織斑姉弟(へ)の献身 作:足洗
愛じゃなくて空気感が……
中学進学を機にアルバイトを始めた。
欲しい物を買う為、遊ぶ金欲しさに、社会勉強、暇潰し……同年代の少年少女らがバイトに勤しむ理由を想像しようとして、すぐ止めた。
無意味であり、惨めだからだ。まるで、それらを下らないと詰ることで、自分の自尊心を保とうとしているように思えて。
織斑千冬にとって労働とは生きる術だ。生活費を稼ぎ、食べていく為、たった一人の弟を養う為の義務。責務だ。
日々、追い立てられるように働いた。毎日毎日働いて、働いて、働いて、日付を跨いだ頃に帰宅し弟の寝顔を見てから泥のように床に沈む。
それが全て。
けれど、その生活を厭うたことはない。一夏の為なら、己はなんだってやれる。
……そう意気込む己に愛想が尽きたとばかり、酷使を続けた肉体は確実に磨耗していった。
奮起する精神とは裏腹に、起きている時でさえうっかり意識を失うことが多くなった頃。
幸か不幸か、私は日野仁と出会った。
資格はおろか実務経験もない中坊のガキがある程度の金額を稼ごうとするなら、必然的に選べるのは肉体労働が中心になってくる。それも、学校での授業を終えた夕方から深夜までの勤務、夜勤のある職場が望ましい。
加えて、これが最も重要と言えるが……就業規則をあまり
これらの条件を全て揃えた仕事を探すのは――然程、難しくはなかった。
倉庫整理や製品の梱包という所謂“軽作業”。作業着の支給はあるが運搬車両の類はなく、重量物であろうとほとんどが手作業。急な追加作業、残業は当たり前。
黒に近いグレーだ。
実入りは悪くない。残業には手当ても出た。金になるならそれでいい。
外国人労働者に混じって無心に作業をこなす日々。朦朧としながら気づかぬ内に増えていく生傷は数えるのも馬鹿らしくなった。
『日野仁と申します。本日から従事致します。御指導、御鞭撻のほどよろしくお願いします』
上役の話をぼんやり聞き流していたとき、いやに低く重い声が耳と腹を揺さぶった。
漫然とした視線を向けると、いやにガタイの良い青年が、これまたいやに綺麗な角度で辞儀している。
新人か。ただでさえ忙しない時期で自分の作業にそれぞれが手一杯なのだ。教育を任される者はさぞ苦労することだろう。
……などと、他人事に構えていた内心を見透かされたのか。『織斑さん、いろいろ教えてあげて』という上役の鶴の一声で、己自身がその苦労を背負い込むことになった。十四の小娘に教育担当を丸投げする無責任さには腹も立つが、その無責任さのお陰で仕事ができているのだから始末に負えない。
隠すことも忘れた溜息を吐き捨てた。
『……作業自体は単純だ。最初はトラックへの積み込みからやってもらう』
『了解しました』
そこでふと、うっかり普段の口調で口を利いていたことに気付いた。我が身の粗暴な性質は自覚済みだが、得てしてそれが社会にあっては致命傷になると多少学んでいたものを。
青年を見た。
戸惑うでもなく、さりとて気分を害した様子も見られない。精悍な無表情。無愛想な奴だ。人のことを言えた義理ではないが。
単純作業の名に偽りはないが、量が量である。かなりの時間を食うだろう。
淡々と作業をこなす背中を見限り、これ幸いと自分の作業を進めた。
『終わりました』
『は?』
作業を終えたら手伝いに向かおうなどと皮算用していた折、先刻同様の淡々とした声が頭上から降ってくる。
あの量を、この短時間で?
『……なら、次は』
『はい』
新たな作業を割り振り、自分の作業に戻る。
そろそろ様子でも見に行くべきか、頭の片隅でそんなことを考えていた時。
『終わりました』
『えっ』
今度は他の作業者のサポートをさせる。複数人でのライン作業だ。処理速度は一人一人違うから、どうしようとも一定の待ち時間が生まれる。
自分の作業を進める。
『終わりました』
『……』
タイムロスをゼロにするとこの程度の時短は可能なのか。明後日の方向で感慨が湧いた。
無尽蔵とも思える体力と外見通りの腕力で、七日目にして青年は現場作業の主力となっていた。それは、素直に良いことだと言える。
しかしどうしてか、彼は相変わらず己の預かりのままだった。アルバイトの分際で部下など付けられたところで持て余すだけであろうに。
ただ、迷惑だと切って捨てることも難しかった。
『助勢を』
『ん、ああ』
青年はいつも言葉少なに仕事を半分持っていく。自分自身のノルマ、作業場全体の雑務、そして私の手伝い。
それは、よく考えずとも凄まじい作業量の筈だ。しかし彼から疲弊した様子は見て取れない。身体の造りが並ではないのか、それとも隠すのが上手いのか。それは分からない。
ただ一つ分かったことは。
『お疲れ様です』
『お疲れ……』
『……もし可能ならば、一度休憩所でお休みになられてはいかがでしょうか』
『え? あぁ、いや、明日も早くてな……家の用も片付けたい。今日はこのまま失礼する』
『承知しました。では、せめてこちらを』
『……塩飴なんて久しぶりに見たな』
『お帰りの道中、どうかお気をつけて……このような差し出口をお許しいただければ幸いです』
私は自分が思うほど、隠すのが上手くはないらしい。疲労困憊した身体は、宿主とその外へ盛大に抗議の声を上げていた。
金を稼ぐと息巻いておいて、他人に、それも会って十日と経たぬ相手に気付かれていれば世話はない。
青年のささやかな気遣い。そして仕事に際しても相当の負担を肩代わりしてくれていたことに感付いたのは、それからさらに数日後のこと。
休憩時間によく話をするようになった。他愛のない世間話が主だったが、青年は存外に聞き上手だった。
こんな小娘相手にあの馬鹿丁寧な調子は面食らったものだが。他者に対するその異様な
『弟御が居られるのですか』
『ああ、今年小学校に上がったばかりだ。可愛いぞぉ~。写真見るか?』
『是非……よく似ておられる』
『そうだろう! 大きくなるにつれてどんどん似てくるんだ。それが嬉しくてな』
『活発な御子のようで』
『元気にそこら中走り回ってるよ。運動神経も私似だ。ふふふっ』
初めてだった。こんな風に自分の家族を他人に紹介するなんて、今の今まで一度もなかった。機会ではなく、きっと、そんな余裕がなかった。
気負うばかりの生活。摩滅していく自分自身。仕事に消費される時間。
弟の寝顔を見ることだけが心の支えだった。
でも、それじゃあ。
一夏の笑顔を最後に見たのはいつだ。
一夏の声を最後に聞いたのはいつだ。
思い出すことは容易い。朝、泥沼に囚われたかのような眠りから這い出して、家の雑事をこなし、朝食を用意して、授業の荷造りをして、買い置きの弁当を持たせて一夏を学校へ送り出す。
あれ。
『一夏がいるから私は頑張れる』
私は、いったい。
いったいいつから。
『一夏は私の、自慢の弟だよ』
忙殺され、追われるように過ごす日々の中で不意に訪れた安らかな時間。錆び付き鈍磨していた頭が今更にきりきりと回転を再開する。安息は、同時に見て見ぬふりを続けてきた現実を思い出させた。
いつから私は一夏を放置していたのだろう
学校でどんな勉強をしているのか。
その日は誰とどんなことをして遊んだのか。
友達は何人いるのか。仲の良い子や悪い子は。
食べ物を好き嫌いしてないか。……好物はなんだったろう。野菜は何が嫌いだったろう。
欲しい物はないか。
どこか行きたい所はないか。
一人は、寂しくないか。
寂しくない筈が――――ないだろうが
『織斑さん』
『……なんだ』
余裕などできてしまったから、張り詰めていた心に隙が生まれた。
もっと頑張らなければ。もっと、もっと、頑張って働いて、金を稼ぐ。一夏の為に。一夏の将来の為に。
だから、中途半端な安息など要らない。それは覚悟を鈍らせる。
そうだ。自分の安楽など知ったことか。どうでもいい。身体が動きさえすればそれで。
一夏さえ幸せになってくれたなら、私など。
『お帰りください』
『は?』
ささやかな安らぎを自身に齎した青年は、私を見下ろしてそう言った。
意味が解らなかった。
『ふざけるな。まだ仕事が残ってるんだ』
『本日貴女が従事すべき作業はここにはありません』
『何を世迷言を』
『前言の通りです』
話にならない。
苛立ちが極点を迎えた。
『いい加減にしろ』
『本日はお帰りを』
『五月蝿い!!』
『織斑さん』
『私はっ、私はなぁ!』
握り固めた拳で一体何をしようとしたのかは明白だった。
しかし、打ち込むべき相手の顔がこちらを向かねばそれも叶わない。
『伏して、お願い申し上げます』
固く冷たいコンクリートの床に青年は両膝と両手を付き、最後に額を押し付けた。
『本日ばかりはどうか、お帰りください』
大きな当惑を抱えて帰路に着いた。
上役もまた、その日自分が担当すべき作業は無いと言う。いや、前日の段階で既に消化されていたそうだ。
誰がそんな真似をしたのかは、考えるまでもないことで。
不可解ばかりが蟠る。
アパートを見上げると、部屋には灯が点いていた。当然だ。今は夕飯時。寝静まるには非常識な時間だろう。
妙な気分だった。帰宅した自分を出迎えるのは、青白い街灯の光と暗い玄関。家の灯は、こんな暖かな色だったのか。
不思議な緊張感を覚えながら、鍵を開けて扉を潜る。
『ただいま……?』
返事など返ってこない。それが当たり前だった。
『! おかえり、千冬ねぇ……!』
声はキッチンから響いてきた。
台の上に乗ってコンロに向かっていた一夏が、目を見開いてこちらを見ている。
少年はすぐさま駆け寄ってきて腰に縋り付いて来た。
『なんでなんで!? どうしたの千冬ねぇ!?』
『あ、ああ。その……今日は仕事が早く片付いたんだ』
『じゃ、じゃあ、今日はいっしょにごはん食べられる……?』
『……そうだな。一緒に食べよう』
『やっっったーーー!!』
それを聞くや、一夏はその場で飛び跳ねた。全身で喜びを表すように。
『そうだ!』
突如踵を返して、少年は食器棚から皿を取り出し、コンロのフライパンを取り上げた。
皿の扱い、フライパンの重み、何より今の今まで火を使っていたことに声を上げそうになる。けれど、吐き出そうとした言葉はすぐにどこかへ消え去ってしまった。
『はいこれ!』
『……』
白い皿の上には、ところどころ黒く焦げた卵が乗っかっていた。歪で、形などあってないようなもの。
『タマゴ焼き! 千冬ねぇ、遅くまで仕事大変だから、こんどからオレがごはん作るよ』
『――――』
『オレ、がんばってお手伝いするからさ。千冬ねぇのこともっともっと助けられるようにするから、だから――』
滲む視界の中で、少年の笑顔が眩しかった。
涙が止め処なく流れ落ちていく。せっかく作ってくれた卵焼き。
『千冬ねぇ?』
『!!』
少年の小さな身体を抱き締める。
強く強く。
『千冬ねぇ、どうしたの。どっか痛いの?』
『っ、ふ、ぐ、ぁ、いちか……すまない……こんな、情けないおねえちゃんで……!』
置き捨てたと勘違いしていた。違ったのだ。とんだ思い違いだった。
少年はいつだってここで、この部屋で自分を待っていてくれたのに。
誰が為の献身か。それをようやく思い出せた。
『ありがとう……!』
幼い弟の無垢な愛に。
青年の不器用な慈しみに。
私はただ、それを繰り返す。