071
転げ落ちる。
草木を押しのけ転げ落ちる。
天地は何度もひっくり返り、ガサガサと、バキバキと、騒々しく転げ落ちる。
「うっ」
間断なく全身を襲っていた衝撃がぴたりと止んだ。位置エネルギーを使い果たして、運動エネルギーも無くなって、僕は仰向けに転がった。
ゆっくりと
絵になる光景ではあるけれど、それが傷を癒すということはない。転がりながらあちこちにぶつかって、体中がとにかく痛かった。
動く気にもなれず天を見上げたまま
「俺が何をするまでもなくボロボロじゃねえか」
上から降ってきたその声の主は龍園君だった。仰向けになって見上げている所為か、いつもよりひと回り大きく見える龍園君だった。
「やあ龍園君。夏休み満喫してる?」
「呑気なもんだな女装野郎。俺を相手に一切ビビらねえその胆力だけは認めてやるよ」
「あはは。君、何か勘違いしてない?」
僕は体を半回転させてうつ伏せになり、そこから地面を手で押して体を起こす。ジャージに付着した土や葉っぱを払いつつ、彼に僕のスタンスを伝えておく。
「僕は君と戦おうとは思ってないよ。そこまで好戦的な人間じゃない。ただ、君が牙を向けてくるなら、こちらもそれに応えるってだけ」
「おいおい、つまんねえこと言ってんじゃねえよ。いいのか? お前が相手をしねえってんなら、俺はBクラスを狙うぜ?」
「へえ?」
「お前の大好きな一之瀬を潰してやるぜ?」
「あっははー。悪いけどその挑発には乗ってあげないよー」
実は先日、須藤君の眼球を抉り取ろうとした一件が綾小路君にバレた。それで、彼からお叱りを受けてしまった。「一之瀬のことになると簡単に沸点が下がるけど、それは直した方が良い」とのことだった。至極ご尤もな忠言である。
蛇足を一つ言わせてもらうなら、帆波さんより千尋さんを侮辱された方が僕の沸点降下率は高い。幸いにもその機会は未だ訪れていないけれど、多分そうなると思う。
というわけで綾小路君による挑発対策講座を受講した。相手には龍園君を想定し、様々なシチュエーションや煽り文句を想定し、それらをどう処理すればいいか教えてもらった。
実践訓練では龍園君役をしてくれた綾小路君に何度か爪を立てつつ、その都度返り討ちに遭いながらメンタルを鍛え直した。
だから今の僕に挑発の類は一切通用しない。何を言われたって涼しい顔で受け流して――
「じゃあこう言えばどうだ? お前がやる気にならねえなら、お前の目の前で一之瀬を犯「死ね」
やっぱ無理♪
僕は右手でチョキを作って、ぴんと伸ばした人差し指と中指で龍園君の両目を突く。えいっ。
「おせーよ」
あらら。
残念ながら寸前で手首を掴まれてしまった。それならと左手を同じように伸ばしたのだけれど、そちらも掴まれてしまった。両の手首を掴まれて、僕は万歳しているような姿勢をとらされる。
それならばと捕まれている手首を支点に上半身を突き出し、龍園君の喉元を噛み千切らんとする。しかしこれは後ろに反って避けられてしまった。
「ははっ! 急所を狙うのに躊躇がねえなあ!」
「偉そうに人間の言葉使ってんじゃねえよゴキブリが」
「はっはっは! そうだ。それでいい。それでこそ遊びがいがある」
そう言って彼は僕の腹に蹴りを入れた。踏ん張る力のない僕は後ろに吹き飛んで、木にぶつかって崩れ落ちた。
「その調子で一週間頼んだぜ」
この場はこれでお終いだと言うように、彼はこちらに背を向けて歩き出した。僕の気分を害しておきながら、傷一つない状態で去ろうとした。
おいおいそりゃないよ。
こんなんじゃ全然終れない。
「あはっ、あはははは」
「……何笑ってんだよ。マゾヒストか?」
「とっても優しいんだね龍園君。死なないように、傷付かないように手加減してくれて。いや、この場合は足加減かな?」
僕は最後の力を絞り出して立ち上がり、ふらふらしながら彼に近付く。
「だから――
両手を広げてムササビのように飛びかかる。
うりゃー。
「もう一発喰らっとくか?」
「あうっ」
大きな手にがしっと頭を掴まれた。
僕の体は宙ぶらりんりん。
でも慌てない慌てない。
彼の右手を、僕は両手でがっちり握りこむ。
「あはは」
イメージする。
それは、自分の中を小さな魚が群を成して泳ぎ回っているイメージ。その魚たちが両腕を駆け上って、僕の手のひらから、その先の龍園君の腕へ、すいすいと流れ込んでいく。
すいすいすいすい。
泳ぐ泳ぐ。
「僕の『
「――っ!」
龍園君は何かを感じ取ったように慌てて僕の頭から手を離した。支えが無くなった僕はその場にべったり倒れ込む。
「いてて……。おやおや? どうしたんだい龍園君。そんな『得体の知れないものを体に流し込まれて気分が悪い』みたいな顔をして」
「……てめえ、何しやがった」
「あはは。僕は何もしてないよ」
流石と言うべきか、龍園君は自分が『何か』をされたことに勘付いたようだ。しかし彼にとっては残念ながら、
「一つ予告をしておこう。君がこの特別試験で何を企んでいるのか知らないけど、きっとそれは手抜かりなく抜け目のない計画なんだろうね――
「はあ?」
「忠告も一つしておこう。今後
「……けっ。一之瀬とお近付きになれて浮かれているちょっと賢いだけの猿かと思っていたが、まさか人の皮を被った
鵺――頭は猿、胴は狸、手足は虎、尻尾は蛇、鳴き声は
「あはは。僕のことをそんなカッコよく表現してくれたのは君が初めてだよ。ありがとう」
「褒めてねえよ」
「そう身構えることはないさ。僕はただの病人だからね。でもまあ僕が抱える『
「……ほざいてろ。一週間後に吠え面をかくのはお前だ」
龍園君はそんな宣戦布告を――いや、勝利宣言を残して去って行った。木々の向こうに消えた彼の背中に、僕は呟く。
「負け犬の遠吠えにしか聞こえないや」
なんて強気に言ってみたところで、情けないことに体力が底を突いた。僕はこの場で少し眠ることにした。
空腹が最高の調味料になるように、疲労は最高の子守歌になるようだ。
坂を転がり落ちるよりずっと静かに穏やかに、僕は眠りの谷に落ちていった。
(071)
あはははは! 最高だぜ『僕』!
まさかこんなにも早く『歪』の押し付けを出来るようになるなんて!
「……久し振りだね『ボク』」
ああ、久し振りだね『僕』。幸せそうで何よりだよ。
「あのさあ……龍園君と一幕終えた後の疲れてるタイミングに現れるの、やめてくれない?」
ごめんごめん、それについては大変申し訳なく思っているよ。でも君と会うタイミングは僕が決められるわけじゃないからね。諦めてくれ。
いやー、それにしても見事なものだ。もう二つ目のスイッチを手に入れたんだね。
「スイッチ……? あー、あれね。無意識というか、体が勝手に動いただけだよ。君が言ってた『押し付け』って奴でしょ? 実際やってみた感じだと『投与』とか『注入』って感じだったけど」
そうだね。そうかもしれない。まあ、名前なんてどうだっていいんだよ。
でも、本当にあれで良かったのかい? 『歪』を与えたことで龍園くんには『何か』が起こるようになったけど、それがマイナスに働いてくれるとは限らないぜ?
「そうでもないよ。彼はしっかり計画を立てる人間だ。それも、僕とは違って運が絡む要素は極力排除するタイプだと思う。であれば、詳細は不明だけど彼の作戦が完璧であれば完璧であるほど、『
ふむ……なるほどね。
そう言われれば確かにそうなんだけど、そもそも『
これが普通の学校だったら転校という形での発動が経験上予測できるんだけど、その制度がないからね。じゃあ退学かって言われるとそんな単純な話でもないし。そんな分かりやすいものじゃないし。
「それを調べるための今回だよ。龍園君であれば、最悪死んでもらっても構わない」
わあ怖い。
まったくもう、死ねとか殺すとか軽々しく口にするなよなー。白波ちゃんや一之瀬ちゃんに嫌われちゃうぜ?
「あー……それは大問題だね。今後は控えるようにするよ」
これは『僕』に限ったことじゃないけどさ、みんな感覚が麻痺してるんだよね。
普通の学生は
「言われてみれば……でも、それはこの学校にいる以上どうしようもないんじゃないかな」
そうだね。どうしようもないね。
それでも一応釘を刺しておこうと思ってね。『僕』ってば
「ふうん?」
『僕』みたいな奇天烈な病気持ちが普通になんかなれるわけないだろう? 友達ができようが仲間ができようが、『僕』はずっと『僕』のまま。異様で異質な病人さ。
「……酷いことを言ってくれる」
そう不貞腐れるなよ。これでもボクの台詞は当初の予定から大幅にカットしてるんだから。
「というと?」
本当は『
いやー、感心したよ。昔の『僕』は5年以上悩んで、もがいて、足掻いて、結局逃げることしかできなかったというのに、今の『僕』ときたらあっさり受け入れてるんだもん。
「昔の『僕』には千尋さんみたいな友達がいなかったんだろうね」
そうだね。自分のことにしか興味が無かったからね。というか、自分のことで精いっぱいだったから。
「折角だから一つ聞いてもいいかな? 改竄された記憶については大体整理が出来たんだけど、一つだけ分からなくて」
「うん。『
改竄されている今の記憶だと「自分が抱える異常性の正体を調べるため」ってことになってるんだったね。で、本当はどういうつもりだったのか知りたいと。
……ふふふ。そんな難しく考えることじゃないよ。あれは――ただのお遊びだ。
「お遊び?」
そう、お遊び。これといった目的もなく、ただなんとなくやってみただけ。
「なにそれ怖い。龍園君かよ」
そこまで好戦的だったわけじゃないよ。たださっきも言ったけど、本当に自分のことにしか興味が無かったからね。クラスメイトの人生が
そういう点でも成長したよね。友達を侮辱されて怒るだなんて、昔の『僕』からは想像もできないや。
「そうなのかな……まあ、そうかもしれないね」
その調子で人間味を磨いてくれ。今でもそれなりに幸せそうだけど、『僕』はもっと幸せになれるはずだぜ。
「おやおや? 君がそんなことを言い出すということは、そろそろお別れの時間かな?」
ああ。それも恐らくは最後のお別れだ。
そもそもボクは『
『僕』に吸収されるのか勝手に消滅するのかは分からないけれど、どちらにせよこうして会うことはもう二度とないだろうね。
「そっか。それは寂しいね」
あはは。そんな嘘は通じないよ。君はむしろ『過去の話はもう十分だから
「あっははー。バレた?」
そりゃあ『僕』のことだからね。陰ながらずっと見てたから、それくらい分かるよ。
ったく、前回会った時とはまるで別人じゃないか。迷いも惑いも消えてやがる。
……なんて話しているうちに、そろそろ時間みたいだ。
それじゃあ、さようなら。元気でね。
「
072
僕の体は一定のリズムで上下に振動していた。振動に合わせて、森の地面覆う草や枝が踏み折られる音が聞こえた。
薄らと目を開けると、いつもより少し高い視点だった。視線を少し横に振ると、赤い短髪が見えた。
「お、目が覚めたか」
聞き覚えのある野太い声。
僕は須藤君におんぶされていた。
視線を上げてみると、最後に見たときより数段暗い空がある。あと30分もすれば完全な暗闇になりそうだ――今が午後であるならば。
「須藤君、今日はこの島に来て何日目かな?」
「は? 一日目に決まってんだろ」
「……そう」
よかった。眠っている間に日付が変わっているということは無かったようだ。それでまだ日が沈みきっていないということは、午後8時の点呼もまだのはず。
冷静に状況を分析していると、須藤君に愚痴を言われた。
「お前、あんなところで何してたんだよ。大人しくベースキャンプにいろよ。高円寺に続いて緒祈までリタイアしたのかと思ってすっげー焦ったんだぞ?」
「悪いね。ちょっと色々あったんだよ」
どうやら僕に色々あった間に、クラスの方でも色々あったみたいだ。
ベースキャンプが見つかったという朗報。そして高円寺君がリタイアしたという悲報。あと、須藤君が僕を見付けたというのはクラスにとっても僕にとっても朗報だ。
「それにしても緒祈は軽いな。ちゃんとメシ食ってるのか?」
「脂肪も筋肉も付かない体質なんだよ」
「少しは鍛えた方がいいんじゃねーのか?」
「脂肪も筋肉も付かない体質なんだよ」
身のない雑談をしながら森を進んでいくと、やがて大勢の話し声が聞こえてきた。水が流れる音も聞こえてきた。
そして木々の隙間から見えてきたのは、河原に広がるDクラスのベースキャンプだった。幅10メートルはありそうな立派な川の横に、不自然に開けたスペースがあった。今はテントが4張置かれていて、皆が忙しなく動いている。
「おい平田! 緒祈見付けて来たぞ!」
背負われている姿はあまり人に見られたいものではない。僕はそそくさと須藤君の背から降りた。ただ体力はあまり回復していなくて、そのままその場に座り込んでしまった。
須藤君に呼ばれてやって来た平田君は、手に何かを持っていた。
「心配したよ緒祈くん。大丈夫だったかい?」
「悪いね。迷惑かけたみたいで」
「気にしなくていいよ。なにはともあれ無事でよかった。お腹空いてるだろう? ほら、これ食べてくれ」
差し出されたのは黄色くて丸い柑橘系の果物だった。
そういえば半日くらい何も食べていなかったな。思ったより柔らかい皮をむいて、実にかぶりつく。うん。酸味が強いけど、疲れた体には心地好い。
「もっと早く探しに行くべきだったんだけど、堀北さんに止められちゃってね」
「止められた?」
「うん。『緒祈くんのことだから何か企んでいるはずだ』って。それでしばらく待ってみたんだけど、全然帰って来なかったから――」
「悪かったわよ」
計ったようなタイミングで堀北さんが登場した。綾小路君も付いて来た。
「おーい! 平田くーん!」
「ごめん、呼ばれたから行ってくるね」
そして平田君は去って行った。あっちへこっちへ、彼は本当に大忙しだね。
堀北さんは僕の斜め前に座り、申し訳なさそうに口を開いた。
「まさかあなたが普通に行き倒れるなんて思わなかったのよ」
「オレも、緒祈は何か暗躍でもしているのかと」
「2人とも僕のことを買い被っているね。何かあったかと聞かれれば、ちょっと龍園君に会っただけだよ」
夢の中では『ボク』にも会ったんだけど、これは他人に聞かせるような話ではない。
しかし改めて考えると、これでようやく過去の清算が出来たってことになるのかな。不確かな記憶に支えられていた不明瞭な自分という存在について、きっともう悩むことはないだろう。
いやはや、アイデンティティの確立ごときに随分と時間をかけてしまった。何が良くなかったって、過去に拘り過ぎたんだよなー。まあ、終わったことだし、うだうだ言うことでもないか。
『今の僕』の物語に、『昔の僕』が出る幕はもう要らない。
うん。だからこれからのことを考えよう。差し当たっては、この無人島試験について。
僕が龍園君に会っていたと聞いて、堀北さんは大変驚いた様子だった。分かりにくいけど綾小路君も目を見開いて驚きを表現していた。
「もしかして、彼に何かされたの?」
「ちょっと話しただけだよ。ジャージが汚れて傷だらけなのは僕が勝手に転んだだけ」
「龍園は一人だったのか?」
「うん。……そういえば不思議だね。スポットやベースキャンプを率先して探すタイプには思えないけど、なんであんな場所で単独行動してたのかな?」
「何か企んでいるのでしょうね」
「そうだな」
龍園君に投与した『歪』がどう作用するのか知りたいから、彼の計画についてはある程度把握しておきたいんだけど……まあ、試験が終わる頃には綾小路君が見抜いてくれているだろう。後で聞けばいいや。
実は今回の旅行が始まる直前に、綾小路君からとある報告を受けていた。「しばらくの間Aクラスを目指す必要が出来た」とのことだった。何か事情があるみたいだし、期間限定なら別に良いかなーと思って了承した。
今回の試験でも何かしら動くつもりなのだろう。と言っても目立つつもりは無いらしいので、クラス内でのポイントの使用にはあまり口を出さないはず。となるとスポットの占有かリーダー当てに注力するんだろうな。
というかどのクラスも結局はリーダー当て合戦になるんじゃないかな? 1クラス当てるだけで50ポイントだもん。スポットでそれだけ得ようと思ったら、3か所を試験中ずっと占有し続けなくちゃいけない。これはあまり現実的ではないよね。
だからより多くボーナスポイントを得るには、他クラスに斥候やスパイを送り込むのが戦略としては王道だ。と思うんだけど――
「ところでお二人さん。あちら様はどちら様?」
Dクラスのベースキャンプ、その隅っこに見慣れぬ女子生徒が体育座りをしていた。傍らに置かれた彼女の物であろう鞄は、Dクラスで支給された物とは違う色だった。
あのショートカットの少女は何者なのか、綾小路君が教えてくれた。
「Cクラスの伊吹だ。クラスメイトと揉めたらしい。森に一人でいたところを放っておけないからとDクラスが保護した」
「ふうん……」
揉めた相手が龍園君であるならば、クラスに居場所がなくなることも十分に考えられる。一方で彼女がスパイである可能性もやはり無視できない。
まあ、たとえスパイだったとしても、そう簡単にリーダーが見破られることはないだろう。いくらDクラスとはいえ、秘匿すべき情報の管理はそこまで杜撰ではないはずだ。
「何か分かったのか?」
「……え? いやいや、なーんにもだよ。今はまだ何を判断するにも材料が少なすぎる」
思考を巡らせているうちに無意識に下がっていた視線を上げる。いつの間にやらとっぷり日が暮れていた。
キャンプの中央で爛々と燃える焚火。
澄んだ空に映える煌々と輝く夜の星。
綺麗だなと思う。どちらも東京の街では見られない光だ。
……だからって大嫌いな船に乗って体調を崩してでもこの島に来て良かったとは、1ミリも思わないけどね。