織斑姉弟(へ)の献身 作:足洗
「やっば、醤油がない!」
「それは一大事」
授業を終えて放課後、そして放課後に日課の自主訓練もまた終えて、夕飯の食材を買い寮舎の自室へ戻りいざ調理を開始せんとしたその時だった。
少年は頓狂な声を上げる。それに対して半ば冗談交じりに、しかしてもう半ばは全くの真剣にて応ずる。
醤油。それは日本の食卓において不可欠、必需必須、要と評して不足ない品。
「今から走れば学内スーパーの閉店時刻にも辛うじて間に合いましょう」
「うぅ~ごめん! ほんっとごめん! もう鍋火に掛けちゃって俺はこの場を動けない……頼む、ジン!」
「行って参ります」
「キッ〇ーマンでもヤ〇サでもヒガシ〇でもいい! ただ薄口以外で!」
「御意」
財布と携帯端末を手に部屋を出る。
品数と品種に並ならぬ厚みを持ったスーパーではあるが、そこはあくまでも学生向けの購買店。閉店時間は一般的な食料雑貨店よりも早い。
猶予はあるが余裕はない。早足に夜道を進んだ。
「…………」
無事、醤油を購入することができた。
途中、部活帰りと思しき女子生徒らに声を掛けられ、想定したよりも時間を費やしてしまったが。
少年の要望通りの品は確保した。早々に帰宅し、夕飯の準備を手伝うとしよう。
そうして、帰路を歩いて暫くのこと。元来た道、この二十分程度の時間で
「……?」
なんということはない。道の中途に人影があった。夜とはいえまだまだ浅い時刻。道に人通りがあったとて何の不思議もない。
不思議。己の好奇を引いたのはその人物の恰好である。
まず学園指定の制服ではない。白いコーディガンにライトベージュの七分丈パンツと見たところ私用と思われる。キャスター付きのキャリーバッグを引き、肩にはボストンバッグを提げている。明らかな旅装。
手にした紙を見て、キョロキョロと周囲を見て、またしても紙に目を落とす。幾度かそれを繰り返して、最終的にがっくりと肩を落とした。
「……」
別段鋭敏な性質など持ち合わせはないが、あの行為の意味合いを察する程度のことは可能であった。
努めて気配を
その姿を認めて――どうしてか、用意していた一言目を取り落とす。
「ぁ……」
「……」
その容姿が言葉を詰まらせるほどに特異であった訳ではない。至極無礼な話だが。
いや、普通ではないという意味で、確かに彼の……否、否、“彼女”の容姿は特徴的ではあった。
何故、なのか。
期せず、疑問符が自身の喉を塞いだ。
何故、この少女はこんな――――その瞳に、こんなにも歓喜を映して、そして己を映すのだろうか。
「――――こんばんは」
「は……今夜は良い待宵月で」
結局、発話の出発は相手方が起こしてしまった。思わず合わせて時候の挨拶など返してしまう。
「ふふ、そうですね。本州が遠いからかな。月明かりがすごく綺麗。ちょっとびっくりするくらい」
「ええ。夜半ともなれば星明りも大変良く見えます。海岸の散歩など風情がありましょう」
「へぇ~、いいなぁそれ。あはっ、一つ楽しみができた。ありがとう」
「いえ。僅かでも興に乗っていただけたなら幸い」
少女は微笑んだ。上機嫌、それを表すように小首を傾げておどけても見せた。
金糸の髪が頬に掛かる。首筋を隠す程度のショートカット。己が“彼女”を“彼”と誤認した要因の一つ……と言えなくもない。服装についても、男女を判別するに然して役立たなかった。
……果たしてそれだけ、だろうか。
重ね重ね特徴的な容姿だった。無論、正極の意味において。
セシリア嬢にも見られる白人種の性質を持った顔立ち。女性的な成熟が見られる彼女よりも、まだ少し
何よりその、油断すれば性別を忘れるような美貌が――かの少年を思い起こさせる。
(……いや)
湧き上がる疑問を飲み下す。そうして胸中にて頭を振る。
己が彼女に近付いたのは、世間話をする為でも、ましてナンパ目的でも断じてない。
本題は一つ。
「差し支え無ければ御聞かせください。もしや、道に迷われていらっしゃいますか」
「あー、あはは、分かっちゃいます?」
「は、失礼ながら一目瞭然であったかと」
「むぅー、方向音痴ってほどじゃないとは思うんだけど……施設が充実してるってのも意外に考え物だよね。この辺、結構入り組んでて」
「無理もありません。日も暮れ、周囲を見通し難くなっていることも位置関係を把握できない要因かと」
IS学園は広大である。が同時に手狭でもある。生徒、教職員の生活や学業から研究・開発業務に至るまでを支援するありとあらゆる分野の各施設が園内を、悪く言えば
「……えっと、あの、その、もしよかったら、なんですけど……」
「自分でよければ御案内します」
「! うん、ありがとう。是非お願いするよ!」
まるで華が咲き誇るような笑顔であった。
連れ立ち、歩き出す。彼女が持っていたのは職員用事務室への地図だった。ここからそう遠く離れてはいない。なるほど、彼女は惜しいところまで自力で辿り着けていたようだ。
道中、自然に浮かんだ疑問を口にする。
「転校生の方でしょうか」
「当たり。んーでも、編入、の方が近いかも。本当は初めからここに入学するつもりだったんだけど、いろいろバタバタしてて、気が付いたら時期もこんなにずれ込んじゃって」
苦笑を滲ませて少女は愚痴を零す。
話の触りを聞くに、彼女は己と同様新一年生であるようだ。
己は当然の礼として、遅きに失してはあったが、足を止めて彼女へと向き直る。
早々と、職員棟の正面広場に着いていた。未だ勤務中なのだろう。建物の窓から注ぐ灯と街灯のそれが合わさり、ここは随分と明るかった。
潮騒が近い。
「御入学おめでとうございます。これより先、少なくない機会、轡を並べ、勉学を共にすることとなるでしょう。どうぞよろしくお願いします」
「……はい。こちらこそ、よろしくお願いします」
その場で腰を折る己に、少女もまたぺこりと一礼を返してくれる。
「自分は一年一組所属――――」
「日野仁」
機先を奪われていた。いともあっさりと。
見上げる少女が笑みを浮かべる。優しげな、蕩けるような、そして悪戯っぽい微笑。
「何故、自分の名を」
「そりゃあそうだよ。だって君は有名人だもん。世界で二人だけのIS適性保有者さん」
「……なるほど。不覚でした」
「ふふふっ。なんだって出来そうなのに、意外と自分のことには無頓着だよね。君って」
「不本意ながら、よく言われます」
「ふふふふ! 可愛いっ」
噴き出すように笑い、堪らずといったように少女は言った。
可愛いなどと、我ながらこれほど己に不相応な表現もあるまい。
「えー、そんなことないよ。仁って知れば知るほど可愛い人だよ……きっと」
「失礼ながら、世の愛玩を受けるべき存在全ての理を揺るがしかねない暴論かと」
可愛いの定義が崩壊する。
「ふふっ、あはははっ、そんなことないのに」
「……」
「んふふふ、そんなこと……ないのになー」
目尻に浮かんだ涙を拭い、ようやく少女は落ち着きを取り戻す。
そうして、その小さな手を差し出した。握手を求められているのだと誤解なく知る。
「僕はシャルロット・デュノア」
「デュノアさん」
少女は首を振った。
「シャルロットって呼んで欲しいな……ダメ?」
「いえ、滅相も……重ねて、よろしくお願いします。シャルロットさん」
差し出された手を握り、同時に目礼する。
きゅ、と小さな手が己の右手を握り返した。実際に得た少女の手の小ささ、華奢な感触は、それこそ幼児のそれを想起する。
「――――はい」
少女は微笑んだ。再三に亘って拝見の叶った笑顔。
けれど名を呼ばれた瞬間の、その笑みは、まるで。
まるで夢見るように、眩く輝いていた。
世闇に消える
時が許すならずっとそうしていたかった。
理性が許すなら追い掛けて行ってその背を離しはしなかった。
今は何も許されない。何も。
今は。
今は。
――――今より、全てを手に入れる。あらゆる手段、あらゆる犠牲を使い尽くして。
その覚悟はもう出来ている。二年の歳月を掛けて、その覚悟を編み上げてきた。
「……」
一つだけ、手に入れたものがある。今、この瞬間に。
掌に残る彼の温度。彼の香り。彼の汗。彼の皮脂。彼の……彼の……彼の……。
「ぇあ」
掌に舌を這わせる。舐め上げ、舐り回し、しゃぶり、吸い尽くす。丹念に丹念に、丁寧に丁寧に。
「……ん、はぁ、ぁ」
到底足りはしなかった。けれど今はこれで我慢する。
「明日から、がんばらなくちゃ」
彼をこの手に。この腕に迎え入れる為に。
「僕がんばるよ。いっぱいがんばるから。がんばるから、待っててね……」
誰にも渡さない。
ボクだけのおとうさん。