織斑姉弟(へ)の献身 作:足洗
日も落ちた午後八時十分頃。己は自室で休息も取らず、寮舎の廊下を一人歩いている。
目的の部屋は一階のエントランス傍にあった。なるほど生徒の動向の監視もまた役割であるのだから、この立地はごく自然と言えよう。
生徒指導および監督役用宿直・寮長室、つまりは千冬さんの自室前に辿り着いた。
女性の部屋を訪れるには、そろそろ非常識と言える時刻だろう。そうした無作法を承知でここへ足を運んだのは、誰あろう寮長殿その人よりの呼び出しを受けたからに相違ない。
扉をノックする。
――入れ
誰何もせず入室を促される。己の訪問が予定されていたことに加え、千冬さんの知覚能力を以てすればたかが扉一枚を隔てた程度、生身で対面することと然したる違いはない。
ノブを回し、そっと踏み入る。
そうして踏み出し掛けた足を中空にて止めた。
「……」
足の下、床に
ジャケットであった。普段、学内での彼女が召している標準着衣。ダークスーツの一部だ。
それがどうしてか玄関先の廊下に放り捨ててある。
着地点を探して足を運ぶ。半歩隣にはYシャツが団子状に積み重なっている。
その山と積まれたYシャツの枚数と同じ数だけクリーニング店の返却用ハンガーがまた一つ二つ、三つほど山を作っている。
廊下の隅からリビングの隅へ、使用済みと思しき化粧品のボトルやケースが……三分の一ほど未開封のまま並び、放置されている。
缶コーヒー、缶ビールの空缶と空箱。これらも中身の有無に関わりなくそこかしこに散乱している。
思いの外に生活雑貨の類は、あくまでも、比較的、少なく、部屋の床の大部分を覆っているのはA4サイズの用紙。何らかの資料であるらしかった。
記載されている文字列を視界に
彼女の立場を考えれば、企業的、あるいは国家的機密に抵触する情報を取り扱っていたとして何の不思議もないのだから。
「すまん。少し待ってくれ」
こちらに背を向けて窓際のデスクに千冬さんは向かっていた。手元ではノート端末を開き、何やら文書を作成している様子。
「明日付けで報告書を上げろと放課後に連絡を寄越しくさってな。役員の婆共め」
「それは……御疲れ様です。教職とはやはり、煩忙と無縁ではおられない」
「ん? いやそっちじゃない。防衛省に送り付けるやつでなー。あ、一応、足元には気を付けてくれ。わざわざ紙で残す程度にわりと重要な資料なんだ。国防的な意味で」
「……」
予想が当たっていたところで何一つ嬉しくはなかった。
我が国の自衛能力に関わる重大な何某かは今現在、とある独身女性の汚部屋の床に無造作にぶち撒けられている。
「ベッドを使ってくれ。というか、座れる場所が今そこしかない」
「そのようで」
「一夏には内緒だぞ。あの綺麗好きがこの部屋を見たら発狂しかねん」
「既に一時的狂気を発症しかけています。自分が」
先程にも増して殊更慎重に足を運び、この部屋唯一の安全地帯らしきベッドに腰を下ろす。
暫時、キーを叩く彼女の背中を見守った。
首筋から背筋へ、肩甲骨に沿うようなY字に繋がった肩紐。所謂レーサーバックのタンクトップとホットパンツという、いつもながらラフに過ぎる室内着であった。
椅子の上で胡坐を掻き、時折乱暴に頭を掻く姿は、十代の頃の彼女と何一つ変わらない。あの時は学校の課題に追われていたのだったか。
懐古の情というものは、いつどこで湧き上がってくるか分からないのだと改めて思う
「……」
「んん~っっ! これで一段落、かな」
「御疲れ様です。コーヒーでも」
「すまん、豆を切らしてる。インスタントもないな。缶は確か……」
言いつつ、椅子の上に立ち上がった千冬さんは室内を見渡し、資料の海の只中にある缶コーヒーの段ボールケースを見止め、指で距離を測り、狙いを定めて――跳んだ。
とん、と然したる音も立てず宙へ踊った彼女は、ケースの直前に空いた一足分の隙間に着地。今度は完全な無音だった。
「あったあった。ジン、左に少しずれてくれ」
「? は」
「もっと枕元の方に。もう少し壁際がいいな。そうそう。ああ右脚は投げ出すように」
言われるまま位置を移る。
そうして彼女は先程と同様の仕草で目測を定め、再び跳んだ。前転しつつそう高くもない天井の直下を潜り、落下と共に体勢が変わる。畳まれていた脚を伸ばし、身体を一気に横に倒す。
気付けば千冬さんは、己の右腿に頭を預けてベッドに横になっていた。
ぽふ、などという軽々な擬音を幻聴する。それほどまでに鮮やかなベッドイン……語弊はあるが。
「んっくぅ……あ゛ぁ~! 疲れたぁ! 私は疲れたぞぉジン!」
「はい」
「はいじゃない。褒めて。撫でて。労わって」
「今日も一日千冬さんは頑張りました。立派に御勤めを果たされました。千冬さんは昔から、とても偉い娘です」
「……にゃふ」
にへら、と、ここまで相貌を崩す彼女を見るのは、久方ぶりというほどでもない。
親交を深めて行く内、いつしか、自然と、こうなった。自立心とそれに見合う能力を備えた彼女の事、とても甘え上手とは言い難く。学生の時分から社会人の現在もまた、疲労と鬱憤の累積は大きかろう。
であればこそ、時折でも甘えや脱力の術として己を用立ててくれるなら――これに優る喜びはない。
凛然とした女性としての彼女と、伸びやかに寛ぐ少女としての彼女は紛れもない同一人物。どちらの彼女も同じほどに尊く想う。
「……なぁ、ジン」
「は、なんでしょうか」
「最近、構ってくれないじゃないか」
視線は正面に据えたまま、千冬さんはぽつりと言った。
それがなにやら無性に物寂しい。
「そう、感じましたか」
「うん。一夏が心配なのは分かるがな、私だって寂しくなる時くらいある」
「はい、よく知っています。とても、よく」
「むぅ……それはそれでちょっと、恥ずかしい……」
膝の上で少女がむずがる。髪を梳き、頭を撫でると、彼女は心地よさげに目を閉じ、吐息を零した。
「……実際、IS学園にお前達が来て一番喜んでいるのは、私だ。これでいつでも会う時間を作れるって……我ながら馬鹿なことを」
「それは奇遇なこと。自分も、一夏さんも、同じことを考えておりました。これでいつ何時でも、千冬さんに会うことが叶うと」
「…………」
ふと、掻き上げた黒髪の下から露になる。彼女の綺麗な形の耳が、見る間に赤く赤く。
「また、
「聞くな! ……聞かなくても分かるだろ……もぅ」
「ありがとうございます、千冬さん」
「……うん」
――こっちこそな
空気に融け、消えてしまいそうなほど淡く齎された彼女の言葉。それを大切に、胸に留め置こうと思う。
「ええ、そのように。益々の発展を学園よりお祈りしておりますわ。それと」
携帯端末から垂れ流れる美辞麗句を聞くともなく聞き流し、最後に一件の用を済ませる。
本来、この通話先の相手に対する要件はそれだけなのだ。それを五分もの時間、声音を作って相手の媚び諂いに付き合わされた。事業家としての仮面は、やはり昔から煩わしさばかりが嵩む。
「来期のリストラクチャリングの草案は、以前ご提案しました通りに……ふふ、お骨折りに感謝致しますわ。根回し? いいえ、そんな大袈裟なこと。単なる“ご紹介”です。人件費の削減は、全ての企業が抱える課題。わたくしはただその手助けができればと思案を働かせてみたまでですわ。ええ、ではこれで……」
通話終了のアイコンを押し、携帯端末をベッドに放る。続いて自分もまたベッドに身を投げた。
達成感には程遠い疲労感。必要な労苦とはいえ、ああいった手合いの相手をするのはいつもうんざりする。
「お母様の気苦労が偲ばれますわ……それにこれでもまだたったの“七人”だなんて……うぅお父様、セシリア、くじけてしまいそうです」
この悲哀を払拭する術は、今この時一つしか存在しない。
ISのホログラムインターフェースを立ち上げる。二重のパスワードと虹彩認証でロックを解除し、記録保管庫を開く。目当ての音声データには花丸のチェックマークを付けてあるのですぐに見付けられた。
再生すると指向音声が耳元に直接それを届けてくれる。
『――――射撃の精確さはやはり卓越したものがあり』
「むふぅ」
低く、重みのある声が全身に響き渡るようだった。心地よい声音。彼の優しさを体現するかのよう。
そしてその内容も、ひたすらの快を自分を齎した。
『この短時日によくぞ――――』
「……あぁ、
嬉しい。とてもとても嬉しい。嬉しくて嬉しくてどうにかなってしまいそう。
お父様が褒めてくださった。仁様がわたくしを褒めてくださった。
セシリアが頑張ったことをちゃんと解ってくださった。
だから。
「待っていてくださいな、仁様。セシリア、もっともっと頑張ります。頑張ってこの学園を、仁様と
きっと、ずっと綺麗になります。
その為のあらゆる努力をセシリアは厭いません。
「……凰鈴音、使えるかしら」
出刃包丁を振り下ろす。肉皮を裂いて骨まで断った。
赤く白い断面、ぷりぷりと鮮やかな肉感は食欲をそそる。
「まさか鶏丸ごと売ってるなんて……IS学園、侮り難し」
綺麗に脱羽された白い地肌の鶏を、部位毎に出刃で切り分けていく。別段何を作ろうという訳ではない。メニューは明日にでもあの二人の意見を聞いてから決めればいい。
これはただの試作。ちゃんとした味に
「よっと……ほっ……定番は揚げ物だけど。うん、今回は蒸してみよっと」
斬。
きっちり十三分割された鶏肉を前に、一人うんうんと調理プランを決める。
まずは第一工程。左手首に巻かれた包帯を解いて治りかけの傷に杭を刺し入れた。小刀で切る方が出はいいのだが、少々出過ぎる上、あまりに多過ぎると調味に支障を来すのだ。
「美味しくなきゃ意味ないもんね……っとと」
ぎゅうぎゅうと手首を絞って中身を出していると、不意に目眩を覚える。
もう随分慣れてきた感覚だ。
「あはは、ちょっと張り切り過ぎたか。まったく、この私にここまでさせるんだもん。絶対今度も美味しいって言わせてやるんだから!」
ぎゅうぎゅうぎゅうぎゅう。
「……にしても仁のやつ。あんな乳袋女に鼻の下伸ばしちゃって。一夏も一夏よ。ああいうのはもっとドぎつく叱ってやんないとダメなんだから……」
言いつつ、自分の二つの山……小山をまさぐる。途端に胸の奥から溢れる切なさというか虚しさに肩が落ちる。
「むー……ここの脂があればもっとレパートリー増えるのに」
無いもの強請りは見っともないけれど、それでも欲しくなってしまうのが人情というもの。
ぎゅうぎゅうぎゅうぎゅうぎゅうぎゅうぎゅう。
「ま、今後に期待……かな」
ぎゅうぎゅうぎゅうぎゅうぎゅうぎゅうぎゅうぎゅうぎゅうぎゅうぎゅうぎゅうぎゅうぎゅうぎゅうぎゅうぎゅうぎゅうぎゅうぎゅうぎゅうぎゅうぎゅうぎゅうぎゅうぎゅうぎゅうぎゅうぎゅうぎゅうぎゅうぎゅうぎゅうぎゅうぎゅうぎゅうぎゅうぎゅうぎゅうぎゅうぎゅうぎゅう。
大丈夫。愛情はいつだって
千冬さんは可愛いなぁ!(やけくそ)