そして君とキスをする。   作:Aroma

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プロローグ:まずは初めの話から
think of C and R


 腕の中で譜面ファイルが湾曲を描いた。

 

 1年生教室の前でしゃがみ込んだ視界には、窓の桟から溢れ出すミカン色が揺れるように注ぎ込まれている。眩しさとか目の渇きとかは一切なく、僕はギラギラとただ一点を見つめていた。夕陽は見えなくとも、確かに大きな存在がそこにはあったのだ。

 

 

「そんなこと言わないでさー。曜ちゃんだけには相手が誰か教えてよ」

 

 

 再び廊下に響いた、幼馴染のねだるような声に、体がビクリと波立った。聴き慣れたはずの音階、転調、そしてリズムは、今この場に限っては耳にしたことのない未知の演奏で。心音はアップテンポに極まり、抱きしめたファイルはさらに大きく湾曲する。

「だ、ダメダメダメーっ!」今度は捲し立った幼馴染の声が廊下に飛び出してきた。

 

 

「いくらよーちゃんでもそれはダメなの! これは千歌のトップシークレット!」

 

 

「むむっ。珍しく千歌ちゃんが難攻不落だ」「もう! そういう関係ないから!」曜が唸って、千歌は不満の言葉が零した。たったそれだけのやり取りでも、指揮の通りにしない独奏が全身の感覚を支配する。頼むから落ち着いてくれ。と何度呼吸を整えようと肩の力を抜いても、胸元にある、固く突き刺さる痛みは消えないし、教室に入っていくこともできなかった。

 

『じゃあ千歌ちゃんは好きな人いるんだ』

 

 知りたくて知りたくて仕方のなかった答は、2人の幼馴染とともに悠々と僕を待ち構えていた。中学時代から、本人また友人から実態を得ようと試みて、結局は得られなかったそれが、いとも容易くこの場にはあったのだ。まるで今までの自分の苦悩を嘲るようにして、しかも、求めていた『明確な応』ではないという現実が添えてありさえした。

 望み通りだったのなら、彼女を振り返らせるために人生で一番の努力をするつもりだったのに。仮に、今千歌が想いを寄せている人物が自分だったならなんて淡い期待は、臆病な自分が跡形もなく砕き去っていた。

 

 

「よし。じゃあ、こうしよう。質問を〝その人のどんなところが好きか〟に変更で!」

 

「⋯⋯⋯⋯一応訊くけど、拒否権は?」

 

「ないよ!」

 

 

 続けて曜が口にした「大体、恋愛なんて少し強引な方がいいんだから。隠すのはご法度だよ」という言葉は、都合のいい常套句だと一蹴したかった。しかし、その切っ先が,過去の、そして今こうやって隠れている自分に向いているのではないかと、すぐに疑ってしまった。果たして都合のいい言葉なのだろうか、と。

 

 窓の桟のミカン色は、綺麗に擦り切れていた。

 

 

「ううっ⋯⋯じゃあ、せめてここだけの内緒にしといてね?」

 

「もっちろん! 約束約束。よっしゃ、曜の押し切り勝ち!」

 

 

 そんな曜の嬉々とした声と一緒に、いや、それを抜け出して、小さく、そしてゆっくりとした息遣いが耳を抜けていった気がした。

 

 

「そ、その人はね、千歌にすっごく、優しくしてくれるの。ちょっと気弱そうなところもあるんだけど⋯⋯実はすごいんだ。だって、いつも千歌を守ってくれるんだもん」

 

 

 不意にピリリと唇が痛んだ。指で触れると、小さな赤色の滲みが指の上に姿を残していた。その真っ黒な光沢には、目の黒い僕を映し出している。

 

 

「たぶん、そんな隠れてるカッコよさが好き、なのだ⋯⋯」

 

「おおー真っ赤っかだ⋯⋯千歌ちゃんがめちゃくちゃ乙女な顔をしてる!」

 

「う、うにゃー! こんなの恥ずかしすぎだよっ! やめやめ!」

 

 

 ⋯⋯⋯⋯⋯。

 僕はそっと立ち上がって、素早く教室に踏み込んだ。

 

 

「随分楽しそうだね。なんの話?」

 

「あ、奏多。部活お疲れー。いやね、千歌ちゃんがさー」

 

「よーちゃん!」

 

 

 椅子から飛び上がって曜の口を手で抑えた千歌は、「何でもないからね? よーちゃん余計なこと言わないからね?」と言った。頬はまだ赤いのだろうか。冗談だってばー、とヘラヘラとした曜の笑い声が聴こえた。

 

 

「えっと、それよりそろそろバス停まで行った方がよくないかな?」

 

「え? わわっほんとだ! 終バスまで5分しかない」

 

「じゃあ走ろうか、千歌ちゃん! ヨーソロー!」

 

「ち、千歌まだカバン持ってないよ!?」

 

 

「私が持ってまーす!」廊下で声が響き渡る。近くから遠くへ。ドタドタと忙しない足音が続いて、教室に僕を1人取り残していった。

 出しっぱなしにされた椅子に腰が落ちる。まだ少しだけ、純粋で暖かな温もりがそこには残っていた。しかし、次第にその温もりが汚くて、痛みを伴うものに変わっていくのを感じて、目を固く閉じた。

 

 重く低く最終下校のチャイムが鳴り響く。

 

 ジワジワと目元が熱くなる。何が何だかわからずに、胸を掻きむしりたくなる。だから、零れそうな何かを堪えて、一言発するのが精一杯だった。

 

 

「なにやってんだろ……」

 

 

 始終を聴いたチャイムは、まるでダメダメな指揮者が横暴な独奏を指揮するようだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

◇――――――◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「奏多くんって千歌ちゃんのこと好きだよね」

 

 

 昼休み開始のチャイムをかき消す雑音。そして、全身を震わせる振動が僕を襲った。椅子から落ちたのだ。しかし、その原因への理解が及ばず、目をパチパチと瞬かせる。

 チャイムが鳴り終わると、教室の喧騒がずっと遠くの出来事に変わった。すると、椅子から落ちる前に囁かれた言葉だけが、何度も何度も耳の中で繰り返され始める。そこでハッとして目を見張ると、その瞬間「千歌ちゃんならまだ寝てるよ」と隣の席から声をかけられた。今度は慌てて隣の席を見やると、臙脂色の髪の女の子が、悪戯に成功した幼子のような笑みを浮かべていた。

 

 

「図星だったでしょ?」

 

 

 さらに意地の悪そうな笑みを浮かべたのを見て、彼女が最初からすべてをわかっていてそう言ったのだと悟った。僕は既に彼女の掌で踊らされ始めているのだと。だから、何事もなかったかのように、僕は席にかけ直して見せた。

 

 

「いや、ちょっと滑っただけで別に何も。それにしても桜内さんってばまた変なこと言うんだね。千歌とは幼馴染ってだけだよ」

 

 

 机に広げられた教材を整理しながらそう言う。4限目の授業は得意な英語だったため、判断力はしっかりと働いて幾分か冷静な対処ができただろう。そう思っていたが、束の間続いた空白によって、僕は初歩的なミスを犯してしまったことに瞬時に気が付いた。恐る恐る隣の席を見返すと、琥珀色の瞳がジッとこちらを見つめていた。

 

 

「桜内? あらおかしいわね? 千歌ちゃんたちとの約束だと名前で呼び合うんじゃなかったかしら。でもそうやって奏多くんが距離とるなら、私も〟佐野くん〟って呼ぼうかなー」

 

 

 頬に指を当てながら桜内さん――否、梨子ちゃんは体を小さく左右に揺らした。

 

 

「ご、ごめん! えっと、まだ呼び慣れていないというか⋯⋯それに千歌たち以外の女の子を名前呼びするなんてほとんどしてこなかったから!」

 

「ふーん、千歌ちゃんたち以外ねー⋯⋯。まあ、奏多くんが動揺してるのは間違いないみたいだし、それでチャラね」

 

 

「だから、観念しない?」と、さきほどまで胡乱な瞳でいた彼女はニヤリと笑った。その瞳は、まるでネズミを壁際まで追い詰めた猫のように炯炯としていた。どうやらさきほどの失言は、初歩的なミスどころか、致命的なミスだったようだ。おかげで、窮鼠猫を噛む、なんて起こらないことも十分に察せられた。

 僕がお手上げ、という意味を体で表現すると、梨子ちゃんは「私の勝ちね!」と大げさに手を叩いた。

 

 それにしても、受け入れてしまうと作り出した平生というものは、あっという間に音を立てて崩れ去った。

 まず、なぜ彼女が僕の千歌に対する想いを知っているのかと驚き。次に、このことを弱みとして、彼女に優位に立たれるのではないかと焦り。最後に、本人ないし曜にこのことを告げ口させるのではないかと恐れた。

 というのも、彼女、桜内梨子が僕の胸中を知り得るには、条件もなければ、付き合いは七か月とあまりにも早すぎるし、このように怪しまれるはずなのに、敢えてこちらに彼女の知見を示してくるには謎が多かったからだ。そして何より、僕はさきほどと今のように、何を考えているかわからないときがある彼女が苦手だったからだ。

 思わず音が鳴るほどに生唾を飲み込む。すると、梨子ちゃんはクスクスと笑い出した。

 

 

「別にこれを弱みにしてパシリにしたり、千歌ちゃんたちに告げ口したりはないから大丈夫よ。さすがに私も意地汚くないわ」

 

 

 懸念があっけらかんと否定されてしまい「へ?」と間の抜けた声が漏れ出したが、内心は精一杯胸を撫で下ろす思いだった。しかし、すぐさま「あ、でもー」と言葉が続き紡がれて、心臓と肩が勢いよく跳ねた。

 

 

「奏多くん、わかりやす過ぎるから、案外千歌ちゃんにも気付かれてるかもね」

 

 

 えっ!? と僕が声をあげると、冗談よ、冗談、と梨子ちゃんは右手をパタパタと扇ぐ。僕は思わずため息をこぼした。

 

 

「でも、わかりやすいのは本当なのよねー。いっつも千歌ちゃん、千歌ちゃんって」

 

 

「例えばねー」。梨子ちゃんはまったく訊いてもいないのに指折り数え始めた。

 この間のスポーツ祭の球技種目で活躍していた千歌を見て、千歌が昔ソフトボールをやっていたときの話を長々としてきただの、ゴールデンウイーク中、千歌の終わっていない課題を手伝っていたとき、千歌は長期休暇中はいつもこんなんだよねー、と1人語り始めただの。

 いつの間にか、顔がすごく熱くなっていた。

 

 

「あとはね」

 

「も、もういいかな。とりあえずそれくらいにしとこうか梨子ちゃん」

 

 

 数えるのが両手で足りなくなったところで、慌てて待ったをかけた。

 自分のことであるはずなのにとてもじゃないが聞くに堪えた。こいつ頭沸いてるんじゃないかと思えるくらいのエピソード。どうやら梨子ちゃんが僕の想いに気が付いたのは、すべて身から出た錆らしかった。

 

 

「えっと、それで?」

 

「それでって? まさか、まだ聞きたいの? 自分から嫌って言っておいてもう1回だなんて⋯⋯。奏多くんってひょっとして」

 

「違う! 断じて違うから! そうじゃなくて、こうまでして僕をからかって何がしたいのかってこと」

 

 

 元々彼女がこの話を持ち出した目的を、僕ははっきりとわかっていなかった。懸念していた考えも否定され、かと思えばまたからかわれる始末。混乱するしかなかった。

 束の間、きょとんとしていた梨子ちゃんだったが、すぐに「ああ、それね」と膝を打った。

 

 

「そんなの簡単よ」

 

 

 そう言うと、彼女はずいっと身を乗り出してきて、彼女の鼻の頭を僕のものとをくっつけた。瞬間、甘酸っぱい匂いが鼻腔をくすぐり、臙脂の髪先が頬を撫でてきた。その勢いに気圧され、また不気味さを感じて身を引くと、椅子が大きく軋んだ。

 僕は当然身構えていた。当然、彼女が何を考えているのかがわからなかったから。しかし、琥珀色の瞳は純粋であった。そこに映っているのは純粋に僕で、僕が苦手とする、見ているものがわからない不気味な瞳ではなかった。

 

 喉がひゅっと情けない音をあげて縮こまった気がした。

 

 

「奏多くんは、千歌ちゃんに告白したいよね? それで恋人同士になりたいよね?」

 

 

 僕が頷くのを待つことなく、そっと触れ合った鼻先を離しながら彼女はポケットから何かを取り出す。

 クシャと音を立てて目の前に1枚の紙が広げられる。淡島をバックにした多色の火花が散るポスター。間違いなく、今年の内浦夏祭りの広告用紙だった。僕はそれと、彼女の顔を交互に見やる。すると、梨子ちゃんはふにゃりと微笑み、

 

 

「私ね、奏多くんの恋のお手伝いをしたいの」

 

 

 そんな言葉を、僕の中に確かに溶け込ませてきた。そのせいだろうか。直後ピリリと痛んだ唇さえも厭わないと、容易く首を縦に振っていた。

 

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