第4巻部分、開幕です。
089-090 彼
089
ぱたん、と。
体内時計ではまだ11時にもなっていないのだが、部屋に掛けられたアナログ時計を見やると正午を少し過ぎていた。それだけ没頭していたらしい。
無人島での特別試験が終わり、早くも三日が経過していた。サバイバル終了直後はほとんどの生徒が「まだ何かあるのでは?」と警戒していたが、今のところ学校側が何かを仕掛けてくることも無く、平穏な船旅が続いていた。お陰で生徒の気も緩み、各々が思い思いにこの豪華客船を満喫していた。
と言ってもオレがこの三日間にしたことといえば、船内の散策と読書くらいなんだが。
傍らに置いた本の表紙をそっと撫で、記憶に強く残っている文章を反芻する。
――私のかわいい欠落者。
――あなたの親は、あなたを育てるのに失敗した。
その一節がどうにも頭から離れないのは、自分と重ねてしまったからだ。それは『欠落者』と呼ばれた過去がある、という単純な話ではない。むしろオレは『成功例』や『最高傑作』という評価をされていた。
しかし。
だからこそ。
オレの親と呼ぶべき『あの男』は、オレを育てるのに成功したとも言えるし、失敗したとも言える。ただ、そんなことは至極どうでもよくて、そもそも『
『あの男』の教育方針は、如何せん極端が過ぎる。
オレが進学先にこの学校を選んだのは、そんな『あの男』から逃れるためだ。在校中は外部との接触を強制的に禁じるという校則を目当てに――拘束を目当てに入学した。
ところが茶柱先生によると『あの男』は現在、外の世界から無理矢理こちらに接触を図ろうとしているらしい。しかもあろうことか茶柱先生はそれを利用して、オレにAクラスを目指せと脅してきた。まったく、教師の風上にも置けない女だ。
無人島では希望通り動いてやったが、これをいつまでも続けるつもりは無い。必要な情報を揃えつつ、場合によってはこちらから仕掛ける必要もあるだろう。
「オレはただ、平穏な学校生活を送りたいだけなんだけどな」
窓の外に広がる青一色の海を眺めつつ、やるせない独り言をこぼす。
とりあえずこの本を返しに行こうかと腰を浮かしたところで、客室のドアが開かれた。
「あれ? 綾小路君、もしかしてずっと部屋にいたの?」
ドアの向こうから現れ、そう声を掛けてきたのはルームメイトの
平田の想像通りずっと部屋にいたオレは、肩を竦めて答える。
「特に出歩く理由も無い。遊ぶ相手もいないしな」
「そんなことはないんじゃない? 緒祈君はともかく、須藤君たちや堀北さんがいるよね」
確かに、一応『友達』と呼べる間柄ではある。しかし須藤たちに関して言えば俺は誘われるのを待つだけの存在だし、堀北とは暇が出来たからといって遊ぶような仲ではない。
緒祈が「ともかく」と言われたのは、あいつの体調の問題だ。船酔いに苦しむ緒祈は、聞くところによると昨日も一昨日も、部屋から一歩も出ていないらしい。折角の豪華客船だというのに勿体無い。……オレが言えたことでもないが。
「綾小路君がもう少し積極的になれば、友達は簡単に増えると思うよ。余計なお世話だけどね」
平田はDクラスを纏めるリーダーで、男子からも女子からも多大な信頼を得ている。軽井沢という彼女もいて、交友関係には困らない男だ。ほんの少しの積極性すら出せない者の苦しみなど、彼には分からないだろう。……オレが苦しんでいるかは別として。
「12時半から軽井沢さんたちと合流してお昼ご飯を食べる予定なんだけど、一緒にどうかな? 綾小路君が来たら盛り上がるよ」
「いや、盛り上がらないだろ」
「……あはは」
乾いた笑いを返すくらいなら、最初からそんなこと言わないでほしい。ちょっと
それにしても……軽井沢か。
実を言うと軽井沢とは少し接点を持ちたいと考えていた。オレの今後の学校生活を平穏なものにするための協力者候補として、Dクラス女子のリーダー格である彼女には目を付けていた。
協力者というなら緒祈もそうなんだが、あいつはBクラスに対しては強いコネクションがあるものの、Dクラス内ではあまり影響力を持っていない。それに、有能なのは間違いないんだが、その性能はどうにも不安定でピーキーだ。
でもまあ、軽井沢との接触をそこまで急ぐ必要もないか。
「誘ってくれるのは嬉しいが、今回は遠慮させてもらう」
次回があったとしても同じ台詞を吐きそうだなと内心自嘲しつつ、断った。空気の読める平田のことだ、こちらにその意思がないと見れば無理に誘いはしないだろう。
と、思ったのだが――
「軽井沢さんたちと一緒が気まずいなら、僕と二人だったらどうかな?」
「えーっと……」
「うん、それがいいね。そうしよう」
「えーっと……?」
意外なことに平田は食い下がってきた。
そしてそのままあれよあれよと押し切られ、結局平田と二人で昼食をとることになった。なってしまった。圧倒的コミュ力でぶん殴られた気分だ。
平田は軽井沢に断りの電話を入れ、一方的に用件を告げるとやや強引に会話を終了した。場の空気を大事にする普段の姿と比べると、今の平田の言動はどうにも不自然だ。何か裏があるのではと疑わざるを得ない。
「食べたいものの希望とかある?」
「……何でも食べられる。ただ、重いものは避けたいな」
「それじゃあデッキに行こうか。軽食中心だから食べやすいしね」
目的地も決まったところで部屋を出て、平田が先導する形で廊下を歩く。船内のエレベーターで最上階へ。
デッキに到着すると、そこは中々の賑わいっぷりだった。近くに備え付けのプールがあるため水着姿の男女も多い。目的のお店にもそういうバカンス気分な格好の生徒が多く、丁度お昼時ということもあってほとんどの席が埋まっていた。その中で運良く空いていた二人席を確保する。
「実は……少し相談があるんだ」
席について手早く注文を終えると、平田は申し訳なさそうに切り出した。
「相談?」
やはり裏があったかという納得とともに、なぜその相手がオレなのかという疑問が生じる。自分で言うのもなんだが、オレは相談相手としては適さない。平田のようなクラスの中心になるタイプの人間にとっては、特に。
にもかかわらずオレに白羽の矢を立てたということは、それだけピンポイントな内容なのだろう。例えば平田でも対処できない特殊なパターンの人間関係、とか。
果たして、オレの予想は当たっていた。
「僕と、堀北さんと緒祈君との橋渡し役になってもらえないかな?」
「……なるほど、そういう話か」
「この先Dクラスが一致団結して頑張っていくには、やっぱりあの二人の協力は必要不可欠だと思うんだ」
ここで堀北と緒祈の名前が同列で並べられたことに、オレは内心ほくそ笑む。
無人島での特別試験でDクラスは思わぬ好成績を得た。というか、オレが与えた。しかしオレ自身は目立ちたくないので、平田や櫛田を通して「あの大勝利は堀北と緒祈の働きによるものだ」という認識を広めた。
お陰で――と言うと少々恩着せがましいが――堀北のクラス内での扱いは大きく変わった。『運動も勉強も優秀だけどなんか鼻につく高飛車女』から『ちょっと人付き合いは苦手だけどクラスのことを考えてるツンデレさん』への華麗なジョブチェンジだ。
「この前の特別試験を境に、堀北さんを慕う人たちは如実に増えている。そんな今だからこそ、彼女はもっと皆と仲良くなるべきだと思うんだ。緒祈君はまだちょっとデリケートな立場だけど……それでもみんなで協力し合えばCクラスやBクラス、ううん、Aクラスにだって上がれる気がするんだ」
「まあ、そうかもな」
一応同意してみせたものの、「そんな未来は訪れない」というのがオレの正直な意見だった。
緒祈は『Aクラス移籍計画』と称し、一之瀬のクラスへの移籍を目論んでいる。今のDクラスに協力するにしてもそれは自分のプライベートポイントが目当てで、Aクラスまで上げようとは考えないだろう。
ただ、それを今ここで告げてしまうのは平田が可哀想なので、知らない振りをして黙っておく。
そして逆に、緒祈を取り巻く状況についてオレが本当に知らないことを、良い機会なので平田に尋ねてみる。
「緒祈のデリケートな立場ってのは、具体的にはどういう状態なんだ?」
無人島での特別試験で、あいつには軽井沢の下着を盗んだ容疑がかけられた。オレはそれが冤罪であることに気付いていたが、オレ一人が何を言ったところで緒祈を取り巻く状況が良くなるわけではない。
船に戻ってから「緒祈も実はDクラスのために頑張っていた」という噂を流してみたものの、残念ながら堀北ほどの効果は得られず、クラス全体の認識をひっくり返すことは叶わなかった。
事態が急変したのは一昨日のこと。
篠原を中心とするDクラスのとある女子グループとCクラスの伊吹との間でひと悶着あり、その際に下着盗難事件の真相が、真犯人である伊吹の口から堂々と告げられた。「無人島試験で運良く一位になれて調子に乗ってるみたいだけど、そんな残念な脳みそじゃどうせすぐ落ちる」とかなんとか、挑発するような言葉を添えて。
一歩間違えば暴力沙汰にもなり得たその騒動は、平田が来てなんとか事なきを得た。
軽井沢の下着を盗んだ真犯人が判明し、それをよりにもよって公平公正誠実な男、平田洋介が与り知ったのだ。次の展開は容易に想像できるだろう。つまり無実の容疑者、緒祈真釣に対する謝罪である。
一昨日の夜、緒祈を特に激しく糾弾していた十数名があいつの部屋に赴き、頭を下げた。それに対して緒祈は、大方の予想に反してあっさりと篠原たちを許したのだった。
波乱も騒乱も混乱もなく、篠原たちは許された。
――という話を、ずっと部屋に籠って本を読んでいたオレは、ルームメイトの平田や幸村から伝え聞いた。その時には事は全て終わっていて、だからこの件に関してオレは一切関与しなかった。干渉できなかった。
ゆえに、その後日談として緒祈がDクラスにおいて現在どのような扱いをされているのか、オレは把握していない。
平田は困ったような顔で、口を開いた。
「緒祈君は篠原さんたちのことを許すと言っていたし、本当に気にしている様子はなかったんだよね。ただ、篠原さんの方はそうもいかないみたいで」
「罪悪感を抱えていると?」
「そうだね。だから、どう接していいか迷ってるみたい」
「……ということは、デリケートな立場にあるのはむしろ篠原の方なのか? 話を聞いた感じだと、平田が緒祈を相手に慎重に動く必要はなさそうだが」
「うーん、そうでもないんだよね」
そうでもないらしい。
「今の篠原さんはかなり危うい状況なんだ」
「どういうことだ?」
「あの島で軽井沢さんの下着を盗んだのは緒祈君だってなった時、一番大きな声で彼を批判したのが篠原さんだから」
「……あー、そういうことか」
あの時は緒祈が加害者という認識だった。だからそれも許された。しかし状況が一転したことで、反転したことで、今度は篠原が加害者の立場になった。勿論それを言うなら緒祈を責めていた生徒は他にもいるが、やはりその筆頭として分かりやすいのが篠原だ。
「状況が落ち着くまでは、僕は下手に動かない方が良いと思うんだ」
現状、Dクラスにおいて優勢なのは『緒祈くん申し訳ない』という空気だ。加害者意識を抱えている生徒が多いうちは篠原もあくまでその中の一人であり、危険は及ばない。
しかし、ここでもし平田が緒祈との接触を試みれば、それは冤罪に苦しんだ緒祈を慰めるという構図にどうしても見えてしまう。クラスの中心である平田がそう動いてしまうと、クラス全体の空気も『緒祈くん可哀想』という方向にシフトする。
そうなると、どうなるか。
これを回避したいのであれば、篠原はその空気が出来上がる前に緒祈と仲良くするしかないだろう。幸いにも緒祈からの許しは貰えているのだ。二人の平和的で友好的な姿をアピールすることさえ出来たなら、クラス全体に『あの問題は完全に解決した』と認識させることも難しくない。
見方によっては緒祈が篠原の急所を押さえたようなものだが……まさか、そこまで予測していたのか? 伊吹に真実を告白させるつもりだとは聞いていたが、あの時点でここまでの展開を読んでいたのか?
だとすれば――恐ろしい男だ。
「僕と綾小路君が今こうしているように、『緒祈君と篠原さんが一緒に食事をする』みたいな分かりやすいエピソードがあれば、不安定な現状も綺麗に落ち着いてくれると思うんだけど、どうだろう?」
「それはつまり、篠原と緒祈との橋渡しをしてほしいってことか?」
「うん。ダメかな?」
「ダメというわけでは無い。良い考えだとも思う。だが……」
クラスの中心であるがゆえに不用意には動けない平田に代わり、動きに制約の無いオレみたいな存在が二人の間を取り持つことは合理的な手段だ。一緒に食事をしている姿を見せつけるというのも、シンプルでナイスなプランだ。
が、しかし。
「肝心の緒祈が、部屋から出ないんだよな……」
「そうなんだよね……」
船に弱い緒祈の体調は右肩下がりで、起きている時間もだんだんと短くなっているらしい。それもまた『緒祈くん可哀想』という空気を生み出しやすくしている要因の一つだ。
哀れな友人を思い浮かべていると、注文したことをすっかり忘れていた二人分の料理が到着した。オレはサンドイッチを摘みながら平田の話を聞く。
「じゃあ緒祈君の件は一旦置いておいて、堀北さんはどうかな? 彼女と一番仲が良いのは綾小路君だと思うけど、なんとか橋渡し役になってくれないかな?」
「あー……。それも別に構わないんだが……堀北は嫌がるだろうな」
堀北に関して言えば、緒祈のようなナイーブな存在ではないので、平田と引き合わせるだけなら簡単だ。しかし今度は本人の性格が問題になってくる。無理に距離を詰めようとすれば、むしろ今まで以上に距離をとろうとするだろう。堀北はそういうやつだ。
勿論平田だってそれくらいのことは理解しているようで、オレを間に挟んだ形での『協力関係』を提案してきた。
「僕の意思を綾小路君なりに変換して、綾小路君の意見として堀北さんに伝えてほしいんだ。僕の存在は伏せたうえでね」
そして堀北の意見もまたオレを通して平田に伝える、と。なるほど、そうすれば二人の間に見えない『協力関係』が築けるわけだ。しかし――
「そう単純な話でもないだろ。堀北と足並みを揃えたい気持ちは理解できるが、今の時点でそんな策を打つのは早計じゃないか?」
裏でこそこそ手を回すような関係は、堀北が最も嫌うところだ。そんな体制は一時的なものにしかならないし、露見した後の関係の修復は困難を極めるだろう。
それくらい平田にだって分かるはずなのだが、どうやら何かに焦って自分を見失っているらしい。
冷静でない自分に平田自身も気付いたようで、顔を俯かせ「ごめん」とこぼした。
「……そうだね。綾小路君の言う通りだ。僕の考えは浅はかだったよ」
「浅はかとまでは言ってないが……。まだ一学期が終わったばかりなんだし、そう焦る必要は無いだろ。堀北は急いで友達を作るようなタイプでもないし」
結束力というのは、基本的には時間をかけることでしか育たない。積極的な行動で高めることも出来るが、無理に作り上げたものは大抵脆く、容易に崩れ去ってしまう。
それを分かっていながらも平田が焦っていたのは、もしかすると他のクラスを見てしまったからなのかもしれない。一之瀬のカリスマによるBクラスの団結や、龍園の恐怖政治によるCクラスの結束。4月に同じスタートラインを切ったはずなのに、いつの間にか生まれていた大きな差。そういうものが先の特別試験で垣間見えてしまった。
Dクラスが勝てたのはあくまで数字の上だけでの話だと、平田は理解しているのだろう。
テーブルの向こうで自省の色を見せる彼に、いくらか同情の念が湧く。
「彼女の気持ちも考えず、僕は一方的な思いをぶつけようとしていたのかな……」
自分に言い聞かせるようにそう呟いた平田は、ようやく納得がいったらしい。ひとつ大きく頷いて、晴れやかな笑みを見せた。
「ごめんね。ご飯に誘っておいて、勝手に相談して」
「気にすることは無い。オレも平田の話が聞けて良かったと――」
思っている。
その最後の5音が消えたのは、視界の端にある人物を発見したからだ。平田の相談が一段落するのを待っていたかのような、実に見事なタイミングでの登場だ。
まずいな……いや、まずくはないが少々面倒だ。
『彼女』がここに到達する前に、オレは急いで皿の上を片付ける。平田が不思議そうに見て来たので、『彼女』の存在を目の動きだけで伝える。
オレの意を汲み後ろを振り返った平田は、『彼女』の姿を――己の『
「あー、やっぱりここにいたんだ、平田くんっ。一緒にご飯食べよっ」
平田の恋人である軽井沢
軽井沢と接点を持ちたいとはいえ、この場に留まってもオレに出来ることは無いだろう。このメンツでは話の主導権も空気の所有権も、オレのもとには回ってこない。ゆえにサンドイッチの最後の一切れを急いで飲み込んだオレは、
「じゃあ」
と一言残して席を立ち、そそくさとその場を去った。一学期で身に付けた特技『速やかな撤退』の発動だ。ある程度離れてから一度振り返ったが、平田は女子に囲まれていて、その姿はもう見えなかった。
一人の時間が満足に取れないのは、豊かな人間関係に重きを置くことの数少ない弊害の一つだ。個人的な悩みを個人的に解決することが難しい。
しかし一方で、『一人で過ごす時間を減らすための手段』として友情の網を広げる人間もいる。
彼にも彼女にも同じ時間を与えながら、船は大海をゆく。
思惑を乗せて、苦悩を乗せて。
計算を乗せて、思案を乗せて。
090
客室階の廊下を歩くと、両サイドには木目調の扉が等間隔に続く。一年生はこの各部屋に4人ずつ振り分けられているのだが、流石は巨大な豪華客船、余っている部屋も結構な数あるのだった。
二人一組にしてもなんとか賄えそうだが、そこは色々と都合があるのだろう。部屋のサイズとか、学校側の監視のしやすさとか。
もし二人一部屋の振り分けだったら、
高円寺
日本有数の財閥、高円寺コンツェルンの御曹司。
その言動は理解に苦しむものがほとんどで、まともに相手をしていては精神が擦り減ること請け合いだ。先の特別試験では初日から仮病によりリタイアし、Dクラス全体から不興を買っていた。
ルームメイトである高円寺と幸村のことを思い浮かべる。あの二人は犬猿の仲とまでは言わないまでも、相性はさっぱりよろしくない。規律を重んじる優等生タイプの幸村には、高円寺の自由奔放さが肌に合わないのだ。かく言うオレも、高円寺と積極的に関わりたいとは思わない。
もし平田がいなければ、オレたちの部屋はもっと刺々しい空気になっていたことだろう。平田様様だな。
そんな頼れる潤滑油である平田は、現在デッキで軽井沢に捕まっている。つまり部屋にいないことは確定だ。少々の不安を覚えつつ部屋に戻ると、幸いにもそこは無人だった。高円寺には失礼だが、ほっと胸を撫で下ろす。
ベッドの上に置いていた本を手に取って再び部屋を出る。緒祈に借りていた小説を、三つ隣の部屋に返しに行く。デッキに上がるときついでに持って行けばよかったのだが、普段と違う平田の様子につい失念してしまった。それに、急ぐ用事でもなかったし。
徒歩十数秒の移動なので何事もなく終わるかと思ったのだが、あにはからんや、目的地を目前にオレは足を止めることになった。
「「あっ」」
狙ったようなタイミングで緒祈の部屋から出てきたのは、桜のヘアピンが映えるショートヘアの女子だった。
「綾小路くん、だったよね?」
「お前は確か……
白波
緒祈が親友と称す、Bクラスの女子生徒。
以前に一度面識はあるが、こうして一対一になるのは初めてだった。折角だし白波から見た緒祈の話でも聞こうかと思ったのだが、ここで思わぬ先手を打たれた。
「
「……」
反射的に「何のことだ?」と
無人島でのサバイバル試験でオレが暗に動いていたことを知っているのは、生徒ではオレ自身と緒祈の二人だけだ。堀北にも多少は知られているが、それでも全ては明かしていない。
下手に手柄を立てて興味を持たれるのは遠慮したい。オレの過去を詮索されるのは心の底から御免被る。だから堀北には――堀北にさえ、
ではなぜ知る人ぞ知るオレの暗躍をBクラスのこの少女が知っているのか。
……まあ、回りくどい推理なんかせずとも、その答えはあっさりと導かれるわけで。
「緒祈が喋ったのか」
「真釣くんは隠そうとしてたけど、あからさま過ぎて気付いちゃった」
「……やれやれ」
これだから緒祈は協力者として
「他言は無用で頼みたいんだが」
「悪いけど、約束はしかねるよ」
「……分かった。一之瀬については諦めるから、他の奴には言いふらさないでくれ」
「うん。それなら約束できるよ」
白波は我が意を得たりと、にっこりと笑って頷いた。
出来ることならもう少し確実に、安心できるレベルで白波の口に戸を立てたいところなのだが、ここで下手に高圧的な態度をとってしまうと巡り巡って緒祈の機嫌を損ねかねない。
いくらか不安は残るが、今日のところは緒祈の親友であるこの少女の誠実さを信じ、妥協するとしよう。
はあ、と溢したオレの溜息は、何かに気付いたらしい白波の「あっ」という声に消された。彼女はきょろきょろと辺りを見回し、声量を下げて言った。
「ごめんね。こんな廊下でする話じゃなかったね」
「そうだな」
幸いにも今は人通りが無いが、聞かれたくない話をする場所としてはやはり相応しくない。かと言って誰に聞かれてもいい当たり障りのない雑談をするほどの仲ではないので――
「じゃあ、オレは緒祈に用があるから」
「うん、お世話よろしく。じゃあねー」
「……ああ」
互いに手を振るわけでもなく、言葉だけで簡素に別れを告げる。
それにしても、以前会った時はもう少しおどおどしていた印象なのだが……話してみると存外堂々としていた。あの感じ、ひょっとするとBクラスにおける白波は結構中心的な位置にいるのかもしれない。一之瀬の右腕とか、その辺りの。
まあ、それを今気にする必要はないか。Bクラスとは休戦協定を結んでいるし、それがなくとも緒祈真釣の存在が『Bクラス対Dクラス』という構図を許さない。
今しがた白波が出て来たドアをノックして、返事を待たず中に入る。ベッドが4つあって、うち3つが空いていた。さっと見渡してみたが、緒祈以外の人影はなかった。
「やあ、綾小路君。元気そうで何よりだ」
「それはこちらの台詞だな。もっとグロッキーになっているかと予想していたが」
「酔い止めを変えたんだよ。効き目が強い分、眠気も強くなるタイプにね」
「そうか」
緒祈はベッドの上で上半身だけ起こし、もしゅもしゅとドーナツを食べていた。おそらく白波が差し入れでもしたのだろう。
碌に話も出来ないほどに衰弱していたらどうしようかと思ったが、それなりに意識ははっきりしているらしい。オレの名前を間違えるいつもの
「それで、今日は一体どうしたんだい? 世の中には『特に用事もないけど暇だから友達に会いに行く』という人が多くいるけれど、君はそういうタイプじゃないだろう?」
「ご覧の通り、本を返しに来たんだよ」
「あー、それね」
食事中の緒祈に直接手渡すのも
……なんか幸せそうな顔してるし、食べ終わるのを待つか。
それから3分間。隣のベッドに腰を下ろし、友人がドーナツを美味しそうに食べている姿をただただ眺めるという謎の時間を過ごした。
「ごちそうさまでしたっ」
食事を終えた緒祈は、ようやくこちらに顔を向けた。
「で、なんだっけ?」
「本を返しに来たんだよ」
「あー、はいはい。そうだったね。こっちに僕の鞄があるから、適当に入れといてー」
「はいよ」
ベッドの脇に置いてあった鞄を開け、一番上にぽんと乗せておく。
「ところで」
鞄のファスナーを閉じながら、緒祈に問いかける。
「ルームメイトとは仲良くやってるのか? 今は3人とも出てるようだが」
自分のことは棚に上げつつ、友人の人間関係を心配してみる。緒祈は部屋を見渡して、「ご覧の通りだよ」と肩を竦めた。
「
「……まあ、そうだろうな」
さして仲が良いわけでもないクラスメイトと部屋に二人きりという状況は、中々に落ち着かないものだろう。加えて緒祈は絶賛船酔い中だし、しかも別のクラスの女子が訪ねてきたりするし、積極的な友達作りをしないタイプの人間にとっては少々難易度の高いシチュエーションだ。
緒祈が船酔いしていなければ状況は大分変っていただろうが、それは言っても詮方ないことだ。
「体調はどうなんだ? 部屋から一歩も出ていないらしいが、歩くのもキツいのか?」
「歩こうと思えば歩けるよ。ただ、とにかく疲れるんだよねー」
「長時間は厳しい、と」
「そーゆーこと」
緒祈は困った顔で首肯して、やれやれと言いたげに首を揉んだ。
「じゃあ――」
もっと困らせるかもしれないけれど、折角なので篠原たちについても聞こうしたところで、
「「キィィイイイン」」
と。
耳に障る甲高い通知音が部屋の二か所から聞こえた。オレのポケットと緒祈の枕元。それぞれの携帯が同時に鳴った。
「なんだろう。火事でも起きたのかな?」
「だとしたら大事件だな」
流石にそれは無いと思うが、それでもこの音が重要度の高いメールの受信を告げていることは間違いなかった。なぜならマナーモードにしているはずのオレの携帯が、そんな設定に関係なく高らかに鳴ったのだから。
メールの中身を確認するより早く、今度は船内アナウンスが入った。
『生徒の皆さんにご連絡いたします。先ほど全ての生徒宛に学校から連絡事項を記載したメールを送信いたしました。各自携帯を確認し、その指示に従ってください。万が一メールが届いていない場合は、お手数ですがお近くの教員まで――』
「嫌な予感がする」
そう言って、緒祈は眉を顰めながら携帯を操作する。オレも届いたメールを確認してみる。受信ボックスの一番上にあった学校からのそれを開くと、中にはこんな文章が書かれていた。
――――
間もなく特別試験を開始いたします。各自指定された部屋に、指定された時間に集合してください。5分以上の遅刻をした者にはペナルティを課す場合があります。本日18時までに2階204号室に集合してください。所要時間は20分ほどですので、お手洗いなどは済ませた上、携帯をマナーモードか電源をオフにしてお越し下さい。
――――
「特別試験、か」
「うげー!」
緒祈が苦々しく叫ぶ。嫌な予感が的中したわけだ。
「そっちのメールも見せてもらっていいか?」
送られた文面は人によって違うのか、それを確認したかった。オレとしては画面をこちらに向けてくれるだけでよかったのだが、
「ほいよ」
「――っと」
緒祈は、お前は目隠しでもしているのかと言いたくなるコントロールで携帯を投げてきた。頭上を通過しかけたそれを、咄嗟に手を伸ばしてなんとか掴み取る。
「ナイスキャッチ」
「ナイス暴投」
画面を確認すると、果たして。
「時間と部屋が違うな」
「ふうん?」
基本的には同じ文字が並んでいたが、緒祈は21時30分に210号室を指定されていた。オレの4時間半後だ。所要時間が20分とあったから、生徒の入れ替わりを考えると30分刻みで8つ以上のグループに分けられていると考えるべきか? 一年生全員が集まれる場所も船内には何か所か見受けられたが、わざわざ分ける意味は何だ?
特別試験の中身を推測しようにも、現段階では手掛かりが少なすぎる。
「夜の9時半って、そんな時間まで起きていられる自信無いんだけどなあ……。綾小路君、僕の代わりに行ってくれない?」
「替え玉が認められるとは思えないぞ」
「だよねー」
まさかペーパーテストや体力測定ではないだろう。無人島サバイバルのような、通常の学校では行われないものかと予想される。ただ、そこで思考がどうしても行き詰ってしまう。
オレより早い時間を指定されている生徒がいれば事前に聞くことが出来るのだが、こういう時には自分の交友関係の狭さが恨めしい。特別試験に積極的に取り組んでいると思われるのも面倒なので、平田や櫛田に聞くのも
……白波に実力の一端を知られたせいで少々引け腰になっている気がしないでもないが、まあいい。とりあえず堀北と佐倉に聞いてみるとしよう。二人に送るチャットの文面を作成していると、緒祈が「ふわぁああ」と大きなあくびをした。
「試験に備えて僕は寝るとするよ。多分自力じゃ起きられないから、9時過ぎにでも起こしに来てくれ」
「わかった」
「じゃ、おやすみ」
そう言って、電源を落としたみたいにあっさりと、緒祈は眠ってしまった。すぅすぅと、無警戒に。
オレはふと自分の左手に視線を落とす。そこには緒祈の携帯が、画面を光らせた状態で握られていた。普段は本人しか知らないパスワードによって守られている情報が、今はオレの手によって自由に閲覧できる。
視線を目の前のベッドに移す。緒祈は確かに眠っている。
「…………」
友達とはいえ他者の携帯を勝手に操作することは、学校にバレたらそれなりの罰を受ける行為だろう。しかし『勝手に』でなければ、あるいは『勝手に』だとしても事後承諾さえもらえれば問題には成りえない。
この携帯の中に今すぐ欲しい情報があるわけではない。ただ、
だからと言って下手に攻めすぎるわけにはいかない。この程度のことでリスクを負う必要は全くない。だからまあ、こんなところだろう。
――30秒後。
白波千尋の携帯番号とメールアドレス、そして彼女のIDが、オレの携帯に記憶された。
不自然な部分が有れば報告いただけると幸いです。
不自然な部分が無ければ褒めていただけると幸いです。