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('ω')おいらは大人に憧れてた。なんでもできるって信じてた。理不尽なんてなくて、やっただけ結果がついてくると思ってた。
その答えは、いまだに出てこないんだ。教えてくれよ、誰か。
後悔か、不屈か、欺瞞か。
そんな大人と子供の狭間で揺れ動く彼女の物語。
揺蕩う意識がぼんやりと浮き上がってきて、最初に感じたのは緩やかな布団が伝えてくる温もりと柔らかさ。それに続いてやってきたのは瞼を透けて刺さってくる朝日の眩さ。
毎朝の事ではあるけれども、この微睡の心地よさから抜け出すのが惜しくて未練がましくも布団を目深に被ってささやかな抵抗を試みる。
今は、何時だろうか? あと、何分は二度寝を楽しめるか?
そんな判然としない意識で時計を確認しようとしたところでふっ、と普段にない感覚が自分の鼻孔を撫でた。
自分のモノではない香水と、微かな紫煙の煙たさを纏ったその香り。それは、今まさに自分が頭から被っている柔らかなお布団から確かに薫っていて、ソレに気が付けば普段の日常との数多の差異に一気に気が付いてしまう。
質素なグレーの布団カバーに、高さの違う枕。慌てて布団から飛び起きて周りを確認すれば見慣れないコンクリートが打ちっぱなしの壁に、明らかに男物と思われる無骨な調度品が数点並ぶ部屋。
確かめるまでもなく自分の部屋ではないその光景に寝ぼけていた脳内が一気にフル回転して何がどうなっているのかを必死に模索し―――昨日の夜の出来事が瞬く間に駆け抜けていった。
幻想的なランプに照らされたバー。
味覚を戸惑わせた初めての味。
自分が憧れていた世界に踏み込み、得た高揚感。
楽しく弾む会話と、自分の横で気だるげに微笑んでいた彼。
そして――――そんな彼に告げてしまった想い。
そこまでが走馬灯の様に流れていったのに、そこを最後に自分の記憶はぷっつりと途絶えている。その一番の踏ん張りどころで意識を途絶えさせた昨日の自分が最高に恨めしく今からでもひっぱたいてやりたいくらいの激情が自分の身を悶えさせる。
そして、なによりもである。
途切れた記憶の最後と、今の状況を繋ぎ合わせれば更に自分の脳内は沸騰していくのを止められない。女である自分が想いを告げて、男はソレを聞き届け―――次に眼を覚ました時には明らかに男性の部屋で眼を覚ました。
それは、俗にいう、なんと言うのか……“お持ち帰り”されてしまったというのが一番しっくりくる状況ではないだろうか?
慌てて確認した身だしなみは昨日の気合を入れた服ではなく白シャツ一枚を羽織った程度のモノで、その他に特に乱れも無く体に違和感は無い。だが、初めての経験であるがゆえにそれが事後のスタンダードなのかどうかすらも分からない。
ど、えっ、まさかとは思うが私の初体験は意識の無いまま泥酔して終わってしまったのだろうか?
そんな考え得る限り最悪な状況に私は頭を抱えて悶絶する。
「かんっぜんに、大失敗じゃない……」
あれだけ長い間に秘めていた想いを身勝手にぶつけておいて、自分は呑気に夢の世界に旅だってしまった。その先に酔いつぶれた自分がどんな振る舞いをしたのか想像しただけで頭が痛くなる。
いつも理性で押さえていた欲望が曝け出されてしまったのか、初めての経験に自分はどう反応したのか、彼のその時の表情はどんなものだったのか――――全てが酔いの彼方に消えてしまったその貴重なモノは自分には欠片も残っていない。
それが、ひたすらに悔しくて悲しい。
そんな後悔の中でも不思議と――――嫌悪感というモノは出てこなかった。
浮かぶのは、自分の失態と焦がれていた“その先”の熱を覚えていられなかったという喪失感だけ。
そんな湧き上がる熱と、恥と、言い表せない諸々に一人で悶えていると部屋に一つだけある扉の奥から人の気配を感じ、思い切り肩を跳ねさせる。
それは、想い続けていた彼のものかもしれないと思えば先ほど以上に顔は赤く染まり、脳は真っ赤に煮えたぎり、何ならその姿が見える前に窓から続くベランダから脱走を試みようとしてしまう程。勝手に逃避に奔ろうとする体を必死で宥めれば気が付く。
自分がシャツ以外は少しだけ気合の入った下着だけの半裸に近い状態だという事。
引くも、責めるも出来ずにただ固まって混乱する私を時間が待ってくれるわけもなく、無慈悲にその扉は開かれ――――その先から現れたのは、昨日の夜に鮮やかな腕前で自分を迎えてくれたバーテンダー“神木”さん。
「やぁ、おはよう“美波”君。―――現れたのが愛しの“比企谷”君でなくて申し訳ない限りだよ」
「あ、え…と、 お、おはよう、ございます?」
クスリと笑った後に意地悪気に笑う猫のような彼女に私が返せたのは、そんな間抜けな朝の挨拶だけであった、とさ。
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「くくくっ、酷い男だと思わないかい? こんな美女が目の前で寝息を立てているのに私に万札数枚とメモだけ残して預けて行くなんて自分の教育不足を恥じ入るばかりだよ」
「いや、その……本当にご迷惑をおかけいたしました」
質素な部屋に立ち込めるコーヒーと彼女が買ってきてくれた焼きたてのクロワッサンの甘く優しい匂いが立ち込める中で、楽し気に笑う彼女と羞恥に顔を俯かせる私。
そんな彼女の口から告げられたのはなんとも色気のない無難な真実で、空回った脳みそで夢想したあれこれが際限なく自分のムッツリ加減を責めたて居たたまれなさは倍増だ。
何てことは無い、酔いつぶれた自分はあのまま眠りに落ちて店に置いて行かれたらしい。気を利かせて席を外してくれていた彼女が戻ってくれば、質素なメモ書きと共に残された私の処遇に悩んだ末に店の二階にある部屋へ寝かしつけてくれたらしい。
初対面で、一体どれだけの迷惑をかけてしまったのかと思えば顔なんてあげられるはずもない。だが、それでも彼女はカラカラ笑うばかり。
「まあ、こうしてお酒の味を誰もが覚えていく。それに、君より少し早く社会に出た人間からのアドバイスを一ついいかな?」
「……謹んで聞かせて頂きます」
縮こまって応える私にニヤリと一言。
「“酒の席での事を次の日に口に出すな”。それが常識ある大人が身に着けているマナーって奴さ。――――さあ、分かったなら朝飯にしよう。ここのクロワッサンは自慢じゃないが、ちょっとしたものだよ?」
「………ふふっ、神木さんってかっこいいですね」
ウインク一つと共にそういった彼女は豪快にパンに齧りついて、話を終わらせた。
その仕草の一つ一つがカッコよくて、可愛くて、おっきく見えて思わずそういって笑ってしまった私に彼女は肩を竦めるだけで答えた。そんな動作も、見慣れたあの気だるげなアシスタントさんも憧れたのかもしれないと思ってついつい笑ってしまった。
やけ気味に大きく口を開けて齧り付いたクロワッサンは―――彼女の言葉通り、ちょっとしたものだった。
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神木さんに朝食をご馳走になり、楽しい時間を過ごしてしばし。
時間というモノは黙っていても流れていくモノで、それが楽しい時間ならばあっという間だ。そうこうしているウチに時間は昼に差し掛かり始めて自分もソロソロ午後のレッスンの為にココを出なけれなならない時間になってしまった。
名残惜しさを感じつつも店を出ようとした私を見送ってくれる彼女に深々と頭を下げてお礼を述べる。
「ほんっとうに、ご迷惑をおかけしました!!」
「なに、私も久々に若い娘さんとお喋り出来て若返った気分だ。次も、懲りずに遊びに来てくれよ」
ゆたりと紫煙と共に微笑む彼女に少しの気恥ずかしさと、嬉しさを込めて私は笑顔で答えて背を向けて歩み出した。初めての体験。初めての失敗。そして―――それによってこうして結ばれた縁があるのならば、それもまた良い経験だったのだろう、と一人苦笑を零して。
そんな、浮かれた気分だったせいもあるからだろうか。
彼女が呟くように零した言葉は―――ついぞ、私が本当に理解することは無かった。
『“大人”に嫌気がさしたら、またおいで』
その言葉を、私は後数刻後に身をもって知ることになるなんて思っても見なかったのだから。
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通い慣れた事務所への道。それも何故か今日は不思議と活気づいて見えるのは、昨日の体験の高揚感が残っているせいかもしれない。さっきまで自分の大失敗に頭を抱えていたのに励まされただけでここまで持ち直す自分の現金さに少しだけ呆れてしまう。
それに、問題は一つ減っただけで全て解決していないというのもこの心臓を高鳴らせている大きな理由だ。
そう、自分は昨日の夜に―――踏み出してしまったのだ。
あの気だるげな風貌で皆を支える影のような男に、いつも叱り飛ばして噛みついていた彼に、自分の心を惹きつけ続ける想い人にその想いを隠すことなく打ち明けてしまった。
その答えは未だに私は知らない。
それでも、彼と過ごした日々や、彼のふとした時に見せる優し気な表情から―――期待は拭えないのだ。
例え、その期待に添えない結果であったとしても今まで飲み込み続けた想いを隠さなくて良くなった今ならば時間をかけてでも振り向かせて見せる。少なくとも、長い時間をかけてなけなしのプライドで隠していた、そういう行動を我慢しなくていいと思えばやりようはいくらでもある。
自分は、もう彼に頭を撫でられるだけの子供ではなくなった。
同じ立場で、同じ目線で、杯を酌み交わせる“大人”というステージにようやく立てた。
ならば、後はその腕を絡め、その瞳に真っ直ぐ自分の想いを向けさせるだけ。
それが一周回って自分を爽快な気分にさせて足をいそがせる。
早く、早く彼の答えをと願い、事務所より先に彼が良くいる非常階段下の喫煙所へと足を向け―――彼がいた。
鴉の羽のような黒い髪にアホ毛を一本靡かせて、姿勢さえ良ければ映えるそのスタイルのいい体をシャツと黒のスキニーに包んだ気だるげな彼は今日もそこで気だるげな雰囲気のまま紫煙を燻らせている。
会いに来たはずなのに、その姿を見れば昨夜の告白が脳内をよぎり途端に恥ずかしくなってしまう。ソレをいつもは怒った振りをして誤魔化してきた。だって、そうでもして何かで隠さなければこの想いはきっとすぐに伝わってしまったから。
でも、もうそんな子供の様な嘘はやめよう。
照れ隠しで握ってきた拳を緩めて、素直に―――この胸に溢れる思いを真っ直ぐに彼に届けよう。
それが、私“新田 美波”が大人になれたという証明の一歩にしようと踏み出した
瞬間に、彼の眼が私の一歩を 踏み留めた。
紫煙と、野暮ったい長い髪の隙間から覗く胡乱気な瞳。
見慣れたソレは――――何故かいつもより、ずっと遠く感じる。
嫌な感触に引きつりそうになる喉を必死に動かして、何とか言葉を紡ぐ。
「き、昨日はありがとうございました。でも、声、掛けてくれたら、良かったのに」
「―――おう、二日酔いは無さそうで何より。次からは寝る前にそうするよ」
声も、瞳も、言葉も何もがいつも通り。ぶっきらぼうでデリカシーのない変わらぬ彼。肩を竦めるのも、冷笑に見える苦笑も見慣れた動作なのに――――それが、余りに普段通り過ぎて恐ろしい。
暗く陰ったビルの隙間にあるこの場所に冷たい風が吹く。
それがさっきまでの自分の中に宿っていた熱と想い。そして、昨日の夜に彼に愛の言葉を告げたという確かにあったはずの現実の有無すら不確かにかき消そうと吹きすさぶ。
それが、嘘では無かったと。夢現で零した言葉ではないと証明するために必死に生唾がへばり付く喉を震わせて言葉を紡ごうとした最中、彼が頼りなげに揺れていた細巻きの灯を捻り潰してソレを遮った。
何てことは無い。煙草をもみ消し、吸い終わったから戻って行く。
そんな当り前の行為が今は全てが自分の動きを否定する楔となって息を呑む。
乾いた足音が、風に交じって自分の真横に並んだ時に――――囁くような声で彼が呟く。
「酒を飲んだ時の話は、あんま覚えてないんだ。俺も酔ってたからな。―――――お前も、そうだろ?」
「―――――ッ」
そんなゾッとするくらいに冷たく、昏い声。
それに息を呑み―――だが、乾ききった口内を無理やり動かして否定を紡ぐ。
確かに、酔っていた。
初めての大人への階段を想い人と共に踏み出し、憧れに足る年長者と言葉を交わし楽しい時間を過ごし、初めての酒精が齎す高揚感にはしゃぎ―――全てに酔ってはいた。
だけれども―――― それでも 語った言葉に嘘なんてない。
酔っていたからこそ、私の本当の想いを語れた。
長い間、蓋をし続けた想いをあの時だからこそ隠すことなく打ち明けられた。
はっきり、全てを 覚えている。
重ねた日々に、重ねた想いの全ては酔いに任せたうわごとで何か無かった。
そう、彼に伝えようと喉を振るわせようとしたその時に
重たく冷たい鉄の非常出口の扉が硬質な音を立てて閉じたのは、同時だった。
残ったのは、瞼に焼き付いた彼の背中と―――嗚咽を漏らしてその場に蹲る私だけ。
あれだけの想いを込めた言葉は―――――
――――“酔っていた” そんな一言で片づけられてしまうモノだったのか。
そんな私の慟哭に ただ風だけが無感情な声で答えた。