織斑姉弟(へ)の献身 作:足洗
その、ほんの一言で、喜悦に身体は震えた。
『父親にでもなったような――――』
気恥ずかしげにそう零す男の、大きな背中を思い起こす。
そう思っていた。そうあって欲しいという夢想を押し付けていた。
違う。違うのだ。私が惹かれた男の、彼の有様、生き様は。それは
彼の中に、自分と同様同質の欠落を見付けた。
胸に空いた虚の穴。決して満たされることない飢餓の苦しみ。
いや、唯一満たせるものがある。ソレだ。
私を満たすもの、ソレが、お前だ。ジン。
だから、だからお前も、どうか。
私で満ちて欲しい。私達姉弟でお前を満たしてしまいたい。愛しきその虚をこの身に侵させて欲しい。
私はまた夢想する。
その為ならば、どんなことでもやってやる。どんなことでも。
「千冬姉?」
「ん……」
ふと気付けば、空になったカップの底をぼんやりと見詰めていた。そこにはただ僅かなコーヒーが黒い染みのように残留している。
視線を上げると、不思議そうな顔が自分を見下ろしている。姉の欲目を差し引いても、端整な、男女の別を忘れる中性という危うい美しさを湛えた貌。
小首を傾げる様も愛らしい……などと口にした日には、いよいよブラコンのレッテルを貼られるだろう。
「コーヒー、おかわりは?」
「貰おう」
カップを差し出すと、少年は既に手にしていたサーバーから温かなそれを注いでくれた。
香り高く、後引く渋味も舌に心地良い。自分で淹れたとしてもこうはならない。彼はいつの間にこんなにもコーヒーを上手く淹れられるようになったのか、それをきちんと思い出せない自分が情けなかった。
「授業には慣れてきたか」
「まあ、そこそこ。ジンにもいろいろ教わってるし」
「少しは自習もしろよ。でなければ身に付かん」
「は~い」
新学期の授業が始まって今日で三日目。
三度を数えれば日課と言えるだろうか。今日もまた弟達の寮室で夕食に有り付き、食後のコーヒーなぞ暢気に啜っている。
書類作成や教材の整理等は既に済ませ、消灯時間前後の見回りを残して一日の仕事は概ね消化した。それを好い事にこうして一夏やジンとの時間を満喫する自分は立派な贅沢者である。
まあ、当の男の方は現在入浴中だが。
「ああ、そうだ。一夏、以前から言っていたお前の専用機だが、やはり調整の関係上、学園に届けられるのは四日後。模擬戦が行われる当日になりそうだ」
「あー、そういえばそんなのあるって言ってたっけ。いいよ。訓練機の申請ももともと間に合わなかったし。千冬姉の無茶振りも慣れっこだからさ」
「ふっ、こいつめ」
軽口も随分達者になったもの。
とはいえ、ぶっつけ本番だがそう分の悪い勝負ではない。何せ我が弟だ。IS操縦の優劣は徹頭徹尾使用者の感覚、謂わばセンスに左右される。そういった意味で、一夏の生来のそれには目を見張るものがある。
特殊な武装を用いる場合を除けば、ISの真価とはその常軌を逸した機動性だ。現行の主力戦闘機を超える速力と旋回能力。ハイパーセンサー越しでなければ知覚すら叶わぬ
そして一夏にはそれができる。その確信があった。
では彼は、ジンは――――。
「……珍しいよな」
「? 何のことだ?」
「今回のこと。決闘、だっけ。そんなこと、ジンが言い出すなんてさ」
テーブルに乗せた両腕に顔を埋めて、ぽつりと少年は零す。視線は胡乱で、今はあの巨きな男を思い起こしているのだとすぐに見て取れた。
薄く、自身の口の端に笑みが上る。
「そうか? 私は至極あいつらしいと思うがな」
「え……なんでだよ」
てっきり共感を得られると思い込んでいたらしい。意外そうに一夏はこちらを見る。
「言葉で伝わらんことを行動で示そうというんだ。解り易い。何より、此度は相手が
「――――」
空気が制止する。
少年は沈黙する。
少年の瞳から色彩が喪失する。
私はただ穏やかに笑みを浮かべる。
数秒間の、世界との断絶。区切られた時間。私達姉弟だけの空間。
不意に、少年は身を起こして晴れやかな笑顔を見せた。
「千冬姉!」
「なんだ」
「
名案を思い付いたと。とても無邪気に弟は言った。
「だぁめぇだ」
「えぇ~! なんでだよぉ」
「ジンが気に病む」
「そっか。じゃ、ダメだね」
「ふふふ」
少年はテーブルに突っ伏して唸る。
「う~ん、ならどうしよう。殺すのが一番手っ取り早いんだけどなー」
「お前こそ珍しいな。オルコットのような手合いは今までにも腐るほど居たろう。いや、お前は眼中にも入れていなかったか」
「あー、なんだっけ。女権結滞団体とかいう」
「バカ、女権絶対だ。結滞……そりゃ不整脈のことだろう、確か」
「似たようなもんでしょ。社会のリズム乱すんだから」
「上手いこと言いおってからに」
欠片の興味も無いとばかり。少年は欠伸を噛み殺して頬杖を突く。
ふと時計を見れば、見回りの時刻も近い。この早寝の弟が眠そうな訳だ。
「同じなら、別にどうでもいい」
「違うのか? オルコットは」
「口ではジンが男だから嫌ってる、って風に言ってるけど違う。絶対に違う。アレは、男ってフィルターを言い訳にして、口実? うん、ジンに何か重ねてる……透かし見てる、何かを……何か……だから擦り寄ってきた。嫌いなら、遠ざかればいいのにわざわざ……」
「ほう……」
感心が吐息のように口から漏れる。
やはり、一夏の感性は鋭敏だ。第六感とも呼ぶべき
色恋に対しては相変わらずからっきしだが、元より必要もない。
不要なものを切り捨てたから、こんなにも素晴らしい純度になった。
「縋る手……ジンにさわろうとする、蒼い目……だから、俺の、おれのジンに…………」
「うん。わかるよ、一夏。でも大丈夫。心配ない」
「ん……」
椅子を立ち上がり、徐々に言葉少なくなっていく少年の傍らへ。テーブルに腰を下ろし、その濡れ髪を梳き撫でる。
気持ち良さそうに目を瞑れば、元より重みを増していた目蓋をもはや開くこともできず。
「……ゆるさない…………ジン、は……わたさ……い……」
「おやすみ、一夏」
少年は腕を枕に眠りに落ちる。
静かな足音が扉の向こうに立ったのはその直後だ。
開かれたその先に、巨躯の男が立っている。
人差し指を唇に立てると、男はテーブルを見て、それから小さく頷いた。
(寝室へ)
(ああ)
声を伴わずにそう囁き合い、そのまま男は少年を軽々と抱き上げた。
夢現なのだろう。一夏はぼんやりとされるがままに身を委ねた。
ベッドに入った弟の寝顔をもう一度だけ眺め、寝室を後にする。消灯時間も迫っていた。
そそくさと出掛ける準備をする。とはいっても、懐中電灯と特殊警棒を持っていくだけだが。当然のように、玄関まで男は見送りに来た。
「本日も夜間の警邏、お気を付けて」
「ははっ、まったく。いつも大袈裟だな」
こうして一礼で送り出されるのも当然ながら三度目になるが、可笑しいやら擽ったいやら。妙な気分だった。
そして、日課というのなら、もう一つ。
「ジン、今日の分だ」
「は」
そっと歩み寄り、両腕を男の首に掛ける。シャツを捲り、右の首筋、それよりもやや深い首と肩の境目あたりを露出させる。
しっかりとした骨格、その表面に厚く張った筋肉。滑らかな丘陵線を描く皮膚を望む。
風呂上り特有の、薄く浮いた汗と石鹸の香り。途端にくらくらとしてくる脳味噌を叱咤して、じっと目を凝らす。
綺麗な肌色だ。傷一つない。そう、
「……やはり、これは」
「はい、治癒、及び再生能力が増強されています」
「……」
驚きや戸惑いのような
こちらの心情を察した上でのことだろう。
兆候はあった。ジンが目覚めてからこっち、この男の首だの肩だのが平穏無事であった日はない。それはもう、張本人の一人である自分が言うのだからこれ以上確たる事実もあるまい。
なにより、弟は男の肩を食い千切ったのだ。
現代の再生医療が如何に日進月歩といえど、口一杯分の肉を削ぎ落とされて痕跡一つ残さず治癒するなどありえるだろうか。
ジンの大きな、生身の左肩を見ながらに思う。擬態と肉体の継ぎ目、そこにあった筈の“証立て”は消え失せていた。
異常なる再生能力。その元凶は間違いなく、男の体内に根差すモノ。
「
「……」
「……分かってるよ。お前の命を救ったのも、コレだ」
だからそんな哀しそうな顔をしないでくれ。
あぁ、とても、堪らなく切なくなる。
「自己満足も楽じゃない」
「それでも、貴女が……貴女や、一夏さんが、安心を得られるなら。何度でも」
「…………うん。ふふっ、そうだな。何度でも」
歯を立てる。強い弾力を感じ、さらに顎に力を加えていく。歯先が徐々に沈んでいき、ある一点で犬歯が皮膚を破った。
まだ。まだ深く。もっと強く。
皮膚を破り、肉を裂き、途端に滴る血を啜り取る。鉄の味と匂いが口内と鼻腔を満たし、同時に溢れるような安堵が胸に満ちた。
彼に自分を証立てる。そのような実感。所詮は、妄想に過ぎないけれど。
儚く消え去るただの慰めなのだと、今この時思い知らされた。
それが少し、寂しい。
「っ……!?」
不意に、男の手が髪に触れる。柔く、壊れ物を扱うような手付きで、梳き整え、丁寧に丁寧に撫でる。無骨な大きな手が、優しさだけを込めて。
それこそまるで、まるで。
「っ、んんっ、ふ、ぅ、ぁ……」
一撫でされる毎に、何かが崩れそうになる。それは賢しらな、世に言うところの理性というやつ。
背筋を伝う甘い痺れ。頭は酒精に酔ったかのようにふわりと高揚する。一秒前の自分よりも、確実にバカになっていく自覚があった。
熱い。
気持ちいい。
このまま、浸っていたら。
「…………んぁっ」
「もう、よろしいのですか?」
くちり、唇と男の肩に盛大な糸を引きながら、彼を解放する。
男の胸板に額を押し付けて、知らず知らず上がっていた呼吸をどうにか整えた。
「…………うん……これ以上は、少し、まずい……」
「は」
労しげなジンの目がこちらを見下ろす。大型の草食動物めいた穏やかな眼差し。
それに見られていることが、今はどうにも耐えられそうにない。
まるで逃げるように玄関の扉を潜った。
「いってらっしゃい、千冬さん」
「……いってきます」