デレマス短話集   作:緑茶P

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大人と子供の狭間で揺れ動く美波るーと


淡き泡沫

 薄暗い路地を抜けた先に小さく灯されたステンドグラスのランプ。その下には長い年月をここで過ごしたことを伺わせる木製の重厚な扉が幻想的に照らされている。まるで暗闇の中にそこだけが浮き上がるような幻想的な雰囲気に惹かれる様に手をかければ軽やかな鈴の音が店主へと客人の来訪を告げてくれる。

 

 外観の雰囲気に違わずシックな内装で統一された店内は手製ガラス特有の淡い揺らめきにほんのりと照らされて、落ち着いたジャズが耳に入る。その独特の幻想的な空間と心の何処かにあった張りつめていた何かが溶けるような不思議な感覚に思わず息を吐きだすと、ジャズの歌詞かと思ってしまう程に軽やかで悪戯な声が耳朶をなでる。

 

「おや、これは珍しいお客様だ」

 

「ご無沙汰しています」

 

 落ち着いていながらも子供のような好奇心を隠さない猫のような瞳。肩口でそろえられたあでやかな黒髪とスラリとしたスタイルをギャルソンの制服に包んだ店主の”神木”さんはあの頃と変わらないままにそう呟いて俺達を店内に促してくれる。

 

「いやいや、珍しく誰も来ないから不思議に思っていたんだがね。こんな事が起こるならそれも納得さ」

 

 磨いていたグラスを置いて呟く彼女は楽し気にこちらに視線を寄越す。その自然な動作に見とれそうになるのをこらえて肩をすくめる。

 

「どうにも生来の鼻つまみ者らしくてすみませんね。営業妨害でしたか?」

 

「なに、忙しなく働くのが好きな性分でもないから大歓迎だよ。なんなら週3で通って欲しいくらいさ。―――そちらのお嬢さんを連れてね?」

 

 皮肉気に返した言葉もそんな余裕の言葉で返されてはこちらも苦笑して返すしかない。そして、彼女の指している”珍しい事”というのには後ろで雰囲気にのまれて落ち着かない彼女の事も含めてなのだろうからなおさらだ。楽し気に輝く目が早く紹介しろとせがんでいるのが分かるのでどうにも敵わない。

 

 その圧力に負けたわけでもないがいつまでも彼女を放置している訳にもいかないので、体を半歩下げて彼女を前に押し出す。

 

「バイト先の後輩に成人祝いに酒をせがまれましてね。せっかくなので良いものでも飲ませてやろうかと」

 

「に、”新田 美波”と言います。お、お邪魔します…」

 

 しどろもどろになりながらも深く頭を下げる彼女の生真面目さに俺はもう一度苦笑をこぼし、神木さんはもっと楽し気に頬を緩ませて彼女を迎い入れたのだった。

 

 

――――――――――――――

 

「いやはやしかし、あの比企谷君が静以外の異性とこの店に来るだなんて随分と感慨深いものがあるじゃないか」

 

「静、さんですか?」

 

「比企谷君の初めてを奪った憎たらしい女だよ、まったく」

 

「えっ!?」

 

「紛らわしい言い方しないでください。"初めての酒"をここに連れてきてくれただけでしょうが。あんま変なこと言ってると帰りますよ?」

 

 席に着いて早々に変なことを口走る彼女に間髪入れずに訂正を加えると彼女は楽しげに笑い、なぜか美波は胸を撫でおろしてため息をつく。本当に暇だったらしい彼女は店の酒を入れて既に出来上がっているようだ。そんな風に笑う彼女はそのまま店の扉の看板を”close”にしてしまう。

 

「ははは、まあまあそう怒らないでくれ。”初めての酒をここで飲んだ子がまた初めての子をここに連れてきてくれる”なんてのは辺鄙な場所にある飲み屋の店主としては最高の栄誉でね。私もはしゃいでいるんだ」

 

 その行動に思わず口を開きかけた俺を制すようにそう呟いて彼女は本当に嬉しそうに手元に置いてあるショットグラスを傾ける。その姿はきっと、誰もが子供のころに抱いていたカッコいい大人の憧憬そのもので、俺も美波も思わず息を呑んで見とれてしまう。そんな俺らを見た彼女は少し照れ臭そうに頬をかいて笑いかける。

 

「そんなわけでね。あの緊張してかみかみだった少年の成長が懐かしくも思うわけだよ」

 

「恥ずかしくなったからと言って急に過去の事を持ち出すのは止めてくれませんかね…」

 

 照れ隠しのように茶化す彼女にため息を漏らして答えれば隣で密かに声を殺して笑う後輩を睨んでみても効果は薄い。まったく、本当になれないことなんてするもんではない。

 

 

 成人になったあの日、俺は人生でもっとも多くを学び、尊敬した平塚先生を最初に飲みに誘った。

 

 

 その時に連れてきてもらったのがココなのだ。

 

 生徒と教師という関係ではなくなっても、恩師と教え子という関係は変わらない。

 

 あの時の選択は今だって最良の選択で、今まででも一番多くを学んだ夜だった。

 

 隣でくすくすと笑う彼女を見て、小さなため息を漏らす。自分の恥ずかしい過去を知られるのもそうだが、自分はあの人と同じようにカッコよく生きていられるだろうか?自問自答する答えはげんなりするほど赤点続出なので結果はお察しだ。だからこそ、自分では埋められないそれをココで補おうとした姑息さに嫌気がさす。

 

 本当に、どうして自分なんかを最初に飲みに誘ったのだか。そんな恨み言も視線に混ざってしまうのはご愛嬌だろう。

 

「ふふ、比企谷さんがそんな初々しいなんて想像もつかないですね?」

 

「さっきまでの自分を思い出してみろ。特大のブーメランが帰ってくっからね?」

 

 俺たちの軽口をみた神木さんはさらにおかしそうに笑って、小さく息をついて場をとりなしてくれる。

 

「はっはっは、良い先輩・後輩関係が築けているようで何よりだ。―――さて、ここはしがないとは言えバーでね。いつまでも素面のまま語られたのでは潰れてしまうな。初めての一杯は私から君たちに送らせてもらってもいいかな?」

 

 そういった彼女に俺たちはそろってうなずき、嬉しそうに笑う彼女は小さく微笑んで慣れた手つきで棚からいくつかの瓶を手に取って鮮やかに銀に輝くシェイカーへと注いでいく。その一連の動きは息をするように自然で、目を見張るほどに美しかった。そんな俺たちに軽くウインクを返した彼女はそのまま流れる様にその銀器を軽やかに、手繰って俺たちの息を呑ませる。

 

 一瞬だったはず。それでも、その数倍の時間に感じる程に目を奪われていた俺たちは輝くグラスに注がれた真紅の液体に息を呑んだ。

 

 目の前に差し出されたその美術品は、果たして自分たちが口にして消費していいものなのかと戸惑ってしまう程に美しかったのだから。

 

 そんな俺たちに微笑んで彼女は告げる。

 

「カクテルにも意味があってね。人によって解釈も使い方も変わるようだけど…まあ、難しい話は置いといてこのカクテルの名前は”キール”。私が込めた意味は”最高の巡り合い”。二人にココでバーテンとして巡り合えたことへの私なりの気持ちだよ」

 

 その言葉に、やはりここを選んでよかったと。素直にそう思えた。

 

 躊躇う美波に促すようにグラスを持ち、神木さんと恐る恐るとグラスを手に取った彼女に本当に軽くグラスを交わす。そして、ゆっくりとその美術品を口に含んだ。

 

 白ワイン特有の甘さと渋み。そのあとに芳るカシスの爽やかさ。その二つが絶妙に配合されたその味わいに思わず笑ってしまう。甘い酒など普段あまり飲まないが、それでも素直に美味しいと思う。貧困な自分の語彙力が恨めしいが、うまい酒にごちゃごちゃと理屈をつけるほうが失礼だ。

 

「ウマいですね」

 

「くくっ、やはり静の教え子だね。子弟そろってまったく同じことしか言わんが、最高の殺し文句さ」

 

 そうやって小さく笑いあう俺たちは、そろって視線をもう一人に向ける。

 

 さてはて、本日の主賓は初めてのこの味をどう感じたものだろうか?

 

「お、美味しい、です…」

 

 

 渋面いっぱいの顔でそうしぼり出した彼女に思わず二人で大笑いしてしまったのはきっと誰も責められないはずだ。

 

 

―――――――――――――

 

「ツーン」

 

「悪かったからそう拗ねるなよ…っくく。―――いでっ」

 

 分かりやすく機嫌を損ねてしまった美波に謝りつつも思わず零れた笑いに肩を強めに叩かれる。結構な威力だったが、今回は甘んじて受け入れよう。だが、誓ってもいいが初めての酒精に渋面を浮かべた彼女を笑った訳ではないのだ。むしろ、あの時の自分の記憶と、それを見ていたであろう二人の気持ちがわかってしまい思わず嬉しくなってしまったのだ。

 

「いやいや、すまなかった美波君。君の隣にいる先輩も初めての一杯を呑んだ時に全く同じ顔をして、同じことを言っていたものだから思わず懐かしくなってしまってね。もっとも――――君の先輩は目じりに涙までうかべていたがね?」

 

 クツクツと笑う神木さんの言葉に彼女が疑わし気に視線を向けてくるがこればかりは否定のしようがない。俺の時はもっと単純にビールだったのだが、あの苦みと喉を焼く炭酸。そして、アルコール独特の風味に危うく吹き出しそうになったのを必死に飲み込んで精一杯の強がりをしぼりだしたのだ。涙の一つだって零れる。

 

 いまなら分かるが、あの時の二人もきっと自分が初めて酒を飲んだ時の事を思い出していたのだろう。

 

 平塚先生は”それこそが大人の味さ”と言っていたのが今ならば分かった気がするのだ。

 

 初めて感じるあの苦みが、失敗が、次の一口をより味わい深くさせてくれる。

 

 その苦しさを含めて初めて”酒”のもたらす”楽しみ”へとなっていくのだろう。

 

 それを理解できたことがなんだかこそばゆくも、うれしいのだから、文句と羞恥は今回はこの液体と一緒に飲み干してやろう。

 

「………そうやって失敗を流し込むためにまたお酒を飲んで、飲んだくれが出来上がるわけですね?」

 

「まったく同じことを言って俺は恩師に張り倒されたな」

 

 分かりやすく棘の生えた嫌味に肩をすくめて返した俺を神木さんはあの時の事を思い出して大きく笑った。まったくもって関りというやつを持てばよくも悪くも人は似通っていくのだから如何ともしがたい。そう思ってため息をついていると美波の機嫌も少しは戻ったのか小さく笑って答える。失敗談の恥で機嫌を良くしてくれるならば恥もかきがいがある。

 

「はてさて、今日は本当に愉快な夜だ。だが、お客様を渋い顔でかえしたとあっては私の面子に関わるのでね。今度はこちらなんてどうかな?」

 

 そういって彼女が差し出したのは”ピーチフィズ”と呼ばれる桃の香りが漂う優し気なカクテルだ。

 

「え、あ、でも、私まだ飲み切ってなくて…」

 

 差し出された甘い香りのカクテルに興味をそそられつつも、手元に残っているグラスを気にする彼女に神木さんは緩く笑いかける。

 

「飲み切ってから次へ行くのがマナー、というのもあるがね。そんなものは楽しむことの二の次さ。初めて飲むのなら苦手意識なく自由に飲んでみるといい。残った分は呑兵衛が二人もいるんだから無駄にはなるまい」

 

 そういって目配せをしてくる彼女に肩をすくめて答えて美波のもつグラスを緩く奪って呑んでしまう。

 

「せっかくだ。そうしとけよ―――もしかして、もうちょっと飲みたかったか、コレ?」

 

「えっ!?いや、その、…なんでもないです」

 

「そうか?」

 

 おれが奪って口をつけたグラスを随分と見つめていたものだからてっきりもう少し味わいたかったのかと悪い事をした気分になってしまったが、そうでもないらしいので気にせず飲むことにする。――――なんで二人そろってため息をつくんだ?

 

 なにやら釈然としないが、気を取り直したようすの彼女は改めて新しいグラスへと手を伸ばす。恐々と、それでも、甘いその香りに誘われるように唇をつけーーー

 

 

「あ、美味しい」

 

 

 そう呟いた。

 

―――――――――――――――――――――

 

 

 

 一度、味の好みを知れば流石はプロだ。彼女が飲みやすく親しみやすい物を雑談と豆知識を交えて勧めてきてくれるのでその後は彼女も渋面を浮かべることもなく楽しい時間が流れていく。

 

 だが、楽しい時間とはえてして早く過ぎ去るもので時計を確認すれば結構にいい時間となっていた。

 

「むむ、もうそんな時間かい?…まあ、初めての機会で深酒して悪夢をみることもないだろう。惜しいけれども、今日はこの辺でお開きかな」

 

 俺が時計を確認したのを目ざとく見つけた神木さんがそうきりだしてくれたので俺もそれに苦笑して答える。美波の意識も杯を進めるごとに少しだけ緩くなってきたようだし、ここいらが切り上げ時だろう。そう思って俺が席を立とうとしたとき―――意外なところから待ったがかかった。

 

「もう一杯だけ、だめですか?」

 

 俺でも、神木さんでもなければ   

 

       それは 一人しかいない。

 

 集まった目線の先には美波が空いたグラスを握りしめて、小さく俯いている。そのさっきまでの楽し気な様子と違う彼女に思わず俺は固まってしまう。

 

「ご注文は?」

 

「”アラスカ”を、お願いします」

 

「―――――――――――かしこまりました」

 

 そう、恭しく答える神木さんに思わず声を上げてしまいそうになるが、視線でソレを遮られ座るように促される。

 

 反論も抵抗も許されぬそれに俺はなすすべなく腰を下ろすしかないが、頭の中では随分と言いたいことが渦巻く。

 

 自分の知る中ではかなりキツメの度数を誇るソレは今の美波が飲むにはあまりにきつ過ぎるはずだ。ソレを彼女が知らずに頼んでいたとしても、神木さんが応える理由が分からない。止めるべきだと煩悶する中でそれでも軽やかに銀器は手繰られ、あっという間に新緑の鮮やかなソレは彼女と俺の前に差し出される。

 

 ハーブとジン、そして仄かに芳る蜜の甘やかさ。それは、本来は、謎の緊迫した空気でなければ喜ぶべきもので。

 

「さて、私は少し外で酔いでも醒ましてこよう。お代は静君につけておくから気にしなくていい。鍵も適当に閉めておくから気が済んだら行くといい」

 

 それだけ言い残して彼女は息もつかせずに奥へと引っ込んでいってしまう。

 

 

 そして、二人だけが残された空間で儚げに揺れるランプの光だけが揺れ動く。

 

 

 そんな沈黙の中で、美波がゆっくりとグラスに口をつけ、小さく笑う。

 

「ふふ、自分が楓さんみたいな我儘を言う日が来るとは思いませんでした。”最後にもう一杯だけ~”なんて」

 

 そういっていつものように笑う彼女に、ちょっとだけ肩の力が抜けたのを感じる。そうだ、そういわれてみれば大したことではないというのに、何を自分はそんなに強張っていたのだろうか。出されたたとえの緩さに思わず笑ってしまう。

 

「頼むからお前までああなってくれるなよ?これ以上は流石に介護しきれん」

 

「あら、残念です。一回あんな風に手厚く介護されてみたかったんですけど」

 

 クスリと笑う彼女に勘弁してくれと肩を竦めて返せば彼女も楽し気に笑って返してくれる。

 

 その頬にはほんのりと赤みが差し、いつもは理性と穏やかさを湛えている瞳はアルコールのせいか少しだけ蕩けたような甘さを滲ませている。ささやくような声はいつもの芯はなく、睦言のように熱を帯びている。下品さなど微塵も感じさせぬのに、目を引き付ける何かを漂わす彼女に苦笑を漏らしてしまう。

 

 初めての酒になぜ自分なんかを、と思ったがこれは正解だったかも知れない。

 

 例えば、同学年の大学生の集まりなんかで野郎がこんなものを見せつけられたら我慢なんかしようがないだろう。勘違いをしようもないくらいのダメ人間である自分だから”やれやれ”で済むのだ。明日の朝にでも頭痛に悩む彼女にからかいがてら注意するように言っておかねばと心に刻んで、俺もグラスを手に取り口をつけた。

 

 辛くも、甘く、爽やか。

 

 だから、そんな複雑で深い味わいのせいだ。

 

 彼女の発した言葉を聞いて、複雑な表情を浮かべてしまったのは。

 

 

 

「私、貴方の事が嫌いでした」

 

 

「……そうか」

 

 

 新緑のグラスを弄ぶように揺らす彼女は、たゆとう意識のままに言葉を紡ぐ。

 

 

「やればできるくせに、やる気無さそうに振舞うのが癪に障りました」

 

 

 最初のころは随分とつっかかられた事を、思い出す。

 

 

「私が必死にメンバーをまとめようとしてるのに、簡単にソレをしちゃえるのが悔しかった」

 

 

 リーダーに選ばれ、苦悩していた彼女を思い出す。

 

 

「見返してやろうと頑張っても、相手にされないのが、屈辱でした」

 

 

 なにかと張り合われていたことを思い出す。

 

 

「私に心を開いてくれない子が、貴方には開くのが納得できませんでした」

 

 

 新メンバーが入るたびに心を砕いていたことを、知っている。

 

 

「意地悪なスタッフにどんな嫌味を言われても言い返さないのが情けなかったです」

 

 

 武内のカラスだ、犬だと罵られた時の事だろうか?

 

 

「そのくせ、私たちが悪く言われたときは引くぐらいに嫌味たらしく言い返して怖かったです」

 

 

 あれは常務にも武内さんにも怒られた。反省している。

 

 

「自分だって疲れてるくせに、疲れて眠っている子がいるとわざと道を間違えて遠回りするのがわざとらしいです」

 

 

「夜遅くまで居残りしても、絶対に残って送ってくれるのが申し訳なくて苦しかったです。ほかにも―――」

 

 

 そんな支離滅裂で形にならない彼女の言葉は脈絡もなく、こぼれるように、数えきれないほどに紡がれてゆく。

 

 そして、

 

 

「私が、困ってるときに、必ず、――― 助けに来てくれて、優しくて、お人好しで、たまに子供みたいな意地張って、馬鹿で、女たらしで、むじかくで、ほかにも、いっぱい―――、いっぱい、――――悪いところを見つけて、嫌いになろうとして、言い訳を作って、頑張って壁を作ってるのに、嫌いになれない貴方が――――――――」

 

 

 

 長い長い独白は、静かに途切れ

 

     グラスに消えた一筋の涙と共に、儚くアルコールの中へと紛れて消え――――――

 

 

 

 

    「好きなんです」

 

 

 

 

 

           てはくれなかった。

 

 

 

 

 

 紡がれぬことを願っていた最後のその一言に俺は大きくため息をつき、静かな寝息を上げる彼女の髪を緩く梳く。

 

 

 呟かれた言葉に体中に鉛のような罪悪感をもたらす。

 

 

 酒は軽やかで、気持ちよくて、心が浮き立つ楽しい時間をもたらしてくれる。だが、それは何時しか覚めるのだ。

 

 

 一時の高揚は多くを勘違いさせる。それは、彼女が俺に告げた思いとて同じことだ。

 

 

 限られた空間で、一番近くにいた異性で、特殊な思い出に一緒にいた。ソレは時間がたてばきっと勘違いだったことに気が付くだろう。だから、俺は、彼女の涙をぬぐう資格などないのだ。勘違いや思い込みの果てにどんな結末が待っているのか知っている俺がそれにこたえることがないだから。

 

 

 

 

 

 

     泡沫へと消えゆく思いになど、なにも詰め込むべきではない。

 

 

        だから、彼女の涙を見なかったことにするために俺は新緑の液体を飲み干す。

 

 

 

 

 

     揺らぐ意識の中で、このカクテルの意味を思い出した。

 

 

 

 

           ”偽りなき心”

 

 

 

 

 

 

 

 

 

       いまさらそんな事を思い出す自分を、昔と変わらぬ愚かなままの自分を

 

 

 

                             俺は嗤った。

 

 

 


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