軽井沢恵と過ごす日々   作:小早川 桂

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『壁ドン』

「なぁ、恵。壁ドンってなんだ?」

 

「……はぁ?」

 

 あたしの手から抜け落ちたスマホが鈍い音を出して、熱いアスファルトの上を二転三転する。

 

 足先にぶつかって止まったそれを拾うと、清隆は自販機にかざしてあたしが買おうとしていた清涼飲料水を購入した。

 

「これでよかったか?」

 

「え、あ、うん。ありがと……って、これ、あたしのポイントじゃん」

 

「一人で漫才とは、暑さで頭でもやられたか?」

 

「ちゃんと正常だけど」

 

「そうか。それで、壁ドンってなにか教えてくれないか?」

 

「さっきの言葉、そっくりそのまま返すわよ」

 

 さすがの完璧男でも、この照り付けるような太陽様には敵わないらしい。

 

 とりあえず、水が滴る冷えたペットボトルを額に当ててあげる。

 

「……これは新手のいやがらせか?」

 

「親切心。よっぽど参っているみたいだし」

 

「確かに心地はいいが、脳に問題はないぞ」

 

「嘘。あんたがわざわざ『壁ドンがなにか』なんて質問しないでしょ」

 

「いや、普通に知らないから教えてほしいんだが……」

 

 困った風に頭をガシガシとかく清隆。

 

 ……え? 本当に?

 

「……清隆って、なんでも知ってるくせに、世間知らずなのね」

 

「その勝ち誇った顔が少し腹立たしいな」

 

「えー、別に? そんな表情してないけど?」

 

 多分、今のあたしはとても誇らしげな顔をしているだろう。

 

 だって、あたしが清隆に有利な立場なんて珍しいし。

 

 恋愛経験なんて全くないけど、人づてに聞いた話や漫画なんかで、どんなものかはわかる。

 

 一時はブームになり、テレビでも取り上げられていたしね。

 

 だからこそ、俗世離れっぷりが際立つ。

 

 本当に謎の組織に育てられたエージェントだったりして。

 

 そんな妄想はさておき、あたしは清隆にどうしてそんなことが知りたいのか尋ねた。

 

 すると、彼はカバンの中から一冊の本を取り出す。

 

「博士から借りたライトノベルに出てきたんだが、あいにくシチュエーションが想像できなくてな」

 

「ライトノベル? なにそれ?」

 

「布教だとか言われて渡されたからオレも詳しくない。ただ小説ではある」

 

「だったら、どんなことをしたか書かれているんじゃないの?」

 

「いや、『オレは彼女に壁ドンした』としか描写されていなかった」

 

「それはそれですごいわね、その本……」

 

「愛里にも聞いたんだが、答えが返ってこなくてな」

 

「あー……」

 

 あの子なら照れて、そのまま黙っちゃいそうだしね。

 

 ていうか、佐倉さんとちゃっかり親交を深めていたんだ。

 

 ……でも、今はいいや。

 

 あの子が踏み込めるようになるには、まだまだ勇気も時間も足りていないってわかった。

 

 それに……思いもよらないチャンスがあたしにもめぐってきたわけだし。

 

「……いいわ。仕方ないから教えてあげる。てっとり早く実演でいい?」

 

「ああ、かまわないぞ」

 

「じゃあ、こっち来て」

 

 あたしは大きな木陰で覆われた壁に寄ると、清隆も後についてくる。

 

 今更だけど……だ、大胆かな?

 

 いやいや、そんなことはない!

 

 清隆の周りには、どんどん女の子が増えている。

 

 それもかわいい子ばかり。

 

 清隆を好きだと自覚した以上、アピールを緩める選択肢はない。

 

 ない……けど……。

 

 チラと清隆を見やる。

 

「それにしても熱いな……」

 

 首を伝って垂れる汗のせいで、いつもよりも色っぽく映る。

 

 腕まくりをしているので、屈強な腕が覗けているのも男らしさを感じさせた。

 

 ……やばい、やばい、やばい。

 

 熱さで思考回路がおかしくなっているのは、あたしの方じゃん。

 

「……で、オレはなにをすればいいんだ?」

 

「……ちょっとこっちに寄ってきて」

 

 暴走した本能は止まらない。

 

 理性を振り切ったあたしは、もうブレーキを踏まずに行けるところまで走り切ることにした。

 

「いい? あたしが壁に追いやられるから、そしたら清隆が……」

 

「オレが……?」

 

「き、清隆が……」

 

 あぁー、ムリムリ!

 

 さっきまでは覚悟を決めていたけど、いざ対面すると恥ずかしさでおかしくなる!

 

 だ、だって、こんな近くに清隆の顔があって、今からあたしに壁ドンをしようとしているって……普通に考えて意味が分からないでしょ!

 

 だいたい、わからなかったら自分で調べたらいい癖に、どうしてあたしがこんな実演を……って自分でこういう流れに持ち込んだんだけど…………あれ?

 

 ハッと浮かんだ疑問は、留まることなく口から漏れる。

 

「……ねぇ、清隆」

 

「なんだ?」

 

「どうして、あたしに聞いたの? それこそネットでも調べられるんじゃ……」

 

 そう言って、おそるおそる顔を上げる。

 

 彼からの返答はない。

 

 ただ、清隆はいつもより真剣な面持ちをしていた。

 

「……実はな、さっきまでの件はぜんぶ嘘だ」

 

「……えっ? それって、どういう」

 

「こういうことだ」

 

 腕が伸びて、顔の隣をドンと力強く突いた。

 

 彼が知りたがっていた壁ドンはあっけなく完成する。

 

 というか、顔が近い近い近い!!

 

 ダ、ダメだって、こんなの死んじゃうから! あたしが!

 

「き、き、清隆!?」

 

「この前、橋本にもされただろ?」

 

「そ、そうだけど……」

 

 清隆にバレンタインチョコを渡した日。

 

 あたしはAクラスの橋本とかいう男に絡まれたのだ。

 

 だけど、あの時は清隆もいたし、あたしも変な対応はしていないはずだ。

 

 それとも何か清隆には失敗したと思われたのだろうか。

 

 わからないけど……この状況はあたしの心臓がもたない。

 

 さっきからどんどん鼓動が加速して、今にも破裂してしまいそう。

 

「あの時、少しだけ感じたことがある」

 

「な、なにが……?」

 

「恵が他の奴にこんなことをされるのが嫌だと思った」

 

「それって……嫉妬してくれたわけ?」

 

「嫉妬……そうだな。ああ、オレは橋本に嫉妬したんだ」

 

 ということは……清隆はあたしをす、すすすす好きってことに……!?

 

「き、清隆っ」

 

「なんだ?」

 

「ほっぺたつねってみて。夢から覚めるから」

 

「残念ながら、現実だ」

 

 そう言って清隆は空いている手であたしの髪に触れ、沿うように下ろしていき、熱を帯びた頬に添える。

 

「いいか、恵。これが最後のチャンスだ」

 

「どういうことよ」

 

 なけなしの理性を振り絞って、あたしは意味を問う。

 

「今、オレを拒絶すればお前は自由になれる。だが、受け入れてしまえば永遠にオレのものだ」

 

「……意外。清隆って独占欲強すぎでしょ」

 

「自分でも驚いている。だが、こんな変化を嫌っていないオレがいるのも事実だ」

 

「じゃあ、聞くけどさ。……清隆はあたしをどうしたいの?」

 

「言ったばかりなんだけどな」

 

「いいから早く」

 

「死ぬまで、恵にはオレの隣にいてほしい」

 

 あまりにも愚直な欲求はあたしの心を見事に射抜いていく。

 

 そこまで言われて、素直にならないほどあたしはバカじゃない。

 

 何よりもさっきからあたしを見つめる瞳は真剣そのものだった。

 

「す、好きにすればいいじゃん……」

 

 清隆に選択肢を譲って、あたしは目をつむる。

 

 それが何を意味するのか、いくら清隆でもわかるはず。

 

「……恵」

 

 耳元で名前をささやかれる。

 

 それだけであたしの幸福度はグンと上がり、いつでも受け入れる準備が出来上がった。

 

 つ、ついにファーストキス卒業……!

 

「…………?」

 

 しかし、一向に口づけされる気配はない。

 

 近くにあった清隆の暖かさも離れている気がした。

 

 おそるおそる目を開く。

 

「戻るぞ、恵」

 

 用は済ませたと言わんばかりの態度で、彼はあたしを見ていた。

 

 こ、こいつ……!

 

「あんたねぇ……! あそこまで期待させておいて何もしないとか本当に男子!?」

 

「いや、あれを見てみろ」

 

「はぁ!?」

 

 清隆はさっき飲み物を買った自販機を指さす。

 

 そこには見知らぬ女子生徒たちが会話に花を咲かせながら、暑さを過ごすためのドリンクを買っていた。

 

 今は清隆であたしの顔は隠れているけど、もしキスでもしていたら瞬く間に噂は広がっていただろう。

 

「タイミングが悪かったってやつだ」

 

「……恨む」

 

「神様をな。もういなくなったみたいだし、オレたちも帰るか」

 

「……今ならバレないんじゃないの?」

 

「一度でも危険があった場所でするつもりはない」

 

 取りつく島もない。

 

 清隆はもう切り替えたようだ。

 

 モヤモヤしたまま、あたしも後をついていく。

 

「不服そうだな」

 

「当たり前でしょ。あーあ。やな感じ」

 

「まるで、してほしかったみたいな言い草だ」

 

「うっ……それは、その……うん」

 

 指摘された時には、すでに遅し。

 

 誤魔化しもせず、素直に認めた。

 

 そんなあたしに驚いたのか、清隆はわずかに見開くと、ポンとあたしの頭に手を置いた。

 

「……恵が嫌がらない限りは機会はあるだろ。これから一緒にいるのなら、いくらでも」

 

 清隆らしくない慰めに、顔がにやける。

 

 自覚がある清隆の歩く速度はどんどん速くなっていった。

 

 彼がどんな気持ちなのか。

 

 バカなあたしにだって、照れているのはまるわかりだった。

 

 だって、赤くなった耳は隠せていないもん。

 

 めいっぱいからかってやろう。

 

 あたしは清隆の隣に並んで、声をかける。

 

「じゃあ、今夜、清隆の部屋に遊びに行くから」

 

 今度こそ、清隆の顔は真っ赤になっていた。

 

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