族であり、その土地から離れることも、規律を犯すことも許されない立場だった。
しかし、その土地の神は敬虔な信徒達のこれまでの働きに免じて見逃した。
まず、兄妹達はもし失敗したときの被害を最小限にするために、偽りの恋人を作った。
そしてそれぞれの恋人と逃げた。
あくまで兄妹で愛し合っていることだけは隠し通すためだ。
兄妹で子供を作ると言うことが発覚しなければ、少なくともその希少な血筋故に命は取られない。
二人の計画では、逃げた先でそれまでの恋人と別れ、離れた場所で落ち合う予定だった。
だが、いつまで経っても妹の元に兄は訪れなかった。
使い捨てのつもりであった恋人を捨てられなくなってしまったのだ。
一方、妹は兄を待っているうちに追っ手に見つかり、血を残すためにひたすら好きでも無い男達の子供を産まされ続けた。
無論、そういう名目で権力者達が神聖な巫女を犯したかっただけであったのは言うまでも無い。
かくして、その妹の子孫は引き続き神社に残り、兄の子孫はその血筋故にまた別の神社へと辿り着き神職となったという――――。
「…救いの無い話だな」
「……そうね」
依頼で目的の場所に行く道中、智織が戯れに語って聞かせた伝説への頼人の感想は、救いが無いというものだった。だが――
「でもそれは人間の視点での話ね。
結果として元の神社の
その神社の神からすれば最悪の事態は免れたのでは無いかしら?
もう片方の神社も必要な神職を確保できたのだからその点は評価して良いのでは無くて?
それと――、少しの間だけは希望を見せてやれた事は人間は褒美とは思えないのかしら」
「筺に残った希望は絶望の生みの親だろうに」
「それの何がいけないのかしら?
海老に食いついた鯛は釣り上げられる。人間にはそれが解る頭があるはずなのにそれでも食らいつく愚かさは不思議で仕方ないわ。
針にかからないように海老だけを食らえなかった己を恨むのが筋でしょう? 恨むべきは己の無力ね」
神の側の視点で語れば、特別な力がある一族の血が確保するまでに一悶着あっただけの話に過ぎない。
目の前の頼人は人間の側であるが、智織はそれを気にするそぶりすら見せない。
誰かに気を遣う立場では無く、崇め奉られる側の存在なのだからそれも仕方ないだろう。
絹のような髪と、磁器のような肌、宝石のような瞳の美貌。
人間を虫の様に軽んじ、食肉用家畜のように喰らう神々の一端。
人々に救いを与える優しい神が徳が高いという風潮を完全否定は出来ないのかもしれないが、少なくとも格は高いかと言う話とは別である。
寧ろ、人間に媚びを売らなくてはいけない神々より、恐怖で支配する超越存在の方が格が高い場合はままあることだ。
そして赤城山の大蛇がそのどちらの側面が強いかは言うまでも無い。
時折、美しい姫をかくまったりしたこともあったが、元来はまつろわぬ神の類いである。
今の赤城山智織は力の大部分を隠すために封印しており、その関係でかつて彼女が頼人に与えたお守りも効力を発揮していない。
とはいえ、今は頼人も嘗ての幼き日とは違う。霊能力者としての階位を生まれ持った血筋故か、鉄と流れを支配する神の加護故か、
他の追随を許さない速度で駆け上がりつつある。
だから、油断した。
頼人が智織と廃トンネルを抜けた時、何かが頼人達の前を横切った。その瞬間から頼人の横には智織がいなかった。
より正確に言えば、智織の隣から頼人がいなくなったのだが。
風景は先程までと変わった様子は無い。だが、隣に智織の姿は無い。
冷静に考えれば智織をどうこうできる存在など、それこそ大國主や天照大御神の級が必要だ。少なくとも単体で赤城山の蛇神に打ち勝つのであれば。
だから、頼人もやられたのは己の側だと直ぐに理解できた。
そして、その状態が続くと言うことは智織が積極的に頼人を助ける気が無いことも。
無論、大蛇神に対する正しい作法で頼人が無力と奢りを贖罪し傅けばその限りでは無いが…。
「ああ、それは癪だ」
頼人はそのまま進むことにした。
トンネルを抜けて暫く行った先には駅があった。
看板に書かれたその駅の名前は消えかかって読めない。
今の時代にしては、管理が出来てなさ過ぎる。
(異界か)
頼人は心の中でそう呟いた。
駅からは下に降りていく坂道があった。
坂道を降りていくと、町が見えてきた。
だが、それは異様な町だった。
いるべき普通な人間がいない。誰も彼もが影だけで存在している。
影同士が会釈したり、手を繋いで歩いたりしている。
此処は影達が住まう町だった。
静かな、静かすぎる町だった。
音が無い町だった。
頼人は本能的に音を出してはいけないことを理解できた。その理由は具体的には説明できないが。
頼人は慎重に歩みを進めていく。歩く影にぶつからないように。音を立てないように。
そして、頼人は町から見て駅の反対側にある真っ黒な影で出来た巨大な輪の前に来た。
それを潜ろうとは流石に思えなかった。
流石にそれは余りにも無謀だと理解できた。その向こう側には先程トンネルを越えたとき以上の異界が存在するはずだ。
向こうに恐ろしいものがいることも理解できた。
普段大蛇神が身近にいるとはいえ、力の大部分を抑え込んである。
二重異界の中だからこそか、力を剥き出しに出来る輪の向こう側には、人間の側にいる頼人では対処できる範疇を超えていた。
影の輪の中から何かが近づいてきていた。
頼人は全身が毛立ち、急いで逃げ帰ることにした。
そして…、その途中で小石を蹴飛ばしてしまった。
その小石の動きは頼人にはスローモーションに見えた。
そして、小石は近くの岩に当たって音を立てた。
それに反応したように近くにいた影達が一斉に反応して頼人に近寄ってくる。
最早頼人は音を出さないことよりも、速く走ることを意識して駆け抜けた。
頼人の身体能力は一般的な男子高校生を超越している。…無論、人間の範疇でとの但し書きが付くが。
それで、周囲に先程追いかけてきていた人型の影がいなくなった場所で走りを止めて、緩やかに動くことにした。
頼人の予想通り、周囲の影は音を出していない頼人を異物と認識出来ていない。
少なくとも、先程の追っ手以外には気が付かれないだろう。
それから暫く追っ手が来ることは無かった。
だが、別の問題が出てきた。日が沈み始め周囲が昏くなってきたのだ。
これでは、追ってきている影や、周囲の影が認識できなくなる。
頼人は再び一気に駆け始めた。
周囲の影達が反応して追いかけてきている事も理解できた。
捕まれば肉体でも奪われるのだろうか?
頼人はそんな考えが浮かんだが、頭の隅にその考えは追いやり、走ることに専念した。
目指すは口のように開いていた異界の入り口――――最初のトンネル。
その中へと駆け込んだ瞬間、頼人は嫌な予感がした。
――――そう、トンネルの中は真っ暗なのだ。言い換えれば全てが影である。
途中で頼人は何かにぶつかった。そしてそれに捕まえられた。
頼人は身を捩って逃げたが、急に動けなくなった。
何かに引っ張られているようだった。
頼人は懐中電灯を取り出して周囲を照らした。
すると、自身の影を何かの影が捕まえているのが見えた。
懐中電灯で照らされたトンネルの中へと影人達が集まってくる。
「まだ、死ねるか」
頼人は羽織の裏側から人型が手を繋いだように繋がった鉄粉の付いた紙と、船に見立てた葉に加え、小さな竹細工の折り畳み笠を取り出し祝詞を奉じ始めた。
「高天原爾神留坐須 皇賀親神漏岐神漏美命以知柢 八百萬神等乎神集閉爾集賜比 神議里爾議賜比柢
我賀皇御孫命波 豐葦原乃水穗國乎安國登平介久
知食世登事依奉里伎此久依奉里志國中爾荒振留神等乎婆 神問波志爾
問賜比 神掃比爾掃賜比柢 語問比志磐根樹根立――――否、天淵呑振留赤城乃神乎婆尚語米柢宮柱太敷立柢依奉里伎 祝詞乃太祝詞事乎宣礼」
祝詞を急遽改変して打ち切った頼人は、人差し指の付け根を噛み切ると血溜まりを作り、水筒の水で嵩増しをした後に、その周囲に紙の人型で囲んだ。
そして血溜まりに葉を浮かべ、その葉を紙人形と共に広げた笠で覆った。
闇御津羽神信仰の呪法を我流にアレンジしたものを反転させて、天津神に服従しなかった打ち倒された神々への畏れを示すものへと変えたのだ。
堕ちた水神への、旧き支配者への嘆願。この行動の意味することは詰まるところそれだった。
もっと、有り体な言葉を使えばSOSコールである。
つまり、智織に対する敗北宣言のようなものである。
ただ、頼人のせめてもの意地で、神に己を探して貰って助けて貰う形では無く、境界をねじ曲げて神と己の繋がりを軸に嘆願に値する力を見せる形を取った。
即ち、本物とは比べものにならないが、己に残った残滓から神の分祀の幻影を構築し、擬似的に本体との通り道を頼人の側から構築したのだ。
無理に解釈すれば、呼び付けたとも言えない体裁を取ることで、己のプライドを主張したのだ。
その直後、頼人の手が影人達に掴まれた。
強く振り払い、影人を蹴り飛ばしたが、また何処からか身体を捕まれる。
そして、影人だけで無く、輪の向こう側にいた何かに似たようなものも近づいてきているのが解った。
うっすらとその輪郭が頼人にも視え始めた。輪の向こうにいた何かの子か、それに準拠するものだろう。
輪の向こうのものより力が弱くても捕まれば只では済まないし、逃がしてもくれないだろう。
頼人が人間であることを諦めれば何とかなるかもしれなかったが、それでも頼人は人間でいたかった。
願いは聞き届けられ、影人は引き摺られていく頼人の後ろから出でしものに砕かれるように消された。
「私を置いて一人で何処かへ行ってしまうなんて、つれないわね。他の
とは言え、そんなことをさせる気も無いのだけれど。
それで頼人? 貴方は針にかからずに餌だけをもぎ取れたのかしら?
解ったでしょう、頼人。
――あまりのぼせ上がらない事ね。人間の中では飛び抜けて別格なのかもしれないけれど、
私たちや彼らからすれば飛び抜けて美味しそうなだけのごちそうに過ぎないのだから」
智織が来なかった場合、頼人の未来には大きく分けて三つの可能性があった。
一つは影人に肉体を奪われて、影人に成り果てるというもの。
一つは月夜見命の眷属の獣神が、己が主神への捧物としての巫覡を連れ去るというもの。
一つは獣神が己の食として、主に隠れて喰らうというもの。
「己の家畜を飢えさせるなんて、あの神も管理がなっていないわ。
制止する主人がいなければ、飢えた獣が餌を前にしてどう動くかなんて、判りきった事でしょうに。
尤も、アレは本来肉食では無いようだけれど」
獣神は突如顕れた存在が、己を喰らい得るものだと直感的に理解すると、踵を返して急いで逃げ出した。
それと同時に、何かが切り替わった感覚が頼人にもわかった。元の世界に戻ってきたのだ。
「見逃して貰ったのか」
「今の頼人の発言は、主語に該当するものが多すぎて不適切ね。認めたくないのは解るけれど。
…さて、頼人に泣き付かれるという珍しい体験も出来たし、今日は近くの宿へ泊まりましょうか。
また明日、このトンネルを通って目的地まで行きましょう。
どうせ頼人も一日程度遅れても依頼人文句を言わせる気も聞き届ける気も無いでしょう?」
次の日、頼人はとある野菜を大量に買い込んで、再び先日のトンネルを通った。
頼人がトンネルを抜け切る前に、トンネルの中に大量に置いていった人参の束は、頼人が振り返って見たときには影も形も無くなっていた。