047
激昂には3つのタイプがある。
思考が単純になり動きが読みやすくなるタイプ、思考を放棄して動きが予測できなくなるタイプ、そして思考も動きも普段通りを維持できるタイプだ。
目の前のストーカー野郎はどのタイプの激昂状態だろうかと考えてみるけれど、残念ながら平常時の彼を知らないので判別できなかった。
分かっているのは一つだけ。
僕が今にも殴られそうだってこと。
「僕たちの邪魔をするなー!」
「わぶねっ!」
鋭い右ストレートを転がるように――転ぶように避ける。体勢を崩して地面に手を付いた僕の腹に、容赦ないキックが炸裂する。
「ぐふぁ!」
「運命なんだ! 僕と彼女は運命なんだ!」
仰向けに転がされた僕の脇腹に、男のつま先が再びめり込む。
「ぼへっ!」
「心が繋がっているんだ!」
口から正体不明の体液を吐き出した僕に、口から意味不明な言葉を吐き出している男が馬乗りになってきた。
左手で僕の胸倉を掴み、右手を大きく振り上げる。
やばいやばい。
そのまま振り下ろされては堪ったもんじゃない。
口内にまだ残っていた唾液だか血だか胃酸だかを男の顔に吹き付ける。
「ちっ!」
咄嗟に顔を覆い後ろに仰け反るストーカー野郎。
この隙に男の下から抜け出そうとしたのだけれど、なんとびっくり僕の体力ではその程度のことすら出来なかった。
ぐぬぬ。人目を集めてしまうから嫌だったんだけど、うっかり殺されても困るし……仕方ないか。僕はブレザーの胸ポケットからある物を取り出す。
体勢を立て直して再び殴ろうとしている男の耳元に右手のそれを持って行き、片手だけでピンを抜く。運動はできないけど手先は器用なんだよ。
PiWiWiWiWiWiWiWiWiWiWiWiWi――!
「くあっ!」
突然の大音量に、ストーカー野郎の体が横に大きく傾く。
誰しも一度は触ったことがあるだろう、防犯ブザーだ。肉体言語を不得手とする僕には、こういう武器が必要になる。
右手で
「くそっ! くそっ!」
こんな場面を誰かに見られては困るだろう。
男は音を止めようと追いかけ、ゴキブリでも見付けたみたいに激しく足で踏み潰した。
僕はその隙に立ち上がり、ポケットから同じ物をもう一つ取り出す。肉体言語がからっきしダメな僕には、こういう武器が複数個必要なのだ。
ピンを抜いて、男の方に投げる。
ギリギリ届かないくらいの高さに投げる。
「くそがっ!」
男はそれを掴もうとジャンプしたけれど、その指先は僅かに届かない。間抜けで無様で、実に滑稽だ。
「あはは」
「何笑ってんだ!」
ウズラの卵みたいな防犯ブザーが大きな音を撒き散らしながら放物線を描いていく。そのまま地面に激突するかと思いきや、その前に受け止めてくれる手があった。
うるさくって碌に話も出来ないので、ピンも同じように投げる。それをしっかりと受け取った
「随分と遅かったじゃないか
「名前はあってるんだけどな……。なんで最後に羊を足したんだよ。複数形にされてもオレは一人しかいないぞ。それともあれか? 眠いのか?」
「羊が1匹、羊が2匹、羊が――」
「寝ようとするな」
「One Sheep, Two Sheep, Three—」
「本気で寝ようとするな」
「もうっ、そんなこと言ってる場合じゃないでしょ!」
見計らったようなタイミングで現れたのは、綾小路君と
僕は安心感と疲労感からその場にへたり込み、綾小路君に『あとはよろしくー』と手を振る。その意を正しく汲み取ってくれたようで、彼は両手をポケットに入れた偉そうなスタイルでストーカー野郎ににじり寄る。
「ようオッサン。オレのダチに随分と酷えことしてくれたじゃねえか」
「ち、違う! 僕じゃない!」
……あんたら二人で僕を笑わせようとしてるのか? 綾小路君は全然似合わない言葉遣いだし、オッサンはバレバレの嘘吐いてるし。
アホ臭いコントに呆れていると、隣に帆波さんが駆け寄って来た。
「真釣くん、大丈夫?」
「うん、ありがとう。お腹の辺りが痛むけど骨は折れてないし、大丈夫だよ」
「なんでこんな無茶なことを……」
「あははー」
「
「っ……」
力強い語勢で、若干涙目で、そう言われた。
帆波さんのそんな声は聞いたことが無かったから、そんな表情は見たことが無かったから、僕は言葉を失ってしまう。
「もっと自分のこと大切にしてよ!」
「……ごめん」
「真釣くんが傷付くのは、君自身は平気かもしれないけど……私は、嫌だよ」
「……ごめん」
「……」
「……」
綾小路君……トラウマになるレベルで脅してるのは分かるけど……タイミングがさあ……。
脱兎の如く逃げ出したストーカー野郎の背を見ると溜息が出てきた。
視線を戻すと帆波さんと目が合って、お互い困ったように笑う。
「とにかくさ、私だけじゃなくて
「……肝に銘じておくよ」
綾小路君は絶対違うだろ、とは言わない。
もしまた同じような状況になったとしても僕はやっぱり今回と同じように対応するだろうけど、それも言わない。
もちろん僕だって痛いのは嫌だし、帆波さんたちに心配をかけるのも本意ではない。こんなことは今日で最後にしたい。
でも、普通の学校なら敷地内で暴力事件なんてそうそうあるもんじゃないけど、この学校は全然普通じゃないからなあ……。
そういえば一番の被害者である佐倉さんをほったらかしていたなあと振り返ってみると、いつの間に立ち直ったのか意外と近くに来ていて、僕の方を向いていた。
「お、
そう言って深々と頭を下げる佐倉さん。
彼女のケアは隣にいる男が十全に済ませたようだ。
「お礼なら綾小路君に言えばいいよ。僕は彼の指先として動いただけだからね。謝罪も別にいらないよ。単純に僕の立ち回りが下手糞だっただけだから」
「で、でも……!」
「緒祈もそう言っていることだし、あまり気にするな」
「お前はちったあ気にしろや綾小路」
「キャラが変わってるぞ」
「おおっと失礼」
まあこれで彼に貸しを1つ作れたわけだし、良しとするか。……貸し3つ分くらい働いた気がしないでもないけど。
「立てるか?」
差し伸べられた手を握る。
そのごつごつとした感触とぐいっと引っ張り上げる力強さは、どちらも僕にはないものだった。空手か柔道か、なんらかの格闘技の経験者だろう。
少し
「ありがと」
「これで借りは返したぞ」
「そんな馬鹿な!」
「冗談だ」
3日間の放課後ストーキングと蹴り2発の借りが、立ち上がる手助けをしただけで消えて堪るかよ。
……振り返ってみると2回蹴られただけなんだよなあ、僕。それで気分は満身創痍って、ひ弱過ぎるだろ。
秋には体育祭があると思うけど、クラスの足を引っ張ってしまうんだろうなあ。
そんな悲しい未来予想図を描いていると、地面にばら撒かれた気色の悪いラブレターを気持ち悪そうに拾い上げていた帆波さんが、誰にともなく問いかけた。
「ねえねえ、さっきの怪しげな人って結局なんだったの?」
「……」
僕は事の詳細を把握していないので、とりあえず綾小路君に視線を投げる。
「あー……」
彼は何かを言おうとして、佐倉さんに目を向けた。彼女の個人的な事情が関係しているので勝手に話すわけにはいかないのだろう。
「……」
その視線を受けて、佐倉さんは黙ったまま小さく頷いた。
「ここにいる佐倉はな、中学の時アイドルだったんだよ。
「「へー!」」
僕と帆波さんのシンプルなリアクションに、佐倉さんは恥ずかしそうに身をよじる。
「すごいねっ! アイドルって、芸能人じゃん! 握手しよ握手!」
「テレビとかは出てないですけど……」
「それでもすごいよ!」
興奮を抑えきれない様子の帆波さんと、ちょっと困った様子の佐倉さんが握手をしている。
美髪少女のツーショット。これは良い。すごく良い。蹴られた痛みも吹き飛ぶってもんだ。
「緒祈は知ってたか?」
「へ? なにが?」
「雫ってアイドルのこととか、佐倉のこととか」
「ぜーんぜんっ」
僕は長い髪が好きだけど、画面の向こうや写真の中には興味が無い。目の前に存在してこそ意味があるのだ。言うなれば実物至上主義だ。
……あれ? 僕、数日前に『長い髪にわいわい言うのはもうやめる!』みたいな決意をしなかったっけ? うーん、まあいっか。
「というか綾小路君、よく気付いたね。アイドルとか全然興味なさそうなのに」
「気付いたのはオレじゃなくて櫛田だ。知っている奴はクラスに何人かいる」
「なるほどねー」
「そっか、バレてたんだね……」
ギリギリ聞き取れるくらいの小さな声で、佐倉さんは呟いた。
「でも、もしかしたらそれで良かったのかも……。自分を偽り続けるのって大変だから」
どうやら今日の一件は、佐倉さんが一皮むけるのに丁度良い切っ掛けになったようだ。それなら痛い思いをした僕も、いくらか報われる。
「それにしたって勇気の出しすぎだ。何かあったらどうするつもりだったんだ……」
「あはは、そうだね……怖かったな……。ごめんね、迷惑かけちゃって」
「別に謝る必要はない。だけど、これからは悩むことや迷うことがあったら相談してくれ。……堀北や
ズコッとずっこけるリアクションが帆波さんとシンクロした。
「そこは『オレが相談に乗る』って言えよ」
「うんうん。人任せにするとこじゃないよね」
綾小路君は僕らの苦言を無視して佐倉さんに話を続ける。
「あと
「綾小路くん? 僕だって傷付くんだよ?」
「言いたいこと、ちょっと分かるかも」
「帆波さん? 本人が目の前にいるんだよ?」
「うん……じゃあ何かあったら緒祈くんじゃなくて、綾小路くんに相談するね」
「佐倉さん? 僕ってそんなに信用ないかな?」
僕より綾小路君に相談した方が良いのは、そりゃ間違いないけどさあ……。
でも今回みたいに綾小路君に顎で使われるくらいなら、最初から僕に話を持ってきてくれた方が助かるかも。僕が助かるってだけで、佐倉さんが助かるかは知らないけどね。
綾小路君を上手く使えれば大抵の問題は解決できると思う。ただ、果たして彼が僕の思い通りに動いてくれるだろうか。例えばの話、「僕に借りを一つ作れるよ」と言って彼を動かすことは可能なのだろうか。
……この台詞って、よっぽど自分に自信がないと使えないよね。
綾小路君はよく恥ずかしげもなく言えたもんだ。
048
佐倉さん問題はその後、誰が呼んだのか警察が到着して、逃げたストーカー野郎もすぐに捕まって、無事解決した。
そして翌朝。
ポイント残高が昨夜より8700増えていることに気付き、
これで残る事案はあと一つ。
それも今日で終わらせる。
午前の授業は集中できなかった。
昼休みは千尋さんと帆波さんに放課後の段取りを確認してもらった。
午後の授業は午前より集中できなかった。
帰りのホームルームで先生が何を話していたのかも覚えていない。
策は練った。
手は打った。
場は整った。
時は来た。
あとは僕がどれだけやれるかだ。
裏のかき合い。
手の読み合い。
腹の探り合い。
化かし合い。
049
『使用中』のプレートが掛けられた生徒指導室のドアをコンコンとノックする。
「失礼します」
返答を待たずしてドアを開け、中に踏み入る。
テーブルのこちら側には帆波さんがいて、向こう側には
「えっと……真釣、ちゃん?」
「ありがとね帆波さん。先生を呼び出してくれて」
「ううん。大丈夫」
「君、もしかして緒祈くん? あっははー。女の子の制服似合ってるねぇ。ウイッグまでしちゃって、もう完全に女の子だ~」
星之宮先生の言う通り、私は今女子の制服を着てウイッグをかぶって、完全に女子としてここに来た。これは帆波さんにも事前に教えていなかったことだ。
しかし彼女は驚きながらも、台本通りに動いてくれた。
「じゃ、じゃあ私はこれで。星之宮先生、騙してごめんなさい」
「えー、帰っちゃうの? 折角だし3人でお喋りしようよ~」
「失礼します」
帆波さんは律儀に謝罪しつつも、先生の言葉は無視して出ていった。
私も同じように無視をして、先生の後ろにあるドアを開く。
「なになに? 一之瀬さんを使ってまで私と二人きりになるなんて……もしかして私、襲われちゃう!? きゃー!」
分かっていたけど、給湯室で誰かが聞き耳を立てているということはなかった。ドアを閉じて、つい先程まで帆波さんがいた椅子に座る。
「緒祈くーん? 緒祈さーん? 無反応は悲しいぞっ! 先生泣いちゃうぞっ!」
「Bクラスの担任がDクラスの生徒と二人きりというこの状況に、学校が良い顔をするとは思えません。さっさと終わらせましょう」
「うーん、それもそうだねっ。で、なになに? 恋の悩み?」
くだらない冗談は全て無視する。
「私のことを極悪人だと評したあの噂を流したのは星之宮先生ですよね?」
「んー? なんのこと?」
「この状況が長引いて困るのは先生の方ですよ」
「そう言われても、知らないものは知らないからね~」
「
「あははっ! サエちゃんみたいなこと言うね~」
そりゃそうだ、
1か月と少し前、この部屋で言われた言葉だ。
「まずは認めてもらわないと、その先の話ができません」
「そう言われてもな~」
『Bクラスの担任がDクラスの生徒について悪評を流した』と学校に報告されるのは、その証拠が無いにしても星之宮先生としては困るはずだ。逃げ道を用意しているのかもしれないけれど、疑いを完全に晴らすには悪魔の証明が必要になる。
面倒は嫌だろう?
さあ、交渉を選べ。
「会話を録音されている状況じゃあ、恥ずかしくって素直にお喋りできないな~」
困ったような口調でそう言いながらも、視線は獲物を探す猛禽のように鋭かった。おお怖い怖い。
ここで惚けるのも時間の無駄だ。私は胸ポケットから安物のボイスレコーダーを取り出し、録音を停止してテーブルに乗せる。
「それだけじゃないよね?」
「……そうですね」
まあ、そりゃ気付くよな。
左の襟の裏からもう一つ取り出して、これも停止させて一つ目の隣に置く。そしてスカートの右ポケットから携帯を取り出して、これもボイスメモアプリを切ってテーブルに置く。
「じゃあ、話をしましょうか」
「あはは。面白い冗談だね~。まだあるでしょ?」
「これで全部ですよ。万年金欠のDクラスなもんで、これだけしか買えなかったんです」
「じゃあこれは?」
そう言って星之宮先生はテーブルの裏に手を伸ばす。何かがぺりっと剥がれる音がして、テーブルに乗せられたのは両面テープの付いたボイスレコーダーだった。
「誰かの忘れ物ですかね」
「こっちにもあるよね~」
そう言って今度は席を立ち、給湯室のドアを開いた。そのドアの裏からまたぺりっと音がして、テーブルに乗せられたのはまたしても両面テープの付いたボイスレコーダーだった。
「誰かの忘れ物ですかね」
「まだまだあるよ~」
先生は私の後ろに回り込んで、私が座る椅子の裏に手を伸ばす。そこからまたぺりっと音がする。これも安物のボイスレコーダーだ。
「そしてここにも」
先生の手が無遠慮に私の胸ポケットに伸びる。
「同じ場所に2個隠すとは策士だね~。これが本命だったのかな?」
「……」
それは神崎君に借りた高級ボイスレコーダーだった。こいつには最後まで残ってほしかったんだけど、残念。
「携帯が1つとボイスレコーダーが6個か~。よく準備したね」
「……返してもらえません?」
「『お話』が終わったら、ね」
こんなにあっさり見付けられるとは。一体どんな目をしてるんだか。
別に
「はぁ……分かりました。録音は諦めます。それで、噂の件については認めていただけますか?」
「諦めるとか言って、実はまだ隠してるんじゃないのかな~?」
「私が否定したところで信じないでしょう? それで、噂の件については認めていただけますか?」
「ふふふ……そうだね。確かに緒祈くんのことを一之瀬さんに話したのは私だね。でも、正確には極悪人じゃなくて
「意味同じじゃないですか……どうしてそんなことを?」
「君は入学前から職員室で話題になってたんだよね~。得体の知れない新入生が来るって」
随分な言われ様だ。
繰り上がりとはいえ私を合格させたのはあんたらだろうに。
「配属は
「人のこと疫病神みたいに言わないでくださいよ」
「疫病神でしょ? 君の小中学生時代の話を聞けば誰だってそう思うよ」
「……そもそもどうしてよその担任である星之宮先生が、私の過去を知っているんですか?」
「緒祈くんの入学は色々と異例だったからね、一年の先生はみんな知ってるよ。合格に至るまでの経緯もね」
以前この部屋で茶柱先生とした話を思い出す。あの時の先生の口振りからすると、私は本当に『合格者を蹴落として入って来た生徒』だと認識されているようだった。
なんとまあ迷惑な。
「だから一之瀬さんには近付いてほしくなかったんだけど……上手くはいかないね~」
「帆波さんをどうこうするつもりはありませんよ」
「ほんとかな~? 隙あらば潰そうとか考えてるんじゃないの?」
「まさか。そもそも私は人を潰したことなんてありませんし」
「ふ~ん? でも、狂わせたことはあるでしょ?」
「まさか」
狂わせたつもりはない。
『緒祈真釣さえいなければ』と思われたことは何度かあったかもしれない。何度もあったのかもしれない。でも、それが何だって言うんだ。
私の知ったことじゃない。
私の与り知ったことじゃない。
「……本題に移りましょうか」
「あれ? 今までのは?」
「過去の話は前座です。私がこの場を設けた目的は、今後のことを話すためですよ」
「今後、ね……」
星之宮先生は私が何を言うのか、興味深そうに待っている。
私は背もたれから体を離し、身を前に乗り出す。
「簡単に言わせてもらうと、私は星之宮先生のクラスをAに押し上げて、最終的にはそこに自分も移るつもりです」
「……つまり、Aクラスに上がる手伝いをしてあげるから、緒祈くんと一之瀬さんの仲を邪魔するなってこと?」
「若干ニュアンスが気になりますが、概ねその通りです。話が早くて助かります」
「なるほどね~」
先生は拍子抜けしたような表情だった。
「もっと過激なお願いも覚悟してたけど……緒祈くんってヘタレ? 草食系男子ってやつ? そんな弱腰だと彼女できないぞっ!」
「できなくて結構です。それに、この学校の教員相手に私ごときが一本取れるとは
「欲のない子だな~」
「欲の熊鷹股裂くると言いますからね。藪をつついて蛇を出したくもありませんし」
「つまーんなーいのっ」
あなたを楽しませるために生きているわけではありませんので。
「Aクラスに上がる手伝いを実質無償ですると言っているんです。悪くない話だと思いますが?」
「うーん……」
先生は顎に手を当てて首を傾げて、いかにも考え事をしていますよというポーズをとる。
5秒経過。
「ま、それもそうだね」
「では交渉成立ということで。先生は今後、私に対して一切余計な手出しをしないでくださいね」
「おっけー。緒祈くんは私のクラスがAに上がれるよう、一之瀬さんに協力してあげてね」
「ええ。お互いに近付き過ぎず、適度な距離で仲良くやっていきましょう」
「ふふふ。勿体ないことしたね~。私の弱みを握って好き勝手できるチャンスだったのに」
「チャンス? ご冗談を」
弱みを握った程度で好き勝手できるとは思っていない。こうやって交渉のテーブルに付かせるくらいが関の山だろう。
そもそも教員の弱みなんてのは相手を確実に学校から追い出せるレベルでないと、手札とするには難しい。そのカードを使ってしまえば、あとは報復を待つだけになるのだから。
今回の噂の一件にそこまで強い力があるとは思えないけど――
「教員しか知り得ない情報を一部の生徒に、それも自分が担任をしているクラスの生徒に漏出するというのは、学校にバレたらどれくらいの罰を受けるんですか?」
「う~ん、今回のレベルなら懲戒免職まではいかないと思うけど……停職か、担任を外されて減給か、もしくは担任は続行だけどお給料とクラスポイントが減らされるか、かな~」
「なるほど……」
「私としてはどれも嫌なんだよね~。だからさ、
そう言って星之宮先生は、ぐいっと体を乗り出して来た。
私はそれに押されるように背もたれに帰る。
「テーブルに出した物で全てですよ」
「あと何個隠し持ってるの? 1個? 2個? 3、4、5――」
「メンタリストみたいですね」
頭蓋骨の奥まで届きそうな鋭い視線を、私はあえて正面から受け止めてみる。
「……ははーん。君が女の子としてここに来たのは、そういう狙いか」
「なんのことでしょう?」
「性別を偽るという『大きな演技』をすることで、動揺を隠す程度の『小さな演技』を目立たなくさせたわけだ。木を隠すなら森の中、
「……さあて、どうでしょうね」
ご明察。
確かに私はそういう効果を期待して、こんな格好をして一人称まで変えている。
「よく考えたね~。面白い発想だね~。でも、あんまりにもお粗末だよ。あと2個でしょ?」
「……」
ご名答。
確かに私が仕込んだボイスレコーダーはあと2個ある。
「ほら、出して?」
「……敵わないなあ」
ウイッグの中から1個、首元のリボンの裏からもう1個取り出す。どちらも録音を停止してテーブルに置く。
「油断ならないね~。なにが『不戦協定を結べればそれで十分』だよっ」
「教員の弱みを握れる機会なんて多分もう二度と来ませんから、ちょっと頑張ってみたんですけどね」
「ナイスファイト! でも残念、私の勝ちだよ」
「あーあ。ほんっと上手くいかないなあ……」
「ドンマイドンマイっ! 不戦協定はちゃんと守ってあげるから、そこは安心してくれていいよ~」
「まあ、今回はそれで良しとしておきます」
これ以上話すことも無いだろう。私は椅子から立ち上がり、テーブルの上で眠っている8個のボイスレコーダーを回収しようとする。
しかしその手を先生に払われてしまった。
「これは一旦没収させてもらうよ~。いいよね?」
「……はぁ。細工なんてしてませんけど、調べたいのならお好きにどうぞ。でも携帯だけは返してください」
「う~ん……いいけど、ちょっと待ってね」
そう言って先生は私の携帯にべたべたと触れる。
「暗証番号は?」
「帆波さんの誕生日ですよ」
「えっ……」
「なにか?」
「いや……ぜろ、なな、にい、ぜろ……違うじゃん!」
私の言葉の真偽を見抜こうとしていなかったから騙されたのか、それとも嘘だと分かっていながら騙されたフリをしたのか。
特に意味もなく適当なことを言ってしまったけど、万が一
「7月20日ですか。もうすぐですね」
「そうだね~……じゃなくて、本当の番号は?」
「教えませんよ。何のアプリも動いていないことはその状態でも分かるでしょう?」
「ふむ、それもそうだね。じゃあ、はいどうぞ」
「はいどうも」
「ボイスレコーダーは明日にでも一之瀬さん経由で返すね」
「分かりました」
星之宮先生がそれを回収している間に、私は一足先に生徒指導室を出る。先生もすぐに出てきた。
放課後の喧騒が流れる廊下には、私の友人の姿があった。彼女は不満気に頬を膨らましていた。
「おっそーい!」
「……白波さん? どうしてここに?」
「私が呼んだんです。待たせてごめんね、
彼女の足元には彼女自身の鞄と私の鞄、そして私の制服(男子ver.)が入った紙袋が並んでいた。
指示通り待っていてくれた彼女に、私は簡潔に尋ねる。
「
千尋さんも、用意していた回答を簡潔に述べる。
「右の襟の裏と、スカートの左後ろ」
「んん……左後ろ? ……あー、あったあった」
自分の制服(女子ver.)の言われた箇所を
「じゃあ私、部活行ってくるね」
「ありがとね。いってらっしゃい」
千尋さんを見送りながら、その物体を取り出す。それは
先生の方を振り返ってみると、心臓に穴が開いてしまいそうなほど鋭く尖った視線を向けられていた。
私はそれに怯むことなく、堂々と宣言する。
「私の――僕の勝ちです星之宮先生」
「……」
いくら飢えた猛獣のような瞳で睨まれても、僕は全然怖くない。それくらいに気分が良い。
「ご安心ください。先生が余計なことをしない限り、僕も何もしませんから」
「……」
「ふふふ。そんなに睨まないでくださいよ。むしろプラスに考えたらどうですか? 先生から一本取れるくらいに優秀な僕が、先生のクラスに協力するって言ってるんですから」
「……クソガキが」
「言葉遣いが乱れていますよ」
「……ふふふ。やってくれたね、緒祈くん」
ここが特別棟の廊下なら、力尽くでこのボイスレコーダーを奪いに来たことだろう。しかしここは職員室のすぐそばで、監視カメラの守備範囲だ。周囲も無人ではない。
「僕にしては珍しく、運が良かったみたいです」
「運なんてどこにも絡んでなかったと思うけどね~」
そうでもない。運任せというか、千尋さん任せにしたところはある。でも先生がそれを僕の実力だと勘違いしてくれるなら、わざわざ訂正する必要もない。
「緒祈くん、君は本当に私のクラスをAに上げてくれるのかな?」
「そうですね。そのつもりです」
「……裏切ったら許さないよ?」
「それは僕の台詞ですね」
「……あ~あ。厄介な生徒と関わっちゃったな~」
「日頃の行いですよ」
「なんだと~? このこのっ」
「いでででで」
昨日ストーカー男に蹴られた脇腹を人差し指でつんつんと突かれる。そういやこの人、保健室の先生だもんな。僕が痛がる箇所を見抜いたうえでやってるのか?
「そういうのが日頃の行いってやつですよ」
「むむむ~、生意気だぞっ!」
今度は僕のほっぺたを狙ってきた星之宮先生の指を右手で払い、千尋さんが置いていった僕の鞄と紙袋を手に取る。
先生とじゃれているところは、そう見られたいものではない。用は済んだので退散するとしよう。
「あの、もう行っていいですか?」
「え~? もっとお喋りしようよ~」
「帆波さんを待たせているので」
「ほほ~。それじゃあ仕方ないね」
「……不戦協定さえ守ってくれれば、僕はそれでいいので」
「はいはい、分かってるよ~」
「では、さようなら」
「まったね~! 気を付けて帰りなよ~」
にこやかに手を振る星之宮先生に、僕は小さくお辞儀を返す。
最後は冗談めかした和やかな空気もあったけれど、先生の瞳は一度たりとも笑っていなかった。氷柱のように鋭く冷えていた。
一方の僕は、口元が
「……ふっ」
無理だ。もう無理だ。我慢できない。
「ふっ、ふふふっ」
勝った。
先生に勝った。
こんなに嬉しいのはこの学校に来て以来――否、この世に生を受けて以来初めてだ! ひょっとしてこれが達成感というやつか?
ああ! なんと甘美な快感だろうか!
「あはっ♪」
ヘイ神様!
あんたも偶には良い仕事するじゃないか!