織斑姉弟(へ)の献身   作:足洗

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隻狼たのちい!(最近なにかと忙しく、ものを書くという作業になかなか入れませんでした。糞のような更新頻度本当に申し訳ないです)




49話 ある少女の悲劇と、喜劇の幕開け

 それは明確な拒絶だった。

 

『ラウラ、お前の盲信は痛ましい。私は完全などではない。私は完璧などではない』

 

 あの人と二人、茜に焼ける空を見ていた。

 

『私は不完全だ。私にはどうしようもない欠落がある。この胸に、埋めようのない虚を抱えている』

 

 彼女は苦笑する。自嘲の色濃い笑み。自分が見たことのないひどく人間的な貌で。

 

『だが、それでいいと思っている。それで構わないのだと教えられた。あの男が、私にそう言ってくれたんだ』

 

 次に現れたのは、暗雲を吹き払うかの如き光明、煌めくような笑顔。

 

『あの男は私の虚無を理解し、許し、癒し、そうして――――愛してくれた』

 

 私の知らない教官が、私の知らない織斑千冬が、私の知らない女がそこに立っていた。

 愛に身を侵すただの女が。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「白式を?」

「ああ」

 

 放課後、大半の生徒らが教室を後にした頃。

 織斑教諭は首肯する。

 

「先日の所属不明機による襲撃。学園は現在、その詳細を調査、多方面から情報を収集している。それに伴い直接戦闘を行った白式には調査委員会から戦闘記録の開示請求が為された」

「や、戦闘記録って言われても……」

「要はお前が白式越しに見聞きした敵機との戦闘、その内容をデータと本人の証言付で寄越せとそう言っている」

 

 溜め息混じりに千冬さんは肩を竦めた。

 

「つまるところ事情聴取だ。不明機体はほぼ無傷だが肝心のコアは損壊、もとい全壊してしまった。お前の、近年類を見ないほどの技の冴えのお陰でな」

「褒めてないよね、それ」

「私は褒めるに吝かではないよ。しかしまあ、調査員や研究者連中からはブーイングの嵐だった。聴取の際の待遇は目撃者より犯罪者のそれに近くなるが我慢するように」

「バリバリの私怨じゃねぇか!」

 

 発奮する一夏少年を、教諭は実に美しく笑い飛ばす。

 白式は提陀羅共々、書類上国家ではなく個人での所有を許された稀有なISである。その正しく専用機を短期間とはいえ没収しようというのだから、少年言うところの私怨、その根深さを窺える。

 

「長くて三日ほどだ。ISで鍛錬がしたければ大人しく訓練機を使うがいい。申請から使用許可が下りるまで一週間掛かるが」

「うわ意味ねぇ……でもさでもさ、放課後の自主練は? 折角今までこつこつやってたのに。ほら、今回は上からの指示でIS使えないんだし、融通利かせてもらえたりー、ねぇ? 訓練機三日間だけ優先でとか。やっぱりさ、毎日の積み重ねが大事だし? ね?」

「きちんと以前から申請を出していた者から横取りするのか?」

「うぐっ」

「諦めろ」

「ふぐぅ……ジンと自主練……」

 

 唇を尖らせる少年に、思わず笑みとフォローを送る。

 

「鍛錬は徒手でも可能です。あるいは久方ぶりに木剣を振るうも一興でありましょう。何れにせよ、お付き合いします」

「ジ~ン!」

 

 感極まった、といったポーズと声で少年は己の首に抱き着いた。

 再び目前の美女が溜息を零す。そして、じとりとした眼差しに呆れの色彩をふんだんに載せて我々を見た。

 

「またそうやって甘やかす。お前達もたまには自己一人と向き合い気組みでも練ったらどうだ」

「甘えじゃないですぅ。純粋な鍛錬と向上心ですぅ」

「……」

「ふひまへん。いひゃい。いひゃいでふ。ひょうひのひまひた」

 

 一夏少年の両頬を千冬さんは抓み、暫時ぐにぐにと左右に引っ張っていた。かと思えば伸長の限界点で突如指を放し、弾力に富んだ皮膚がぺちんッと勢いよく戻る。実に痛そうだ。

 赤く腫れた頬を擦る一夏さんを後目に、千冬さんは踵を返す。

 

「以上、了解したか? なら織斑は研究所B棟へ向かえ」

「は~い……」

 

 席を連れ立つ。ごく当然に少年に供する為であった。しかし。

 

「ああ、日野は待て」

「は」

「向こうからの達しでな。聴取は織斑一名のみ。付き添いは遠慮願うとのことだ」

「んぁ? なんだそりゃ」

 

 少年の頓狂な声音に、内心で同意する。

 そしてふと、募るのは……細やかな違和感。

 

「衆人環視の凶行とはいえ、所属不明且つ無人稼働の新ナンバリングISなど最重要機密に指定されて然るべき代物だ。機密漏洩に気を遣ってのこと……それが調査委員会の言い分らしい」

「ふーん」

「そう拗ねるな。今扱ってる案件が一段落着きそうでな。今夜は夕食に顔を出せる」

「え、ホント?」

 

 不満げだった表情は一挙に消え去り、花が咲くような笑顔が少年の面を彩った。

 千冬さんと笑みを見合わせる。

 『現金だな』『かもしれません』。言葉も要らず、そのような意思を共有した。

 

「そ、そっかそっか! じゃあ買い出しに……って時間ないし」

「御心配なく。自分が参ります」

「うん! ありがとっ、ジン。えへへ……よぉし、そうと決まったら献立考えなきゃな~」

「やる気は結構だが、調査官の質問にはちゃんと応じろよ。間違っても料理の講釈なんてものを聴取記録に載せないでくれ。後で小言を喰らうのは私なんだから」

「わかってるってば!」

 

 足取りも軽く少年は教室を出る。手を振りながら廊下を行く一夏さんと一差しの視線を呉れた千冬さんの背を見送った。

 その時にはもう、己は忘れ去ってしまった。僅かに浮かんだ違和感など。

 もっと思案すべきだった。推察を止めるべきではなかった。

 

 ――――後悔を許されるのは、いつだって事が終息した後なのだから。

 

 その自然(じねん)を、己という愚か者はすぐに忘れてしまう。

 

「ひ、日野さんっ!」

「は」

 

 振り返れば廊下の向こうに、更識簪さんが立っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 授業終了と共にかの人を探して校舎を歩き回り、思いの外あっさりと見付けた。挨拶もそこそこに、問答する題目は一つきり。

 

「何故ですか教官!?」

 

 人気の失せたエントランスを木霊する叫び声。

 対する女性にはしかし、それは何一つ響いてはくれなかった。

 

「何故は無い。私は教員だ。教官ではない」

「いいえ! 貴女は教官です。最高の指導者であり最強の操縦者。それが貴女だ!」

 

 それが過不足ない事実だ。彼女には人類における上位種と評されて然るべき能力がある。

 

「貴女はこんなところで足踏みしていてはいけない」

「こんなところ、か」

 

 教官は苦笑する。

 そうして、疾うにこちらの思考など読み切っているだろうに、それでも彼女は問いを返すのだ。

 

「気に喰わないか、この学園は」

「無論です」

 

 歯噛みする心地で答えた。

 ISは兵器だ。

 対外的にいくら用途と呼び名を変えようとも、そのマシンに求められる運用方法はただ一件。戦争行為における目標敵勢力の殺傷と破壊である。ISとはその為の機械装置に過ぎない。

 ISは、兵器なのだ。

 ここはその操縦・整備・開発・研究技術を教授する為の学び舎であるという。なるほど、ISは地上最高最強の名を(ほしいまま)にする超科学技術の結晶。それを欲する各国の思惑に疑問はない。一国家の技術独占を嫌ったこの見せ掛けだけの教育機関設立も、まだ理に適う。まだ、妥当な措置と言える。

 だが、実態はどうだ。

 殺戮機械を流行りのファッションか、高価な玩具程度にしか思っていない奴輩。地上最強の兵器を駆る者としての矜持も、相応しい担い手足らんとする志も無い。平和ボケした愚劣の群。ここはその巣窟だ。

 何よりも――何よりも我慢ならないのは、この低次元の坩堝にかの御方が飼い殺されているということ。

 その事実に虫酸が走る。

 

「戻りましょう、隊へ。そして今一度お導き下さい。貴女さえいれば我々は……私はもっと高みへ行ける。共に!」

「……」

 

 彼女を仰ぎ見る。何時かの、茜色の光景を幻視する。

 必死の説得に返されたのは……静かな嘆息だった。

 

「少しだけ意外だよ、ラウラ」

「え……?」

 

 笑みを浮かべて織斑教官は小首を傾げる。

 それだけでこんなにも簡単に自身は動揺した。その優しげな声色と、何より姓ではなく名を呼ばれたことに明後日の喜びなど覚えて。

 

「それは、どういう……」

「いやなに。初めて会った時から思っていた。お前は純粋だと。危ういほどに、不純がないと」

「は、はぁ……」

 

 誉め言葉と受け取るべきなのか。判別もできず、奇妙な擽ったさに戸惑う。

 

「お前の言葉には嘘がない。打算がない。いつだって吐いた言葉の通りだ」

「と、当然です。自分は教官に対して絶対に虚言など吐きません」

 

 上官とは絶対至上。軍組織においてそれは不文律だ。そしてラウラ・ボーデヴィッヒにとっては織斑千冬こそ絶対至上の存在である。

 そんな人物に、どうして虚誕妄説を弄することなどできようか。間違ってもありえない。あってはならない。

 だからこそ迷いなくそのように答えた。

 

「そう、だった筈なんだが」

 

 しかし、彼女はなおも笑みを湛え。

 

「御為ごかしは感心しないなぁ」

「おためごかし? あ、え、一体、どういう」

「んー? だってそうだろう。お前は、この学園の生徒らの意識の低さを嘆き、私の境遇を憐れだと言った。だからこそ私に、またドイツで教官の任に着くよう進言した」

「そ、その通りです! こんな低レベルな場所で教官の、織斑千冬の能力は十全に発揮できない。だから――」

 

 だから、私と一緒に――――

 自分がその後に何と口にし掛けたのか、どうしてか自分でも分からなかった。確かめる術も既にない。発声器官も、思考回路も、機能不全を起こしていた。

 女が自分を見下ろしている。

 吐息が頬を撫でる。そんな距離で。

 

「それ、本心か?」

「ぁ……」

 

 漆黒の瞳が、こちらの眼窩を覗き込んでいる。その奥の、さらに奥。魂までも見透かされて。

 気付くと口の中がカラカラに乾いていた。喉が塞がれ、ほんの一声上げることさえ困難なほどに。

 

「そ……そう、です。じ、じ、自分は――」

「本当に?」

 

 血を吐く思いで絞り出した言葉は、僅か一語の問い掛けによって掻き消えた。

 違う。これは、違う。違うんです。

 何が。

 自分は、決して、断じて。

 何が。

 

「さも、私の為であるかのようにお前は言う。さも、私を想いやっているかのようにお前は言ってくれる」

「そ――――」

「嘘だな」

 

 嘘なんて。

 

「本当の“望み”を隠して、尤もらしい理屈を並べる。軍人としての矜持? IS操縦者としての志? うん、どれも違うな」

「わ……私、は……」

「その“望み”が、ジン(あいつ)を憎む理由なんだな」

「!」

 

 優美な指が、核心に、己の心臓部に触れた。

 

「自分だけのモノを、そう思っていたモノを奪い取られた。だから何としても奪い返す。本心を小賢しい大義名分で覆い隠してでも」

「…………」

「クッ、フ、フフフ。お前は可愛いなぁ」

 

 頬を、彼女の手が撫でる。労わるように、優しく、優しく。

 けれどその微笑に含まれているのは、憐憫でさえなくて。

 

「でも、無理なんだラウラ。お前の求めるモノはここには無い。だってお前は奪われてなどいないんだから。お前が奪われるモノなど、どこにもないんだから」

 

 それはまるきり、子供の駄々を宥める大人の微笑。

 彼女は自分に心底()()()いた。

 

「初めから、私はあいつのモノなんだよ?」

 

 どこまでも優しげに、私の知らない女が、織斑千冬のような貌で、織斑千冬のような声で、この上なく柔らかで甘やかな拒絶を言い聞かせてくる。

 

「現状の配置が不満ならば転属願いを出すがいい。その程度の融通が利く地位に着けるだけの力を、私は与えた心算だが……ああ、なんなら私から上層部に口添えしよう。その気になったら何時でも訪ねてくれ」

 

 彼女はそれだけ言うと踵を返した。

 私はただその背中を見送った。何も出来ず、何も言えず、ただ立ち尽くして。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ラウラ・ボーデヴィッヒは幸福だった。

 彼女に両親はない。彼女は、選抜された精子卵子の人工授精と特殊な培養を経て製造された。俗にデザイナーチャイルドと呼ばれる存在だった。

 国家主導で極秘裏に行われた遺伝子強化改変実験。その完成品こそが彼女だ。

 理想の人造兵士……生み出された理由と生かされる理由、その二つを彼女は、その生命が形を結ぶ遥か以前から約束されていた。

 普く人が抱え、生涯を懸けてなお見付けることさえ出来ない自己の存在意義、至上命題、生存理念。探し求めるまでもなく、それは既にその手中にある。

 ラウラ・ボーデヴィッヒは、きっと幸福だった。

 

 少女にとって生きるとは即ち完璧な兵士となる為の弛まぬ練達である。

 完璧な兵士足らんとして、あらゆる努力を払ってきた。目覚めた瞬間から目を閉じ眠っている間さえ肉体に、脳髄に、精神に無数の教練が施された。

 正式・非正式の別を問わない膨大な銃器兵装の、多種多様な車両船舶航空機の操法技巧。一般教養からサバイバル、戦術戦略論に至るまでの広範な知識。

 どれだけの時間を費やしても足りはしない。寸暇を惜しんでそれらを学び、溢れそうになれば無理矢理にでも叩き込んでいった。

 

 全てを注ぎ込んだ。自分自身の血肉骨心、あらゆる全てを、全てを。

 そこには一片の猜疑もない。

 その過程で己自身を襲うどのような艱難辛苦も甘受した。

 そこには一片の躊躇もない。

 ただ一つの到達点を目指し歩むこと。生きる意味は、どこまでも単純にして明快だった。

 

 そして、結果は確実に表れていった。

 優れた戦闘能力と理想的な軍属としてのメンタリティ。生体兵器“ラウラ・ボーデヴィッヒ”の真なる完成は目前に在った。

 

 ――――ISが、現れるまでは

 

 現行兵器の尽くを凌駕する性能と現代から数世紀は先を行く科学技術。何よりも、核に代わり得る圧倒的武力。

 世界各国が、延いては本国がそれを欲するのは自明であった。そして当然の成り行きとして、ドイツ航空軍にはIS特殊部隊が新設されることとなる。

 実戦のノウハウなどあろう筈もない究極の最新兵器。その先駆者にラウラ・ボーデヴィッヒは抜擢された。

 その大抜擢を受けても少女に然したる感慨はなかった。()()()()だからだ。完璧な兵士になる為の条件項目に、新たに一つ兵科が加わったに過ぎない。

 努力、ですらない。これまでの夥しい教練と同じように、全霊を以て、その到達の糧とする。

 

 なるのだ。私は、“完璧な兵士”に

 

 その為ならば、IS適合性向上を目的とした眼球へのナノマシン移植手術――人体改造すら厭わなかった。

 これでより一層、己は完成に近付く。己の生涯は結実する。

 そう信じて。

 

 ――――どんなに、どれほど、なにをしても、変わらず最低値を刻む訓練結果。

 ――――主力戦闘機を上回るその機動性のほんの一割も発揮できない拙劣極まる操縦技量。

 

 適合性向上の為に施された筈のナノマシンは慢性的暴走状態に陥り、装着したISに対して過干渉を起こした。あらゆる操作の制御に致命的な負荷を伴い、装着状態での飛翔はおろか歩行すら(まま)ならない。IS最大の戦術的価値たる超高速機動など夢のまた夢の夢。

 全てが違った。過去己が身に着けてきた技能の尽くが、ISには通用しなかった。いや、それが応用を許される段階にすら昇れない、といった方が正しいのだろう。

 適性。

 ISの性能を引き出す為の絶対条件。

 適性。適性。適性!!

 ラウラに比べれば凡庸な能力しかない一兵卒達が次々にISの操法を体得していく中、少女は一人停滞を余儀なくされた。

 軍上層部や研究者陣の落胆は明白で、彼らの掌返しの鮮やかさは見事なものだった。これまで“完璧な兵士(ラウラ・ボーデヴィッヒ)”の為に費やされた膨大な時間と資金が全て無駄になったと、視線で、時に言葉でそれを露にした。

 かといって自己の製作者達からの至極勝手な失望を、無理もないことだと諦められるほど少女は世を達観できなかった。

 

 出来損ない

 

 少女は、“完璧な兵士”から“出来損ない”と呼ばれるようになった。

 周囲からの悪評に背中を刺される日々。それはとても辛く、悲しいことだった。けれど少女には、それらを表現する術がなかった。怒り、悲しみ、泣く、発想すら浮かばなかった。そんな機能は兵士に要らない。要らないのだから、育むこともない。不遇に嘆くなどという当たり前の行為が、少女には出来なかった。

 兵士としての価値を失う……それは少女の生存する意義の喪失を告げていた。

 少女(ラウラ・ボーデヴィッヒ)は、存在の意味を見失った。

 それは凡そ死と同義だった。

 

『……』

 

 ある日、思い立ち、首筋と鰓骨の間に銃口を押し当ててみた。

 米神では駄目だ。頭蓋骨はなかなか頑丈に出来ている。首からなら、骨の妨害を受けずに脳幹に直接弾丸を届かせられる。

 銃爪に指を掛けた。もう100グラムほど力を込めれば、それで。

 それで、全部終わる、のに。

 

 そんな真似事を毎日繰り返していた。自分にそんなことが実行できる筈がない。死の恐怖、なんて人がましい理由ではなく、それが許されていないから。

 何故なら、自分は今もなお作戦行動中なのだ。完璧な兵士製造という戦略計画の。

 ……計画は、失敗なのかもしれない。途方もなく高価な失敗作がここに出来上がっている。しかし、作戦終了の報は未だ下知されていない。軍務を全うすることなく戦線を離脱するなど最低の、恥ずべき軍規違反だ。

 正規軍士官ラウラ・ボーデヴィッヒに、どうして軍規(それ)が破れよう。それだけが寄る辺である自分に、出来る筈がなかった。

 出来ることなど、何もなかった。

 

 少女にとっての暗黒時代。

 死んだ心を内蔵して屍のように生きるだけの無為の時間。

 

 

 ――――闇は、突如として消え去った

 

 

 一条の閃光が少女の前に現れたのだ。うっかりと触れれば斬り裂かれ、あるいは焼き焦がされるまでの強さ。

 その光は自身を“織斑千冬”と名乗った。

 日本からドイツIS部隊へと招聘された特務教官。現代人に彼女の名声を知らぬ者はいないだろう。第一回モンド・グロッソ優勝者、最強のIS操縦者ブリュンヒルデ。

 自身とは真逆の華やかな経歴を持つ彼女に、無自覚の嫉み僻みを抱いたのもほんの一時のこと。そのような戯言はすぐに塵芥と化す。

 

 全てが変わった。彼女はラウラの全てを変えた。

 彼女の課す鍛錬は苛烈を極めた。在りし日の軍事教練が児戯に思えるほどに。血反吐を地面に巻き散らし、手足の骨が順に疲労骨折を繰り返した。

 しかし変わる。不変にも思えた結果が。

 取り戻していく。求めて止まず、されど諦める他なかった力が。

 いや、過去の自分を遥かに凌駕して。

 

 気付けば、頂点に在った。

 ドイツ航空軍特殊装甲兵科IS配備部隊『シュヴァルツェア・ハーゼ』隊長――ラウラ・ボーデヴィッヒ少佐。それが己の新たな呼び名になった。

 

 一度死した少女を、神話の戦乙女が冥府より蘇らせた。それは慈悲であり救済であり、奇蹟の体験と信仰の始まりだった。

 もはやラウラ・ボーデヴィッヒにとって織斑千冬は絶対至上の、その極致――神。

 崇敬を以て少女はかの存在を、己にもう一度(ひとたび)存在意義を吹き込んだ主を、仰いだ。

 

 今こそ、ラウラは己が生涯を歩み始めた。

 神という完璧な寄る辺が、眼前に顕現を果たしたのだから。

 

 ――――だが今再び、少女は絶望の淵にいる。

 

 完全不変の神の存在を揺るがすモノ。断じて認め難い、認められないモノ。

 その冒涜者の名は日野仁。

 神を穢すモノだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 本校舎のエントランスから当て所なく歩いた。ふと、肌に纏わり付く熱を感じてトイレに入り、水道で乱暴に顔に水を浴びせた。

 鏡には、二色。左右で色の違う瞳が、自身を睨み付けている。

 忌々しい金の左目。適合処置(ヴォーダン・オージェ)の後遺症は、紛うことなき自身の汚点。出来損ないの証立てに他ならない。

 己が劣等性、劣る。私が、あの男に――――

 

「ちぃッッ!!」

 

 殴り付けた鏡面は、一瞬だけ亀裂を走らせた後に砕けて散った。白んだ室内灯を反射して宙を舞う破片。欠片となっても当然に、鏡には未だ少女の姿が映っている。

 憎悪に歪んだ少女の貌が。

 どうして。

 どうしてですか教官。

 どうして貴女はあの男を選ばれたのですか……この私ではなく、あの男を。

 

「…………」

 

 握り固めた拳が軋む。先日の傷は未だ真新しいまま骨に刻まれ、このままでは指骨が折れるだろう。慣れ親しんだ痛みだ。今右手を走る痛みにはその兆しが見えていた。

 だがそれでも、激情は止まない。この程度の苦痛では慰めにもならない。

 憎い。

 織斑千冬の絶対神話、最強のIS操縦者という栄光の未来を、あの男はそれ自身の無能によって閉ざした。

 ――名誉よりも、褒賞よりも、世界の何よりも織斑千冬はあの男を優先した。

 憎い。

 憎い。

 憎い!!

 ()()事実が、何よりも。

 

「ボーデヴィッヒさん……?」

 

 背後から声が掛かり、咄嗟に振り返る。接近する人間の気配を失念するなど平素では考えられない油断だった。

 懐のコンバットナイフに意識を向けつつ、その人物と対峙した。

 声色から知れていたことだが、女子生徒である。それも先日、自身と同時に転入してきた少女。名はシャルロット・デュノア。

 金糸のショートヘアに日本の女子高等学校制服にしては珍しいパンツルック(自身のそれは棚に上げるとして)、ともすると少年のような中性の印象を振り撒く美少女。

 それがどうしてこんなところにいる。ここは学内でも辺鄙な立地のトイレだ。

 そうした思考が意図せず苛立ちと共に視線に込もったか。

 

「エントランスを出ようとしたらすごい音がしたんだ。それで気になって……っ! その手」

 

 少女の顔が蒼白になる。

 デュノアはこちらの右手を凝視していた。

 右手からは、いつしか血が滴り落ちている。鏡を殴り割ったのだからそれも当然だろう。

 浅い傷だ。そして無価値な傷だ。価値ある傷とは、苦痛とは、かの御方が齎してくれるものだけだ。

 少女の横合いを擦り抜ける。他者の存在が今はひたすら厭わしい。目障りだ。

 しかし、それは阻まれた。少女が自身に立ち塞がったのだ。

 

「何の真似だ」

「その手だよ。早く止血しないと!」

「不要だ」

 

 近頃と似たようなやり取りをしている。その自覚さえ苛立ちを助長した。

 言い捨てる自分に、しかし少女は頷かなかった。なおもその身で出口を塞ぐ。

 

「退け」

「ダメだ。傷の手当てをさせて。そうしたら通すよ」

「ふざけるな。今すぐそこを退け」

「嫌だ」

「貴様ぁ……!」

 

 頑なに道を譲らぬ少女に、とうとう忍耐が尽きた。それは今日一日の憤りの累積の果て。

 左の平手打ち、それは見事少女の頬を張った。乾いた音がトイレに響く。

 今度こそはと一歩を踏み出し掛け、己の右腕を取られていることに気付いた。

 

「放せ!」

「嫌だ! 手当てするまでは絶対に放さない!」

「このっ!」

 

 振り解かんと右腕を手繰る。最悪、アーツで捻じ伏せてでも。

 そうして激しく動いたことで、右手の傷が(よじ)れたのだろう。血が勢い噴き出し、飛び散ったそれらが少女の顔を汚した。

 

「!」

「……」

 

 その様に動揺したのはむしろ己の方だった。

 対する少女は手を放さない。美しい顔立ちは血で塗れているというのに。

 瞳が真っ直ぐにこちらを見た。己とは違う、美しい濃紫の両瞳が。

 強い意志の光。絶対に譲らないという決意をそれは表していた。

 

「…………勝手にしろ」

「! ぁ、ありがとう!」

 

 観念して、右手を少女に明け渡す。

 筋違いな感謝を送られながら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 医務室――保健室は無人だった。医師だか養護教諭だかは出払っているのか、勤務時間外なのか。何にせよ興味はないが。

 ひどく、慣れた手付きで包帯が巻かれていく。留め具を張れば、如何にも仰々しく、そして丁寧な止血帯が出来上がった。

 

「……」

「良かった。そんなに深い傷じゃなくて」

 

 短い吐息と共に少女は安堵を零す。

 おかしな奴だ。他人の怪我に何故こうも大袈裟に一喜一憂するのか。

 

「礼は言わんぞ」

「うん? ああ、そうだね。僕がやりたくてやったことだもん」

「……」

 

 デュノアはそう言って柔らかに笑む。

 一々調子を狂わされる。もはや皮肉さえ尽きたと、早々に椅子を立って出口に向かう。

 

「あ、待って」

「……今度は何だ」

 

 呼び止められることにももう驚きはない。半ば諦めの体で、丸椅子に腰掛けたデュノアへと向き直る。

 紅い陽の光が窓を満たし、室内を染め上げている。日没が近かった。

 デュノアは、こちらを見ている。面差しも、眼差しすら、蕩けるように甘い造型と、色……瞳の色に、微かな羨望を自覚した。

 呼び止めておいて、しかし少女は口火を切らない。何か逡巡を口内で繰り返すばかり。

 

「用が無いのなら――――」

「君は何を奪われたの……?」

 

 見限ろうとした矢先に少女は口を開いた。聞き捨てるには鋭く尖り過ぎた針のような言葉を。

 何だ。こいつは何を()()()()()

 心の動揺と共に、頭脳の冷えた部分が当然の疑問を呈する。

 少女の問い掛けは、明らかに自分(ラウラ・ボーデヴィッヒ)の素性に纏わる何かを知った上でしか発し得ないものだ。

 左目を眇め、少女を睨み付ける。ここは保健室……尋問には打って付けの場所だった。

 

「貴様は何者だ。所属と目的を述べろ。さもなくば……」

「所属はフランスIS総合メーカーデュノア社。役職は社長秘書。目的は、男性IS操縦者の調査と彼らの専用機のデータ・サンプルの収集。それと必要に応じた篭絡、かな」

「なに……?」

 

 自嘲。取り分け嘲りの色濃い笑みが少女の顔を彩った。

 デュノア社、一度ならずその社名は耳にしたことがある。ただでさえその特性上、個々の性能が偏るISの量産機化に成功した企業の一つ。()()()、業績の低迷が見られたが現在ではIS技術関連メーカー内でトップシェアに君臨していた筈だ。

 

「社長秘書が、それも経営者の親族自らスパイの真似事か」

 

 デュノア姓を名乗る大企業の使い走り。その不可解な矛盾を嗤い、そして疑った。こちらを惑わせる為の虚言にしては余りにも粗末である。魂胆も正体も未だ見えてこない。

 ふと、少女の笑みが一層深まる。黒く、淀む。

 

「妾腹の娘は親族として扱われない。僕が都合の好いハニトラ係に使われる理由はただそれだけ。ボーデヴィッヒさんが心配するほどの価値はないよ。僕にも、デュノア社にもね」

「…………」

 

 デュノアの娘は吐き捨てた。はっきりと己の父親を唾棄したのだ。

 親族経営の跡目争いなど自分には縁の無い話であるが、それが往々にして碌でもない末路を辿ることは想像に難くない。

 

「君の事を知ったのは、偶々転入時期が重なったから。何かの作意を疑った本社が慌てて君の資料を僕に寄越してきたんだ。多分、学園に提出されたプロフィールと大差のない。そりゃあもう、御粗末で中身の乏しい資料だったよ。ホント、バカみたいに浮足立っちゃって……」

「ならば何故私を嗅ぎ回る?」

「そんな! 嗅ぎ回ってなんか……!」

 

 椅子を軋ませてデュノアは立ち上がった。しかし、その後に言葉は続かず、すぐに項垂れる。まるで諦めるように。

 

「……そう思われても仕方ないけどね」

「……」

「僕が君に拘るのは……とても個人的なことだよ。本当に個人的な……感傷だ」

「言え」

 

 勿体付けた言い回しに興味はない。私心にせよ組織的意向にせよ敵対の意思を持って近付いてくるというなら即座に排撃し、徹底的に撃滅する。

 今までそうしてきたように、全ての敵を。己以外の全て。全てが敵だった。そうだ……教官だけが、私の。

 

「……」

「うん……()()だよ」

 

 吐息を零し、顔を顰める。まるで見るも無残で痛ましい傷を目の当たりにしたような。

 

「君も失ったんだ。大事なモノ」

「なに、を」

「心臓を抉り取られたみたいでしょ。穴が空いて、そこからどんどん血と熱が失せていく。ゆっくりと自分ってものが死んでいく。でも、現実には、本当には死ねない。自殺すら……できない。君の失った心臓は――織斑先生」

「っ……!」

 

 胸倉を掴み上げる。体格差はあるがそんなもの構いもせず、対する少女を持ち上げ睨め付けた。

 

「貴様、どこまで……! いや聞いていたな!? 先刻、あの場で!」

「ごめん……立ち聞きするつもりはなかったんだ。でも」

 

 剥き出しの殺意を込めた視線に、震えた謝罪は口にしても、しかし少女は臆さなかった。

 真っ直ぐに、見返してくる。意志の光を煌々と湛えた瞳が。

 

「それだけが、拠り所だったんだよね。生きる理由だった、生きる意味だった……生きている証だった。なのに」

「……やめろ」

「無理矢理、気付かされるんだ。そんなもの初めから無かった、って。()()()生まれた時から孤独(ひとり)で、見せ掛けの存在意義に縋りながら生きているふりをする。とっくの昔に死んだ心を未練ったらしく抱えて、まるでゾンビみたいに……」

「やめろっ」

 

 耐えられずに手を放し、背を向ける。耐えられず? 一体、何に……何を恐れて。

 

「君も奪われたんだね。この世で一番大切な人の……愛を」

「やめろ!!」

 

 遂には絶叫していた。誰だ。叫んだのは、自分だった。そのことに気付くまでたっぷり五秒も掛かった。

 

「っ、愛だと!? そんな下らないものとは違う! そんなものであって堪るか!! 私と教官の絆は! 私の教官は! 私っ、の……!」

 

 私の求めるモノ。望みは。

 

 ――――お前が奪われるモノなど

 

 息を呑むほどに綺麗な女性(ヒト)、美しい顔が自分を嗤う。

 頭を抱えた。爪を立てて、皮膚と共に記憶を掻き毟る。消えない。どんなに削っても消えてくれない。

 違う。違う。違う。あんなのは、教官じゃない。あんな。

 

「ラウラっ」

「ッッ!」

 

 甘い香りと柔らかな感触が自身を包み込んだ。背後から、デュノアが自分を抱き竦めていた。

 

「は、放せ……!」

「嫌」

「ふざ、けるな」

 

 当然に、その腕を振り払う為もがく。簡単なことだ。軍隊格闘の技術はもはや骨の髄が記憶している。背後を捕られた程度で何程の問題もない。

 一息で済む。一呼吸分の体重移動と脚の組み変えで、少女をこの硬い床面に引き倒せる。

 そうしない理由がどこにある。

 

「辛い、ね」

 

 こんなにも暖かで、優しくて、脆い。

 少女の華奢な両腕の中は、途方もない安寧に満ちていた。

 

「苦しかったよね……痛かったよね……」

「お前に、私の何が解る」

「わかるよぉ……!」

 

 今度はより一層強く、少女が自身に縋り付いた。

 

「僕も同じ気持ちだから」

「同じ……?」

 

 背中に落ちる少女の声が色彩を変えた。

 先程も聞いた。感じ取った。

 コールタールにも似た黒い淀み。それには馴染みがあった。親しみすら抱くほど身近になっていった、その感情。

 名を“憎悪”という。

 

「ゆるさない」

 

 言霊が瘴気を纏う。自身を抱いている少女が、背後に立つモノが何なのか、分からなくなる。

 それほどの深度で。

 

「僕らからソレを取り上げた奴らを、僕は絶対にゆるさない」

 

 ここへ来て、シャルロット・デュノアの言葉は完全に脈絡を逸した。最初から、正常であったとも言い難いが。

 けれど。

 でも、どうしてか私は、共感を覚える。

 シャルロット・デュノアの憎悪に同調する。してしまう。

 

「どうにも、なりはしない……どんなに憎くても、憎んで憎んで、憎み切って……この手でっ! ころ、殺したと、しても……!!」

 

 血を吐く心地で、自分は殺意を口にした。何故今更この程度のことを躊躇う。殺害願望。人を殺めるあらゆる術を自分は知り尽くしている。自分は生を受けたその瞬間からそれのみを学び、実践し、その粋を求めてさえいたのに。

 あの男を、この手で――――この手で、()()をして、どうなるという? 何の意味がある?

 そうすればあの人の、織斑千冬の愛の指先が己を撫でてくれるとでも言うのか。

 莫迦な。愚かしい。

 解り切っている。無意味だ。無意義だ。きっと、ほんの僅かな自己満足すら得られないだろう。

 ただ空虚なこの胸に、罪の刃が突き刺さるだけだ。そして、罰は、あの人が……。

 

「何の為に……」

「生きる為に」

 

 胸奥から湧き出た自問とも言えぬ問いに応えてくれたのは、背後の少女だった。

 

「僕らは死んでる。意味を剥奪されたから。なら――奪い取るしかない」

「そんなもの、初めから」

「無い、のかもしれない。だから……憎い者から奪い取る。そいつが一番大切にしているモノを、奪う。抉り出して、引き千切って、踏み潰す」

「憎い者から……?」

 

 自分には、すぐにはそのロジックが理解できなかった。

 すぐには、無理だった。しかし、徐々に。

 

「ラウラの痛みを思い知らせればいい。奪われる痛みを。同じだけの痛みを与えて、同じだけの空虚をその胸に穿ってやるんだ」

「同じだけの、痛みを」

「そう。同じでなきゃダメだ。多くても少なくてもダメ。強過ぎる殺意も、優し過ぎる慈悲も、それの純度を下げてしまうから」

 

 それは徐々に、沁み入るように、解けて胃の腑に落ちてきた。

 まるで天啓の如く。

 

「復讐が僕らの意味になる。僕らは正当の、純一の復讐者として蘇るんだ」

「……」

 

 背中が熱い。少女の体温だろうか。ひどく熱い。血が沸くほどに、皮膚を焼くほどに、肉が焦げるほどに、骨の髄まで溶けてしまいそう。

 

「ラウラ……泣くことも許されない可哀想な子」

「――――」

「もういいんだよ。もう、我慢しないで」

 

 背中に、熱が。

 ああ、赤々と燃える鉄杭が、背骨を深く貫いている。

 

「日野仁から、織斑一夏を奪い取るんだ」

 

 ()()()声が響く。とても響く。

 何もかも跳ね除けて、心に響いて塗り込める。

 

「織斑一夏を、殺すんだ」

 

 こころがぜんぶぬりつぶされる――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――VTシステム、強制起動

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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