織斑姉弟(へ)の献身 作:足洗
束さんって可愛くね?(ノンケ並感)
意識の浮上は唐突に為された。波一つなく、流動すらしない深い湖の底から、ゆっくりと水面へ
安息地であった暗闇から追い立てられ、我が身は冷えた現実に帰還する。
目を開き、焦点の定まらぬまま視線を泳がせた。そうして最初に像を結んだのは、サイドテーブルに生けられたガーベラだった。
身を起こす。暗い影と蒼い闇。時刻は兎も角、現在が夜であることに相違はあるまい。
そしてここは病室、それも入院患者用の個室のようだ。十畳ほどもあろう広い室内には見舞いの訪問者に宛がうテーブルとソファ、患者の手荷物を仕舞う戸棚とクローゼットがある。出入り口とは別に設えてある扉は洗面所かトイレといったところだろう。とはいえ、それでも茫漠とした感は否めない。
一人で使うには広過ぎる。
そして己は個室など用意される分際にない。
そうした感慨と自覚も相まって――
「所在無さげ」
「……」
内心に対する最適な言語表現は、しかし己の口から齎されたものではなかった。
いつからそこに存在していたのか。いや、少なくとも己が目覚めるよりも前から“彼女”は窓辺に佇んでいたのだろう。
つまりはたっぷり一分間ほど、己は彼女の存在を無視していたことになる。
「……おはようございます」
「遅よう」
「は」
夜闇の中にあっても、ともすればより一層鮮やかな牡丹の色彩の髪。豊かに波打つそれの頭頂を飾るのは、機械仕掛けの耳。
一体どのような機構をしているのか、兎の耳は彼女の挙動に合わせてピンと立ち上がる。
「私の予測では二分二十七秒前には覚醒してた筈だよ。君が惰眠に執着した所為でその分だけ私は私の時間を無為に過ごしてしまったの」
「それは……面目次第もありません」
「もっとちゃんと謝って」
「はっ、貴女の貴重なお時間を自分如きに割かせ、また今なお自分の現状に対する不理解により同様の値千金たる時間を浪費させている事実。深く、お詫び申し上げます」
「ちょっとくどい。68点」
「精進致します」
「うん」
不満の色はそのままに彼女は頷く。
脊髄反射的に謝罪の言葉など並べてはみたが、どうやら思考能力は未だ十全とは言い難い。というか己は何条以て謝罪を要求されたのだろうか。それすら今一つ分かっていない。
「というか、そんなことはどうでもいいよ。この私がわざわざ君の寝顔を眺める為だけに日本に帰ってきたと本気で思ってるわけ?」
「滅相も」
「そうだよ」
「は?」
「今日は君を眺めに来たんだ」
おそらくは愛らしいに部類される端整な顔にあまり似合わぬ仏頂面を貼り付けて、彼女は言った。
意味を判じかねる。頭の回転云々以前の、もっと根本的な理由によって。
「篠ノ之束博士。一つ、質問してもよろしいでしょうか」
「なに」
「自分と貴女は今日今宵が初対面、この認識に間違いはありませんか?」
「あー、ま、対面はしてないね。でも私は君を知っている。だから、前述した私の行動にはとある意味と意義が含まれていて今からそれを説明しようと思っていたのだけれど、君の質問事項によって話の腰を折られてまた時間が無駄になってるほらー」
「申し訳ありません。御用の向きを、どうかお聞かせ願います」
床に入ったまま礼をする不躾については、前例に倣い触れずに置く。
彼女はソファの背に座り、足をぶらつかせながら天井を見上げた。
「そもそも君、自分がなんで生きてるのか疑問に思わないの?」
「……」
「結論から言うと、死にかけの君、もとい実際死んでた君の体に“ソレ”を埋め込んだのは私だ」
ソレ、と言いながら彼女は己を指差した。己の身体、その胸の中央を。
無意識に、右手で胸を押さえる。それでその下に在るものを確かめられる訳でもない。
「“ソレ”は私が造った特別の一品。本当はいっくんの家で育ててもらおうと思って監視の目を潰したり追跡者の足を切ったりしてようやく日本まで帰って来たっていうのにあの下品なテロ女のお陰で盛大に予定が狂いに狂っていっくんピーンチ! そこへ颯爽登場天才兎束さーん! いっくんの危機を華麗に救っていっくんのハートは一網打尽でステキータバネサンダイテーなんてデュフフな展開を期待してた私の純情な感情返してよって思ったもんだよ」
「はい」
スカイダイヴをしていたら着地点を誤ってマリアナ海溝に突入してしまったかのような気分だった。僅かに目眩を覚える。
「装着者の能力と戦闘経験によって機能を拡張する自己学習・自己成長という個性を持つものを現行ISと称すならば、“ソレ”は存在理念から違う」
天井を仰ぎ、仰ぐまま上体を仰け反らせ、ぴたりと静止した。
「周囲の環境情報を読み解き、自己増殖を繰り返しながら最も適した変態を遂げる。それも極短期の内に。生殖という複数個体からのアップグレードを必要とせず、その子は単一で数万世代分の進化が可能だ。地球上で唯一にして初の完全な生命体、その名も――――」
ソファの背から兎が跳ねる。天才の名を
「ワンちゃん」
「つまり、己の体内環境に適応したソレが、自己の生存の為にその環境を担う肉体の生命機能を代行している、と?」
「おうおうツッコメよー。凡人が生意気に無視とかしてんなよー。寂しいだろがよー」
合点が行った。あの日あの時、左腕をもがれ心臓やその他の臓器を軒並み抉り出された己は、肉体的には死を遂げた筈だ。
それが何の手違いが今こうして生存を許されている。左腕一本の損失程度では到底見合わぬ奇跡的生還が、眼前に佇む天才による所業となれば納得するより他にあるまい。
「なーに安心してんだい。まさか君、ただ自分が助かっただなんて甘いこと考えてるんじゃあないだろうね」
「それは……?」
「偉い人は言いました。タダより高いものはないと。束さんは思いました。じゃあそれタダじゃないじゃんと」
「……」
「束さんはタダで
その瞬間、彼女は初めて笑みを浮かべた。ドールのように無垢な貌に、さながら無機物のような酷薄さで美麗に
「“ワン”は環境に適応するだけじゃない。それを
喉を鳴らして彼女は笑った。愉しげに目を細める様はまるで少女のようだ。
「心肺機能と脊椎のほとんどを代替しているからね。それら全部が無くなった時、君はどうなるかな?」
解り切ったことである。それをわざわざ己に確認すのは、彼女なりの優しさか、それとも。
「“ワン”が誕生間もないことを予測値に加えたとしても……一年ってところだね。九割九分君は、死ぬ」
「了解しました。貴重なご助言を賜り、もはや感謝の言葉もありません」
「…………」
今度こそ己はベッドから降り、その場で深く腰を折った。これ以上の何をかの
頭上で気配を待つ。面を上げる許しではなく、先方が会話の再開を望むかどうかを。
「……はあ? ねぇ、君、私の話を理解できてるのかな? まさか適当に聞き流してたんじゃないだろうね」
「謹んで傾聴させていただきました。内容に関しても、要点はおそらく理解したものかと」
「じゃあもっと、何か言うべきこととかあるでしょ………………フツウは」
最後の一語を、彼女はひどい躊躇いの末口にした。まるで声に出せば口が穢れるとばかり。その一語を唾棄しているのだろう。天稟を持って生まれたが故に、相容れぬ価値観があるのかもしれない。
己の如き凡夫が軽々に触れるべきことではない。
そして今は、彼女に伝えることがある。
「感謝を」
「だから私は君を助けたわけじゃ」
「いえ、この儀において我が身の助命は関わりのないこと。ただの
「?」
自分でなくともよかった。事実、己が死しても目の前の女性が『それ』を為しただろう。あるいは、今この場には居られない彼の御姉君が全霊を以て『それ』を為しただろう。
だからこれは切欠、手段の別に過ぎない。
しかし、それでも言わずに居られようか。
「自分に、一夏さんをお助けする為の“機会”を貴女は与えてくださった」
「――――」
「それがどれほど、どれほどに」
身命を使い潰してなお為し得なかった不甲斐無さ。無念という闇の中でただひたすら叫び続けることしかできなかった願いを彼女は叶えてくれたのだ。まるで女神の慈悲が如く。
「ありがとうございます。貴女に、貴女の慈悲に感謝を……!」
「……」
知らず、膝を付き頭を垂れていた。心中のこの想いを体現する為に。
暫時、室内を沈黙が支配した。窓の向こうで遠く響く虫の声。とても静かな夜だった。
「……つ……んない……」
「?」
不意に呟きが零れた。一度では聞き取れず、問いかけの心地で彼女を見上げる。
白くほっそりしていた彼女の面差しは、赤くぷっくりと膨れていた。頬を膨らませて、篠ノ之束が肩を震わせている。
「つまんない! つまんない! つまんないぃー!!」
「は……?」
「なにさなにさ! ありがとうじゃないよ! もっと言うことあるでしょ! 文句とか泣き言とか命乞いとか!! 驚けよー恐れおののけよー! 一年後死んじゃうかもしんないんだぞー!! それをナニ!? ありがとう!? いっくんを助けてありがとう!? あんたの為なんかじゃないんだから! 全部全部いっくんの為なんだから! 勘違いしないでよね!?」
「了解しました」
「そこは勘違いしなさいよー!!」
地団駄を踏み、手をばたつかせ、床といわず壁といわず天井といわず走り回る。いとも容易く重力を無視しているが、彼女は篠ノ之束であるからして然したる不思議はなかった。
「もうっ!」
「!」
突如、天井から自由落下する形で彼女が降ってくる。受け止める為に身構えようとして、今更に左腕が存在しないことに気が付いた。
どうする。一瞬の思考停止。
しかし、そんなものを無視して彼女は降り来たり、己の左肩に触れた。
「ぐ!?」
その瞬間、白光が奔り、同時に激痛が肩口から走った。断続的な光と、それに呼応する痛覚への暴力。
傷口から肉を抉り、神経を直接引き掻かれながら何かが這い出してくる。
おそらくは時間にして五秒と経ってはいない。体感時間の相対性を身を以て思い知った。
反射的に傷口を検めようとして、失敗する。見るべきものがそこにはなく、代わりにあったのは。
「……隻腕じゃ、いっくんとちーちゃんが苦労するから」
「これは、あの時の腕……」
鈍い銀発色の金属繊維の集合体。鋼の左腕が生成されていた。
「“ワン”が君の身体情報を解析・集積して、私がそれに指向性を持たせて復元した。ま、中身は全く別物だけどね。機能とパワーは、知ってるでしょ?」
「……はっ」
戦闘用に調整されたIS、それを身に纏ったプロの殺し屋を諸共に粉砕するほどの突貫力。
間違いなく危険な力である。
「精々振り回されないように気を付けることだね、ウィンターソルジャー。君の親友にキャップが居るなら別だけど」
「盾ではなく剣力の才並ならぬ武人には、御一人心当たりが」
「そりゃいいね。いざとなったらスパッと斬ってもらいなよ」
彼女は踵を返し、窓を開け放つ。そうして躊躇なく窓の縁に足を掛けた。
「……やっぱり私」
「はい」
「君のこと大ッ嫌い!!」
彼女は飛んだ。
一時、窓の下へと消えた姿が、次の瞬間夜空に舞い上がった。橙色も鮮やかに、緑の茎からアフターバーナーを轟かせる巨大な人参。兎はそれに跨って空の彼方へと姿を消した。