織斑姉弟(へ)の献身 作:足洗
手洗いに据え付けられた鏡を見る。不意に思い立ち、白いハイネックシャツの首筋を捲った。
やはり強烈なのはこの、噛み痕。
「……」
上下の
彼女曰くのスキンシップは、別段これが初めてという訳ではない。交友を深めていく中で徐々にそうした接触を彼女が求めるようになった。
それを拒む理由は――おそらく無数に存在する。
織斑千冬という人物はもはや尋常一様に納まる器ではない。その大人物の素行を乱し、また悪評を広めるが如き真似が己に許される筈もなし。
あるいは、そうした彼女が身を置く地位を一旦無視するとして、彼女を織斑千冬という一個人、一人の女性として扱うのなら、なおのこと過剰な肉体的接触は諌めるべきこと。
……もう一つ些事を挙げるなら、彼女の親愛を賜るほどの価値が日野仁という男には無い。
諸々理由は繕える。しかし現実には、諌めるどころか拒絶の意志すら伝えること能わぬ。彼女自身が意図的にそれらを無視している、というのも事実ではあるが。
彼女なりの悪戯心、悪巫山戯の一種ならば、苦笑と共に幾らでも振り回されよう。否やなど有ろう筈もない。
だが。
『頼むから、お前はいなくならないでくれ……お願いだ……ジン』
その執着の源泉を己は知っている。
そして己にとって彼女は。
どんな地位に在り、どのような力を得て、どれほどに“大人”を好演できようとも。
彼女は今も、己にとっては一人の少女だ。寂寥に心で泣き崩れる、ただただ
「……恥を、知らぬ」
己が思考に唾棄をくれる。
そうしてさらにシャツの襟首を引き下げる。歯型のやや下あたりにもう一箇所、小さな痣があった。歯型に比べればいかにも細く控えめなそれが傷や湿疹の類でないことは分かる。
いや、これもまたある意味で、外的な要因による“傷跡”と言えなくもない……のだが。
「………………」
ただいずれの痕跡も、人目に晒してなお平気の平左を気取る自信が己には無かった。
誰が。
その疑問を解消することは容易い。日野仁という男を見舞ってくれる奇特な人間が、この世には片手で数え終わるほどしかいない。変態性癖を持った医師や看護師による犯行という可能性も無くは無い。もしそうであったなら、この世の奇天烈さに驚き呆れつつ携帯端末で最寄の警察署へ通報するだけで事は済むだろう。
何故。
これが難問であった。
身の程を弁えぬなら、想像を巡らせることはできる。それが良解か善事かは別として。
「ジーン、そろそろ出よー」
「はい、只今」
扉の外から声が掛かる。本日遂に退院が叶い、現在はその身支度の最中。鏡を前に唯々諾々と愚にも付かぬ考えを弄していた所為で、気付かぬ内に随分と時間が経っていたようだ。
シャツの襟元を正し、ジャケットには袖を通さず肩から羽織る。こうすれば隻腕も多少は目立たない。
あの腕、機械肢とでも呼ぼうか。あれは、基本的に平時には体内のコアに格納されている。先の夜に巡った邂逅、篠ノ之束博士の措置によって、任意での構築、分解が可能となった。IS技術における代表的な機能の一つ、物質の“量子化”である。
これ一つとっても間違いなく法外無辺の能力であった。少なくとも男性種である己には一生涯、関わりのないものと決め付けていたが。
扉を開き、外に出る。
己の着替えや生活雑貨一式を詰めたボストンバッグを肩に担ぎ、一夏少年はソファの背に腰を預けて待っていた。
白いゆったりとしたカットソーの上から、膝下まである薄手のコーディガンを着ている。ライトベージュの七分丈パンツにブラウンのサンダル。春らしい涼しげな装いが彼の端整な顔立ちも手伝い、まるでファッション雑誌の表紙を飾る
「お待たせしました」
「ん、大丈夫。あ、ちょっと待った」
そう言って彼はこちらに歩み寄り、肩のジャケットを掛け直してくれた。
「うん、これでよし」
「ありがとうございます」
柔く笑み。
セミロングの濡れ羽色の髪と相まって後姿などうっかり女性と見違える。いや、顔を見たとしても、知らぬ者が見ればその性別を言い当てるのは難しい。
男女の別を排した意味で、彼は間違いなく美人であった。
「行こうっ」
「はい」
連れ立って病棟の玄関口へ行く。
すると、そこには数人の看護師方の姿があった。その内の一人、若い看護師の女性がこちらを見付けて手を振っている。
「日野さん、退院おめでとうございます!」
「これは、とんだ御骨折りを」
「当たり前ですよ。日野さんご自身が頑張ってやっと迎えた日ですから」
「それも何より、皆々様の御尽力賜ればこそ。長らく御世話を御掛けしました。本当に、ありがとうございます」
「っ!」
下げた頭の向こうで息を呑む気配を聞く。
見れば彼女は涙を浮かべ、それを堪えるように口元を手で覆っている。
その彼女の先輩らしい女性が笑った。
「ごめんね。この子受け持った患者さんの見送り初めてでさ」
「はいっ……こんなに長いこと昏睡されてて、でもきちんと目を覚まして無事にこうして退院を迎えてくれたのが、嬉しくてっ……!」
「……勿体無きことです」
己如きの為に、喜び、涙すら流してしまう彼女に、今一度頭を垂れる。
そして右手を取られ、両の手で強く包まれた。
「日野さん。改めて、おめでとうございます……!」
「並ならぬ御勤めかと思います。どうか貴女も、御自愛ください」
「はい!」
「おバカ、うちらが先に言われてどうすんのさ。はははっ!」
笑顔に見送られながら、我々は病院を後にした。
「…………」
「いやー、ガタイもそうだけどホントに中学生かってくらいしっかりしてたねー。日野くん、将来はいい男になりそうじゃ……どうしたの?」
「――え!? いえ、その……私の気の所為だと、思うんです、けど」
「うん?」
「……最後、一瞬、織斑さんが凄い目でこっちを睨んだような気がして……」
道すがら、不意に右手を掴まれる。
見ればどうしてか、少年は我が手を引いて、口元へ寄せている。
「どうかされましたか」
「ん……臭いは、付いてない……」
「は」
一言呟くと、少年は右手に自身の手を重ねて強く擦り付ける。その表面に頑固な汚れがあると言わんばかりに。
「……昨晩入浴は済ませたのですが、どうやら洗浄が十分でなかったようです」
「――――」
「とんだ粗相を……一夏さん?」
「――――え? あ! ううん、違う違う! そんなことない!」
呼び掛けに一拍の間を置いてから、慌てたように少年は首を振った。そうして己の右手を胸に寄せて抱きかかえる。
「ジンの匂いは大好きだし安心するしなんならずっと嗅いでたいっていうか……ち、ちがっ、それもちがくて! 何言ってんだ俺!? 嗅いでたいってなんだよ匂いフェチか!? 変態か!?」
「どうか落ち着かれませ。そして出来れば声量を抑えることをお勧めします」
「あ、うん。ごめん」
平静を取り戻したらしい彼に安堵しつつ、再び道を歩く。
右手は、握られたままであった。
「……あの、さ」
「はい。なんでしょうか」
「実は俺、ジンに言わなきゃいけないことがあるんだ」
改まった口調から、僅かな緊張が聞き取れた。
「ジンってさ、一人暮らしじゃんか」
「は、そろそろ九年に……いえ、十年にもなります」
六歳の頃に養護施設を離れ、それからは独り、アパート住まいを続けている。“名義および保証人”と“医師の診断書”、そしてこの外見を用いれば、そのような年齢の小僧にも部屋が借りられたことは、唯一幸いだ。
思えば
しかしそこで唐突に思い至る。一年もの間昏睡状態にあって、家賃の支払いや管理人への連絡等一切をすっかりと忘却していた。
「なんたる迂闊……暫しお待ちを」
「いや、大丈夫だ」
携帯端末を取り出す為に右手を繰ろうとして、未だに解放されないそれが目に入る。どころか、少年はぎゅっと手を握り直した。
「大丈夫、とは」
「だからさ、部屋の心配はしなくても平気だ」
「いえ、しかし、現在の状況や滞納分の賃料の支払いに関して管理の方へ連絡を取る必要が」
「無いんだ」
「は?」
意を決した様子で少年は言う。
「家賃は千冬姉が肩代わりしてくれたし、部屋の荷物もちゃんと運び出したよ。電化製品はともかく、他の荷物全部スーツケース一つに納まったのは流石にびっくりしたけど」
「……」
機微に聡い性質だなどと、酒席の冗談にも言えぬ身ではあるが、事ここに至れば彼の言わんとするところを察するのは容易だった。
「
視線を合わせようとそちらへ向くと、彼はさっと顔を逸らしてしまった。しかし、解答はきちんと寄越される。
答え合わせの必要も無かろうが。
「…………おれんち」
妙に舌っ足らずな口調で彼は小さく呟いた。