血飛沫が顔にかかってやっと、あの化物が倒され、確実に死んだのだと体が理解する。途端、緊張がゆるんでその場で座り込んでしまう。いつもの灰色の塀や道、深緑の草木に生臭い深紅の塗料が広がっていく光景には、違和感しか覚えない。
「あ、ありがとう」先ほどまでの現実味のない出来事に、しかしまだ混乱していて、激しい息遣いの中でこれ以上の言葉が出ず、型にはまりきったような言葉になってしまう。呼吸が収まる気配はなく、さらに龍神はそのまま息苦しそうに胸を押さえて四つん這いのような格好になった。
「いえいえ、気にしないでください」対照的に彼女はというと、あたかもこれが日常茶飯事のことのように気にせずに、返り血をたくさん浴びながらも
ここまで歪な光景を、実際に見るなんて思ってもいなかったからか、感じるものは複雑極まりない。さっき殺されかけたことを加味すると、彼女に対しての危険視、感謝、自信の安心感が混ざって歪んで、よくわからなくなってくる。自分の感情をどこから対処するべきか、よくわからない、おかげで自分がいまどんな格好、どんな表情をしているかが、まるでわからない。
しかしだ、彼女が来なければ確実に死んでいた。それだけははっきりとわかる。彼女には感謝してもしきれないって、わかる。さっきの言葉だけじゃ、まるで何にも足りないってことも。
……感謝をちゃんと伝えることばかりを考える、が、気づけば感謝の念でなく、先に押し殺していた安堵を目から垂れ流していた。涙を流して、やっと気づく。
「うっ……うううっ……」声まで押し殺せなくなる。抑えようとしても、無理に声を出さないよう意地を張るほどかえってつらくなる。
「あ、あれ、どどど、どうしたんですか!?」慌てて天使が駆け寄ってくる。
しかし俺はそのまま崩れ、仰向けになって目を腕で隠した。あいつの方からは呻きの代わりに、荒く激しすぎる息遣いが聞こえてくるほどで、平静を保っているとはとても思えなかった。そして、自分も、呼吸が苦しくなっていく。
「う゛あ゛あ゛あ゛あ゛っ……」14歳の泣き声と、自分でも思えない声が出た。
「あわわ……ふ、ふたりとも落ち着いてください!だだだ、大丈夫ですからっ、はやく落ち着いて!!」
「て゛も゛お゛っ、さ゛っき゛………………
「だ、大丈夫です、とりあえずあいつは殺りましたから!」
「…………ほ゛ん゛と゛?」
「ホントですよ!」
「うううっ…………あ゛り゛か゛と゛ぉ゛っ……」
「…………」焦る彼女が一瞬フリーズ。少し頬が赤くなっていくのは見えた。
そして「…………どういたしまして!」天使は嬉しそうに、そういった。なんとなく、さっきと違い光がある瞳だった気がした。
……やっと、やっとしっかり伝えられた気がする。自己満足かもしれないけれど、これでいい。ただ、まだ気が収まることはなく、涙は止まることを知らないみたいだ。涼しく、優しく頬を撫でる風が吹き抜けるが、そこに鉄の香りが混じり、結局状況が変わることはなかった。
「……さて、ふたりとも、少し無理やり落ち着かせますね、ちょっと時間がなさそうなんで」この状況に見かねてか、手を軽く地面にかざす。
『
「ハッ、ハッ、ハッ、ハッ、ハッ………………ハァ、ハァ、ハァ…………ハァ……ハァ……ハァ……」どうやら、龍神の呼吸も落ち着いてきたみたいだ。汗だくのあいつは、そのまま一度、地面に仰向けになった。遅れて、顔から苦悶の表情が消えた。
「………わりぃな、何度も……」力なく伏して、そうつぶやく。その姿は、らしくない。すぐにあいつの周りの地面が色濃くなる。聞くまでもなく、やはりらしからぬ焦りが伝わってきた。
「いえいえ……ただ、本当にもう時間がないです。ちょっとでも安全に話ができる場所に移動しないと……………………っ!?」彼女が何かを察したように、ビクンとなる。
……すると突然だ、大きな爆発音。最初は遠くから、しかし同時多発的に起こっていき、爆風とともに俺たちがいる方へ迫ってきているのを察した。日常が壊れゆく音、
「そこから離れてください、はやくっ!!!!!!」急いで立ち上がろうとする、が、簡単に体が動かない。まるで休みの日、ソファーで半日ぐうたらした後のようで、動かす気がなかなか起きないというべき状態だった。
「あっ!!ま、魔法かけ過ぎたぁっ!!」バカヤロ――――――!逃げれなきゃ元も子もないじゃねぇかっ!
その言葉を聞くのを最後に、薄れゆく意識の中、俺は爆風に飲み込まれ、思いっきり吹き飛ばされる感覚を味わった…………………
「ううっ……」
目を覚ますと、目の前が真っ暗だった。これだと意識が戻った、というべきかもしれない。少し頭が痛い、そして体もだ。自分が今うつ伏せであること、そして、圧迫感を感じることに、やっと気づいた。動かそうとしても体が一ミリも動かない。
「よいしょ、っ」少し力を入れてみる。すると、ガラッ、と石のような何かが転がる音がする。それに体に少し余裕ができ、わずかに暗い光が差し込んだ。どうやらがれきの下敷きになっているらしく、しかしそこまで俺の上にたくさんあるわけでもなさそうなので、もう一度、今度は手を胸のあたりにちゃんと持ってきて、思いっきり力を入れる。
今度は大きな音とともにがれきをよけることができた。そして、そのまま立ち上がり、下をむいたまま埃や煤を払って顔を上げる。
……………すぐに、顔を上げたことを大きく後悔した。呆然と立ち尽くす気力もなく、崩れ落ちる。見なければよかった、これが現実、いやそんなわけがない、そう思いたくなるほどのものが目の前に広がっている。自分が死んだんじゃないかとまで思った、でも痛みまだ感じてるからそれはない。「うっ!?」回復した嗅覚で血なまぐささを感じ、むせかえりそうになる。嫌だ、気持ち悪い。体がこの現実に対して拒絶する。絶望、悲観、苦痛、嫌悪、これ以上見せないでくれ、希望のないこの世界を。拒絶してるはずの体は、皮肉なことに、これを見ることを強制してくる。やり場のない負の感情でできた巨大で冷たい鉄球が、とうとう俺の中の『希望』という言葉を滅茶苦茶に破壊した。
ああ、ああ、ああ!
「うわあああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!!」
嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼。
泣き叫ぶ(でも泣いているかさえわからない)
嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼。
絶望する(でも絶望がでかすぎて、何が何だかわからない)
嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼。
誰がこの光景に耐えられる?(いや、耐えられるはずがあるもんか!?)
…………街は瓦礫と化し、炎が燃え盛り、黒煙が空を覆い、死体、肉片、骨が至る所にあり、地面は殆ど血で赤く染められ、空は煙が炎の赤を乱反射させて不気味な輝きを放っている。こんな光景、今すぐにでも夢としてしまいたい。しかし網膜に刺青をされたように残るこの光景は、ちゃんと現実なのだ。「うっ、おえぇぇっ!!!」再び吐き気に襲われた。酸味と気持ち悪さが口の中で広がり、いくらそれを地面にぶちまけても、次から次へと嘔吐物が昇ってくるのでキリがない。「ゴホッ……ッ、ま、まさか、龍神も……そんな、わけ……グゥッ!!」龍神の安否の最悪の想定でさらに吐き気がひどくなった。とうとう吐き出せるものがなくなり、口から出てくるのはわずかに口の中を支配していた胃酸だけだというのに、まだまだ吐き気は収まらず、内臓まで飛び出してくるんじゃないかと思うほど苦しい。それに呼吸を邪魔され、息苦しさも、とんでもなくなってきた。
「きゃあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ、あぁぁ、あああっ」他人の悲鳴で、嘔吐感から我に返る。受け入れがたい現実を突きつけられながら悲鳴が聞こえた方を向くと、何かに追われている女性を見つけた。重たすぎる足を動かして近づこうとするが、三歩進めて、何に追われているか気づく。
…………………さっきの化物だ。体の一部と思われる、ツヤのあるバイザーを付けたような黒い目、恐ろしい牙を隠し持った口、甲殻類の殻のような茶色い皮膚の引き締まった体の人型生物。血をところどころにまとって、走って追いかけるそれがいた。
「えっ?」…………突然、さっきの恐怖が蘇り、足が止まる。近づいたら殺される、っていうのを体が先に理解したのだろう。そして脳裏に、殺されるというイメージが浮かんでくると、足が震えて一切言うことを聞かなくなった。
震えは体を蝕み、立つことさえもできなくなって跪く。呼吸は荒く、汗が止まらず、視界が歪み始めた。地面を見ても真っ赤なまま。「ぐぇほぉっ!!」再び気持ち悪くなり
……悲鳴は聞こえてこない。が、表情からは声なき声が聞き取れるようであった。生への欲求が死への絶望へ変わる。しかし、声の聞き手は悲劇的に喰いにかかっている化物と力など一切合切持ち合わせていない俺しかいなかった。鮮やかに舞う鮮血が深紅一色の虹を作り出し、赤塗りの世界に新たな
そこへ行っても、何もできなかったかもしれない。ただ喰われて死んでいたかもしれない。それでも目の前で人が、それも惨殺されているのを、指をくわえて客観的に見つめているだけというのは辛過ぎる。辛さ、恐怖、悔しさが感情の坩堝でぐちゃぐちゃにかき混ぜられて、涙に変わっていった。
だが、それもつかの間、顔を上げたとき、化物と目が合ってしまった。そのまま、静かな時が少しだけ流れる。おそらく、二秒くらいか、被食者と捕食者の見つめあいは、前者が逃げだすという形で終わりをつげ、そのまま逃走中の火ぶたが切られるという形になってしまう。
煤と血の臭いが舞う中を、俺は全力で進んでいった。足場は血濡れで滑るところや粘ついて進みにくいところがたくさんあった。しかし、化物はそんなの関係なく追い続けてくる。
「うわあっ!」しまった、後ろに気を取られすぎた…………転ぶと死体になった気分だ。いや、このままだと本当に死体になっちまう。「うぐっ……っ!?」立ち上がることもできず、振り返ると既に目の前まで来ていた。身体を仰向けにして後ずさる。ああ、まずい、奴は鋭い爪と歯をむき出し、手に風を纏わせ今にも切らんとしている。「グルルルッ……」その低い声には狂気しか浮かばない。嫌だ、嫌だ、俺も死んじまう……「ああっ、やめろっ、くるなっ!」だが後退りも虚しく、黒い影は近づき、大きくなっていく。そして、気づけば死を与えるための手が飛んできていた。「くっ!!」身構え、歯をくいしばる。せめてもの祈りは、痛みが一瞬であってほしいということくらい。だが、きっと苦しいだろうな……
……あれ、来ない。「えっ?」だが代わりに高い金属が擦れる音が耳に来た。「なんだ、これ……」目の前で半透明の板、いや、布……どちらとも言えない何かによって化物との仕切りができていた。金属ではないはずなのに、丈夫で、火花が飛び散る。「グルッ!?」そして、どういうわけか化物を弾き飛ばした。「俺を、守ってくれたのか……?」そして、半透明な大きな壁は次の瞬間には形を変え、一枚の細長い布に変わった。「……うわっ、な、なんだ!?」すると、俺の首に、勝手にマフラーのように巻かさっていく。巻き終わると、突然頭の中に、何かが浮かんでくる。……この布の過去から現在までの経緯、どういうものであるか、使い方。最後に、謎の神々しい魔法陣。封印的な何かだろうが、複雑すぎて理解不能。それに対して鍵のようなものが中央に溶け込んで行き、次の瞬間には魔法陣ごと消えて無くなり、途端に強烈な風、そしてどこからともなく身体に溢れ出した魔力とともに現実へと戻された。
時間にして僅か一瞬の話だろう、こうなる前に見た光景となんら変わりない。だが、唯一違うことがある。それは……「これが…………?」身体中から今まで知らなかった、魔力の流れを感じることだ。今まで全く分からなかった感覚、どうにも掴めなかったもの。未だに憶測の域を過ぎないが、魔法を使えるようになったはずなのだ。「……だが」俺は今まで使ったことがない。うまく使えるか、それにいきなり実戦だし、さらに言うと本当に使えるようになった保証などない。もし勘違いだったら恥じる間も無くあの世行き。不安で不安で仕方ない。失敗への恐怖にかられ、体が言う事を聞きそうにない。だけど……だけどっ!!!
「……やらなきゃ、何にも始まらない!」体の震えを止め、そして力を込めて、こう叫ぶ。『神器解放!!』俺の周りに風が吹き、『