はじめて人を殺した時の記憶は、既に薄れつつあった。
誰を殺したのかも正直よく覚えていなかった。
記憶にあるのは、鮮血を全身に浴びた師匠の姿だった。
彼女はまだ幼かった僕を無表情に見下ろしていた。
「いま、お前は人の命を奪った」
赤い血が、僕の手を汚していた。
ナイフから血が滴り落ちていた。
「生きるために奪ったんだ。鹿を狩るのと変わらない。人を殺した金で鹿肉を買えば同じことだ」
彼女は懐から銀貨を五枚出して、僕に押し付けた。
手にした銀貨が、血で濡れていく。
彼女は歪んだ笑みを浮かべると、隣にいたレイに視線を移した。
「レイ。お前は稀有な魔術を有している。なのに何故それを振るわない?」
レイの手は、僕のように汚れていない。
僕のように赤く染まってはいなかった。
「ルイは躊躇しなかった。なのに何故、お前は影から飛び出さなかった?」
レイは答えない。
俯いたまま、身体を震わせていた。
「答えられないほど難しい質問だったか?」
師匠がレイの髪を鷲掴みにし、強引に顔を覗き見る。
レイの口から苦悶の息が漏れた。
「質問を変えよう」
師匠の声が、一段と低くなる。
危険な兆候だった。
「一つ。食べるためにカエルを殺すことは悪か?」
「……ちがい、ます」
師匠が大きく頷く。
「二つ。カエルが痛みを覚えないように岩に頭を打ち付けて、気絶させてから皮を剥ぐのは悪か?」
「……違います」
レイの目に怯えが走るのが見えた。
「三つ。皮を剥いだカエルに塩を撒いた時、死体の筋肉が苦しそうに何度も痙攣する。死体に味付けするのは悪か?」
「……違います」
死体は苦痛を覚えない。
なのに、レイの瞳には迷いが浮かんでいた。
「四つ。自分が生きるため、他人を苦痛なく殺すのは悪か?」
レイは、答えなかった。
師匠が声を荒げる。
「カエルの捌くのは悪か。鹿を狩るのは悪か。人を殺して銀貨を得るのは悪か。答えるんだ、レイッ!」
レイは答えない。
髪を鷲掴みにされたまま、師匠を睨みつけるように涙を浮かべていた。
「五つ」
師匠が静かに言う。
「悪を殺すのは悪か?」
静寂が落ちた。
僕たちの息遣いだけが、そこにあった。
レイの視線は、師匠を射るように真っ直ぐと上を向いていた。
師匠が嗤う。
「いつか、私を殺してみるがいい。それはきっと、カエルを捌くのと変わらないだろう」
そして、と師匠は言葉を続けた。
「それはお前たちも変わらない。悪を殺すのは悪ではない。いつかお前たちを殺す者が現れるだろう。精々抗うがいい」
師匠はレイを開放すると、すぐに背中を向けた。
レイは力なく床にへたりこんで、去っていく師匠の背中を睨みつけていた。
僕は手の中で赤く染まった銀貨をじっと見つめた後、レイに向かってそっと足を進めた。
そして、銀貨二枚を彼女の前に落とす。
レイが驚いたように僕を見上げた。
「大丈夫だから。次も僕の影から出る必要はないよ」
残った銀貨三枚あれば、僕とイーラで十分な食事ができる。
「殺しは、僕一人で出来るから」
僕は、これから大勢の人を殺していく。
お金が必要だった。
こんな銀貨なんてゴミみたいなほどの大金が必要だった。
大金を稼げる大物を殺していかないといけなかった。
だから、レイが手を汚す必要なんてない。
「レイは影から見ているだけで大丈夫だから」
レイは床に転がった銀貨を拾い上げて、嗚咽をあげていた。
僕は血に濡れた手で、彼女の頭を優しく撫でた。
それから目元の涙をそっと拭う。
彼女は恥ずかしそうに顔を背けて、それから隠れるように僕の影に溶けていった。
「大丈夫だから」
繰り返すように呟いた声が、影の中に届いたかは定かではない。
ただ、彼女は隠れるように僕の影の中でじっとしていた。
「大丈夫だから」
レイの柔らかい声が聞こえた。
僕の目の前には、レイと並ぶようにルークスの生首があった。
「ルイ。痛かったんだ。死ぬのは一瞬だった。それでも痛かったんだ」
生首が嘆きの声をあげる。
見知ったルークスの顔が血に濡れていく。
疲れの滲んだ白髪が赤く染まっていった。
「……ルイ。一体何を見ている?」
彼女は僕の視線の先を辿って、それから覗き込むように僕の目を見た。
視界が彼女の顔で遮られ、ルークスの生首が見えなくなる。
「なにも」
「ルイ。大丈夫だ」
彼女は言い聞かせるように、何度も同じ言葉を繰り返した。
それから温かい体温が、僕を包み込んだ。
小柄なレイの身体が、僕に絡みついていた。
「ボクは君の影だ」
レイの低く、落ち着いた声が脳髄に溶けていく。
「君が手を汚す必要はない。ボクに任せてくれればいい」
彼女の肩越しに見える生首をぼんやりと見つめながら、ふと師匠の言葉を思い出す。
「レイ、師匠の言葉覚えてるかな」
「大体は覚えているよ」
レイが苦々しく言う。
「師匠はこう言ったよね。悪を殺すのは悪ではない。いつかお前たちを殺す者が現れるだろう。精々抗うがいいって」
「ああ」
肺腑の中から、冷たい息を吐き出す。
「あれは――」
ノックの音が木霊した。
レイは抱擁を解くと、すぐに影の中に溶けていった。
扉が開く。
「ルイ聖猊下、第五衛兵団の衛兵長がお会いしたいと」
現れたのは神殿騎士のクーミリアだった。
「わかりました。すぐに向かいます」
頷き、身支度を始める。
それから思った。
いつか僕を殺すであろう者は、誰なのだろう。
法王の座を巡って争う支配の御子、フランツィスカだろうか。
それとも信仰に厚い神殿騎士のクーミリアだろうか。
あるいは、正義の執行者である衛兵たちだろうか。
いずれにせよ、碌な死に方をしないに違いない。
ふと振り返ると、亡者たちが窓から僕を見ていた。
目を閉じて、大きく呼吸を繰り返す。
それからゆっくりと瞼を開けると、もう死者の姿はどこにもなかった。