「それで……今日はどうするの?」
明良の手作りの夕食を食べ終えた後、舞衣は床に置かれたクッションに腰掛けたまま彼に聞いた。
明良は使い終えた食器を洗う手を休めずに答える。
「少々お待ちください。今終わります」
丁度最後の皿を洗い終え、明良は濡れた手をしっかりと拭きながらこちらに歩み寄ってくる。
「舞衣様からのバレンタインのお返しについてのこと、ですよね?」
「うん。その……何でも叶える、とか言ってたよね?」
舞衣は頭の中にはまだ妙な感覚が残っている。邪推と言えばそれまでかもしれないが、ハッキリと否定できるわけでもないのだ。
何か暗喩が含まれているのではないか、と考えてしまうのは仕方ない。
「それはですね……こちらになります」
明良は懐から二つ折りにされた一枚のメモ用紙を取り出し、舞衣に手渡す。
舞衣は折り目を戻し、メモに記された内容を確認した。そこには箇条書きでいくつもの言葉が連ねられている。
「えっと……これって………」
箇条書きにされているのは、『一晩中子守唄を枕元で歌う』『日常の不満を好きなだけ聞く』『一ヶ月間毎日の送り迎え』『毎食の用意から後片付け』等々……叶えられる願い事を書き込んだものだ。
「その紙に書いてある内容でしたら、どれでも、好きな数だけ私にご命令ください。必ず叶えます。それ以外のものであっても、お申し付けください」
「………」
逆に冷静になってしまった。
さっきまで多少なりとも思春期的な思考に走っていた自分がいたが、彼にそんなつもりはなかったようだ。
そもそも、彼が女性に関心があるかどうかすら怪しいと思える。彼は女性に言い寄られても笑顔でかわしてしまう上に、先程の舞衣との脱衣所での一件の際も聖職者のごとき冷静な態度を貫いていたのだ。
「………!?」
いや、今はそんな場合ではない。目の前の彼の満面の笑みと突き出された願い事の項目にどう立ち向かうかが大切だ。
「本来でしたら、ホワイトデーでなくとも舞衣様には無限にご奉仕をしたいのですが……如何せん、そう簡単には学院を訪れることはできないので、申し訳ありません」
「いいよ、そんな……それに、こんなに沢山あったら明良くん一人じゃできないよ?」
「問題ありません、不眠不休でこなします」
――本当にやりそうだなぁ……
彼の場合、舞衣に対しての行為に限れば冗談という概念がない。不眠不休と言えば本当に二十四時間働き、銃弾と爆炎の行き交う戦場でも助けに来るような男だ。
冗談でもおかしな願いはしない方がいいだろう。
「それなら」
「はい?」
「膝枕で耳かき……とか?」
――あれ? 何でこんなこと言って……
無意識とも言っていいほど自然と口から出ていた言葉。どういうわけか、不意に彼からそうしてほしいと思ってしまい、紡いでしまったのだ。
「ええと、それは……」
「ああ、ごめん。変なこと言っちゃったね。忘れてくれていいよ、このメモにも書かれてないし」
舞衣は苦笑い混じりに訂正するが――
「いえ、確かに書いてはいませんが、私は構いません。舞衣様さえよろしければ、膝枕で耳かきをさせていただきます」
明良は部屋の隅に置かれた彼の鞄を漁り、中から小さなポーチを取り出す。
「念のため、こうして耳かきセットを持参しておいて正解でした。それで、舞衣様……」
「何?」
「こちら、座ってもよろしいでしょうか?」
明良は舞衣のベッドを指差す。舞衣が頷くのを確認した明良は、ベッドに腰掛けて横にポーチを置く。
「では、こちらにいらしてください」
「うん。じゃあ……失礼します」
おそるおそる、舞衣はベッドに横たわり、頭を明良の太腿に預ける。後頭部が明良の腹部に当たる形で顔を横に向け、左耳を明良に晒す。
――こ、これ……想像してたよりずっとすごい……
幼稚園や小学校に通っていた頃に両親にこうして膝枕をしてもらったことがあるが、それとはまるで感覚が違う。物理的な距離が近いだけでなく、頭と接触している足からじんわりと体温が伝わってくる。しかも、この体勢のせいで否が応でもされるがままという状態が出来上がってしまっている。
「心地はどうですか? あまり安心できるような感触ではないと思うのですが……」
「ううん、そんなこと……ないよ。全然嫌じゃない」
「そうですか。良かったです」
明良の表情は伺い知れないが、声色は明るい。彼も嫌々やっているわけではないようだ。それがわかって嬉しく感じてしまう。
「では、耳掃除を始めますね。問題があれば遠慮なく仰ってください」
明良がポーチの口を開け、中身を広げていくのが横目で見えた。中身は耳かき棒だけかと思ったが、それ以外にもいくつかの道具がある。
何なのだろう、と目を凝らして見ようとしたが、突如として耳に走った触感に意識を奪われた。
「ひうっ……」
必然、口から妙な声が漏れた。耳かきをされるはずが、これは竹製の棒の感覚などではない。明らかに人間の指の感触だ。
「な、何してるの?」
舞衣は思わず明良に問う。
「驚かせてしまいましたね。これは、耳かき棒を使う前に先に耳のマッサージをしているんです」
「マッサージ……?」
「はい。いきなり耳かき棒を入れるより、先に指で揉みほぐしておいた方が刺激に慣れる上に血行も良くなるんです。それに、マッサージ自体もある程度気持ち良いですし」
「あ……確かにちょっと気持ちいいかも」
緊張や不安を取り除くような優しい手つきで指が耳たぶや耳裏を這う。慣れてくれば、確かにこれは落ち着く気がする。
明良は一分ほど耳のマッサージを続けた後、右手に耳かき棒を持つ。そのまま入れるのかと思ったが、明良は片手でウェットティッシュを取り、耳かき棒の先端を拭く。
「それ、何してるの?」
「耳かき棒を使い回すと衛生面上良くないので、こうして除菌ウェットティッシュを使うようにしているんです」
そう言って明良は舞衣の耳の穴を食い入るように見つめる。舞衣は少し恥ずかしくなり、何をしているのか聞くことにした。
「どうしたの?」
「どれくらい耳垢が溜まっているかを見ています。あまり溜まっていないようでしたら軽く掃除をするだけにしようと思いましたが、これは念入りにした方がいいですね」
「そ、そんなに?」
確かに自分で耳掃除をしたのは少し前だが、そこまで不潔にしていたとは思えない。女子としては結構ショックだが、明良は「お気になさらないでください」と優しく諭す。
「誰でも耳垢は溜まるものですよ。それに、念入りにと言っても普通の人と同じくらいの量ですから」
「そう、なんだ……」
「まずは、耳かき棒を耳の穴に入れますね」
細い竹製の棒が耳の中に挿入され、耳の穴の内壁の垢が取り除かれていく。それと共にゾワゾワと快感が身体に走る。
引き抜かれた耳かき棒の先端に付着した耳垢がティッシュの上に置かれた。
「結構……ゆっくりするんだね」
「はい。手前から少しずつ取らないと、耳垢を奥に押し込んでしまう危険性があるので」
何分間か耳垢を取り除いた後、今度は耳の縁を耳かき棒が這う。
「意外と忘れられがちなのですが、ここの縁にも耳垢は溜まりやすいんです。ここも丹念に掃除しますね」
耳の縁を掃除し終えると、明良は透明な円筒形のケースを取り出した。蓋を開けると、中には何十、何百という数の綿棒が詰められている。
「仕上げに、綿棒を使って耳かき棒では取り切れなかった細かい耳垢を取りますね」
「あれ? でも綿棒を使うと耳垢を押し込んじゃうから駄目だって聞いたよ?」
「確かに、特に自分で耳掃除をする際などに多いのですが、無造作に綿棒を入れるのは良くないです。ですが、他の人にしてもらう場合でしたら注意しながらすれば効果的なんです」
明良はケースから白く細い綿棒を取り出す。
「それに、この綿棒は特注の物でして、先端が細くて少し曲がっているんです。これなら耳の穴の中の掃除もしやすいんですよ」
明良が持つ綿棒は先端が二、三十度ほど曲がっており、一般的な綿棒のような先端の膨らみはない。
明良は先程耳かき棒を使った耳の穴や縁に綿棒を入れていく。
「耳かき棒だけで済ませてしまっても良いのですが、仕上がりを綺麗にするのでしたら綿棒で丁寧に残りを取るようにしていますね」
テキパキと仕上げを済ませる明良。開始からここまで十分程度で片耳の掃除は終わった。
舞衣は続けて右耳の掃除をしてもらおうと身体を反転させる。そうして今度は右耳を掃除している最中に気になっていたことを明良に聞いてみた。
「何というか、すごくこだわってるんだね。耳かき、好きなの?」
「いえいえ、舞衣様やお家の方々ののとを考えればこの程度は当然ですよ」
「家の?」
「ええ。美結様も詩織様も大変喜んでいらっしゃいましたよ?」
――え?
「明良くん、もしかして美結と詩織にも耳かきしてあげてるの?」
「はい、そうですが……」
「そう……そうなんだ」
またモヤモヤした気持ちが胸に広がる。何だろう。彼が膝枕をしながら耳かきをしているのは自分だけだと無意識の内に思っていたが、彼は舞衣の妹たちにも同じことをしていたのか。
特別だ、という感覚が薄れたからか? 違う。特別でなくともこの行為自体は嬉しい。
やっているのが妹たちだからか? それも違う。例えば彼が可奈美に同じことをするとしたら、それも嫌だと感じることが容易に想像できるからだ。
だったら、一体何が舞衣にそこまで思わせているのだ? 浅ましくも彼を独占したいと思ってしまう理由は――
「喜んでた? 二人とも中々膝枕とかしてもらえないよね?」
口から出たのは哀しげな声だった。二人の姉として、大した理由もなく彼や妹たちに意見するわけにはいかない。妹たちが喜んでいるなら良いではないか。何を残念に思う必要がある?
「……?」
明良は舞衣の問いかけに不思議そうな声を漏らす。回答に困っているというより、単純に問いの内容に疑問を抱いたような感じだ。
やがて、「もしかして……」と何か得心いったような様子で話し始めた。
「舞衣様、私がお二人の耳掃除の際に膝枕をしているとお思いなのですか?」
「え? 違うの?」
「流石に私もそこまで大胆な真似はしませんよ。お二人の場合は、横に座って耳掃除をしています」
それを聞いて安心した。そういえば彼は耳掃除をしたとは言ったが、膝枕がどうとは言っていない。
舞衣は静かに胸を撫で下ろし、安堵する。それによって思わず心の声が言葉となって表出してしまう。
「よかったぁ……」
「舞衣様?」
「あっ……ううん、何でもないよ。今のは何にも関係ないから」
口が裂けても「明良が他の女の子と必要以上に仲良くしていなくて安心した」などとは言えない。
それではまるで………いや、考えるのはよそう。
「本当に、関係ありませんか?」
「うひゃっ……!」
突然、何の前触れもなく耳元に明良の唇が近づけられ、囁かれた。すると当然、耳に息を吹きかけられる形になる。別種の耳への刺激のせいでまたもや声が出てしまった。
「どういう意味……なの?」
「私の思い違いかもしれませんが……舞衣様が何やらご機嫌を悪くされてしまったようでしたので。どのような理由でそうなってしまったのか、具体的に教えていただきたい――そう思ってしまったんです」
「わ、悪くしてなんか」
「ですが、先程までは安心なさっていらしたのに、美結様と詩織様のお話になったところで声の大きさや高さが変わっていられましたよ? 普段は滅多にお怒りになることはない貴女がそんな風になられた……私が粗相をしてしまったと不安になってしまうのは当然ではありませんか?」
見抜かれていた。もしかすると、舞衣の胸の鼓動や顔色すら彼には筒抜けになっているのかもしれない。
「明良くんが何かしたとかじゃなくて……」
「では、何なのですか?」
「えっと……だから……」
何も思い浮かばない。良い案があるかないかという以前に思考がまとまらない。そんな思考の空回りを続けていると――
「少々意地悪が過ぎましたね。ご無礼をお許しください」
やり過ぎたと思ったのか、最初からこれくらいで済ませようと思っていたのかは定かではないが、明良は恭しく謝罪する。
「………うん」
舞衣は胸中に渦巻く感情を整理できないまま、静かにうなずくことしかできなかった。
※※※※※
耳掃除が終了したところで、明日に備えて早く寝ようという話になった。だが、ここでも更なる問題が発生することになる。
――明良くん、何処で寝るんだろう……!?
そう。ここは美濃関学院の女子寮の一室。当然、ここにある寝具は舞衣が普段から使っているベッドだけだ。となれば、彼が一晩を明かす場所は一つしかない。
舞衣のベッド。つまりは同衾だ。
「流石に、それは……でも……」
考えすぎなのかはわからないが、少なくとも舞衣にとっては恋人、夫婦、家族のいずれかではない男女が寝床を共にするというのは不純なものに思えた。
「明良くんとなら、私は――」
明良となら、という思いが舞衣にはあった。舞衣とて年頃の少女だ。どんな男であっても共に寝るとこを拒まない、などというつもりはない。
しかし、それが不純なものと感じていてもなお、舞衣は明良との同衾に対して嫌悪感はなかった。
「よし……!」
舞衣は明良に見えない位置で握り拳を作り、覚悟を決める。
「明良くん!」
「はい、何でしょう」
「私はベッドで寝るから……」
「……? はい」
「だから、ええと……」
やはり口にするのは憚られる。言葉としては何らおかしくはないのだが、やはり一緒に寝るという言葉から連想される意味に舞衣自身、羞恥せざるをえない。
「では、私は外しますね。ごゆっくりお休みください」
「………え?」
「………? もうご就寝されるのでしょう? いくらなんでも私が同じ部屋にいるわけにはいかないので。それに、深夜零時までには寮を出るようにと学長の方から言われていまして」
「そう、そう、だよね。うん、うん……」
またか。また自分だけ舞い上がっていたようだ。彼は涼しい顔で言う。
舞衣は火が吹き出そうなくらい顔を真っ赤にして悶える。
「どうされたんですか? そんなにお顔を真っ赤にされて……何を想像していらっしゃったのですか?」
「違うよ、何も想像なんかしてないから!」
勝手に不埒な妄想をしていました、など言えるわけがない。そんな人物だと知れれば何と言われるかわかったものではないからだ。
「そうですか。では、舞衣様はお休みになられてください」
舞衣は明良に促されるままベッドに横になり、布団を身体にかける。その途端に睡魔が押し寄せてきた。
うつらうつらと眠気に身を任せていると、ベッドの横に明良が近寄り、正座した。
「舞衣様がご就寝なさるまで子守唄でも歌いましょうか?」
「もう、子供扱いしないでよ」
「それは失礼いたしました。それで、いかがですか?」
「ううん、子守唄はいいよ。そのかわり、これ……」
舞衣は布団から右手を明良に向けて差し出す。その手を明良の右手の上に置く。
「私が寝るまで、こうしててほしいな」
「………はい、舞衣様がお望みのままに」
体温は感じるが、明良の右手のそれはやや低かった。三月の夜にこの温度はあまり温かいとは言えなかったが、舞衣には丁度良い温度だった。手を触れ合わせているだけで、僅かな心の繋がりのようなものが感じられたからだ。
「………」
瞼が重くなり、周囲の雑音が小さくなっていく。眠りに落ちていくのがわかった。
「舞衣様――」
眠りの直前、狭間の中で耳に届く声。
「舞衣様はご立派な方ですね」
子供に絵本を読み聞かせるような声音。睡眠を阻害せず、むしろ安眠へと向かって手を引くようなものだ。
「学業も、刀使としての職務も両立させて、貴女は多くの人々の支えになられています」
声が遠退いていく。もう少し聞いていたい、という気持ちが芽生えた。
「ですが、誰かに甘えてはいけない、というわけではないのですよ? 私でよろしければ、思う存分甘えてください」
普段の舞衣ならば赤面して激しく狼狽していたであろう台詞。眠りの前の最後の言葉はそういう類いのものだった。
「私は貴女をずっと支えていますから」
今年のホワイトデーは今までの人生で確実に異常で、それでいて精神力を使わせられるものだった。
だが、それを差し引いても魅力的なものであったことは間違いない。
来年のホワイトデーはどうなるのか。きっと、こんな風に彼と過ごすことになるのだろうか。
――また、来年も二人きりで……
途中の耳かきのくだりは私の持論みたいなものです。別に誰かに教えを乞うたわけではないので間違いがあるかもしれません。
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