織斑姉弟(へ)の献身 作:足洗
セッシーママ、ツンデレ&ヤンデレ説
バスルームのクリーム色の壁を眺め続けて、どれくらい経ったろう。
頭上のシャワーヘッドからは絶えず冷水が降り注ぎ、身体の表面は今や氷のように冷え切っている。
けれど、一向に冷めてはくれないものが、あった。
胸の奥深く、灼熱を発する感情。燃え盛る
「日野、仁」
歯を軋ませるように、鉛を吐き出すように、その名を口にする。
口にするだに、一層赫灼と炎は烈しさを増した。奥歯を噛み締め、目を眇め、壁に掌を叩きつける。その程度で静まるならば苦労はない。
憤怒は延々と我が身を焼いている。
あの男の、異様と言っていいほどの謙った態度。それを思い出すともはや打つ手はなかった。怒りの炎によってぐらぐらと散々に煮詰められた脳髄が、あらゆる罵詈雑言を沸き立たせ侮蔑と嫌悪を噴煙の如く滾らせる。
あの男の眼。こちらの嘲罵、冷罵の数々を受けてなお静謐を貫くあの眼が。我慢ならない。憤懣やる方もない。
癇に障るのだ。
あの男の在り様。
振る舞い。
言動。
行動。
視線。
表情。
声色。
吐息。
気配。
なにもかも。なにもかもなにもかもなにもかも!
「っっ! はぁっ、はぁ、はぁ、は、はあっ……!」
思考と記憶の混交、それが極点を超え、ようやく勢いを失った。
早鐘を打つ心臓。荒く乱れた呼吸を整える。
「……我ながら、どうかしていますわ」
たかが一人の男にこうまで感情的になるなんて。
元々、血の激しい性質であるという自覚はあった。けれど、これは異常だ。一個人に対してこんなにも心乱れることなど今まで一度としてなかった。
初対面、会って数分、交わしたのは一言か二言か、男性であるという偏見も多少あったろう。
それでも、焼け残った僅かな理性と常識が呟く。自分の、かの男への対応はあまりにも酷いと。
解っている。
解っている。
解っていてもなお。
「くっ……!」
そうしてなにもかも燃え尽きて、最後に現れるのは。
決して消えもせず、霞みもせず、褪せて薄汚れた記憶が頭の片隅に横たわっている。
忘れたくとも忘れられない……………………忘れたくない。
父の姿。
母にただただ遵うばかりの、痩せっぽちの惨めで惰弱で情けない、憐れな男。
英国内でも有数の名家オルコットに婿入りした父。その細い肩に掛けられた周囲からの重圧を理解できぬ訳ではない。
経営者として、家長として、貴族として、そして女として、強く凛々しかった母。母の生き様に憧れるほど、卑屈に身を縮める父がいじましく思えて我慢ならなかった。
きっと母もそうだったに違いない。
物心付いた頃には、家内での夫婦の会話は至極一方的で。苛立ち鋭くなるばかりの母の言葉を、父はただ黙って聞き入れ、おもねり、へつらい、謝罪すら口にして、最後には笑った。どんなに罵倒されようと、へらへらと笑うのだ。
母が間違っているとは思わない。きつい言葉の一つ一つにも理があり、自身も受け継いだ彼女の激情家な側面は物事に真剣であればこそ。
しかし、そうであっても、父とてもその胸の内には悲喜交交様々な慮りがあった筈だ。正否の問題ではなく、それを口にする権利が彼にはあった筈だ。
意見して何が悪い。感情をぶつけ合って誰が咎めよう。
――だって、夫婦って、そういうものでしょう?
だのに父は何も言わない。石のように口を閉じて、胸の想いに栓をして、ただ愛想笑いを浮かべて謙る。
奴隷が主人にそうするように。
父は母に服従する奴隷だった。
どうして、そう疑問を呈することもいつしか諦めた。父は、彼はそういう
軽蔑した。抗おうとしない父に。自分を、我を表さない父に。母と対等に、真っ直ぐに、“夫”として向き合おうとしない男に。ただ、失望した。
失望を拭う機会さえもはや失ってしまった。
両親は既に帰らぬ人なのだから。
「何故……」
何故だろうか。父の有様に対して抱いたこの失望を。
自分は何故、あの男にも感じているのか。
失望。望みを失うこと。望み。待ち希う。期待。あの男に、日野仁に?
何かを期待していたというのか。
意味が解らない。あの惰弱な男にこのセシリア・オルコットが一体何を期待するというのか。
そんなものあるものか。男に望むものなど何一つない。自分は母のような女になる。男など必要とせず、独力で全てを切り開いてみせる。
今までだってそうしてきた。死に物狂いで家を、財産を、母の築き上げた
誰の助けも借りない。これから先もずっと。
男など、父など要らない。頼りはしない。縋ってなどやるものか。今更、今更。
――――今更、どうして私は、あの男に父の影を見ているの。
シャワーを止め、バスローブを羽織る。
執拗に冷やされた身体は、抗議するかのようにかっかと熱を生産し始めた。冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターを乱暴に喉に流し入れる。硬いものが、喉奥を無理矢理に掻き分けて下りていく感触。
火照った身体には少し、痛快だった。
ソファに腰を下ろし、濡れ髪にタオルを巻き付ける。ふと部屋を見渡して、同室のクラスメイトがいないことに気が付いた。おおかた他の友達の部屋にでも入り浸っているのだろう。消灯時間が過ぎたからといって、素直に自室へ帰る者の方が少ない。十代の姦しさは、寮長からの折檻さえ恐れずなんのそのだ。
「……ふぅ」
冷たい水と牧歌的な思考が自身にようやく平静を呼び戻してくれた。
ふと見れば、テーブルには色とりどりのフルーツが硝子盃に盛られていた。学生寮の部屋にまさかウェルカムフルーツなど置いてある筈もないので、おそらくは同室の彼女の持ち込みなのだろう。おかしなことをする子だ。
盃の傍らには、木製の拵えをしたフルーツナイフが添えられている。
ダークブラウンの鞘と柄。何の気なしに手に取り……そっと鞘からナイフを引き抜く。
間接照明を灯すだけの薄暗い室内にあって、それでも銀の刀身が放つ輝きは刺すように目にも眩い。
鋭い光。刃。それは容易に鋭利な痛みを予感させた。切るという、原始的な、根源的な恐怖。
今更に身体の冷えを自覚したのか。背筋を悪寒が走った。
「……」
その悪寒は、同時に一つの光景を思い出させる。
同様の質感を持ったものを、つい最近自分は目にしたことがあった。
日野仁と共に、男の身でありながらISを動かした二人の人類の内のもう一人――“織斑一夏”。
あの可憐な容姿をした彼との会話は日野仁のそれと比べてもさらに僅かだ。いや、会話とすら呼べない。あれは。
「っ……!」
無彩色の瞳。奈落か、ともすると宇宙か。限りが見えない恐ろしさを持った目。人がましい温度を持たぬ眼。
それこそ、この、銀色の鉄器と同じ。
あの目に射竦められた時、身体に走った寒気を未だ忘れられない。一挙手一投足、あらゆる行動、あらゆる感動、存在そのものを否定されるような。拒絶の極地。
忘れられない。そう、
あの目を知っている。銀の刃の光と共に、それは記憶の奥深く刻まれていた。
名家の、名企業家の宿命というのか。オルコットの財産を狙う奴輩は、父母の存命中であろうがそれはそれは熱心に執拗に、虎視眈々と擦り寄ってきた。
甘言蜜語と美辞麗句を並べ立て、どうにかして取り入ろうとするならばまだ可愛いもの。脅迫と恫喝で力尽くに要求を飲ませようとする無頼、不届き者の類すら後を絶たなかった。
毅然と、そうした金の亡者共を蹴散らす母は与し難しと知るや、亡者共の矛先は見るからに御し易い父へ向けられた。
社交パーティなど開かれた日には、父の周りには怪しげな身分の人間が引っ切りなしに近付いてくる。
当時の自分には知る由もなかったことだが、所謂“関係”を持たせる目的でそういう
思い返せば確かに、矢鱈と身形の派手な女が父に言い寄る様を幾度も目にした気がする。物好きな人だな、としか当時の自分は思わなかったが。
でも、そうだ。そういう時だ。母のあの目を見るのは。
冷え切った、一欠片の暖かみもない、刃金のような目。
しかしその目が捉えていたのは父ではなく、父の傍らに馴れ馴れしく佇む下品な女。名も知らぬ女を。
母は見ていた。じっと。何を言うでもなく、何をするでもなく。
じっと見ていたのだ。
そしてその手には、一振りのナイフが――――
「お母様……?」
強く、気高く、理知的だったけれど時に激しく燃える性を持った母。
父に対しては、その性質は遺憾なく発揮された。焼け付くほどの熱を母は父にぶつけてきた。
そんな母が、あんなにも無機質な目をするなんて。
そしてその母の面影を、どうしてかの少年から想起するのか。
「日野仁……織斑、一夏……」
わからない。
セシリア・オルコットには、まだ。