暗黒街の法王   作:月島しいる

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04話

 はじめて人を殺した時の記憶は、既に薄れつつあった。

 誰を殺したのかも正直よく覚えていなかった。

 記憶にあるのは、鮮血を全身に浴びた師匠の姿だった。

 彼女はまだ幼かった僕を無表情に見下ろしていた。

「いま、お前は人の命を奪った」

 赤い血が、僕の手を汚していた。

 ナイフから血が滴り落ちていた。

「生きるために奪ったんだ。鹿を狩るのと変わらない。人を殺した金で鹿肉を買えば同じことだ」

 彼女は懐から銀貨を五枚出して、僕に押し付けた。

 手にした銀貨が、血で濡れていく。

 彼女は歪んだ笑みを浮かべると、隣にいたレイに視線を移した。

「レイ。お前は稀有な魔術を有している。なのに何故それを振るわない?」

 レイの手は、僕のように汚れていない。

 僕のように赤く染まってはいなかった。

「ルイは躊躇しなかった。なのに何故、お前は影から飛び出さなかった?」

 レイは答えない。

 俯いたまま、身体を震わせていた。

「答えられないほど難しい質問だったか?」

 師匠がレイの髪を鷲掴みにし、強引に顔を覗き見る。

 レイの口から苦悶の息が漏れた。

「質問を変えよう」

 師匠の声が、一段と低くなる。

 危険な兆候だった。

「一つ。食べるためにカエルを殺すことは悪か?」

「……ちがい、ます」

 師匠が大きく頷く。

「二つ。カエルが痛みを覚えないように岩に頭を打ち付けて、気絶させてから皮を剥ぐのは悪か?」

「……違います」

 レイの目に怯えが走るのが見えた。

「三つ。皮を剥いだカエルに塩を撒いた時、死体の筋肉が苦しそうに何度も痙攣する。死体に味付けするのは悪か?」

「……違います」

 死体は苦痛を覚えない。

 なのに、レイの瞳には迷いが浮かんでいた。

「四つ。自分が生きるため、他人を苦痛なく殺すのは悪か?」

 レイは、答えなかった。

 師匠が声を荒げる。

「カエルの捌くのは悪か。鹿を狩るのは悪か。人を殺して銀貨を得るのは悪か。答えるんだ、レイッ!」

 レイは答えない。

 髪を鷲掴みにされたまま、師匠を睨みつけるように涙を浮かべていた。

「五つ」

 師匠が静かに言う。

「悪を殺すのは悪か?」

 静寂が落ちた。

 僕たちの息遣いだけが、そこにあった。

 レイの視線は、師匠を射るように真っ直ぐと上を向いていた。

 師匠が嗤う。

「いつか、私を殺してみるがいい。それはきっと、カエルを捌くのと変わらないだろう」

 そして、と師匠は言葉を続けた。

「それはお前たちも変わらない。悪を殺すのは悪ではない。いつかお前たちを殺す者が現れるだろう。精々抗うがいい」

 師匠はレイを開放すると、すぐに背中を向けた。

 レイは力なく床にへたりこんで、去っていく師匠の背中を睨みつけていた。

 僕は手の中で赤く染まった銀貨をじっと見つめた後、レイに向かってそっと足を進めた。

 そして、銀貨二枚を彼女の前に落とす。

 レイが驚いたように僕を見上げた。

「大丈夫だから。次も僕の影から出る必要はないよ」

 残った銀貨三枚あれば、僕とイーラで十分な食事ができる。

「殺しは、僕一人で出来るから」

 僕は、これから大勢の人を殺していく。

 お金が必要だった。

 こんな銀貨なんてゴミみたいなほどの大金が必要だった。

 大金を稼げる大物を殺していかないといけなかった。

 だから、レイが手を汚す必要なんてない。

「レイは影から見ているだけで大丈夫だから」

 レイは床に転がった銀貨を拾い上げて、嗚咽をあげていた。

 僕は血に濡れた手で、彼女の頭を優しく撫でた。

 それから目元の涙をそっと拭う。

 彼女は恥ずかしそうに顔を背けて、それから隠れるように僕の影に溶けていった。

「大丈夫だから」

 繰り返すように呟いた声が、影の中に届いたかは定かではない。

 ただ、彼女は隠れるように僕の影の中でじっとしていた。

 

 

 

「大丈夫だから」

 レイの柔らかい声が聞こえた。

 僕の目の前には、レイと並ぶようにルークスの生首があった。

「ルイ。痛かったんだ。死ぬのは一瞬だった。それでも痛かったんだ」

 生首が嘆きの声をあげる。

 見知ったルークスの顔が血に濡れていく。

 疲れの滲んだ白髪が赤く染まっていった。

「……ルイ。一体何を見ている?」

 彼女は僕の視線の先を辿って、それから覗き込むように僕の目を見た。

 視界が彼女の顔で遮られ、ルークスの生首が見えなくなる。

「なにも」

「ルイ。大丈夫だ」

 彼女は言い聞かせるように、何度も同じ言葉を繰り返した。

 それから温かい体温が、僕を包み込んだ。

 小柄なレイの身体が、僕に絡みついていた。

「ボクは君の影だ」

 レイの低く、落ち着いた声が脳髄に溶けていく。

「君が手を汚す必要はない。ボクに任せてくれればいい」

 彼女の肩越しに見える生首をぼんやりと見つめながら、ふと師匠の言葉を思い出す。

「レイ、師匠の言葉覚えてるかな」

「大体は覚えているよ」

 レイが苦々しく言う。

「師匠はこう言ったよね。悪を殺すのは悪ではない。いつかお前たちを殺す者が現れるだろう。精々抗うがいいって」

「ああ」

 肺腑の中から、冷たい息を吐き出す。

「あれは――」

 ノックの音が木霊した。

 レイは抱擁を解くと、すぐに影の中に溶けていった。

 扉が開く。

「ルイ聖猊下、第五衛兵団の衛兵長がお会いしたいと」

 現れたのは神殿騎士のクーミリアだった。

「わかりました。すぐに向かいます」

 頷き、身支度を始める。

 それから思った。

 いつか僕を殺すであろう者は、誰なのだろう。

 法王の座を巡って争う支配の御子、フランツィスカだろうか。

 それとも信仰に厚い神殿騎士のクーミリアだろうか。

 あるいは、正義の執行者である衛兵たちだろうか。

 いずれにせよ、碌な死に方をしないに違いない。

 ふと振り返ると、亡者たちが窓から僕を見ていた。

 目を閉じて、大きく呼吸を繰り返す。

 それからゆっくりと瞼を開けると、もう死者の姿はどこにもなかった。

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