埋もれるアトリエ   作:乙祭

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不快な描写があります。


『睫毛』

自分のことを客観視出来るだなんて口が裂けても言えないけれど、それでも自分がどんな奴か簡潔に説明しろと言われれば神経質とか小心者、という単語が当てはまると確信している。

幼い頃からそうだった。

子育てに積極的でも消極的でもない、極々普通、極めて平均的な、殊更特徴もない、ステレオタイプの教育方針を掲げる母曰く、私はとにかく『準備』に時間がかかる子供だったそうだ。

別段、要領が悪いわけではない、のだと思う。

単純に気になるのだ。

ランドセルに確りと筆箱は入れただろうか?

筆箱に筆記用具は? 消しゴムは? ノートはまだ白紙のページが残っていたろうか? 教科書の数は? そもそも今日の時間割はなんだったろうか。

昼食をとるときに使う箸は? 手を洗うときに使うハンカチは? ちゃんと入れたか? 持っただろうか?

何度も確認しても、この目で見て、触って確認しても、本当に、本当か? と確たる確信が持てなかった。

 

不足の事態に対応できる為に、必要以上に物を持っていきたかったわけではない。

傘を忘れて雨に濡れた経験はあるし、怪我をして絆創膏がなかった記憶もある。

もし、こんな事態になったら、この道具が必要なのではないかという心配事に支配されていたわけではない。

もっと単純に、自分が行った行動に太鼓判が押せなかっただけである。

 

この私の悪癖は大同小異、共感が見込めるのではないかと思っている。

ガスの元栓や玄関の鍵、閉めたっけ? 煙草の火は消しただろうか? 犬に餌は? 水道の蛇口は? 学校なり仕事なり、あるいはあてもなく散歩に出掛ける為に外出した際、ふとそんな心配事が脳裏を過らないだろうか。

私の場合、これが何時までも続くのである。

踵を返し自宅に戻り、確認しても確信が持てない。

鍵は閉まっていた。

鍵が閉まっているかどうかの確認の為に一度開けている。

もう一度ちゃんと閉めただろうか?

そんなことが何時までも何時までも続いてしまう。

 

私のそんな悪癖は、『大丈夫』だと私の代わりに保証してくれた母を亡くしてから一層の悪化を見せた。

小学校高学年の頃。

母は骨だけになった。

幼心に母の死は相当堪えたのを覚えている。

母が冷たくなって、話さなくなっても実感はなく、焼かれて骨にされ、小さな壺に押し込められた時になって私は初めて、得体の知れない恐怖を感じた。

これは母の骨なのだろうが、これは断じて母ではない。

そもそも、これは本当に母の骨なのだろうか?

私は、確認をしていない。

保証してくれた母はもういない。

実は全く別人の骨でした、なんて言われたら、そんなことを言われたら私は、

 

私は学校に行かなくなった。

所謂、不登校、というやつだ。

外に出るのが怖かったわけじゃない。

気になって気になって、外に出ても、なんども確認に戻ってしまって気が付いたら日が暮れているだなんてことを毎日毎日繰り返していたら不登校児などという笑えない状態になってしまったのである。

 

祖父母は私を精神科に通院させた。

笑えることにそのお陰様で私は更なる悪化をみせてしまう。

薬だ。

薬を決まった時間に飲む生活を強いられた。

私のこんな性格で、そんなことになったらどんなことになるか想像出来そうなものだが、お察しの通り、私は自分が本当に決められた時間に薬を飲んだのか不安になり、過剰摂取してしまう負のスパイラルに陥った。

朝昼晩。食前と食後に二錠づつ。

私は確り飲んだだろうか? 食前に食後の薬を飲んではいないだろうか? 食後に食前の薬を飲んではいないだろうか? ちゃんと二錠飲んだだろうか? 一錠ではなかったか? 私は病気だ。だって病院に通っているんだから。薬はそれを治すために、正しく服用せねばならない。決められた数を決められた時に。そうしなければ病気は治らない。

そしたらいずれ、骨だけになってしまう。

あんな、母の、ようになる。

そう思うと当時の私に余裕はなかった。

何度も何度も飲んだ筈の薬を飲み。

音を立てて加速度的に、少なくとも祖父母から見れば私の病状は進行した。

 

担任の温情で少なくとも中学は卒業出来たが、そんな有り様で高校受験など不可能と言うもの。

見事に失敗。晴れて私は、学生という身分さえ失った。

その筈だった。

 

「初めまして、になんのかな」

 

人間、というか大型の肉食獣が無理に人間の着ぐるみを着込んで常時悲鳴をあげているみたいな男は、実に面倒臭そうに、全く興味ないような視線を私に向けて、

 

「俺、なんでも、オマエの父親らしいわ」

 

などと、

お互い災難な話だな、と無責任に彼は名乗った。

 

これが私と、自称父親のファーストコンタクト。

結論から言って、本日この時より、私の名字は釈迦堂となる。

釈迦、ときたか。まるで阿修羅みたいな男の人なのに。

 

 

 

△△△

 

若い頃の俺はそりゃもうヤンチャだったもんよ。いやな、今でも若いけどよ。

 

ヤンチャ? バイクで夜な夜な暴走したり?

 

いいや? バイクはなぁ。だってあんなんより走った方が速いもん。

 

………………。

 

なんだその顔?

 

別に。

 

とにかく俺はそう、バイオレンスでエキゾチックな日々を送ってたわけだ。夜な夜なハルクと暴走したりな。

ほら、わるーい男には外せねえ要素があるだろ? 酒に暴力、それから女だ。

 

ふーん。

 

あれ、興味ない? 一応、オマエの母親との馴れ初め語り聞かせてやってんだけど。

 

父親らしく?

 

おー、そうそう父親らしく。まあ籍は入れてねえから、戸籍上はオマエの父親でもなんでもないんだがな。

 

それで?

 

あん?

 

続きは?

 

続き? いやねえよ? 寄ってきた女と手当たり次第一発ヤッて、出来たのがオマエ。ぶっちゃけ、オマエ母親の顔もあんまり思い出せねえ。アイツ元気?

 

骨になっちゃったよ。

 

なにそれ? 無理なダイエットでもしたのか?

 

ううん。そうじゃなくて、死んじゃったの。

 

あ、そうなんだ。なんで? 病気?

 

事故。車にはねられた。

 

あー、いるらしいな。車にはねられただけで死ぬ奴って。

 

トラックだよ? 普通死んじゃうと思うけど。

 

ふーん。普通ってのは不便なんだな。

 

それで、えーっと……釈迦堂さん?

 

パパって呼んでくれてもいいぜ。

 

釈迦堂さんは何しに来たの。

 

そりゃまあ娘に会いに来たんだよ。パパだから。

 

お母さんの顔も思い出せないのに、なんで今さら?

 

暇だったからだよ。じゃなきゃわざわざ調べて会いに来たりなんてしねえって。

 

なにそれ。

 

でもま、もういいわ。だってオマエ、普通だもん。つまらんわ。

 

 

いやな、俺ってばちょー強いのよ。ホント敵なしレベルに。だから退屈でなぁ。俺の子供なら、じゃれあうくらいは出来んじゃねえかって期待してたんだけどさ。無理っぽいな。

 

私が、普通?

 

ああ、なんの特徴もないな。母親の方に似たんかね。なんの気も感じねえし、こりゃダメだわ。

 

そう。私、釈迦堂さんから見ると普通なんだね。

 

そこらの連中と同じだよ。てなわけで俺もう行くわ。オマエにもう用はないし。

じゃあな、トラックには気を付けろよ我が娘。

 

うん。ありがとう、釈迦堂さん。

 

 

 

 

取り込み中のところ失礼するぞい。

――釈迦堂刑部じゃな?

 

 

 

△△△

 

父親を名乗る怪しげな人間が、仙人のような老人に空高く打ち上げられた光景は私のこれまで培った価値観を木端微塵に粉砕するには十分で、人間と言うものの可能性の真髄をまざまざと見せ付けられることになった。

仙人さん曰く、『なんでも気の応用』ということらしいが全く意味が分からない。

話を総合するに、自称父親、釈迦堂さんは、それこそ自称通り大変ヤンチャさんだったご様子で、週に一度は報道番組でうだなれながら連行される犯罪者がハムスターに見えるほど凶悪犯だったらしい。

まあ凶悪犯だったが、見た目通り知能犯というわけでもないから国家権力の方々に簡単に特定されることになったようだが、天下の警察様は釈迦堂さんを捕縛することが出来なかったそうである。

 

理由としては釈迦堂さんが強かったから。

映画や漫画に出てくる怪獣のように、それはそれは強かったからだそうだ。

だから、似たように映画や漫画に出てくる仙人さんが釈迦堂さんを叩きのめしにきた、というような事情らしい。

 

「お主は?」

 

仙人さんは私に質問した。

 

「ワシは川神鉄心という。まあしがない武術家じゃな。お主の名前は? そこの乱暴者とはどのような関係かの?」

 

私の知っているどんな武術家ともスケールの違う仙人さんは、自身が行使できる暴力の規模とは異なり極めて穏やかに、まるで学校の先生みたいな口調で私に再度質問をしてきた。

とりあえずこれまで釈迦堂さんと話した経緯を説明すると、仙人さんは失神している釈迦堂さんをひっぱたいて起こし、またひっぱたいて気絶させた。

仙人さんは怖い仙人さんのようである。

 

「全く困ったもんじゃの。こやつ、才はあるが人間としてはてんでなっとらん。お主も災難じゃったの」

 

「……いえ、まあ、大丈夫です」

 

「そうかの?」

 

というか普通に怖い。

私に父親がいた事実よりも、その父親が想像を絶するダメ人間という現実よりも、台風みたいな異常現象を済ました顔で発生させる人類がいることの方が問題である。

 

「ふーむ、うむ」

 

そしてその恐怖人形怪人仙人さんはなにやら私を興味深く観察している有り様である。

知らず背筋が凍ってしまう。

 

「流石はあの男の娘、といったところかの。お主おかしな……よくない瞳をしているの」

 

「え、なんです?」

 

「心当たりはないかの? その瞳を使ったことは?」

 

「瞳? すいません、話が見えないんですが……」

 

本当に意味が分からない。

 

「そうか。まあ、それならよいわい」

 

――ところでお主、学校はどこじゃ?

ワシ、こう見えて学園長なんじゃが。

 

 

 

世の中どうなるかわからないもので、こんな感じの経緯で私は川神学園の一年生となり、川神院という巨大なお寺で、しかも父親と住むことになった。

川神での生活は刺激的だった。

なんたってもう住人がおかしい。

奇想天外という四文字熟語は実のところ川神が発祥の地ではなかろうかと思えるほどに、この地を彩るのに相応しい。

なんたって皆、そこらのコミックのキャラクターより逞しい。車より早く走れたり、車を持ち上げたり、車にひかれて車が壊れたりとかまあそんな現象を引き起こすことが頻繁にあり、この人間的クオリティで日本はどうして戦争に負けたのか疑問がつきない。

ミサイルよりも釈迦堂さんや鉄心さんを航空機から発射した方が余程戦略的価値があるように思うのは私だけだろうか。

 

私が世話になっているこの川神院も、武の総本山と言われるだけあって川神クオリティ的には普通な、しかし常識に照らし合わせれば首を傾げるどころではない光景が毎日のように繰り広げられている。

武術、すなわち格闘技は年末の特番なんかでグローブをつけて叩いたり、叩かれたりするもので決してビームを出したり、天気を操作したりするものではないと断言できる。

私の中で超人育成養成所というネームプレートを欲しいままにしているこの自称武術寺は年端もいかない女の子にさえ苛烈な修行をかし、人道的にどうなのか? と

思わないでもない。

 

しかし同時に百代ちゃんを普通の女の子、と定義するにはこれまた疑問がつきないところではある。

確か彼女は小学校四年生くらいだったろうか。母を失ったころの私と同じ年齢である。

これでも私は結構運動神経がよく、女にしては大柄だ。だから当時は嫌がらせをしてくる男子生徒の股ぐらを蹴りあげ、見事なるテクニカルノックアウトを観客とかした他の生徒に見せ付けてやることもままあった。

今じゃすっかり引きこもり一歩手前の文学少女だからそんな蛮行、想像するだけで目眩がするけども、それでも過去は過去。事実は事実であり、目を背けてはいけない。

しかしながら、いくら当時の、男勝りな私でも、成人男性数十人をさながらソフトボールの如く放り投げるようなことはしなかった。

しなかったというか、出来なかった。

いや普通、誰にも出来ないだろうこんなこと。

百代ちゃんはあの怪物、鉄心さんのお孫さんであるらしいが、やはりDNAと同じように異常性というのも遺伝するのだろうか。

そうでなくては色々と説明がつかない。

どこの世界に台風の真っ直中、仁王立ちで高笑いしながら飛んでくる丸太を叩き割る小学生がいるのだろうか。

 

正直、百代ちゃんのことは苦手である。

それはそうだろう。その気になれば、いや最悪その気さえなく無自覚で指先ひとつで人間を簡単に殺傷可能な戦闘力を持つ精神的に未熟な女の子なのである。

マシンガンを持った赤ん坊めいた危うさがある。

何をするかわからない恐怖と、話が通じないという脅威。

これで苦手意識を持つなという方が無理がある。

 

百代ちゃんも百代ちゃんで私のことを明確に嫌っていた。

百代ちゃんは釈迦堂さんによくなついており、その理由は人柄ではなく、強さによるところが大きい。

まあ釈迦堂さんの人柄を魅力的だと思う人類がいるかどうかは大変興味のあるテーマであるのでいずれ川神院全体でアンケートを取ろうと思う。

そして少なくとも、百代ちゃんは人柄に惹かれたわけではない。というか百代ちゃんの判断基準は強いか、弱いかの二つに一つ。そこへいくと、一般市民代表のような私には興味がないのだろう。

それだけならいいが、生物上の父親があの怪物であるせいで出会った当初はなにやら期待値たっぷりの視線を浴びる期間があり、いつの間にかそれが冷めたものに変わって言ったのだからまあ勝手に期待され、勝手に裏切られたのだと思っているのだろう。

 

今じゃ明確に見下された態度を取られる。

一回り年下の少女のそんな態度に思うところがないでもないが、だからと言って張り手のひとつでもしようものならこっちの手首が無事ではすまない。

まあ一子ちゃんが川神姓を名乗るようになってからというもの、そういったある種の傲慢さは些か緩和されているように思うし、というか百代ちゃんのことを心配する義理も権利も私には全くない。

遠巻きに温かく見守るくらいはしてもいいが、こちら深く干渉することは絶対にしなかった。

 

とにもかくにも皆が皆キャラが濃い。

おかしな街で、ふざけた街だ。

毎日が本当に忙しい。

いつしか、私は確認していないからと、不安にかられるようなこともなくなっていた。

 

 

 

 

△△△

 

「順調に光を失っているようじゃの。このままいけば、成人までには失明できるじゃろ」

 

いきなり物騒なことを言われた。

私の視力は両目とも2,0だと言うのに、え? 失明? 私失明するの?

 

「通常の視力、という意味ではない。まあ気にせんでもよいぞ」

 

釈迦堂さんがルー師範代にぼろ雑巾にされ、指差されて情けなく負け犬たっぷりに川神院を追い出されたしょーもない後ろ姿を心の中で失笑した翌日、私は鉄心さんに呼び出された。

 

「釈迦堂のことはすまんかったの」

 

いやいやそんな。謝られるいわれはない。

一連の騒動を私は表面上でしか知らない私も、こればっかりは釈迦堂さんに非があると思っている。

というか心を鍛える川神院に、あんな強いだけの野良犬がのさばってては駄目だろう。

追い出すなら遅すぎたくらいであり、親子共々蹴り出されることもなく、私が今もなおお世話になっているだけでも十二分に有り難い。

 

というか、

 

「釈迦堂さんはともかく、鉄心さんはどうして私まで引き取って下さったんですか?」

 

私には祖父母がいたし、別に生活に困っていたわけではない。

これで祖父母が酷い人間なら、人格者の鉄心さんのことだ。溢れんばかりのエロリズムと道徳心を発揮させ、私を引き取る、という流れは分かるが、当時の私はそこまで切迫した状況に身をおいていたわけじゃない。

無論、あのまま祖父母に育てられていれば、というかこの川神に来なければ私は今ごろ隔離病棟にでもいた可能性は十分にあるが。

 

「いや、お主の瞳がの」

 

確か、出会ったときも似たようなことを言っていた。

 

「うーん、どうしたものか。伝えるべきだとも思うんじゃが、変に教えて自覚されても困るからの」

 

「ひょっとしてあれですか? 私にはなにやら凄い力が眠っているとか?」

 

冗談を言った。

 

「そうじゃよ」

 

真顔で返された。

マジかよ。

 

「それも悪しき力の類じゃな。まあワシは力、というのは行使するものによって善悪が決まると思っとるが、お主のそれは大多数の人間に悪いと認識されておる。それを持っておるだけで、信じられない数の人間に狙われることになるからの」

 

モテモテですね、なんて冗談は控えておいた。

 

「正直、ワシは当初はお主に武術を仕込むつもりじゃった。先も言ったように、その力は前任者が悪用しただけでお主はなにもしとらんからの。それも才能じゃ。とは言え狙われる可能性があるのは事実。じゃから最低でも自衛は出来るようにさせたかったんじゃが」

 

「私には武術の才能がなかったと」

 

「武は才能だけで決まるもんではないぞい」

 

一子ちゃんのことだろうか。

しかしそれでも、一子ちゃんが百代ちゃんに土をつける日は生涯訪れないだろう。

 

「単にお主が、その力を、いいや武そのものを煙たがっているように見えたからの」

 

「いや、そんなことは……」

 

「隠さずともよいわい。確かにワシのような生涯を武に捧げた偏屈なジジイからするとお主の感性はちと堪えるが、しかしな、武の本質は忌避されることにある。誰も争いなんて嫌いじゃろ? そうであるべきじゃし、そうなるためにワシらは鍛えておる。ケンカなんてすべきじゃないんじゃ」

 

こういった精神性が百代ちゃんと鉄心さんを隔てているのだろうか、なんて上から目線で私みたいな素人が思うのはやはり失礼なんだろうか。

 

「じゃからお主のようなものは、堪えると同時に救われるわい。戦いなんて、せんほうがよいからの。じゃからお主がその貴重な力を日々薄れさせていき、極々普通の女の子になるのはそうじゃな、確かに惜しくはあるが、楽しみでもあった。成長というのは、人それぞれじゃからな」

 

「私のその、力? というんですか? なんでも目のこと見たいですけど、どのようなものなんです?」

 

「知らん方がよいじゃろうの。このままいけばお主がそれを自覚することも目覚めることもない。その力は言ってしまえばランダムで引き継ぐようなものでな、何百年か前に、お偉いお猿さん達が封じ込めたものなんじゃよ」

 

「お猿さん?」

 

「ほれ、見ざる聞かざる言わざる、というやつじゃ」

 

見猿。聞猿。言猿?

 

「見ることを封じ、聞くことを封じ、言うことを禁じたんじゃ」

 

「私はその、見ることを」

 

「まあの」

 

ということは、

 

「私の他に、まだ二人いる、ということですよね?」

 

「当代で確認されておるのはお主だけじゃが、お主が確認された、ということは、他にも二人おるのじゃろうな」

 

確認。

また、その言葉か。

 

「九鬼あたりが血眼になって探しておるようじゃがの。まあ一番ヤバいお主が、今のところ危険人物ではないからワシを含めてホッとしてるがの」

 

鉄心は続けて、

 

「けどもま、お主は普通の、極々ありふれた女の子じゃ。今のことは胸に止めておくだけでよい。これから普通に友人を作り、恋人を作り、家族を作れ。川神院は武を極めるところじゃが、武というのは色々な側面がある。ワシはその一つに、ありふれた幸せを守ることも含むと思っておる。お主が笑っておるのなら、ワシの武術もまだまだ捨てたもんじゃないと言うことじゃからな」

 

「……はい」

 

 

 

これが私の青春時代の話。

人生で尤も濃厚だった時代の物語。

学園を卒業し、就職して、そこでまた色々な経験もしたけれど、これ以上に色鮮やかな思い出は、今のところは一つもない。

もちろん、これから先は、どうなるかわからないけれど。

 

 

 

 

 

△△△

 

いやいや、困った。睫毛が、目に入った。それも両目。

 

睫毛が目に入る。誰しも一度は経験があるだろう。これが結構曲者で、中々どうして痛いのだ。

しかも数回の瞬きでその睫毛はどういうわけだか消えてしまう。取れたのか、それとも眼球の裏側に入ったのかはさておいて、なんとなく気になってしまうのは仕方がないだろう。

心に刺さったしこりのように、どこかひっかかりを覚える。

なんとしてでも見つけ出し、取り除いてやりたいが平日の朝の社会人にそんな時間は当然なく、致し方なく家を出た。

 

玄関先でお隣の学生さんと軽い世間話と、目に入った睫毛はどこに行くのかなんて下らない問答をする。

川神学園の制服だから、彼も鉄心さんの教え子なのだろう。大人びた感じに見えたし、三年生だろうか。

そうなると百代ちゃんの同級生になる。今度彼女の話を振ってみよう。

 

出勤し、タイムカードを押す。

瞳に鈍痛を感じ、ロッカーで姿見を見ると両目が充血していた。

 

昼休み。

麺類を食べる。なんとなく、今朝瞳に入った睫毛が気になった。

あの睫毛はどこにいったのだろう。

 

帰宅。

今日は一日睫毛のことばかりを考えていて、とても仕事にならなかった。

明日もこの調子では困る。

どれもこれも睫毛が悪い。どこにいったのか。

取れて落ちたのか? しかし確証はない。私は確認していない。

瞳の裏に入り込んだのか?

よし。

 

「確認しよう」

 

気になって仕方がない。

私は、確認しないと気がすまないから。

鋏で眼球をえぐり出してみた。

これで、睫毛が、

 

「あ、真っ赤だ」

 

鉄心さんの言う通り、私は失明した。

 

 

 

 

 

▲▲▲

 

夜の喧騒の中、親不孝通りの外れが宇佐美代行センターである。

 

「よお、絵無(えなし)。珍しく遅かったじゃないの」

 

「すいません、宇佐美教諭。お隣に住んでる人が怪我をしまして、救急車とか呼んだりしてたら遅れちゃいました」

 

「ん? お前のお隣っつーと……」

 

「釈迦堂さんという女性です。確か忠勝君のお友達のお知り合いでしたね。えーっと……」

 

「川神の妹の方か。いや、姉とも面識があったんだっけ、その釈迦堂さんとやらは。怪我ってどうしたの?」

 

「両目を鋏でえぐったそうですよ。自分で」

 

「はあ!?」

 

「怖いですよね。なんでそんなことするんでしょうか。あ、これが品物です」

 

「いや、お前、そんな場合じゃないでしょうよ」

 

「そんな場合なんですよ。僕は生活かかってますし。最近スランプ気味で、この絵だってさっき初めて、急いで仕上げたんですから」

 

「とりあえず忠勝に伝えといてやるか……ていうか、お前みたいなのでもスランプとかあるのね」

 

「そりゃありますよ。世間様には大袈裟に評価されてますが、テーマが決まらなければ僕、絵なんて描けませんし」

 

「頼むよ、ホント。絵無の絵はうちの主な収入源なんだから。ってわけでいつも通り買い手探せばいいのね? けどお前ならオレみたいなのに頼らんでも、個展とか開けば自分で売れるんじゃないの?」

 

「僕は描くだけで、その他のことは全然からっきしですから宇佐美教諭がいて助かってますよ」

 

「ま、お前がそう言ってくれるならこっちも助かるけどね。あと、学園じゃないんだから、教諭は勘弁してよ。それで? この絵、タイトルは?」

 

「『睫毛』です」

 

 

 

 

 

 

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