……どうしてこうなった。
「ほら、動くんじゃないわよ」
「……すまん」
上から降ってくる声に、オレはむずがゆさを我慢する。
「あー、やっぱり溜まってる」
「そうか? 自覚はないんだが」
「嘘ついてどうするのよ。じゃあ、ジッとしてて。あたしに任せてね」
「わかった」
「大丈夫。すぐに気持ちよくしてあげるから」
彼女の垂れた髪から、ふわりと甘い香りがする。
思わず逃げようとしてしまうが、肩を抑えられたオレはおとなしく所定の位置に戻った。
恥ずかしさと気持ちよさが同居していたが、我慢するしかない。
今のオレに拒否権はないのだ。
「すごい。いっぱい出てくる」
「……次から自分でも処理するように気を付けるか」
「……別にあたしがしてあげてもいいけど?」
「いや、それは流石に」
「なに、文句でもあるの」
「……ありません」
「よろしい」
見ることができないが、きっと今、恵はいい笑顔をしているだろう。
龍園との一件以来、尻に敷かれている気がする。
オレが後ろめたさを感じているからなのか。恵が強気になったのか。
どっちにしろ、オレは大人しくしていた方がよさそうだ。
「じゃあ、再開するわよ。――耳かき」
カリコリと耳の中がきれいになっていく感覚がする。
ペリペリと剥がれていくのが心地よい。
目を閉じたら、ふと眠ってしまいそうだ。
……本来ならオレが恵に奉仕をしてやらないといけない立場なのにな。
今日は軽井沢恵の誕生日である。
以前に祝ってもらったし、普段から荒い仕事の頼みをしているからお礼に何か欲しいと聞いたら、とある雑誌に書かれている内容を実践させてほしいという何とも珍妙な内容だった。
もう平田とは別れている彼女なのだから――そもそも本当の恋人関係ではなかったが――こんなことをして意味があるのだろうか。
とはいえ、言及するのも憚られたので流されるままオレは膝の上に寝転んでいる。
「よいしょっ……と。はい、終わったわよ」
仕上げにローションで湿らせた綿棒で拭き取られ、耳掃除は終了した。
人生で初めて耳かきをしてもらったが、何とも言えない多幸感に包まれている。
耳元がすっきりすると、こんなに気分がクリアになるとは思わぬ発見だった。
「次は一か月後ね」
「……わかった」
さっき断ったら凄みをきかせていたし、受け入れよう。
オレたちの関係が誰にもバレないという前提があるが、恵が自分の価値を落とす真似をするわけがない。
互いに信頼を置ける程度には時間を重ねてきたはずだ。
「それで、この後はあるのか? 室内でできることに限られるが、済ませてしまおう」
「なーんか仕事でもしてるって感じで、さっさと終わらせたいように思えるんだけど?」
「そんなつもりはない。……けど、そうだな。恋人なんていたことがないから、いまいち要領がつかめていないっていうのが正直なところだ」
「……確かに恋人なんかできるわけないかもね」
そう言うと彼女はからかうような笑みを見せて、冬の出来事を掘り返す。
「女の子を役立つか否かでフる冷たい男だもんね、清隆は」
「……佐藤との件を突っ込むのはやめてくれ」
「それも辛いからとかじゃなくて、反論できないからでしょ」
「……わかってるじゃないか」
「清隆の考えそうなことなんて、すぐにわかるわよ。本性を知っていたらね」
どうやら恵との口論には勝てそうにないな。
両手を上げて、首を左右に振る。
「じゃあ、次はこれをするわよ」
気分を良くした恵は雑誌を突き出す。
折り目を付けた『デートで彼を喜ばせる五つの方法』の特集が組まれたページではなく、隣の『ハグで彼に癒してもらおう!』のページを指さしていた。
「……本気か?」
「ほ、本気よ! それに抱き着くのはあたしじゃなくて、清隆だから!」
「どっちにしろキツいのは変わらないだろ……」
「な、何よ。男に二言があるの?」
そういう問題じゃないんだが……こうなったら意地でも恵は引かないのも確実だ。
「……正面からは勘弁してくれ」
「……! わ、わかった!」
お互いに見つめあうこと数分。
やはり折れるのはオレで、胡坐をかくとポンポンと膝を叩く。
彼女はオレに背中を預けるように座ると、そのまま寄りかかってきた。
ふわりと漂う甘い香りにたじろぐが、なんとかこらえて手を腰に回す。
オレのとは比べ物にならない柔らかな感触に、手が勝手に動き出しそうになるのを我慢した。
「……これでいいか?」
「……もっとぎゅっとできない?」
「これ以上はオレもキツいのが本音だ」
「あたしも……少しやりすぎたかもって……。で、でも、後悔してるとかじゃないから」
オレの頑張りも無駄にならなくて何よりだ。
……いつまで、とか聞くのは野暮なんだろうな。
恵が満足するまで、こうしておくか。
こうやって人と触れ合う時間は、今までほとんどなかった。
生きていくうえで必要がなかったし、オレも欲していなかった。
……だが、こういうのも悪くない。
カチカチと秒針が動く音が大きく聞こえる。
お互いの心音まで届くのではないか。そんな静寂に身を任せて、恵と二人だけの時間を過ごしていく。
「……清隆にはさ」
「ああ」
「恋人なんかできないって言ったじゃない?」
「改めてひどい評価だ。これでも告白されているのにな」
「あんた側の問題だからでしょ。清隆の性格を知って、付き合える女の子ってなかなかいないと思うから」
「それは……妥当な評価、か」
「……でも、清隆にはあたしがいるから」
ぎゅっと腰に置いた手の上から、恵の小さな手が重ねられる。
つながった二人が離れないように、ぎゅっと強く。
「もしもの時は、あたしが清隆のそばにいてあげるから、そんなに心配しなくてもいいんじゃない?」
決して顔をこっちに覗かせるわけでもなく、恵はうつむいたままそう言った。
余裕のない、わずかに上ずった声。隠せていない耳の[[rb:紅葉 > こうよう]]。
恵はしっかりと自分の意思を持った女性だ。
軽はずみに、こんな発言をしたりはしない。
ならば、きっと本心が込められているのだろう。
そう確信していいほどに思い出を共にし、だからこそ、不誠実な言葉を返したくはなかった。
奇しくも佐藤に告白されたあの日。
オレはふと頭によぎらせた未来。
全てのしがらみが解けた後のオレと恵との関係は友人以上のものになっていて、オレはそれを悪くないと思えたのだ。
「……恵」
「なに?」
「Aクラスになったら、二人で外に遊びに行くか」
「……わかった。楽しみにしておくから」
相変わらず表情はわからなかったが、彼女の声は弾んで聞こえた。