デレマス短話集   作:緑茶P

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さあ、今日も頭をからっぽに広い心で言ってみよー!!


美波√ 『これが泡沫の夢というのならば――』 chapter④

 耳をつく潮騒の騒めきや風に浜辺特有の磯の香りと、べたつきが混じって肌を撫でる。

 

 遮蔽物が無いせいか日差しも遠慮なく肌に刺さってくるのだが、季節は旬とも言える真夏も過ぎ去り秋の入り口となったせいか汗ばむ肌はあっという間に乾かされ熱を奪われて行く。

 

 人混み溢れる季節の海は嫌いだが、この時期の海辺というのは閑散としていてただただ静かな波の音だけが響く。そして、寄っては引いていく漣と呑気に響くカモメの声は何処までも透き通る晴天と相まって何故か郷愁のようなモノを引き出させて、うっかり記憶の奥底に沈めこんだ遠い過去の悔恨まで揺さぶってくるのだから質が悪い。

 

 近寄っては、引っ込んでいき。

 

 追いかけて掴めば、手から零れていく。

 

 そんな様子が、自分のかつての掛けがえのない“本物”だと信じていたモノとそっくりで知らず眉間に皺を寄せて思わず首を振る。

 

 信じたモノが理想を違い、自分の期待にそぐわなかったと言って貶めるというのは害悪で醜悪で、救いようがない。そうであっても構わないと心から想って自分は手を伸ばして、その手が届かない事を知ってその手を抱き込んだ。

 

 苦く、酸っぱく、辛いと知りつつも手にしたその真実の実は残酷に教訓だけを残して嘲笑う様に消えていってしまった。

 

 ある人は、俺を“理性の怪物”と呼んだ。

 

 それは畏敬を含んだものではなく―――“人”らしく振舞おうとする小鬼の身の程知らずを嘲笑った侮蔑であったし、心からの忠言であったのだと今ならば分かる。

 

 怪物が、人の心になど寄り添えるものか。

 

 そのカラカラに乾燥した事実だけがあの俺の間違いだらけの青春で得られた真実だ。

 

 だから、

 

 澄み渡った蒼天の元で白いワンピースに身を包んでカメラに微笑んでいる彼女“新田 美波”を眺めつつ思う。

 

 成人し、大人へと踏み込んだ日に彼女が零した自分への恋慕の言葉――――それは、泡沫の夢に詰め込まれた想いなのだと。

 

 限られた環境で、特殊な経験を共にし、最も近しかった異性に弱って浮かれた心が齎した幻想。そんな彼女の想いは時間が経ち、現実を知ってゆくにつれて色を失い萎んでいき最後には地面に落ちて弾けてしまうだろう。

 

 分かり切った結末だ。

 

 だから、優しい停滞という毒を、クスリとして彼女に処方した。

 

 どんな想いも、記憶も全ては時間によって熱も色も失っていく。

 

 それが、最良なのだ。

 

 小鬼に勘違いから抱いてしまった想いなど弾けさせるまでもなく沈めてしまうべきなのだ。だから――――この、武内さんに仕組まれて大した仕事でもないのに二人きりで行かされたこの撮影も何事もなく終わらせよう。

 

 何かを、期待なんてしないでくれ。

 

 向き合って出した答えの全てが救いだなんて傲慢だ。

 

 どうか、もう、この小鬼を静かに泥の中で寝かせてくれ。

 

 

 そんな俺の独白は 誰に聞かれることも無く紫煙と共に海風に攫われて行ってしまった。

 

-------------------------

 

 

「以上で撮影は終了です! わざわざこんな遠方までご足労頂きありがとうございました!! なんか、今日の新田さんは気圧されるぐらいに凄くて本当に見惚れちゃいましたよ!!」

 

「ふふっ、お世辞でもそう言って貰えると嬉しいです。こちらこそ地域のPR広告に声を掛けて頂けるなんて本当に光栄でした。これからも頑張りますので、よろしくお願いします!!」

 

 そんな定型文の様な会話を美波とカメラマンが交わしている横でこちらは企画プロデューサーと最後の規約確認と告知時期について無味乾燥に淡々とこなしていく。

 

 昼頃から行われていた撮影は順調に進みはしたものの、終わってみればあれだけ高くにあった日は海の彼方に沈みかけ最後の抵抗と言わんばかりに眩い紅霞で空を彩っている。

 

 秋口に入ってからは日没がいつの間にか忍び寄る様に昼を侵食していき、気が付けば木枯らしと共に冬を連れてくる。この季節の移り変わりをなんとは無しに感じる瞬間が変に感慨深くて自分は嫌いではない。

 

「では、そのような段取りで進めさせて頂きます」

 

「―――ええ、はい。よろしくお願いいたします」

 

余計な事に思考を走らせているウチにそう締めくくられた言葉で意識を引き戻され、最後の書類と聞き流していた言葉を反芻して問題ない事を確認。形ばかりの握手を済ませれば向こう方のプロデューサーの合図で制作陣はぞろぞろと引き上げていく。

 

 仕事は順調。天気も時間も問題なし。世は事も無し。

 

 やるべきことをやったのならば、後はさっさと帰るだけだ。

 

「ん、依頼終了。悪いけどこのまま空港に行ってトンボ帰りだな」

 

「……それは構いませんけど、どうやって帰るんです?」

 

「は? どうって来た車で―――」

 

 隣で走り去るスタッフ達に手を振って見送っていた美波に声を掛ければ素っ頓狂な事を問われ、ちょっとの呆れを含めて言い返そうとすれば―――俺の腰につけていたはずの車のキーが何故か彼女の手元にあり、ニンマリとしながら彼女はソレを手の中で弄んでいる。

 

 俺が気を逸らしているウチに抜き取られたらしいが、ソレにしては余りに鮮やかな手並みで普通に驚きから眼を見開いてしまった。

 

「おい」

 

「ふふっ、せっかくこんないい景色なんですから少しお散歩しましょう?」

 

 鍵を取り返そうとする俺の腕からスルリと身を躱した彼女は揶揄うように声を弾ませ、足をステップでも踏むかのように軽やかに砂浜を滑らせていく。

 

 夕暮れの浜辺で挑発的な微笑みで俺を一歩先で眺める彼女はなんだか誰なのかを見失いそうになる不気味さと怖さを湛えているが―――従わなければ意地でも返さないだろうという予感から、俺は小さく溜息を吐いてその後に随伴することにした。

 

 そんな俺を楽し気に笑った彼女は気ままに、踊るように潮騒を背景に夕暮れの浜辺を歩いてゆく。

 

 お互いに、声は発さない。

 

 ただ、歩く。

 

 せめて、昏くなる前に飽きてくれればいいのだがなんて思いつつもその背を追っていると、砂浜はいつか終わりを迎え小さな防波堤へと景色は変わりゆく。硬質なコンクリートになってもその足音の軽やかさは変わらぬまま彼女は進み、ようやく声を発した。

 

「私、海育ちだからこういう所は故郷を思い出して結構好きなんです」

 

「………」

 

「昔は、弟が出来る前は防波堤の上に上がったりしてよくパパに怒られました」

 

「………」

 

「“危ないぞ!” “落ちたらどうするんだ!”なんて、いつもは絶対に怒らないパパがその時だけは本気で怒鳴ってよく泣いていました」

 

 彼女が楽しそうに笑って話すのに答えることも無く紫煙を吹かして聞き流す。

 

 だって、そうだろう? それは仕事の一線を超えるプライベートな話だ。聞く必要も無ければ、聞いたところで彼女に関わる気が無ければ意味も無い情報だ。

 

 そんな知識は感覚を鈍らせる。

 

 踏み越えてはいけない“私人”と“公人”での付き合いの境界を曖昧にさせる危険な言葉。

 

 だから、彼女が気が済むまで郷愁に付き合い、そして、何事も無かった様に鍵を返して貰って帰る。俺がやるべきことは何も変わらない。

 

「別に、聞かなくてもいいですよ。“酔っ払いの戯言”なので」

 

 目を瞑り、紫煙を燻らせる微かな間に差し込まれた彼女の声はさっきと違い上から振りかけられるモノで―――“ちゃぷり”なんて聞きなれた水音が妙に耳を付いた。

 

 それに慌てて視線を走らせれば、いつの間にか2mは超える堤防の上に佇む美波。その片手には見慣れた琥珀色の瓶が半分ほど開けられた状態で握られている。夕焼けのせいだけでなく、赤みを増した彼女の顔はただただ穏やかに微笑んでいて―――ソレが言い様のないくらい不穏で、自分の何かが警鐘を鳴らす。

 

「おい、降りてこい。…少なくとも、酒を片手に上がる様な所じゃない」

 

「あら、久々にこっちを見てくれるんですね? お酒が入ってるときの方がお話はしやすいのかしら?」

 

 クスクスとケラケラと堤防の上で躰を揺らす彼女は不安定で、不確かで見ているこっちが息を呑み、心臓を締め付けられる。

 

 何が、とは言えないがとにかく今の美波は非常に危なっかしい。この状態で放置するわけにもいかず俺は何とか彼女を刺激しない様な言葉を選んで、少しずつ距離を縮めて声を掛け続ける。

 

「とりあえず、わかった。そこから降りてから愚痴でもなんでも聞いてやるから、ゆっくり座ってくれ。頼むから、動くなよ?」

 

「ふふっ、おかしな人ですね。私は最初に言ったじゃないですか。“聞かなくてもいい”って。だから、今から私が言う言葉はきっと比企谷さんの言う通りの勘違いの、思い違いの、弾けて消える儚い妄想なんです」

 

「まて、頼む。土下座でもなんでもするから今は落ち着け。お前は、今、ちょっと普通じゃない。殴っても、蹴っても、何をしてもいいから―――俺がそこに行くまで動くな」

 

 分からない。彼女が何を言ってるのかも、求めてるのかも、どうすべきなのかも何一つとして分からない。だが、それでも、本当に楽し気に笑って囁く彼女の言葉が―――今はひたすらに危うくて必死に呼び止める。

 

 ゆっくりと、それでもようやく堤防の上部に登る用だと思わしきロープまでたどり着いた俺がソレを手繰って引き寄せた時に彼女はこんな時に不釣り合いなくらいに華やかな笑顔を浮かべて俺に言葉を投げかけた。

 

 

「私、貴方の事が嫌いでした」

 

 

 それは、あの日。彼女が酩酊の中で繰りだした

 

 

「やればできるくせに、やる気無さそうに振舞うのが癪に障りました」

 

 

言葉で。

 

 

「私が必死にメンバーをまとめようとしてるのに、簡単にソレをしちゃえるのが悔しかった」

 

 

 あの時と、一字一句変わらぬまま

 

 

「見返してやろうと頑張っても、相手にされないのが、屈辱でした」

 

 

 熱量も、想いも、

 

 

「私に心を開いてくれない子が、貴方には開くのが納得できませんでした」

 

 

 何もかも変わらぬまま

 

 

「意地悪なスタッフにどんな嫌味を言われても言い返さないのが情けなかったです」

 

 

 繰り返される。

 

 

「そのくせ、私たちが悪く言われたときは引くぐらいに嫌味たらしく言い返して怖かったです」

 

 

 変わったのは

 

 

「自分だって疲れてるくせに、疲れて眠っている子がいるとわざと道を間違えて遠回りするのがわざとらしいです」

 

 

「夜遅くまで居残りしても、絶対に残って送ってくれるのが申し訳なくて苦しかったです。ほかにも―――」

 

 

 彼女のその瞳が蕩けた蜂蜜の様な甘さを湛えたモノではなく

 

 

「私が、困ってるときに、必ず、――― 助けに来てくれて、優しくて、お人好しで、たまに子供みたいな意地張って、馬鹿で、女たらしで、むじかくで、ほかにも、いっぱい―――、いっぱい、――――悪いところを見つけて、嫌いになろうとして、言い訳を作って、頑張って壁を作ってるのに、嫌いになれない貴方が――――――――」

 

 

 世界を焼く夕焼けよりも熱く、迫りくる宵闇よりも深い決意を湛えている事だけだった。

 

 

    「好きなんです」

 

 

 そんな一言を残し、彼女は――――堤防の先。

 

 昏く、無感情に波打つ海へと  その身を投げ出した。

 

 

 世界が、コマ割りのようにゆっくりと動く世界で自分の喉から変な息が漏れたのだけが嫌に耳につき―――何も考える間もなく堤防をよじ登りそのまま海へと飛び込んだ。

 

 秋口に入った海はもはやかじかむような冷たさで一瞬にして体中の熱を奪い去り、服が吸い込んだ水分が手足を鉛のように重たくし無感情な波のうねりで自分を飲み込んでしまおうと襲い来る。

 

 そんな全てがくそったれに感じる状況で、眼が海水で焼かれるように痛む中で必死に脳髄と腹の底から普段使わずに貯蔵している気合を絞りだして必死に水をかき分け探す。

 

 探す。探す。さがす。探す。寒い。痛い。手足が重くなってきた。探せ。何分潜った?いま俺は何処にいる?探す。さがす。さがす。くるしい。ちくしょう。馬鹿か?どこだ、どこだどこだどこだどこだどこだ――――見つけた。

 

 陽の差さない仄暗い海の中で――――白いワンピースが揺らぎ、投げ入れられた百合の花のように沈んでいく馬鹿野郎をようやく見つけた。

 

 息苦しさと、寒さと、痛さとその他もろもろを全て無視して力任せに美波を抱えたまま必死に水面を目指して手足をばたつかせる。もはや、朦朧としてきた意識の中で悪態も文句も鳴りやむ事は無い。人ってのは浮く生き物じゃなかったのかよ? クソが、おもてぇんだよ馬鹿!!

 

 それでも、この大馬鹿に怒鳴ってやるまで俺は死んでやる訳にはいかない。

 

 そんなもう何も考える事の出来ないくらいに朦朧とした意識の中でその怒りの火種だけを頼りに俺は―――――ついに、久々の呼吸という偉業を達成したのだった。

 

 

-------------------------

 

 

 

 

「ぐぇっほっ、かふっ、げほっ――――おまえな、酔ってるからってなんでも許されると思ったら、げっほ、大間違い、だからな…げぇ」

 

「かふっ―――――でも、来てくれたじゃないですか」

 

 びじゃりと、体中から海水を滴らせ命からがら何とか浅瀬までたどり着いた俺が美波もろとも砂まみれになることも構わずに崩れ落ち、何とか絞り出した一言に同じようにむせ返していた美波がそんな事を言うモノだからいよいよ堪忍袋の緒が切れて乱暴にその肩を掴もうとし――――逆に掴みかかってきた美波に胸倉を掴まれ押し倒される。

 

「あの想いが!! 勘違いで、簡単に消えていく泡沫の感情だっていうならあのまま死なせてくれれば良かったんです!! この想いが埋もれて、かき消されるくらいなら、私は今日、この場で死んでも何の悔いもありませんでした!!―――――――――なのに、なんで貴方は、そんな簡単に私の“恋”を“勘違い”だなんて切り捨てちゃうんですか……!!

 

 振ってもいいのに、分からなくてもいいのに、届かなくてもいい。

 

 でも、――――この想いを無かった事にするのだけは、死んでもいや、なんです!!」

 

 

 体中から滴る海水とは違う、しょっぱい塩水が俺の頬を濡らす。

 

 普段からしっかり者で、お節介で、生真面目な癖に抜けていて、実は負けず嫌いで、わりかし悪戯好きで、したたかで、本当は弱みを見せるのを誰よりも嫌う意地っ張りな俺のよく知る“ただの少女”が―――顔をくしゃくしゃにして、子供のように俺を睨みながら泣きじゃくってそんな言葉を紡ぐ。

 

 頬を濡らす雫は温かく、痛い。

 

 この痛みが、俺は恐かった。

 

 この痛みすら厭わないくらいに、誰かを愛する事がどうしようもなく怖い。

 

 いつだって飢えている俺の中の小鬼は、それに全てを投げだしてしまう。

 

 そして、全てを台無しにする。

 

 何度も繰り返し、信じ、今度こそはと願った最後。

 

 それを失った時に信じるのも、望むのも、期待するのも固く戒めて瞳も耳も、五感の全てを塞いできた。

 

 なのに、なんで、どうして今更にこんな女を俺の元に連れてくる?

 

 神様とやらの意地の悪さにホトホト呆れかえってしまう。

 

 自分とのまやかしの様な交流のために命すらかけてしまうその姿は、余りに俺の長年かけて築いてきた生き方を揺るがせる。

 

 それでも、なお。

 

 ここまでされて―――――俺には分からないのだ。

 

 震える彼女の肩を抱きしめ、涙を拭った先。

 

 “人未満”の怪物が―――彼女の全てを壊してしまうのではないかと。

 

 人生を歪めてしまう恐怖に―――また“彼女”のように離れて行ってしまうのではないかと。

 

 だから、俺は、答えを得る事のない小鬼“比企谷 八幡”は―――彼女の背を軽く撫でてやる事しか出来ない代わりに口を噤み、ただ静かに“ゴメン”とだけ繰り返し許しを乞うた。

 

 夕闇は、もう星が煌めき間抜けな俺たちを嗤っていた。

 

 

 

 

=”おまけ”という名の蛇足=

 

 

「「…………………」」

 

 

 あれからしばし。俺たちはしなびた旅館にて気まずい空気のままちゃぶ台越しに無言の時間を過ごしている。

 

 まあ、端的に言えば9月に入った夕方の海は殺人級に冷たく、大泣きしてたり、ナイーブな気分になっていた俺らに寒風で止めを刺して低体温症待った無しな状況に追い込まれたのである。それに加えて目の前の下手人、海に飛び込んだ際に車の鍵を失くしやがったせいで帰ることも出来なくなったため身体をびしょ濡れで震わせた男女二人で近くに一件だけあった民宿に転がり込んで一命を取り留めた……はいいのだがどっかのラブコメよろしく一部屋しか空いてないという理由でこんな地獄絵図である。

 

 ラッキースケベとか思ったお前ら、甘いぞ?

 

 入水自殺未遂と巻き込まれた人間。告った人間と保留中が同じ部屋にいると想像してもらえればこの地獄が分かるだろうか?

 

 幸いにして車の鍵は開いていたので荷物やタブレットは取り出せて武内さん達への事情説明や衣服類は取り出せたのが不幸中の幸いか。それでも、この気まずい面子で一晩顔を合わせるというのはかなりきついものがあるのである。

 

「………いや、とりあえず、もう、寝るか」

 

「………比企谷さん、隣の寝室の状況見ました?」

 

「は? いや、見てないけど」

 

「大き目のお布団に、枕が二つ。ティッシュ完備でした……」

 

「……………」

 

 あの婆ぁ、どうにも余計な気が周りすぎる熟練女将らしい。ただ、今日ばかりは余計なお世話である。

 その情報に顔を顰める俺にしばし顔を赤くしていた美波が、不意にクスリと笑いを零した。

 

 さっきまでの居たたまれない空気と現状に余りに合わないその挙動に俺が驚いていると彼女は遂に笑いがこらえきれないといった様に笑いだし、クツクツ笑いながら俺に声を掛けてきた。

 

「ふっ、ふふふ、いや、ごめんなさい。こんなテンプレな状況に自分が巡り合うとは思っても見なかったのでつい。――――私は、そのまま褥を一緒にっていうのも悪くないと思いますけど………多分、比企谷さんが嫌がると思うのでやめておきます」

 

「………おきづかいどーも」

 

 そんな彼女のコメントに困る言葉に返せる言葉もなく俺はぶっきらぼうにそう答える他にない。年上としてどうなのかと思わないでも無いけれども、語れば語る程に藪蛇になって墓穴を掘りぬくのだからこれくらいが丁度いい。

 

 そんな俺の様子すらも楽し気に笑う彼女はゆたりと浴衣姿の肢体を揺らして部屋に備え付けられている冷蔵庫から黒い瓶を取り出して艶やかに笑って言葉を紡ぐ。

 

「私の気持ちも覚悟も、今日伝えきりました。だから、後は比企谷さんと今後の私に期待という事にしておきます。なので、どうせ今日は眠れないのなら付き合ってください。

 “好き”とか“嫌い”じゃなくて、“アイドル”でも“アシスタント”でも無くて―――“新田 美波”と“比企谷 八幡”の二人でお酒を楽しんで、どうでもいいお話をしましょう?」

 

 それは、あまりにも華やかで柔らかな微笑みで思わず俺は息を呑んでしまった。

 

 “少女”ではない艶やかさで、“大人”では出せない無邪気さでそう微笑む彼女。

 

 だが、その根元にある彼女の生真面目さとおおらかさになんだか難しく考えている自分の方が馬鹿らしくなって―――ついには肩を竦めてそのグラスを受け取ってしまった。

 

 嬉し気に麦酒を注ぎ、自らもその酒精に頬を綻ばせる彼女を眺めつつ疲れ切った灰色の脳細胞を震わせ脳内で静かに独白する。

 

 目の前で泡立つ琥珀色の液体は、楽しく、愉快で、浮き立つような明るい時間を齎してくれる。だが、ソレはいつか消えゆく快楽だ。だけれども、浮き立つ気分に釣られた言葉は―――本音だけを吊り上げる。

 

 無いものは出てこないし、隠していた汚い想いすらもこの泡は取り除いて曝け出す。

 

 いつか、誰かが言った。

 

 

“君は酔えないよ”、と。

 

 

 その予言は正しく、どれだけ酩酊した所で覚めた自分が常に自分を冷たく見つめていた。

 

 だから、俺は試してみたいのだ。

 

 そんなクソみたいな自意識すら振り切った先に――――浮き出てくる本音を。

 

 この、泡沫の想いと共に“弾けて死んでもいい”なんていう大馬鹿の様な後先考えぬような自分の本心をしって見たくて、俺は一足にグラスを飲み干して財布を手に取った。

 

「今日の講習は“酔いつぶれた後の悲惨さ”にしてやるよ。酒、買い足しに行くぞ」

 

「私だってあれから楓さん達に鍛えられましたから―――返り討ちです!」

 

 阿保みたいなことをニマリと厭らし気に頬を歪め声を掛ければ、かかってこいといわんばかりの彼女が生来の負けず嫌いを発揮して席を立って腕を組んでくる。

 

 阿呆二人がゆらゆらと、さっきまでのすったもんだも忘れて潮騒を背に酒を買い求めフラフラと。

 

 彼女の慟哭と決意に未だ答えは出せないけれども―――いつか、かつて合わさることの無かった辻褄に“彼女”が合わさる日が来ればいいなと想いながら俺は響く波の音と腕から伝わる温もりに静かに願いを込めて息を吐いた。

 

 

 癇に障った潮風が―――今はなんだか妙に心地よく感じた。

 


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