その光景に、私の脳はただただ呆然とすることしかできませんでした。
それは今なお変わらずに実感を持たないまま目の前の光景を映します。
過激で、悪気しかない入場の演出からしばし。あっけにとられる会場の空気にちょっとだけ高揚しつつ仲間同士で苦笑を浮かべながらパーティーは始まりを迎えました。もはや慣れてしまった刺さるような他部署の視線を受けつつも、和やかに会話と料理に舌鼓を打って茜さん達との会話をしていると視線を感じて周囲を見回しました。
その先にいたのは華やかな場にうんざりしたかのような見慣れた瞳が壁際にぽつり。
先ほどの控室の一件から思わず赤くなった顔を伏せそうになりましたが、何とかソレを堪えて手を振れば、そっけなく返ってくる返答。そのらしさと、自分を見てくれていたのが勘違いでないという実感に思わず鼓動が高まり―――彼の隣にいる狐目の女性を見て“チクリ”とした痛みによって複雑な気分になります。
以前なら“仲が良いな”と他人事のように思うだけの光景。
でも今は―――――“ズルい”という身勝手な感情が泡立つ。
子供みたいな独占欲と、自然に傍に寄り添っている姿に対する羨望と嫉妬。
それを自覚した瞬間に枯れていると思っていた自分も存外に“女”としての意地があったのだという事実に苦笑が湧き上がる。ただ、困ったことにソレに大人びた対応ができる程に手慣れている訳ではないので、今日くらいは素直に欲望に身を任せることにして、茜さん達に一言告げて彼へと足を向けます。
突然の事に驚いたように目を丸くした彼女達も私の歩き出した方向を見て苦笑いで送り出してくれますが―――冷やかしの声まで投げつけてくるのはちょっと慎みがないのではないかと思います。
後ろから掛けられるその声に頬を染めつつも、浮き立つ気分を押さえて彼の元へ向かいます。しかし、その複雑な感情はすぐに終息を迎えました。
彼の近づく私に困ったように顰めた眉が驚きに染まって見開かれました。
その次の瞬間には猛然とこちらへと駆け寄ってきます。
進路にいる人々を突き飛ばして、必死の形相でこちらに駆けてくる彼に思わず私も足を止めてしまいます。
そんな息と足を止めた瞬間に、見た事もないくらいに怖い顔を浮かべた彼が荒々しく私の手を掴んで床へと引き倒すかのような強い力で放り投げられます。
強かに体を打ち、思わず漏れた悲鳴。
ただ、そんな私の混乱と困惑は―――発せられた絶叫と、何かがぶつかったような鈍い衝突音。そして、遅れてやってきたどよめきによってすぐさま打ち消されました。
声に引かれて目に移ったのは
自分に突如駆け寄ってきた想い人と
あの日、見た―――――悪夢でした。
顔も、髪の色も、全てが変わっていても――――その裂けるように深く引きのばされた醜悪な悪意に染まった笑みと、狂気に満ちた瞳。それは、あの日。私に人の悪意の恐ろしさを心の奥底まで強烈に刻んだあの女であるとその傷跡が確信をもって告げてきます。
そんな悪夢が―――大切な彼に抑え込まれるかのように息を荒げこちらを睨んでいる。
それだけで―――また彼に救われたのだと、状況も分からぬまま安堵の息を漏らしました。
「何しとんねん、ごらぁ!」
息を漏らした瞬間に心の蔵を震わせるような低い怒鳴り声と、鈍い打撲音。
恐怖に一瞬だけ竦んだ私の横を颯爽と銀糸の髪が駆け抜けてすべての重量を拳に乗せるかのような一撃で女を吹き飛ばしました。
紙切れのように吹き飛ばされた女はすぐさま周囲にいた人達に取り押さえられ見えなくなってしまい、それに追撃を掛けようとしていた彼女は咄嗟に断念してすぐさま後ろに振り返って彼の元へと駆け戻った。
「おにーさん!! 大丈夫!!?」
そこで、今まで呆然としていた意識が引き戻されて――― 一気に血の気が引いた。
そう、だ。自分は何をぼんやりしていたのか。
自分が襲われ、彼がかばってくれたのならその傷を彼が負ったという思考になぜすぐに行きつかなかった。しかし、そんな悔恨に浸っている暇すら惜しんですぐさま立ち上がり彼の元へ急ぐ。
「………っべー。さすがに、死ぬかと思ったわ。っべーわ。まじ、べー」
そんな私たちの動きを制するかのように、金属が床を叩く無機質な音と軽薄な声が響いた。
無造作に投げ出された金属を見れば、それは人を殺めるには十分な強固さを含んだ冷たいナイフで―――ソレを持っていたであろう比企谷さんは顔じゅうに脂汗を滴らせて真っ青な顔でソレが刺さったであろうと思われる部分のスーツを摘んでおどける様に、軽口を叩いていました。
「ほんと、パーティーでまでこんな目に合うとかツイテないにも程があるでしょ……まぁ、無事に誰も怪我無く済んだのはホントに、良かった、ってことでいいか――なぁ、周子?」
「―――――っ。…ほんま、冷や冷やさせんといて。まぁ、おにーさんのファインプレーでみんな無事に済んだのは良かったわ。常務~、ウチも活躍したから特別報酬よろしゅーねー?」
一瞬だけ目を見張った彼女が、彼の軽口に合わせるかのように大声で上座にいるであろう常務に呼びかけ、存外にその返答は雑踏をかき分けて駆けつけた本人からすぐさま返されることになった。
「――――あぁ、お手柄だ二人とも。よく凶行を防いだ。 下手人の対応はこちらでしておくから少し、休んでくるといい。破れたスーツと皺になったドレスでパーティーを続けるわけにもいかんだろう」
「お言葉に甘えてそうさせて貰いますよ」
「ほんじゃ、ちょーっとお色直しといこーか」
流れる様に交わされる会話。そのスピードと勢いに乗るかのように周子さんは比企谷さんの肩をくみ、会場を後にしていきます。周りの誰もがその光景と、目の前で起きた出来事に呆然とすることしかできずにいて―――私も、そのうちの一人であった事に気が付いて我に返りました。
あんな危険な状況から救って貰ったのに何をぼんやりとこんな所でたたずんでいるのでしょう、私は。
そう思って、慌てて彼らの後を追おうとし―――その手を引き止められました。
扉から出ていく彼らを尻目に、大きく硬いその感触に少しだけ苛立ちを込めて睨むように視線を向ければ―――偉丈夫のプロデューサー“武内さん”が普段から厳めしい顔立ちを更に険しくさせて私を引き止めています。
「……鷺沢さん、今は、その、追いかけない方がよいかと」
「―――え? あ、すみません。確かに、あんなことがあったばかりで一人になるのは不用意だと思うのですが……今は、彼の傍にいたいので」
「………今は、認められません」
「何を――――」
一瞬、何を言われたのか分からず困惑しましたが、狙われたばかりの人間がすぐさま単独行動をする危険性に思い当りました。ただ、それでも今はすぐに彼を追いかけてお礼を述べなければならないし、少しでも離れることが“怖い”と思う。ソレが甘えだとは知りつつも再び再開した歩みを硬質な声と腕が遮りました。
そのことに少しだけ感情的になってプロデューサーの顔を鋭く見やれば――青い顔をして唇を破けんばかりに噛みしめている表情が映りました。少なくとも、この不祥事やスキャンダルを気にしてこんな表情を浮かべる方ではない事を知っています。それに、こういう時は私たちが大切にしようとしている物を優先させてくれる人だとも。
だとすれば―――なぜ。
そんな疑問に、ジワリと冷や汗が湧き出て いやな 考えが脳裏をよぎります。
目端で、誰の注意も引かないような自然さでちひろさんが彼らの出ていった扉に消えていくのが見え―――反射的に掴まれた手を振りほどいてその後を追います。後ろから呼び止められる声と、驚きに目を見開く同僚を無視して全力でドレスを振り乱しながら走る。
足を打ち付けるたび挫きそうになるヒールを疎ましく思いつつも――疾く、疾く、彼の元へと駆けていきます。
鈍重で質素な扉。
思えば、おかしいことだらけです。
なぜ、入場した扉でなくスタッフ用通路から彼らは出ていったのか。
なんで、あんなに周囲に聞かせる様な声で会話をしたのか。
そもそも、あんな勢いで飛び込んできた人間が持つ刃物を―――彼はどうやって無傷で受け止められたのか。
おかしい。おかしい。おかしい。おかしい。
なんでもないのなら、本当に“全員”が無事だったなら―――なんで、プロデューサーやちひろさんはこんなに焦っているのか。
その答えは無情にもすぐにもたらされました。
必死に追いかけた“何かが”滴り落ちた通路の先で
血まみれのスーツに身を包み、横たわる彼によって。
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真っ白になった頭で、震える手足で―――それでも、飛びつくように彼の傍に飛びつきます。
「ひ、比企谷さん、 あ、うそ、 そんなだって、誰もけがしなかったって。 い、嫌です。なんで、 なんでこんな ち、でて。 あ、 わた―――「しっかりしぃ、阿保っ!!」
荒い息で、真っ青な顔で呻く彼に恐慌状態のままで喚く私の頬が凛とした声と共に思い切り張られ、胸元を掴み上げられる。その無理やり引き寄せられた先には瞳に大粒の涙をいくつも零しつつも、燃える様な怒りとやりきれなさを含んだ周子さんの瞳がたたきつける様に向けられます。
「この阿呆はアンタのために体張って! 私たち全員を守るために命かけて道化を通したんや!! やったら、守られたあたし達がオタついてるわけにはいかないんだよっ!!」
その言葉に、強さに―――覚悟に、圧倒されて。
納得した。
だから、この人は―――― 一番最初に、この子の名を呼んだのだと。
湧き上がる激情と、恐慌を抑え込んで。血を吐くような思いで自分の望みを察してくれる彼女だからこそだったのだ。
「―――何を、すればこの人を助けられますか?」
「ちひろさんが、いま人を呼びに行ってくれた。私がお腹を押さえてるから、声かけ続けてあげて――――それは、文香さんにしかできない事だよ」
湧き上がる無力感と、絶望。そして、こんな時でも嫉妬と悲しみに塗れた自分の醜さは驚く程に私の心に平静を齎した。―――それでも、いいと。そう思えたから。
一番でなくても、彼を本当に分かってあげられるのが自分でなくていいと思えたから。
彼が助かるのならば、そんな事はどうでもいい。
だから、いまだに空回って役に立たない頭で素直に教えを乞う。
そんな私を―――さっきよりもずっと悲しそうに微笑んだ彼女がそう呟く。
わからない。 こんなに自分よりも近しい彼女に そう言わせてしまうのはなぜなのか わからない。でも―――――その役目を奪われなかった事にほっとする自分は、きっと本当に死んだ方がいい。
密かに忍ばせていたハンカチを引き出して患部に当てる。
純白に、小さなスズランが刺繍された物。
あの買い物の日に、彼がお礼だといって渡してくれたプレゼント。
全力で遠慮する私に苦笑しつつも半ば無理やり渡してくれた宝物。
その夕日に柔らかく映った顔は真っ青で苦し気で、純白のハンカチはあっという間に血によって染まってゆく。
その事に泣きそうになるのを必死に抑えて彼の頬に手を当て語り掛けます。
「比企谷さん、起きてください。こんな所で、寝たら 駄目です」
「………あぁ、畜生。 なにが“一生もんのスーツ”だ…。 はんにち、持たなかったじゃねぇか」
「今度は、もっと丈夫なのを 買いに行きましょう? どんなのがいいですか? 次は私のも選んでください。 だから、起きててください。 駄目です。 もうちょっと 頑張りましょう」
「滅茶苦茶、いってぇ。 ばかか くそぅ あの女、 人んちのに なにしやがる」
「―――っ。ええ、本当に最悪です。 でも、今はもっと楽しいお話をしましょう。 そうです、叔父が今度、新作を書くそうです。 ファンだったでしょう? こっそりお願いして原稿を一緒に読みましょう。 比企谷さん、駄目です。 寝ないで。 お願いします。 お話を、 起きてて!! お願いですからっ!!」
「……聞いてる。聞いてるから―――さみぃ」
「比企谷さんっ!! 駄目です!! 目を、私の眼を見てください!! 駄目ですっ!! お願いですっ!! あとちょっとでお医者様も来ますから!! 」
朦朧と、混濁した意識でほとんど独り言のように呟く言葉。
必死に彼の意識を繋ぎとめるために語り続けるうちに知れず、声は絶叫になってゆく。それでも、どんどんと小さく、淡くなってゆく彼の意識を繋ぎとめるために叫び続けて――――私の声が枯れ、周子さんの顔が蒼白になった頃にようやくドタドタと、彼を運ぶ担架と救急隊員がやってきた。
押しのけられる様に寄せられる寸前に伸ばした手に伝わる彼の肌は、ぞっとするくらい――――――冷たかった。