中空をたゆとう様に浮かぶ紫煙を眺めながら当時の事を思い出して気恥ずかしさに背中がむず痒くなる。
好きな人に方言を聞かせることを恥ずかしいと思うことも、なんとか近くにいるために躊躇なく将来の夢を決めて次の日には飛び込んでいく無鉄砲さと不安も、あの微笑みを見た時の心の底から嬉しくて心の中で何度も飛び上がった無邪気さも、今では昔日の何処かに置いてきてしまって今はもう持っていない。
それでも、良くも悪くも―――後悔はしてはいないけれども。
そう自然に思えるくらいには大切な思い出に浮かぶ感傷を麦酒と共に飲み干す。
「それで、その後はどうなったんですか?」
「…大した結末でもないわよ」
缶をゆらゆらと弄んで当時を振り返っていると、意外な続きを促す彼の声に一拍だけ返事が遅れる。そういった物には興味がないだろうと思っていたので聞き流してくれれば十分だったのだけれども―――驚いて見つめ返した彼の瞳は普段は見ない随分と切実な色が混じっているような気がして丁寧に応えるべく当時をゆっくりと噛みしめ言葉を練り上げる。
ただ、それでも、その後の顛末を見ればあまりにありふれた結末で彼の求めるナニカには至っていない気がして緩く首を振る。
ありきたりな少女の恋は、ありきたりな終わりを迎えたのだ。
―――――――――
生真面目な性質でもあったのだろう。褒められたいという下心だって大いにあった。それでも存外に言葉の勉強というモノに随分と深くのめり込んでいき、週二回の逢瀬は単純な“恋”だけでない “学ぶ”ということの快感を味わえる不思議な時間でもあった。
急に標準語を使い始めた自分を友人達は当然のようにからかってきたが、自分の恋心に元ずく行動だと知れば苦笑と共に理解を示して色々とフォローしてくれたので自分はやはり恵まれた人間だったのだろう。
そんな輝ける日々が矢のように過ぎていき、気がつけば弁論大会や朗読会を開くくらいにはその活動は広がった。新米教師と下心だらけの優等生はそんな未知の世界への対処で多くの言葉を交わして、笑って、呆れて、悩んで、丁寧な時間を重ねていった。
その輝ける日々はいつまでだって続くと思っていた。
無邪気に笑う教師ではない彼の表情。
弁論大会で全国まで勝ち進み、東京でこっそりと行ったデート。
教師としての苦悩に悩む彼の初めて見る弱さ。
他の生徒が起こしたトラブルに二人して奔走したこともある。
そんな日々が終わりを告げたのだって、突然だ。
溌溂とした笑顔で楽し気に―――彼は左手の薬指の輝きを見せる。
“誰よりも最初に愛弟子のお前に伝えたかった!”なんて無邪気に、嬉し気に語る彼の笑顔に心の全てが凍って、人生二度目の足元が崩れる感覚を味わった。重ねた日々を思い、分かち合った感情を振り返り、積もった想いの重量に世界が崩れる感覚を覚えつつも――――私は彼を祝福した。
思えば、考えてしかるべきことだった。
東京生まれの彼がなぜ大阪に来たのか。
地方ならともかく倍率だって厳しく、コネだってない中で風習も違うこの土地を選んで赴任してきたのか。
愛した大学の後輩の生まれた土地で、彼女に寄り添うために――彼は人生をかけてここに来たのだ。そんな彼は晴れて大学を卒業した後輩とめでたく結ばれたらしい。
めでたい事だ。めでたい事だ。めでたくてめでたくて、いっそこの窓から彼と一緒に飛んでやりたいくらいに――――。
それでも、ポケットに忍ばせた安っぽいペアリングを握り潰すくらいに握りしめて笑顔で彼を祝福した。
重ねた日々と輝く思い出が惜しくて―――綺麗な終わりを迎えることを選んだ。
ありきたりなお涙頂戴のラブストーリー。
でも、彼の見た事もないくらいの蕩けた笑顔と―――嬉し気に愚痴をこぼすその姿を結局自分は見せてもらえなかったという敗北感の方を認めるには、あまりに惨めすぎた。
そんな中学3年終わりの春の物語。
残ったのは下心だけで作られた“アナウンサー”という夢だけ。
その基盤となった下心は無くなっても、いや、無くなったからこそそれくらいしかすがるものがなくて一層に執着した。それ以外のことなんて―――考えたくはなかった。
卒業し、笑顔で見送る彼に―――自分が逃した魚の大きさを知らせてやりたかった、というのも大きい。
高校での成績はトップ。人間関係も良好。弁論大会に参加し優勝。絵にかいたような優等生を演じて、関西の最高学府に入った。そこから先の進路はやっぱり“アナウンサー”しか思いつかずに惰性で美貌を磨けばミスコンを総なめできる程度の素質はあったらしい。順調にキャリアを積み上げ、テレビ局のアナウンサーにだってなれた。人気だって、実力だって上々。“朝の顔”と言われるくらいにだってなった。
ただ、それだけのつまらない―――いまだに私を包む初恋の残り香の物語。
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「……そこからは、まあ見返してやるために仕事人間になってそのことを忘れるくらい働いて―――ここに流れ着いたって訳。面白くもない話でしょう?」
「初恋が重すぎる…」
「大人になれば、人生ってのはもうちょっと複雑になるものよ」
「………自分らがひねくれ過ぎてるだけのような気もしますがね」
そんな回想を軽くウインクと共に閉めると彼がげんなりとしたように呟くので思わず笑ってしまう。どの口がソレを言うのか、と。
暗く想い話を茶化すように呟いた彼の苦笑に隠された感情。
何かに縋るような切実さと、同様の虚しさを味わった人間だけが浮かべられる共感。
そんな感情の微かな波は漣のように、紫煙のように巧妙に隠されるが――追いかけはしない。それはきっと踏み込むことを望まれていない境界で、その先を踏み越えていくべき人は自分ではない事と感じるから。
自分だってこの面倒な感情を片付けることなんて望んではいない。
誰が見たって重くて、不格好で、取っ散らかったこの感情は、今の自分の座標を確かに示す道しるべであるのだから。誰にだって、否定させはしない。
同じように、目の前の彼が紫煙に混ぜて吐き出した思いと窓の外にある月に向ける朧気な感情は彼自身が、或いは、それを踏み越えて丸ごと包む人が現れること以外では救われることはないだろう。
「ま、いっぱい悩みなさい。一生涯でも解決できないかもしれない葛藤があることはきっと幸せな事よ。―――それだけ真剣で、簡単に切り捨てられない大切な想いを抱いた証明なんだもの」
「……うす」
自分の心にある想いに決着をつけられていない先輩として選ぶって紡いだ言葉。ちょっとの嘘と自分自身に零したエール。穴だらけのその言葉にいつもとは違い素直に頷いて酒精を煽る彼の可愛らしさに思わず頬が緩む。
誰よりもひねくれて斜に構えているくせに、誰よりも呆れるくらいに何かを諦めきれていない可愛い子の男の子。
その芯の部分を覗けただけでも古傷を擽った価値はあるだろう。
彼の未来にどんな結末が待っているのか。
どんな未来でも、誰かがその隣で可憐な笑顔を彼と共に咲かせてくれる事を祈って私は短くなった紫煙を優しくもみ消した。
卒業以来、ご無沙汰な元恩師に帰ったら休暇でも取って会いに行こうか。
可愛い奥さんとわんぱくな子供に囲まれてクタクタという噂の幸せそうな彼の姿はきっと長らく悩んだ自分の選択間違いではない事を証明してくれるだろうから。
きっと、そうして私も前へ進めるのだろう。
長らく錆びついた足が、軋んで踏み出した音が聞こえた。
_(:3」∠)_また来てしゅーこ!!