――――潮騒が聴こえる。
重い瞼の隙間から、灰色をした冷たい波に淡雪のような白い泡が立っているのが見えた。打ち寄せる海水が腕を伸ばし、投げ出されている『俺』のかかとを撫でさすり、引き摺り込もうと狙っている。
――――ああ、ここで死ぬのか。
故郷ははるか遠い。
砂と塩にまみれた体は冷え切っている。
体力は尽ききっていて、起き上がる気力もない。
――――せっかく
故郷には、ギリシャ軍の勝利の知らせと、息子の訃報だけが届くのだろう。いまごろ兵士たちは戦利品をたずさえ、胸を張ってそれぞれの故郷へと凱旋しているのだろう。
けれど、両親にはそれがない。戦利品をたずさえて帰ってくる勇ましい息子はいない。この亡骸が父母のもとへと届くことは無いのである。
――――最期にせめて、空が見たい。
呼吸ができるのは、もってあと数度ほどであろう。最期の力を振り絞り、『俺』はうつぶせの体を砂浜に転がす。骨が抜けたようにくったりとした首が、波間より上のほうを向く。
――――もう潮騒も聞こえない。
かわりに、遠く遠くの遥かから、か細い女のすすり泣きが聞こえてきた。
女は途切れ途切れに、誰かを呼んで泣いている。その”誰でも無い誰か””誰でもいい誰か”を求める声が、よりにもよって、どうして今わの際の『俺』に届くのか。
女は助けを求めているわけではない。
ただ悲しくて、喪失と孤独に泣いている。
―――――愛しています。愛しています。
―――――どこにもいかないで。ここにいて。
―――――どうか『わたし』に恋をして。
―――――どうか『わたし』を忘れないで。
―――――どうか『わたし』を………。
……ああ、なんて嘆きだ。
気付けば『俺』は、彼女の嘆きに同情していた。
―――――どうかどこにもいかないで。
―――――ああ、『俺』ならここにいる。ここにいるのだ。
―――――どうか『わたし』に恋をして。
―――――『俺』はきみに恋をしたい。
―――――どうか『わたし』を忘れないで。
―――――『俺』はこんなところで一人で死にたくない。
―――――どうか。
―――――どうか……。
―――――どうか…………!!!
女は涙を拭って岩壁の上から立ち上がった。
人から外れた彼女の元から、人であるあの人は立ち去った。
男の寿命が尽きたころが過ぎたとしても、女はまだこの岩壁に立っているのだろう。人ではない女が、行ってしまった男のことを忘れるには、どれほどの時がいるか。
女は白い衣をなびかせ、ふわりと岩壁から身を躍らせた。
波間に泡も立てずに降り立ち、打ち寄せる水に洗われる砂浜を、裸足で散歩する。
潮の味のする風は、いずれ女の頬を乾かすだろうと思えた。
膿んで血を流すこの傷も、きっと癒してみせる。
女の役目は癒すものであるのだから。
ゆっくりと。―――――ゆっくりと。
父たる海原は灰色に沈んでいるけれど、いずれ陽がまた昇り、朝日に輝くときがくる。
……その兆しは、女が思ったよりもずっと近くにあった。
女の足がふと立ち止まり、砂浜を蹴って駆けだした。
――――――男と女はそうして出会う。
いまだ神々がいた時代。
その終わりを締めくくる、誰にも知られなかった
―――――潮騒が聴こえる。
藤丸立香の意識はふと浮上した。
部屋全体が揺り篭のように揺れていた。
薄暗い船室に取り付けられた小さな窓から、波に反射した青白い陽光が帯になって差している。
空気は海のにおいで満たされ、こもって蒸し暑い。
(そっか。今おれがいるのは船の上。だからあんな夢を……)
それにしても、旅路の幸先にはならなそうな寂しげな雰囲気の夢だったなと、夢の名残りを噛み締める。
(……ちゃんとあとで記録しておこう)
マスターが見る夢には大切な意味が含まれていることがあるんだよ、と言ったのは、司令官兼主治医兼その他もろもろを兼任するカルデアのドクター、ロマニ・アーキマンだ。
灰色の波間。
白い砂浜。
真っ黒な岩壁。
死にかけている戦帰りの男と、大切な人と別れたばかりの裸足の女。
今も鼓膜の奥に女の泣き声が聴こえる気がしたし、目蓋の裏には男の見た砂浜の光景が浮かんでいる。夢の中では、疲労感すら全身に圧し掛かっていたように思う。
夢は、砂浜に倒れている男を女が見つけたところで終わっていた。
男はまだ生きていたのだろうか。それとも、もう手遅れだったのだろうか。
(あの二人、幸せになったのかなぁ)
もし叶うなら、寂しい二人がきちんと出会い、それぞれが納得のいくハッピーエンドを迎えて欲しいと、夢のいち視聴者である藤丸は思った。
「島だ―――――! 島が見えるぞォオオ―――――――! 」
甲板から響いてくる声に、藤丸は夢の残滓を振り払って起き上がる。
藤丸立香はカルデア最後のマスター。
ここは海の上。ドレイク船長率いる『
「先輩大変です! ここはアステリオスさんのいたあの島と同じもようです! 」
上陸した島は、閉ざされた孤島であった。
状況説明をしてくれたのは、人生の後輩兼相方デミサーヴァントのマシュである。
『魔力の反応はあるんだ。それを探れば、アステリオスくんの迷宮のときのように、脱出できるようになるはずだ』
「ですがドクター。この島はおそらく、迷宮のあった島とは比べ物になりません。まるで……魔力が島の周りを渦巻いているよう……」
マシュの言うことは、魔法にとんと疎い藤丸にも明確に視覚できた。
島は小さく、一時間もいらないほどで一周できる。白い砂浜と、森ともいえない林、黒い岩壁は、踏破には難しくない。
しかし島から十メートルも沖に出れば外周を濃い霧に包まれ、出ようとすればいつのまにか砂浜にまで戻っている。
霧は空をも覆い、さんさんと輝いていた陽光は霧に滲み、島全体を暗い影に落としていた。
波は岩でできたような灰色に濁っている。
夢で見た島に似ていると、藤丸はすぐに思い至った。
しかし、砂浜には、海賊たちとサーヴァントとマスター以外の足跡は無い。
「島の中を捜索してみよう」
「もうウチの乗組員が上陸してるよ。なんかおかしなものがあったら知らせろとは言ってあるけどねぇ……。こんな小さな島だ。すぐに終わるだろう」
「では、私たちは魔術的視点で捜索を始めましょう」
『それがいいね。これだけ魔力が渦巻いた島だ。何が起こってもおかしくない』
「早く脱出して、『契約の箱』を探しましょう」
林の中に分け入ってすぐに、アルテミスが「うーん」と唇に指を立てて唸った。
「おかしいわね……みょうに清らかだわ」
「……そうね。これだけ魔力が濃いのだから、魔獣のたぐいがいてもおかしくない。でもこの島は、ふつうの獣しかいないようだわ」
同じくもう一人の女神が同意したことで、一行は顔を曇らせた。
「つまり、どういうこと? 」
「神域に近いってことよ。むしろそのものと言ってもいい―――――。そうね、少し馴染みのある雰囲気もするわ。サーヴァントがいるとしたら、わたしたちと同じギリシャ系なのかもしれない。懐かしい、故郷の海の匂いがするもの」
「古代ギリシャ同窓会かよ」
「まあダーリン。あの女やこの女が召喚されていたらいいのにな~なんって、思ってるんじゃないでしょーね」
「思ってない思ってないです」
女神と子熊の過激な痴話喧嘩から目を逸らしながら、藤丸は頬を掻く。
「ドクター、サーヴァント反応は? 」
『今のところは……あ、いや! たった今観測した! 前方一時の方向だ! 』
そのときだった。
鬱蒼とした梢を白いものがひるがえり、長い裾を引きずった少女の背中が林の中に消えていく。
「あっ! 待って! 」
林の中は霧のせいで暗かった。木々の暗がりにまぎれるように、少女の背中は現れては消えていく。
ふとその背中に、藤丸は夢の中の女を思い出した。
夢の中では成熟した女の印象を持っていたが、考えてもみれば、『理想の偶像』としてあるエウリュアレが少女の姿なのである。
(……もしかしたら彼女は、あの夢の―――――)
「んもう! 木が邪魔で弓も当たらないわ! 」
「攻撃しちゃだめだ! 話し合わないと―――――」
「ウウゥウウー! 枝! はしるの、じゃま! 」
小さな島のささやかなはずの林は、ずいぶんと広かった。
いつしかあたりには、少女のくすくす笑う声が上から左右から響いている。
「完全に遊ばれてるわね……」
エウリュアレが苛立たしげに鼻を鳴らす。潮時だと感じ、藤丸は深呼吸で息を整えて腹筋に力を入れた。
「なあ、聞こえてるんだろ! 話を聞いてくれ! この島から出たいだけなんだ! 」
『―――――あはっ! 知ったこったねーな人間! ここは『俺』と『彼女』の島だ! 『彼女』の許可なくここを出ることは神に誓ってできはしない! 』
「そこをなんとか! 」
『肝のふてえ野郎だな!? いいだろう人間! 試練を受けろ! てめえを英雄のひとりとして認めてやる!『俺たち』の真名を当てられたら出してやってもいいと『彼女』は仰せだ! ありがたく先に進みな! 』
「……ああ。わかった! ありがとう! 」
「……交渉成功、ですね。先輩」
長く息を吐いた藤丸に、マシュが小さく拳を握って上目遣いに大きく頷いた。頷きを返して、一行を先導して歩き出す。ドクターが慌てて先頭をサーヴァントとかわるように言ってくるが、曖昧に濁して先へ進む。
英雄として認められたのは藤丸なのだから、いくら危険だといっても、矢面に立って進まなければならないのだ。
そんな藤丸に、エウリュアレが呆れたように肩をすくめた気配がした。「人間って馬鹿ね」とでもいうように。
あれだけ走り回ったことが嘘のように、林の奥には澄んだ泉があった。
藤丸たちから見て対岸に、泉に腰掛ける人影がある。身を乗り出して泉を覗き込むその少女は、上目遣いに藤丸たちを一瞥すると、つまらなそうに再び泉へと視線を落とした。
「……何をされてるんでしょう? 」
「泉の中を見てる? のかな」
「っていうより、あれは……」
「……はぁ。『俺』って、綺麗」
少女はうっとりと、胸の前に垂れた黒髪を指ですき、耳にかけた。あらわになった白い頬は、朱に染まっている。
「……なんか俺、あいつの真名わかったかも」
オリオンが呟いた声に、『僕も……』と、通信機の向こうからも同意の声。
藤丸たちが泉を覗き込んで水鏡を楽しむ少女を見下ろす位置に立つと、少女はようやく顔を上げ、うっとおしげに一行を見渡した。
年の頃は藤丸とそう変わらない。
少女と女の境に立った娘盛りといった印象である。
波打つみどりの黒髪を胸の前に垂らし、純白のキトンを真珠をあしらった金具でとめている。泉のほとりには、サンダルと使い古された青銅の長槍が投げ出されていた。
「……ヒントが欲しい。きみの名前について」
「いいだろう」
長槍を引き寄せ、立ち上がった少女は、不敵に笑った。
「考えてみりゃ、『俺たち』は木端ほどの知名度しかないからな。教えてやる。見ての通り生まれはギリシャ。クラスはランサーだ」
「戦うようには見えないな」
「それは後ろの女神様にも言いな。言っとくけど激弱だからな。正直、なんでキャスターじゃねーのか、俺は文句を言いたいね」
「ランサーなのは、『きみ』が槍を持つ戦士だったから? 」
ごくりと藤丸は唾を飲む。藤丸の言葉に少女は笑みが崩れ、虚を突いたように目を瞬かせ、次の瞬間にはほころぶような笑顔を見せた。
「……そうか。なるほどなるほど。そこまで検討ついてんだ……ふう~ん」
「……先輩」
不安げにマスターの袖を引くマシュを、エウリュアレの右手が止める。
「マシュ。これは女神の試練なのよ。その意味が分かって? 」
「……女神、ですか? それでは、まるで」
「おっと観衆ども。これ以上の無駄口は妨害とみなすぜ」
「……大丈夫よ、マシュ。あなたのダーリンは負けないわ」
アルテミスは豊かな胸の前で腕を組み、女神らしい、厳かな笑顔を藤丸に向けた。
「……なぜわかった? 」
「あなたは、自分と『彼女』を分けたように言っているから」
「そう。ま、いいや。出血大サービス。『俺たち』は二人で一つのサーヴァント。そこの女神様とはちと違うが、神格を無理やり英雄の域に押し込めて召喚したのは同じってところかな。だから名前は、霊核である『彼女』のものが正しい。もちろん名前は一つきりだ。宝具は見ての通り―――――」
少女は腕を広げ、右手に持った槍で空を突いた。
「――――――見ての通り、この島だ」
紺碧の瞳をきらめかせた少女の背中を風が押す。黒髪と純白の衣裳がなびき、木漏れ日が差して泉と少女を光の下に浮かび上がらせた。
一転して静かな声で、少女は英雄に試練を告げる。
「―――――この島は癒しの島。女主人の許可なき出航は赦されない。『わたし』と『彼』の愛の巣であり、出航したくば女主人の孤独を癒すしかない孤独の島。名を呼び、彼女への誠意を示すのです。それをもって試練は完遂されましょう。
さぁさぁさぁさぁ! 漂着の英雄よ! あなたが口にする我が名とは!? 」
はらはらとマスターを見守る視線の中、藤丸ははやる息を整え、その名を告げた。
「きみの真名は――――――」
答え合わせは感想で!
追記★
こんなんすぐ正解されるやろ……と思っていたらミスリードが利きすぎていたようなので、いくつかヒントを。
①このサーヴァントの真名は一つだけ。
②このサーヴァントの真名は『●●●●ー』。
③作品タグが最大のヒント!