織斑姉弟(へ)の献身 作:足洗
転校してから一ヶ月。私がクラスに馴染むまでに掛かった時間だ。
長いと言えば長く、普通の子だってそんなものだろうと言えばそれまでだけど。
一夏がいなければもっと時間が掛かっていたろう。いや、それどころかずっと孤立したまま卒業を迎える羽目になっていたかもしれない。
それくらい自分の性格はなかなかに難儀だった。
喧嘩っ早い。癇癪も多少持ってる。その癖妙に正義感に厚い。
軋轢生産器として凰鈴音という女は無駄に優秀なのだ。自慢にもならないけど。
『鈴、今日はどこで遊ぶ?』
無邪気な笑顔で問いかける。少年の存在に私は救われた。
こんな面倒な女によくもまあめげずに関わり通してくれたものだと、我がことながら呆れる。
呆れて、こみ上げてくる喜びに笑みを零した。
有頂天、というやつだった。
毎日が夢のようで、初恋を自覚した時は、涙が出るくらい嬉しかった。この少年で良かったと、この少年が良かったのだと心底思った。
だから、って訳じゃない。
その日も私は、要らない正義感を働かせてしまった。いや、「一夏ならこうする」なんて使命感すら持って。
街中で女の子に執拗に絡む男二人組。目に余ったし、困り果てた様子の女の子達を見て義憤すら湧いた。
男の一人に飛び蹴りを見舞った。それは見事に、男の側頭部へと突き刺さった。
昏倒した男ともう一人に捨て台詞を吐き捨てて、女の子達からはお礼もされた。誇らしい気持ちがなかったかといえば真っ赤な嘘になる。
有頂天だった。本当に。馬鹿みたいに
後日、私は捕まった。
その男の仲間達。ナントカってグループ? 族? とか、カラーギャングとか、そんな風習がこの地元でまだ生きている事実にまず驚いた。
十人もいたろうか。
当時小学生の、それも、業腹だがこんな
その理由はすぐに分かった。私が“織斑”の身内だったからだ。
織斑という名はその筋では随分と有名だったらしい。特に千冬さん。あの人が片手間に潰した不良グループ、ヤの付く関係団体は一つや二つや三つや四つでは利かないくらいあったとかなかったとか。
そういうのの末端の、残りカスの、ろくでなし共。
連れて来られたのは潰れた地下のバーだった。
如何にもってシチュエーションを笑うべきだったかもしれない。その時の私にはそんな余裕なかったけど。
さあこれから程よく
『鈴!』
一夏が、駆け付けてくれた。来てくれたのだ。まるっきりヒーローみたいに。実際、その瞬間の少年の姿は私にとって間違いなくそれだった。
でも、現実はやっぱり吐き気を催すくらいに苦く、冷たい。
成人男性が十数人寄って集って、小学生の子供を殴る蹴る。たっぷりの私怨と嗜虐欲で。
小動物を虐め殺すくらいの感覚なのだろう。相手が子供だからなんていう常識的躊躇、感性を、この無頼達は持ち合わせていなくて。
見る見るうちに少年は襤褸雑巾のようになった。
私はただ泣き叫んだ。それは制止どころか、男達の暴虐に対する起爆剤にしかならなかった。
喉から血が出るまで叫んで、水溜まりが出来るまで泣いても、その光景は終わらない。
私はただ見ていた。
口の中に満ちた無力をただ味わった。
そして、これは罰なのだと遅まきに理解した。
事の因縁の始まりは、ずっと前のことなのだろう。けれどこの光景の出発点は、私だった。
私が、安易な正義感と自己陶酔の為に放った暴力。それが今巡り巡って、大好きな少年を痛め付けている。
自分が振るった暴力は、自分に返るどころか最も大切なものを破壊しようとしている。
その現実が、私の眼球から脳へと叩き込まれてくる。
私はガタガタと震え上がった。恐怖で体の中がぐちゃぐちゃに掻き回され、液状化して流れ出した。
失禁する私を、男達はげたげた笑った。
恥ずかしいなんて思うだけの気力も既に尽きていた。
動かなくなった一夏。
雨のように降り注ぐ笑い声。
無力感と罪悪感が胃の腑から吐瀉物となって溢れてくる。
ここは地獄だった。
『なんだてめぇ』
階段を下りてくる足音に気付いたのは、無頼の一人が声を荒げたからだ。
色も温度も、感覚の何もかも遠ざかっていく中で、その硬質な音だけはいやにはっきりと耳をついた。
暗がりから、今まさに形を結んだかのようにその男は現れた。大柄な体躯、精悍な顔付きに表情は無く、その瞳はとても静謐だった。
男は無言で私と一夏を見詰めた。一夏の様を目にした時だけ、瞳の中の静謐が僅かに揺らいだように思う。
『なんだって聞いてんだよ』
『てめぇも織斑の身内か』
『なんとか言えやこら』
じっと動かない男に痺れを切らしたチンピラががなり立てた。対する男のリアクションは、その印象とは正反対に劇的だった。
男は、手近に転がっていた木製の椅子を手に取り、床に叩き付けたのだ。
『――――』
固い床面に打ち付けられた椅子は、派手な音を立ててばらばらに砕け散った。
あれほど悪態と怒声を発していた無頼共も、その行動に黙り込む。しん、と静まり返る薄暗い空間で、ただ一人男だけが動いた。
床に散らばった木材の欠片、短い棒切れのようなそれらを拾い、どうしてかまた床に並べていく。
意味不明な行動に言葉も為す術もなく、その場の全員がなおも沈黙を貫く中。
幾らかの棒切れを並べ終えた男は、床に両膝を突いた。そうして腰を下ろし背筋を伸ばす。背骨に鉄の芯が埋められているかのような偉容。
綺麗な正座で、男は初めて口を開いた。
『これよりは、自分が貴方方の暴行をお引き受け致します。素手で殴るも蹴るもよし。手近な得物を振るうもよし。この木材、あの鉄材、鈍器刃物の別なく、どうぞお好きなように』
一息にそれだけ言い終えると、男は真一文字に口を結んだ。それ以上の問答は無用とばかりに。
ぷっ
数秒の静寂が過ぎた後、どっと男達の笑い声が空間を揺らした。
心底から嘲り、蔑み、面白がって、笑う。嗤う。わらう。それは悪意に満ち満ちた愉快。
そして無頼は無頼であり、男のその特異な行為にも遠慮などしない。
まず、一人が男の顔を殴った。一人は男の腹を爪先で蹴った。一人は男の背中を踏み付けた。
サンドバッグをそうするみたいに、一切の加減も、躊躇もそこにはなく、彼らが一方的な暴虐を振るうことに慣れ切っているのだと今更に気付いた。
そうして、一人の男が床の棒切れを拾い上げた。せっかく用意してくれたのだから使わないのは失礼だ。卑しく口を歪めて、そう言った。
がつん、それは肩へ振り下ろされた。先程までの殴打とは違う。もっと硬く、甲高い音。骨に響く打撃の調べ。
それを皮切りに、無頼共は手近に転がるあらゆるもので男を打ち据えていった。
木材、鉄パイプ、灰皿、脚長のカウンターチェア……ありとあらゆるものを使って、丹念に丹念に、男を痛め付けた。
彼らは決して頭だけは狙わなかった。暴力に酔い興奮の中にあるようでいて、失われない冷静さとその
叫ぶことも忘れ、涙すら枯れた。
感じること、思うこと、そうした機能が死んでいく。
その光景の非現実感に、おぞましさに、心の何処かが死んでいく。
『ジンッッ!!』
少年の叫びが木霊した。
抜け殻のようになっていく自分とは逆に、一夏は叫ぶ。喉の裂ける音を聞いた。ボロボロの身体で床を這い、名を呼ぶ男の元へ行こうとした。
口から血を吐き、腫れて塞がった目から涙を滂沱させて、床に血と反吐と涙の轍を残しながら。
少年の声に、乞うような泣き声に、男は応えない。
自分自身を襲う暴力をただただ受け入れている。微動だにせず、苦悶すら漏らさず、正対の座を一切崩すことなく。
それは、きっと無頼共さえ見たことのないモノだったのだろう。
不動。全くの不動を貫き、全ての痛痒を甘受する男の様。
異常、異様、異質。少しでも悶え、苦しんでくれれば安心できた。今やその全身で静謐する男は、ひたすらに不気味で、怖ろしい。
いつしか男達は鈍器を振るわなくなった。男が何か得体の知れないものに見えるのだ。迂闊に触れるのも、近付くのも躊躇われるような、何かに見える……私と同じように。
その男が、日野仁が私は怖ろしかった……畏ろしかった。
無反応の男を見限って、恐れ怯んで、チンピラの一人が矛先を変える。
泣き叫び、床をのた打つ少年へ。
目の前の男よりは余程、人間らしく見える少年へ……まるで逃げるように……鈍器を振り上げた。
『ダメぇ……!!』
ズタボロの喉を絞って叫びを上げた。
鉄パイプは真っ直ぐに少年の背中目掛けて落ちていき――落ちて――打ち降りて――――いなかった。
無頼の腕を掴む手、巨大な手掌、日野仁がそれを許さなかった。
『それを振るうべき相手は彼ではない』
今の今まで不動を貫いていた男が、意識の外から襲来した。その恐怖に私は共感する。
恐怖のままに、無頼は手にした凶器を振るった。一瞬の、恐慌状態といってもいい。脅威に対する当然の防御反応として、鉄パイプで仁を打った。仁の額を。
金属の音が劈く。今までで一番硬く、重い音。
びちゃり、続いて響き広がったのは、飛沫。噴出したそれが床と言わず壁と言わず飛び散り、自分の顔にまで跳ね掛かる。
それは水よりも粘り、濃厚で、暖かかった。
薄暗闇の中でさえどす黒く紅い。仁の血。仁の命脈。
額から頬へ、頬から顎へ、顎から垂れ落ち、さらに首筋を汚す。白いカッターシャツが、赤黒く染まっていく。
空気の静止を感じた。
何かを越えたという予感。ただの暴虐が、殺戮に切り替わってしまったという怖気。
けれど。
『それではまだ死なぬ』
仁は言った。その静謐の印象を微塵と変えず。
『己はまだ生きている』
無頼が後退った。
仁はそれを追った。
『望みを果たされよ。暴虐の欲求を満たすがいい。さあ』
迫る。どこまでも静かに、淡々と。
『さあ』
仁が踏み出す。その一歩で血が噴き出し、床板を塗り上げた。
赤い、自分の命の雫を踏み締めて、男は暴虐のその先へ彼らを誘わんとした。
その姿は。
その有様は、まるで。まるで。
『さあ』
――――化物
そう誰かが言った。
無頼の誰かだったかもしれない。もしかしたら……私自身が口にしたのかもしれない。
突如として、一人の男が手にしていた凶器を取り落とし、後退り、そうして逃げた。背を向けて、一目散に。
それが合図だった。
十数人の大の大人が、先を競うように逃げていく。大量の足音が遠ざかっていく。
その背中にありありと恐怖を張り付けて。もう付き合ってはいられないと。
薄暗がりに、三人だけが取り残された。
『ジ、ン……』
『……一夏さん』
男が少年を抱え上げる。血に塗れた男に、血に塗れた少年は縋り付いた。
『ごめん……ごめんっ……オレが、ちゃんと……鈴を守れたら』
少年の言葉に心臓を握り潰される。
違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う違う――私だ。全部全部私の所為だ。私が馬鹿で、愚かで、能無しの脳無しだったから。
一夏は、こんな。こんな!!!
『よく、忍耐されました。お友達を守り徹された』
『ぁ……』
穏やかな声、それは慈愛に満ちていた。
男は愛おしげに少年の髪を撫で、梳いて、優しく微笑んだ。
『よく頑張りましたね、一夏さん』
『あぁっ……あぁぁああぁぁあああああぁああぁああ!! うっあ、く、ぅ、う、ぇあ……ごめんなさいっ!! ごめん……! ジン……ジンッ……!!』
ごめんなさい。
滲む視界の向こうから、その言葉だけが響いてくる。
ごめんなさい。
耳に入り、頭蓋骨の内側を反響するようにリフレインする。
ごめんなさい。
枯れたと思った涙を拭い、私はただその光景を目に焼き付けた。男と少年。
傷付き、泣き崩れる少年を、男は心からの慈愛で暖めた。その血潮の一滴すら少年の為に使い尽くすのだ。
その光景を、私は心底羨んだ。最愛の人を、全身全霊で愛し尽くす男の在り方に憧れた。
そして知った。
少年に恋い焦がれ、欲し求め愛するようになるほど。
自分に足りないものを。自分が為すべきことを。自分が
彼こそは理想なのだ。私が目指す到達点。
私が一夏を愛し尽くす為には、私は仁そのものになるしかない。
血の華の中心で慈しみ合う彼と彼。
そこに私の