織斑姉弟(へ)の献身 作:足洗
小気味良く響く包丁の音。くつくつ煮える鍋。軽やかな少年の鼻歌。
エプロンを身に付けた後姿が異常に様になっている。
一夏はフライパンを火に掛け、それが熱する合間に小皿へ移したスープに口を付けた。そうして思案顔で小首を傾げる。
「んー……鈴、ちょっと味見てくれよ」
「あ、うん」
何の含みもないだろうし何一つうろたえることもない。間接キスに思春期入りたての中学生みたいな動揺とかしないし。私高校生のお姉さんだし。サバサバ系だし。
顔が熱くなるのを自覚しながら、素知らぬ風で
「どう?」
「ん……いいんじゃない」
「そっかそっか」
味なんてほとんど分からなかった。満足そうに頷く少年には少し申し訳ないが。
手際よく五品目ほどをあっさりと仕上げ、さらにもう一皿何かこさえるつもりらしい。主婦顔負けというか料理人裸足というか。
手伝うと息巻いてキッチンに入り込んだ手前、つっ立っているだけのこの状態が馬鹿みたいだった。
なんとなく気不味い。沈黙の間が怖い。
「ジン遅いなぁ。キッチンペーパーなんて明日買い足せばいいのにさ」
「……」
今この場にいない男の存在を恋しがる自分は、きっと、いや間違いなく情けないのだろう。買い忘れ、なんて取って付けたような理由で仁は席を外していた。
一夏と私の二人きり、何よりも望んでいた状況なのに。
そして、この仁の
(本命の余裕ってこと? ……いいわよ。ありがたく利用させてもらうから)
めぐんでくれてありがとう。あわれてんでくれてありがとう。とでも言えば満足?
ふざけんな。
「……あぁもう」
「鈴?」
「っ、なんでもない。食器出すわ。えっと、こっちの棚?」
卑屈で嫌味ったらしい思考に嫌気が差す。どうしてそんな風に捉えようとするのか。
そうじゃない。
あいつは私の、一夏への想いを知っている。理解してる。相談した訳でもましてや話して聞かせたことだってないけど。一夏と違って、他人の心の機微にはすごく敏感なやつだから。
チャンスを、くれてるんだ。
三年前、うやむやになってしまった告白。その続きを伝える機会を、こうして御膳立てされた。
「ちょっとー、大皿ってこれだけー? この量じゃ盛り付けるのギリギリじゃない」
「あははは、張り切って作りすぎちゃったかぁ」
「あははじゃないっての。明らかに四人分じゃないわよこれ」
「まあジンも千冬姉もいるし大丈夫だろ」
でも、それなのに、素直に感謝できないのは。
知っているから。
理解しているから。
少年の想いに私は気付いてしまったから。
そして、人の心の機微に聡いあの男が、誰あろう一夏の想いに気付かない筈がないんだから。
「特にジンは見た目通りいっぱい食べてくれるし、作り甲斐あるよ。えへへっ」
「……」
「あ、そうだ鈴。最後の一品だけどさ」
気付いてる癖に、どうして私にこんなことをさせるの。どうしてあんたは何も応えないの。
どうして私は、私はあんたに。
「酢豚、作ってくれよ」
「――――へ?」
「昔よく食わせてくれただろ。鈴が作る酢豚、俺すっげぇ好きなんだよ」
息が止まるような、時間が止まるような感覚。
屈託のない笑顔で少年は言った。
それは正しくあの日の続き。中学に上がってすぐ、実家の食堂に少年を招いたあの日。なけなしの勇気ってやつを振り絞ってやった一世一代の告白……
直接直球で本心を伝えた訳じゃない。それはもう遠回りもいいところ。
『いつかもっと料理の腕が上達したら――』
日本人が言うところの『毎日味噌汁を作って欲しい』。こんなのがプロポーズの言葉になるなんて阿呆らしいと一時は笑ったけど、結局はその遠回りな言い回しに頼ってしまったのだから本当の阿呆は私なんだろう。
そしてこの鈍感男にはきっと、真意は伝わっていない。
『一夏さんは控えめに言って天にも昇るほど
そうした仁からのアドバイスもあり、過度な期待はしていなかった。
結果は案の定。言葉通り、文面以上の意味合いはない。告白もどきは盛大に空振りだったようだ。
つまり私は今こそスタート地点にいる。
「い、一夏……!」
「ん、なんだ?」
「あの、わ、私」
一度は決意して、失敗したとはいえ、告白を実行できた。
今この時それができない理由なんてない。
言え、言うの、さあ、今度こそ、この想いを――――
「一夏、が……」
「俺?」
「一夏…………は、か、彼女とか、いっ、いるわけ?」
どもりにどもった末、結局は盛大に日和った。
少年の可愛らしいキョトン顔が憎らしいったらない。
でもまだだ。諦めるにはまだ早い。直球は投げ損ねたがストライクゾーンを掠めている。
「そ、そう! 私達だってもう高校生よ? そういうのに興味あったって不思議じゃない。ううん無い方がおかしいわ!」
我ながら必死過ぎる。今だけは鏡を見られない。きっと耳まで赤くなっているだろうから。
「かのじょ? あぁ、彼女。いや、いないけど」
「そ」
勿論、この少年にそういった相手がいないことは再会前にクラスメイトからリサーチ済みである。けれどそれでも、少年の口から直接それを確認できたことにひどく安堵した。
溜息さえ、こぼれ出そうになった――
「まあ、俺はそういうの要らないかな」
「は? えっ、要らないって……」
「だって俺にはジンがいるし」
ごく当たり前の事実を口にするように。何の疑問もなく、ほんの微かな迷いもなく、一夏は頷いた。
「なっ……あははは、なに言ってんの? 私は、あんたが彼女作るかどうかの話をしてんの。なんで……そこで、なんで仁が出てくんのよ……」
「なんでって……」
一夏はそのくりくりとした目を瞬かせる。心底不思議なことを尋ねられていると。
「
どうしてか一瞬、幼児のように少年は舌っ足らずに口ずさんだ。そうして、ほう、と。ひどく熱っぽい吐息を零して。
夢見る乙女めいてたおやかに、蠱惑的に、彼は微笑する。淡く上気した頬、濡れた黒い瞳、唇さえ瑞に溢れて。
その耽美に知らず生唾を飲み込んでいた。
「ふふふっ、うん! 他にはなーんにも要らないや」
無邪気な笑顔だった。
息を呑むほど綺麗だった。
想い人に恋い焦がれる様、とてもとても身に覚え深いその姿……いやそれ以上の。
紛うことなき愛情があった。
一夏は仁を――――
「いやっ……!」
ダメだ。ダメ。それだけは。それを認めてしまったら。その愛の絶対性に一度でも屈してしまったら。もう二度と立ち向かえない。折れた心は二度と。
もう、私は私は私は私は私は私は私は私は、私は。
膨張する。理解と拒絶。頭を抱えても抑え込めない。絶望。
「や、いや、いやよ、そんなの、ぜったい、それじゃあ、わたし、わたしどうしたら……」
「鈴?」
「どうにも、ならないじゃない」
答えは出ていた。知らないふりをして、希望を捏造して、優しさに甘えて。
わかっていたくせに。
まだ、もしかしたら、きっと、そういう細い藁を手繰って手繰って。
行き着いた今。
「もう、どうしようもないじゃない……!」
私はそこから逃げ出した。
学園内スーパーから帰宅した直後、キッチンから小さな影が飛び出してくる。
反射的に躱すのではなく受け止めたのは、瞬間的に増強された動体視力が彼女の姿を捕捉した為だった。
「っ!? 仁……」
「鈴さん? 一体、如何されましたか」
こちらを見上げた少女の目に、微かに光るそれは。
幼さ残す愛らしいその顔貌。一瞬、驚きはっとした少女の美貌が――見る間に暗く翳り、歪んだ。
熱した鉄針の如き危うさを湛え今や憎々しげに、己を睨め上げている。
残光のような憎悪を引き、我が身を振り切って彼女は走り去ってしまった。
「鈴さん!」
制止の声に一顧だにせず、扉の向こうへその矮躯が消える。
追わねばならぬ。状況の理解を捨て置いて優先すべき行動だった。
「ジン! 今、鈴が」
転身し、一歩を踏み出しかけた時、キッチンから一夏少年が駆け出てくる。
端整な面差しが焦り、憂いに翳っている。
「追いましょう」
「うん!」
反問不要と、二人寮室から、廊下を駆け抜け寮舎から飛び出す。しかし、彼女の姿はどこにも見えない。
相変わらずの健脚。今ばかりは御自重願いたかった。
「鈴、泣いてた」
「……はい」
「俺が何か、酷いこと言っちゃったのかな……また、気付きもせずに」
「……」
織斑一夏という少年は、殊色恋に対してのみ飛び抜けて疎く、勘が鈍い。数多くの少女らが彼に想いを寄せては、微塵とて気付かれることなく淡い恋を諦めていった。
しかし彼は決して他人の心の有り様に無頓着、無感動な訳ではない。むしろ彼は繊細過ぎるほどに鋭敏な感性を持って、時に周囲が驚くほど緻密に人の心を感じ取ることができる。
「俺、鈴が好きだ」
「は」
「真っ直ぐで、嘘がなくて、誰も彼も差別しない。
夜風が吹き抜ける。微風には夏の兆しが香った。
その後に言を継がず、少年は頭を振る。
続きを聞きたいという心境も、また今の言葉をかの少女に聞かせてやりたかったという節介も湧くが、今は時が惜しい。
「手分けしよう。俺は校舎の方を」
「自分は研究棟方面を」
頷き合い、散開する。
疾駆する足取りに迷いはない。脳髄が事の仔細と経緯を考えるよりも、肉体はただ涙する彼女を、得難い我が友人を追わずにおられなかった。
――――なにより、鈴は、ジンを
少年は理解できない。少女らが自身に対して勝手に抱いている恋心など。
しかし少年は嗅ぎ取れる。愛する
――――だから俺、鈴が好きだ
ジンを好いてくれる。そして自身からジンを
とても好きだった。