織斑姉弟(へ)の献身   作:足洗

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8話 刻むことでしか

 目を開け、すぐに閉じる。刃のような光が眼球を刺したのだ。

 桿体細胞への過剰な負担。朝陽に瞳孔が馴染むまで目蓋を緩く閉ざす。

 ようやく外界を認識する。カーテンの僅かな隙間から、晴天に浮かぶ太陽が顔を覗かせている。

 どうやらここは、八畳ほどのリビング。カーペットを敷いているとはいえ少しだけ背中が痛んだ。

 昨晩は、そう、己の快気祝いとして織斑御姉弟が一席を設けてくださった。己にとっては予期せぬ歓迎会でもあった訳だが。

 

「……」

 

 身動ぎしようとして、動かぬ右手に気付く。

 己の掌を頬の下に置いて、少年が同じブランケットの中ですやすやと寝息を立てていた。

 

「起きたか」

「……は」

 

 首を廻らせると、ソファに横たわる女を見付ける。ローライズのショートパンツにタンクトップ、下着すら着けていないというラフ……と呼ぶのも躊躇われる無防備な姿。

 織斑千冬。

 世間で知られ、またそこで彼女が振舞う“織斑千冬”と、家の内で、あるいは身内を前にする“織斑千冬”は違う。文明生活を送る社会人としてそれは当然の()()である。

 故にこれは、己の勝手な感想に過ぎない。何者にも臆さぬ武人であり誰もが認める麗人たる彼女と、缶ビール片手にピーナッツを投げ上げて口に放り込む彼女の、その落差に目眩と和みのようなものを覚えた。

 

「まだ三十分くらいは余裕がある。もう少し寝ておけ」

「ありがとうございます……」

 

 努めて声を潜めながら、少年が包まるブランケットの位置を……左腕を顕現させ、直す。

 

「ほう……」

「失礼。御見苦しいものを」

「ふふっ、何故だ?」

 

 彼女は下半身の発条(ばね)だけでソファを降り立った。一切の物音を立てずに。

 そのままこちらに歩み寄り、己の左隣へごろんと横になる。

 彼女の両手が機械肢に触れる。右手は肘から前腕を手首まで撫で、左手は逆に上腕から肩へと滑る。

 

「なかなかの再現度だ。以前のお前の腕によく似せている」

「自分自身、驚くほどに違和感がありません」

「あの天災(アホ)にしてはまともな善い仕事だ」

「……このような大恩に報いる術が、自分には、どうにも」

「お前が気にすることじゃない。要は、新技術の実験台だぞ?」

「しかし、命を救われ、永遠に失っていた筈の“機会”を己は得たのです」

 

 右手の親指で少年の柔らかな頬を撫でた。一度擽ったそうに身動ぎすると、少年は微笑した。微睡(まどろみ)の中で、彼はどんな夢を見ているだろうか。

 この、夢か幻のような一時を迎えられたのは、一体誰の(たすけ)によるものかを己は断じて忘れてはならない。

 

「……」

 

 少年の寝顔、そのあどけなさに笑みが零れる。

 暫時、静けさだけが室内を満たした。

 その時、ちくりと己の左頬を刺す視線に気付く。無言のまま、しかし彼女の沈黙には何らかの意思が混交していた。

 判読を試みるように彼女に視線を送ろうとして、視界が閉ざされた。

 

「!」

「動くな」

 

 己の目を塞いでいるのが彼女の掌であると気付いた頃には、馬乗りになった彼女に右腕を封殺されていた。

 この腕のパワーであれば、彼女の体重を退けるに微塵ほどの労も要さぬだろう。無論、そのような真似ができる筈もないが。

 そして織斑千冬という女性は、己の内心をよくよく理解している。

 精密動作性が未知数である左腕は動かせず、右手には寝る子。所謂一つの詰み、であった。

 

「お前は糞真面目な男だ。あんな傾奇者にすら義理を通すのか。道理を無理で塗り潰すような女に……お前らしいよ」

「あの方が世に布かんと欲する理を、自分如きが解することは困難です。あの方にとっては自分もまた、理の礎の一柱でしかないのやもしれません。しかし、だからとて、それがこの感謝を鈍らせる理由にはならないのです」

「…………そうだろうな。お前なら、そう言うよな」

 

 目隠しの向こうで彼女がどんな貌をしているのかは分からない。ただ、降り落ちてきた呟きに、それを感じ取った。織斑千冬という女性(ヒト)が抱える、今以て拭えない、その寂寥――――

 

「お前のそういうところが気に入ってるし、お前のそういうところが……私は許せない」

「それは……っ!」

 

 突如、喉笛に痛みが走る。刃が刺し、抉るような。

 近頃ひどく身に覚えがある鋭い痛み。

 

「んっ、んっふ、ちゅっ」

「ぐっ……」

 

 以前よりもより強く、より深く、彼女の()が己を貫いた。

 肉食獣がその強靭な顎で、捕えた獲物の頚椎を砕いてしまうように。

 呼吸が、気道が塞がれ、阻害されている。このままでは、文字通り息の根を止められるだろう。

 

 ――――それも、あるいは趣深いかもしれない

 

 ここには幸福が満ちている。

 少年は健やかに今を生きて、これより先の未来を歩んでくれる。

 少女は成長し、誰よりも強く、真っ直ぐに、己が道を突き進むだろう。そんな彼女が望むならば、この程度の命を惜しむ理由など……。

 その世迷言に胸中で苦笑した。あまりの愚昧さと自己陶酔に今生きていることすら恥ずかしく思う。

 

「…………んはぁっ」

「っ、かっは、はぁっはぁっ、は、はあ、はぁはぁ……!」

 

 それを感じ取ったという訳でもあるまい。またしても突如喉笛は解放され、新鮮な酸素を欲して心肺機能が躍起になって稼動する。いや、この行為自体もまた機械肢同様の“模倣”なのか。人間らしさを残してくれていることに感謝すべきだろうか。

 掌が退けられ、再び視界が回復する。そうして鼻先には彼女の顔がある。口の端を血で染め、瞳を妖しく光らせる美しい女が。

 舌舐めずりして我が身を見下ろしている。

 

「今日の分だ。これから暫らくは帰るのも難しくてな。だから、当分は消えないように刻み付けた」

「……なるほ、ど……」

「……まだ十分あるな。もう一つくらい付けておこうか?」

 

 悪戯っぽい笑みを浮かべて彼女は言った。今彼女が放つものこそが、妖艶と呼ばれる魔性であるのだと今更に理解する。

 だからこそ、己は眼前の“少女”を慈しむ。

 

「お手柔らかに」

 

 怜悧を象形したかのような(まなこ)が僅かに見開かれた。まさか、了承を告げられるなどと思いもしていなかったのだろう。

 喜びのような、涙を堪えるような、可笑しさに擽られるような、許しを請うかのような微細で多様で複雑な変化を経て、最後に彼女は寂しげに笑い。

 己に喰らい付いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「なぁ、ジン」

「はい、なんでしょうか」

 

 昨晩と今朝方の分の食器を一夏少年が洗い、自分が布巾で水気を拭き取る。

 キッチンに二人並んで作業していた折。

 

「起きたときから気になってたんだけどさ」

「は」

「お前、なんでそんな首だけミイラみたいになってんだ?」

「……」

 

 返すべき言葉を見失う。言い訳か嘘か。いずれにせよ、返答の選択には慎重を要した。

 

「先に出るぞ」

「あ、いってらっしゃい千冬姉」

「……道中お気を付けて」

「ああ、いってくる」

 

 ダークスーツに身を包み、家長殿は一足早く玄関の戸口を出て行く。

 扉を閉める直前、艶やかな笑みを浮かべる唇が何かを囁いた。

 

「……それで? なんだよそれ」

「…………」

 

 せめて、少年に対する釈明の手助けをしてから御出勤願いたかった。

 彼女の囁きの意味を思い、途方に暮れる。

 

『がんばれ』

 

 それはあまりにも無情であった。

 

「なぁ聞いてんのかジン!?」

「……はい」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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