10月5日 統合に伴って、プロローグが加筆、修正がされています。
clover1.
『今日家の手伝いあったの忘れてた!! 先に帰ってる!!』
『今日は部活ですヨーソロー! だから、先に帰っちゃっていいよごめんね!』
『幼馴染ズ』なんてあまりにも安直に名付けられたグループトークに届けられた2件のメッセージ。既読を付けただけで、特に返信することなく携帯電話の電源を落とした。瞬間、真っ黒になった画面が眩しく光る。太陽だ。チリチリと照り付ける午後4時の太陽は、沈むことを知らないのが当然のようだった。
この内浦にも本格的な夏がやってきた。それを力強く示唆しているのは、昨日まではなかった耳をつんざくような蝉の大合唱や、やけに生温かさを運んでくる海風だった。
「はぁ……」
だから、生徒玄関前の学内掲示板に貼り出された内浦の夏を告げる広報誌を見てのため息だった。
花火をバックに、夜の駿河湾がその美しさで穏やかに輝いている。そんな整ったデザインに、毎年気持ちが盛り上がっているのだが、今年は、それがユラユラと揺れる歪で恐ろしいものに見えていた。
お祭りまで、後2週間ほど。回覧板やローカル新聞で、既に嫌と言うほど目にしていた開催日時。だから、余計と気持ちが焦っていた。あまり余裕はないぞ、と何度も自分から忠告を受けていた。それは、もう夏が来てしまった、という受験生としての心持ちの表れなのであり、しかし、きっとそうではないもっと別の何かだった。
またため息がこぼれた。
「奏多くん!」
ちょうど玄関から出てきたところなのだろう、梨子ちゃんがこちらに小さく手を振っていた。一瞬、うげっ、と顔をしかめたくなったが、さすがにそれは失礼だと思い直して手を振り返す。すると、彼女はふにゃと顔を綻ばせ、小さいな歩幅でこちらへと駆け寄ってきた。
「何見てたの?」
梨子ちゃんは僕の左側に立つなり、ひょいと身を乗り出しながら尋ねてくる。「別になんでもないよ」と、無愛想に答えて校門へと踵を向けた。が、すぐに後ろから肩を掴まれて、もといた場所に引っ張られる。振り返ると、梨子ちゃんが掲示板と僕を何度も見比べながらニヤニヤとしていた。ああ、また僕の苦手な彼女が現れてしまった、と目を反らした。
「やっぱり楽しみなんだね、お祭り」
「…………別に。ただ見てただけだよ」
「そっかー」。なんともない相づちを彼女はうつ。けれど、その裏にすべてを見透かしているのだという強い自負を隠していることは、もうわかっていた。だからこそ、ジロジロとこちらを見ている琥珀色の瞳を確認したいとは思えなかったし、それ以上に何も言葉を紡ぎたくはなかった。
しばらくすると、「むぅ……」という唸り声があがった。その声から、梨子ちゃんが頬を膨らませている姿を想像することはあまりに容易だった。
「最近、ツンツン度合いが増してない? 私のこと嫌いなの?」
「ツンツン度合いって……変な言い方しないでよ。そうやってよくからかってくるから嫌いじゃないけど、少し嫌なんだ」
「それって結局どっちなのよ」校門へ向かってまた歩き出した僕は、背中にそんな言葉を受けて「僕にもよくわかんないよ」と、投げやりに返事をした。
clover1.
「じゃあまだ誘えてないの!?」
怒号にも似た驚愕の声に、バス内の視線が一斉にこちらに集まり、相まって僕は咄嗟に前の座席に身を隠した。
直後、車内ではお静かに願います、と運転手から呆れた声色でアナウンスがされる。それを耳にしてハッとしたのか、顔を真っ赤に染めた梨子ちゃんは、小さくなりながら座り直した。どこか張り詰めていた車内の空気は、一転して柔らかな笑いに包まれた。
その空気に乗じておずおずと座席の陰から身を出すと、「あなたのせいよ」と言わんばかりのつり目に僕は睨まれた。思わず身震いする。
「え、えっと……ごめん」
「謝罪をどうも。けど、私はそれよりも実益の方が聞きたいかな」
ため息をこぼして、やれやれ、と首を横に振る梨子ちゃんに今度は僕が萎縮して俯いた。
「確かに、去年は私が勇み足過ぎてせいあるかもしれないけど……それでももう1年は経つんだよ。本当に大丈夫なの?」
「そ、それは……」
口の中でいくつかの言葉を舌で転がす。けれど、そのどれもが言い訳にしかならなくて、優柔不断な自分を偽るにも物足らなくて、喉に落ちていくばかりだった。耐えがたくなって外に目を反らす。車窓から覗く、まだ水平線にも重なっていない太陽はとても目に痛かった。
梨子ちゃんが大きく息を吐く。「この話題になるとてんでんでダメになるわね」。そして、そんなところもいいんだろうけど、と小さく付け足した。
夏祭りに千歌を誘う。そう決めたのは確かに自分だった。7月と8月の下旬で2回のチャンスがあり、何よりも馴染み深いからこの計画は最適だった。しかも、とても簡単なことなのだ。なんとこない。いつも通り話しかけて、何気ない雑談から始まって、メインの話題を振る。たったそれだけのことなのだ。それなのに、どうも僕の心持ちは軟弱だった。“千歌と2人っきりで”なんていう大それた条件が付着していたがために臆病風を吹かせ、結局は話題を振ることができなかった。
今日こそは、明日こそは。そうやって決意を鈍らせている内に、2回もあったチャンスを安々と見逃して、気が付けば、梨子ちゃんから注意を受けるほどに月日を空費してしまっていた。
だから、どうすることもできていない自分に腹が立ち梨子ちゃんに申し訳なく思い、けれど、どこか彼女を嫌悪しているという、あまりにおかしな状態だった。
「別に奏多くんを責めたいわけでも、追い詰めたいわけじゃないなんだよ。でもね、千歌ちゃんたちとは別のクラスになっちゃったし、それに私たちは今年受験生なの。だから、余裕なんてあまりないんだってことだけはちゃんと考えてほしいんだ」
チクリ、と胸が痛んで右手で座席のシートに思いっきり皺を寄せた。シートにはいつものような心地よさを与えてくる弾力感はなく、手の中はべっとりした汗で満ち満ちていた。
「わかってるよ、そんなことくらい」
そこでピシャリと会話が途切れた。代わりに場を預かったのは車体が揺れる微かな音と、ビーンという空調の音。それは、段々と2人に距離を作っていくような気がした。
『次は、伊豆・三津シーパラダイス』
先ほど違って感情の籠っていない車内アナウンスが響く。空調がただひたすらにビーンと音を立てているだけで、誰もそのアナウンスに影響を受けることはなかった。
ガサリと音を立てた隣席。窓ガラスに映った臙脂色の後ろ姿が不気味に揺れて、僕は顔を顰めた。
「ねえ」
まるで頬を捕まれてグルリと首を回転させられたような、けれど、決して手で触れられたようなものとは違うドロリとした冷たさに、振り返させられた。
「千歌ちゃんのこと、本当に好きなんだよね?」
梨子ちゃんは僕を見下しながらそんな質問を投げかけてきた。当然、脈絡がなかったので意味がわからなかった。たった1つわかることがあるとすれば、彼女が、僕が苦手な何を考えているのかわからない目をしていることだけ。
僕は無言だった。
「応えて」
真っすぐな瞳が1人の少年を映し出す。ひたすらに間抜けな表情でなんとも情けない姿の、僕だった。
今度は左手で座席のシートを力強く握り締める。それから、もうバスが再出発してもいいのではないかというくらい経ってから、小さく口を開いた。
「好き、だよ」
「⋯⋯⋯⋯そっか。なら、問題ないや」
僕の言葉を聞くなり、梨子ちゃんはトタトタと降車口に向かっていった。そして、小さく手を振ってその姿を消した。同時に、バスが発車する。
いつの間にか太陽は水平線と重なり始めていた。広大な駿河湾にかかるオレンジの橋が、僕の顔を照らす。やはり目が痛かった。
この眩しさに飛び込んでしまえば目は痛くなくなるだろうか。そんなことを考えながら僕は目を閉じた。
初恋は、男の一生を左右する。
アンドレ・モロワ『未知の女性への手紙 初恋』より抜粋