Beyond the lost.   作:浪速の風来坊

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1話 英雄退場

2025年初夏、一人のヒーローがこの世を去った。誰よりも速く、誰よりも強く、誰よりも上手く。若くしてサーキットの帝王と呼ばれた男のあまりにも早すぎる死は、誰にとってもショックな出来事であった。その男の名は…

 

 

2025年8月某日

「これで一通りは片付いたわね。いい?貴方にはこれからの長い人生、幸せに過ごしてもらわないといけないの。それが亡くなった彼のために私たちが出来るせめてもの恩返し。わかってくれるわよね?」

少しだけ普段の飄々とした雰囲気が戻りつつあった美しい女性は、健気に喪主を務めあげて緊張の糸が切れてしまったのか泣き出してしまった妻に優しく声をかけていた。無論、世界的なドライバーであった夫の死に際して最大限のサポートは誰しもが惜しまなかったとはいえ、妻の負担が相当であったことは想像に難くない。

「あ…ありがとうございます、クレアさん…」

そう声を振り絞るのが今は限界だろうと悟ったクレア・フォートランはしばらく静かに寄り添ってからその場を後にした。幸いにも赤ん坊も非常に手の掛かる時期は脱していて、ニューヨークの自宅に帰ってきた今はスヤスヤと眠っていることもあり、母である風見あすかの悲しみを邪魔するものはなかった。それが幸か不幸かは本人以外の誰にも分からないことではあるが…

 

「あすかの様子がどうだったのか教えてくれ…」

マンハッタンの滞在先でクレアの帰りを待っていた兄の言葉である。

「今は…そっとしておくしかないんじゃないかしら」

「俺はあいつに合わせる顔がない… 自らが監督するチームのドライバーを死なせてしまったばかりか、そのドライバーが妹の夫だなんて悪夢以外の何物でもないじゃないか!」

「修さん落ち着いて。夫を失ったあすかさんはきっと貴方以上に悲しんでいるのよ… 事故の原因だって何も分かっていないのだし、貴方が今心を乱したところで何も状況は変わらないのではなくて?」

「それは分かってるが、だがな…」

なおも言い縋る菅生修を半ば無視してクレアは自分の部屋へと戻っていった。

「あすか…ハヤト… すまない…」

一人取り残されたリビングで呪詛のように呟き続ける修であった。

 

「ハヤトせんぱい、ハヤトせんぱい…」

「アンリ、いつまで泣いてんだよ…」

「レオン、仕方ないさ。アンリはそれだけハヤトへの思い入れが強かったんだよ。俺だってまだ信じられないし、信じたくないんだ」

「その気持ち、分からなくはないです、新条センパイ」

そんな会話を交わしながらJFK空港で互いの目的地へと次第に分かれていくドライバーたち。

 

「グレイスン、2001年産のモンテフィアスコーネを持ってきてくれ」

「お坊っちゃま、もっと高級な品をご用意することも可能ですが…」

「くどいぞ、私はそれを持ってこいと言っているのだ」

「畏まりました、お坊っちゃま」

執事のグレイスンはフィラデルフィアにある別宅の地下のワインセラーへと向かう。オーストリアの本邸には及ばないものの、職業柄世界中に邸宅を構えている。グレイスンが見えなくなる頃になってランドルは独り言ちる。

「お前が生まれた年の、お前との別れに相応しいワインでなくては意味がない。感傷に浸るのも今日までだ、そうでなくては私らしくもない」

そう口にするランドルの眼から落ちた一粒の雫が、凛々しさを体現する頬の傷を掠めて流れていったのを見た者は誰もいなかった。

 

「まさかおめーの方が先に逝っちまうとはなぁ。凰牙に乗ってる時はぜってー俺の方が先だと確信してたってのによぉ… 俺はおめーとのこと、忘れねぇからな」

誰とつるむでもなく式から足早にバイクで立ち去っていた加賀城太郎もまた、並々ならぬ思い出をハヤトと共有した人物の一人であり、周りがあまり見たことのない表情をボストンから見える夜の海へと向けていた。レースが自分の大切な人をまた一人奪った重さは、やはり慣れることのない感情を伴うのだなと身を以て理解した加賀だった。

 

夜は誰にも等しく訪れる。皆それぞれ異なる感受性で思い思いの感情を抱きながら、一つの時代の終わりを受け入れようとしていた。そして、風見ハヤトを失ってしまってもレースは続いていくのだという現実にようやく目を向け始めていた。

 


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