031
7月4日、木曜日。
今日のお昼もいつも通り教室でパンを齧るつもりだったのだけれど、
「やぶらこうじのぶらこうじ君、学食行こうよ」
「誘ってくれるのは嬉しいが、オレはそんな日本一長い名前の折り返し地点に登場しそうな名前ではないぞ」
「ごめんね。人の名前を覚えるの苦手でさ」
「寿限無は全部覚えてそうだけどな」
昼休みは
僕はそういう時を狙って月に何度か彼と昼食を共にしている。
ちなみに僕と池君たちという組み合わせはない。中間テスト前の勉強会で多少は距離が縮まったけれど、彼らと馴れ合っても得るものはないというのが僕の素直な見解だった。何か用がある時は綾小路君を通せばいい。
そんなわけで「馬鹿は嫌い」の一言で突き放してみるとそれが思いの
でも今回問題を起こしたのがその『彼ら』の中の一人だと考えると、やっぱり距離をとっておいて正解だったかな。
学食に到着し、僕は山菜定食の次の次に安いもやし炒め丼を選んだ。綾小路君は酢豚定食だ。
20人掛けくらいの長いテーブルの端っこに座り、僕は食事もそこそこに質問する。
「タイムリミットまであと5日でしょ? どうなの、進捗は」
関わるつもりがないとはいえ、自分のクラスのことなのでやはり気になる。
「どうだろうな。目撃者の候補は見つかったんだが……」
「おー、やるじゃん」
「
「あー、そういう展開ね。残念ながら力になれそうにないよ」
「一応今日の放課後、
「逃げられるだろうね」
佐倉さんといえば鴇色ロングの美髪少女だ。
極度の人見知りのようで、彼女が誰かと喋っている姿を僕はまだ見たことがない。社交性モンスターの櫛田さんでも一筋縄ではいかないだろう。
それにもし佐倉さんが本当に目撃者だったとしても、須藤君と同じDクラスの証人だ。目撃したという記憶だけの主張ではまともに取り合ってもらえないだろう。
一部始終を動画で撮影していたとかなら別だけど、そんな都合の良い話があるわけもない。
「すぐに決着がつかないってことは、現場に監視カメラはなかったんだよね?」
「今日帰る前に
「じゃあもう完全にCクラスの策だね。須藤君はそこまで考えられないでしょ」
「辛辣だな」
「真実だよ」
「……今のは少し堀北っぽかったぞ」
「うーん、あんまり嬉しくない」
そういえば須藤君は堀北さんにほの字らしい。中間テストの際に助けてもらったからだとか。
これで堀北さんが須藤君の手綱を握ってくれれば安心なんだけど、彼女の性格を考えると厳しいかな。
「一応確認しておきたいんだが」
「うん?」
「今回は須藤を潰そうとは考えてないのか?」
何故か警戒されていた。いや、当然の警戒か。
「安心してよ。手を出すつもりは本当にない。というか、それどころじゃないんだよね」
「何かあったのか? そういえば最近他のクラスの女子と登校しているようだが」
「気にしなくていいよ。個人的な問題だから」
「そうか」
実を言うと、少し困ったことになっている。
十日程前に恋愛対象にはならないと確認したはずのショートヘアの
彼女は今週に入ってから毎朝僕と登校しようと寮のロビーで待ち伏せている。部活が休みの日には一緒に帰ろうと昇降口で待ち構えている。5万ポイント攻撃は止んだけど、毎日欠かさずチャットを送り付けてくる。
驚くことにそんなストーカー染みた行為を抵抗なく、むしろ好意的に受け止めている自分がいた。
くっ、所詮僕も思春期の男子高校生か!
もし今白波さんに告白されたら、シチュエーション次第ではOKしてしまうかもしれない。数日前までは想像できなかった精神状態になっている。
煩悩恐るべし!
「なんかお前、様子おかしくないか?」
「そうだね。そうかもしれない」
「恋煩いか?」
「……」
「え、マジで?」
「どうだろうね。自分でもよく分からない」
「似合わねー」
「うるせえよ」
ムカつくことを言われたので、綾小路君の皿から主役である酢豚の豚肉を奪う。彼は反撃しようとこちらに箸を伸ばしたけれど、その先にあるのは炒めたもやしだった。
香車と飛車の交換みたいだな。ざまあみろ。
032
昼食を終えて教室に戻る。
5時間目が始まるまでまだ少し時間があったので、仕入れたばかりの情報を
『今日の放課後、うちのクラスの綾小路君と堀北さんが特別棟に行くみたいだよ』
須藤君騒動のあらましを知った一之瀬さんは、私にも協力させてほしいと一昨日の夜から言っていた。何故それを僕に言うのか謎だけれど、彼女にとって一番仲が良いDクラスの生徒は僕なのだろうと思い込んでおく。そうしておいた方が、気分が良い。
ただ僕はこの件に関わるつもりが更々ないので、Dクラスの誰かを紹介してあげようと思った。
ここで問題なのが、誰を紹介するかだ。
リーダー的存在で言うなら
しかし今回の事案が、果たして目撃者を見付けただけで解決するようなものだろうか。
実際、佐倉さんという目撃者候補を発見したことで事態は動くだろうけど、解決に近付くかというと微妙なところだ。
彼女がDクラスであることや、その内気な性格はこの際問題ではない。重要なのは、証言が真実であることをどう証明するのかだ。
一之瀬さんを紹介するなら、だから人一倍頭の回る綾小路君が最適だと思う。彼の発想と彼女の人脈があれば、須藤君騒動の解決は秒読みだろう。
ただ実力を隠したがっている綾小路君を一人で一之瀬さんの前に出してしまうと、逆に行動が制限されてしまう。だから彼の隠れ蓑として堀北さんにも同席してもらいたい。
しかしここでまた一つ問題があって、プライドが高い堀北さんは他クラスの協力を素直に受け入れられないはずだ。綾小路君が上手く説得という名の誘導をしてくれるとは思うけれど、周囲に人がいる状況では堀北さんも意思を曲げにくいだろう。
というわけで、今日の放課後は絶好の機会なのだ。
特別棟の事件現場で偶然を装って会ってもらう。僕がもっと直接的に紹介をするという手もあるけれど、残念ながら僕は堀北さんに綾小路君ほどの信用はされていない。そして何度でも言うけれど、この件に直接的に関わるつもりがない。
ひょっとすると一之瀬さんは、僕から情報を得たと包み隠さず言ってしまうかもしれない。別にそれならそれで構わない。何を選ぶも彼女の自由だ。
僕はただ、須藤君騒動がDクラスに不利益のない形でとっとと解決してくれればそれでいい。
しかし何をもって『解決』と言うべきかは難しい所だ。
Cクラスの生徒を殴ったという事実がある以上、須藤君にとって、そしてDクラスにとっては非常に不利な状況だ。
須藤君だけが長期停学になる
綾小路君の働きも大事だけど、最終的には隠れ蓑・堀北
033
放課後。
寮に戻って自室でくつろいでいると、一之瀬さんから連絡があった。綾小路君たちと上手く接触できたとのことだった。
予想通り堀北さんは最初渋ったらしい。そして予想に反して、綾小路君が何を言うでもなく自分の意思で協力を受け入れたそうだ。
一之瀬さんの話術が光ったのか、それとも僕が思っている以上に堀北さんは私情を排して物事を考えられる人だったのか。なんであれ綾小路君にしてみれば楽な展開だっただろう。
ただ少し気になることもあって、いつぞやのテスト範囲のように『Dクラスにだけ知らされていない情報』が二つ判明した。
一つ目は、担任の先生の評価は卒業時に担当していたクラスで決まるということ。Aクラスの担任になれれば特別ボーナスが支給されるそうだ。これは先生のやる気には影響するけれど、生徒にとってはあまり関係のない話だ。
二つ目は生徒にがっつり関係があって、部活動などで活躍した生徒にはポイントが支給され、さらにその生徒の所属するクラスにもポイントが入るとのことだった。
須藤君騒動の中心人物である須藤君はバスケ部に所属しており、1年生でありながらレギュラー獲得間近と言われている。彼が大会で良い結果を残せば、クラス全体が恩恵を受けるというわけだ。
それを4月の段階で教えてくれていれば、あそこまで彼のことを嫌うことも無かったのに。茶柱先生は怠慢だなあ。Aクラスに上がることを
まあ、僕としてはクラスで上がれないなら個人で勝手に上がるだけだ。出来るかどうかは別として。
それに須藤君のことよりも、今はこっちに忙しい。
『今日の夜、緒祈くんの部屋に行ってもいい?』
白波さんから、そんなチャットが送られて来た。
夜中に異性の居住フロアへ行くことはルールとしては禁止されていないけれど、僕の心臓にはあまりよろしくないので是非とも遠慮していただきたい。
しかしこの友達だか何だかよく分からない曖昧な関係に決着をつけるためには、ここで逃げるわけにもいかない。
白波さんが来るまでの時間、勉強でもしようかと思ったけれど、どうにも身が入らない。しかし何かしていないと落ち着かない。そんなわけでジグソーパズルに興じることにする。
夜の8時過ぎ。インターホンが鳴った。
「い、いらっしゃい」
「お、おじゃまします」
まさかこの部屋を訪れる客人第二号が他クラスの女子とは。4月の僕には想像もできなかったことだ。
「男の子の部屋に入るのって初めてだから、き、緊張しちゃうなあ」
おそらく部屋着なのだろうラフな格好をした白波さん。
声が震えているし、足も震えている。そんなに緊張するなら来なくていいのに。
……いや、どんなに緊張してでも、来なければならない理由があるのだろう。それだけの目的があるのだろう。
「あっ」
「ああ、ごめん。すぐ片付けるよ」
部屋には5パーセントも完成していないジグソーパズルが広がっていた。
「ゴーギャンだよね」
「おお、よく分かったね」
「私、美術部だから」
外縁のピース、つまり凸でも凹でもない『辺』があるピースがぐるりと繋がっているだけなんだけど、美術部員という生き物はこれだけで何の絵か分かるのか。すごいな。
素直に感心しながら片付ける。
床が綺麗になったところで折り畳み式のテーブルを出して、椅子に座るよう勧める。僕は腰を落ち着かせる前に、キッチンスペースに向かう。
「何か飲む? と言っても麦茶と牛乳と水道水しかないけど」
「じゃあ、お茶をもらおうかな」
「了解」
二つのコップによく冷えたそれを注ぎ、片方を渡す。
白波さんは少し口を付けて、机の上に置いた。
僕はベッドに腰掛けて一口飲んで、背の低いテーブルの上に置く。
「それで、どうしたの? こんな時間に、こんな場所に」
このシチュエーション、彼女の表情、態度。
経験がなくとも、予感するものはある。
「えへへ……まあ、用っていうか、なんていうか」
そう簡単に切り出せる本題ではない、か。
白波さんは何かを誤魔化すように、僕の部屋をきょろきょろと見回した。
「あんまり物を置いてないんだね」
「そうだね。これといって欲しい物があるわけでもないし」
「それにしたって殺風景すぎるよ」
「買うお金もないからね」
「やっぱり5万ポイント欲しくなった?」
「いや。借りを作りたくない」
「そんなこと考えなくていいのになあ」
そう言うと彼女は椅子から立ち上がり、何故か僕の隣に来た。ベッドに座っている僕の隣に、女の子が座った。
マットレスが僅かに沈む。
僕の右肩が彼女の左肩に、触れそうで触れない。
「緒祈くんはさあ、恋人、いる?」
「もしいたら夜中に異性を部屋に上げたりはしないだろうね」
「そっか……じゃあ、今までいたことは?」
「あったらここまで緊張してないかな」
「そっか、緊張してるんだ」
「……うん」
彼女の息づかいが微かに聞こえてくる。
僕の息づかいも、彼女に聞こえているのだろう。
「こうやって改めて近くで見てみると、緒祈くんって綺麗な顔立ちしてるね」
「ありがとう。そう言う白波さんも綺麗だと思うよ」
「えへへ、ありがと」
お世辞半分なんだけど、それでも彼女は嬉しそうにはにかんだ。
「ねえ緒祈くん」
「何?」
「
「……どうぞ」
「私のことも
「……千尋さん」
「むぅ」
「流石にちゃん付けは無理だよ」
「仕方ないなあ……」
女子を下の名前で呼んだのは、記憶にある限りこれが初めてだ。
その無防備で無警戒な姿を見ると、このまま僕の色んな初めてが彼女に奪われてしまいそうな、そんな錯覚に襲われる。
「ねえねえ真釣くん」
「なにかな千尋さん」
「呼んだだけ」
「……あっそ」
「ふっ、ふふふっ」
なんの中身もない会話。
でもそれが、不快じゃない。
「ねえ」
白波さんの――千尋さんの体が傾いて、僕の右肩に彼女の頭が乗っかった。布一枚隔てた向こうに、確かな体温がある。
お風呂に入って来たのだろうか。柑橘系のシャンプーの香りが、シャボン玉のようにふわりと漂ってきた。
「今、どんな気分?」
「……分からないよ」
「初めての気分、ってことだね」
「そう、なのかな」
肩の重みが無くなった。彼女は姿勢を戻して、今度はまっすぐに僕の目を見つめてくる。
淡い桃色に上気した頬、潤んでいるようにも見えるつぶらな瞳、何かを求めているような艶やかな唇。
ほんの少し体を傾けるだけで、簡単に届いてしまう距離。
「あのね、真釣くん」
「うん」
「私……その、ね」
「うん」
「えっと、その、なんていうか」
「うん」
「……」
「……」
「え、えへへ、ごめんね。ちょっと待ってね」
「うん」
すーっ、はーっ。
すーっ、はーっ。
彼女の深呼吸で、空気が動くのを感じる。
熱を持った柔らかな無色透明が、僕の頬に触れる。
「よしっ」
「……」
「あ、あのね!」
「うん」
「真釣くん! あの、私っ、私ね!」
「うん」
「真釣くんのこと――