その日は、目覚ましを止めることなく、起床した。予定という予定が円滑に進んでいた最近は、寝つきが良かったのだが、今日にして、久しく重たい瞼を擦った。
焦点を見失った視界から、光の舞っている景色が見て取れた。次第にそれが、ピカ、ピカと反射するので、何度か眉をひそめる。急に布団が生暖かくなったので、モゾモゾと剥いだ。
7月28日。起き上がったすぐ、1日に大きな赤丸が付けられたカレンダーを見て、ハッとした。予定が円滑に進んでいる、と前述したが、1つだけ、足踏みすらされていないものがあった。
眠気から解放された頭が、その見落としに気が付いてしまえば、あっという間に“憂鬱”という重圧的な2文字が、朝の気分を絡めとった。
『千歌ちゃんのこと、本当に好きなんだよね?』
瞳の奥がチリチリと痛みを訴えた。類のない痛みが頭の中を襲った。チラついた臙脂色の景色に、不意に唇を噛み締める。
「なんで、そんなこと言われなきゃいけないんだ」
滲んで広がる痛みを抱えながら、僕は、転がるようにして自室から逃げた。
clover2.
海風は、少し肌寒いほどだった。
自宅から数十分歩いた漁港で、僕は係留杭に腰を下ろした。朝の仕事を終えた漁船たちが、その身をユラユラと、海面で休ませている。
大きく伸びをして、目一杯に空気を吸い込む。スーっと体が冷えていくに連れ、思考も随分と明瞭なものになる。それ故、気が付けば、目の前の景色に思い耽けていたのだ。
ここでは、キラキラと輝く景色に、思い描く理想があり、ふと過る記憶に、現実を突きつけられる。だから、僕は、朝の太陽を真正面にできる、この場所が好きであり、嫌いでもあった。
子どもの頃に、祖父に乗せてもらった一度きりの漁船が、ある意味での所以だった。
黒澤家の運営する漁協組合員だった彼は、船乗りとしてある程度の名を馳せていた。強情なところが玉に瑕でも、海の男、という貫禄は万年尽きることを知らず、周知人からはよく慕われる存在だった。現に、祖父繋がりで様々な大人に構われる機会が多かった。
そんな祖父が僕を漁船に乗せたのも、きっと“男らしく”なって欲しかったからだろうし、内浦の男なら子どもの頃から海の戦いを知らないかん、とも息巻いていたからだった。
しかし、僕にはその荷が重かった。停泊している状態でも揺れている船は、沖に出てしまえば、さらにその身を右往左往させるのだ。僕には、その揺れが、僅かばかりの支柱で保たれた心を崩さんとする化け物のように思えたのだ。その日は、学校を休んでしまうくらいだった。
以来、祖父から誘いはなかった。父からも、お前には漁師よりも身の上に合う職があるだろう、とそもそも継ぐことは期待されていなかった。だから一度きりだったのだ。
そして、その拒みが、僕の"優柔不断さ"の起源だったのだ。
祖父や父、ましてや船乗たちに憧れの念がないわけではなかった。自分もあのような気の強く、勇敢になりたい。オドオドして、誰かに手を引っ張られ続けるのは嫌だ。高校3年生の今日まで、ずっと、切実に思い続けてきている。
だが、一方で、自分にはできるわけがない、という諦観もとても強かった。
「全然、真逆だし」
千歌に告白するのだってそうだった。2年前の出来事を皮切りに、自分の想いに恐怖して、去年と今年、夏祭りに誘うことを躊躇っているのだってそうだ。自ら計画し、梨子ちゃんにまで手伝ってもらっているのに、何ひとつ達成できていない。変わりたい思いだけが先走って、僕自身がそのスピードに振り回されているだけだった。
「こんなところも、そんな弱さも、千歌になんか見せられないよ……」
溜息をこぼしながら、随分と明るくなってしまった辺りを一望する。薄青かった空が、滲むようにその色を濃くし、海風も随分と生暖かくなってきていた。
帰ろう。そう思って、重くなった腰を上げ、また溜息をこぼした。
「あれ、かなちゃん?」
ガバッと振り返る。「うわぁ!? ビックリした! 急に振り向かないでよ!」。その声を聴いてより一層、自分の中で現実味と不安が膨れ上がった。
磯の香りに混じって、いや、それよりも強く、上乗せするように漂っていた柑橘類の香り。気が付かないわけがなかったのに、目の前にいる彼女に、耐えられず大きく目を開いてしまった。
「ち、千歌⋯⋯!?」
「うん、千歌だよ! おはよう、かなちゃん!」
千歌の着ていた黄色のパーカーの首紐が、大きく揺れた。
不安と焦りがグルグルと頭の中で周り出す。この場から逃げ出したいという、わけのわからない衝動が駆り立ちさえして、まるで自分の身体であるのに自分の制御下に置かれていないよう気がしてならない。
一瞬だけ、パクパクと無意味な呼吸をした。
「わふっ!」
「うわ!?」
足元からの図太い鳴き声に、グイっと意識が引き寄せられ、そのまま飛び退いた。「だ、大丈夫かなちゃん!?」。僕は目をパチクリとさせ、しばらくの間、うっかりバランスを崩して尻餅ついていたことも、千歌から手を差し出されていたことにも気が付けなかった。というのは、目の前にいる黄色と白色の中型犬が見知っていることが原因だった。
「な、なんだ、しいたけだったのか⋯⋯」。僕は、ハーっと大きく息をこぼしながら千歌の手を取った。
「散歩の途中だったの?」
「うん。今日は私が当番だから。ね、しいたけ」
千歌に呼応するように、また、わふっと、しかし、先ほどよりかは控えめに図太く声を上げるしいたけ。目元まで毛が掛かっているため、その表情がわかることはない(そもそも動物の感情を読める能力を持ち合わせていない)が、ご機嫌な雰囲気があった。
「ところで、かなちゃんこそどうしたの? わざわざこっちの方まで来るなんて」
指に頬を当てながら、不思議そうに千歌は問うてきた。
口を開くとき、ホッとしながらも僕は自然と千歌から目をそらしていた。
「えっと、早く起きちゃったからさ。僕も散歩だよ」
「⋯⋯そっか」
しいたけの、はっはっはっ、という体温を調節する息遣いだけが、鮮明に音として残る。
そのとき、僕はそっと千歌のことを盗み見た。
「⋯⋯あのさ! その、よかったら、一緒に散歩しない?」
「え?」
「さ、散歩のルート、ちょうどかなちゃんの家の方なんだ! その、訊きたいこともあるし。ダメ、かな?」
リードをギュッと握り締めて、千歌は体を小さく捩らせた。海風に当てられたのか。潤んだ彼女の瞳に思わず、ドキリとした。しかし、あのときと同じように、千歌の頬は薄赤く染まっていて、だから、思わず唇を噛んだ。
「⋯⋯ううん、大丈夫だよ。じゃあ行こうか」
それでも、僕は笑ってみせていた。
◇――――――◇
一緒に散歩をすると返答したとき、会話をまともに成立させられる自信はなかったが、それは杞憂に終わった。というのも、3年生になってからというもの、昼休みを除いて、千歌とゆっくり話す機会がだいぶ減っていて、話題に困ることがなかったのだ。
「曜ちゃん、また水泳の大会で優勝してたんだって! 次の公式試合で勝てば国体選手になれる可能性がグンッと上がるって言ってたよ」。
「クラス離れたからノート見せれないけど、授業はちゃんと聴いてる? 曜と2人揃って寝てないよね?」。
「最近、やたらと曜ちゃんが、あれ? これは秘密だったっけ⋯⋯」「え? なにそれ気になるんだけど」。
あれよこれよと湧き出てきて、僕らの間には、正に花が咲いているのではないかと感じた。そして、やはり3年生になったこのたった数か月でも、変わったことはかなり多かった。
まず、千歌が三つ編みを辞めたこと。理由を訊くと、「なんだか子どもっぽいし、私ももうすぐ18になって、立派な女になるわけですから!」と自慢げに胸を張った。数10年も定着していた髪形だったため、違和感はあった。そのことを本人に伝えると、ぷくぅと頬を膨らませて「かなちゃんはまだまだ女心がわかってないね」と責められた。
次に、僕と梨子ちゃん、千歌と曜とでクラスが別々になったこと。始業式に張り出されていたクラス分けの紙を見ながら、全員で嘆いたのはたぶん一生忘れないのではないかと思う。
最後に、話題は梨子ちゃん個人へと及ぼうとしていた……。
「最近梨子ちゃんが、さ――」
擦りきれるようにデクレッシェンドした声が、激しく吹いた海風に飲み込まれて消えた。「千歌?」。ピタリと足取りさえも止めた彼女は、笑顔だった表情を徐々にしかめ、俯いていた。
しいたけが、甲高くキューキューと喉と鼻を鳴らしながら千歌の足元をクルクルと回っている。
まだ吹き止まない海風が、結うのを止めた千歌の髪を揺らしている。波立つように揺らしているのだ。
「…………梨子ちゃんと上手くやれてる?」
海風が原因ではない。笑っていたせいで温まっていた体が、急激に冷える。思わず舌打ちをしそうになったが、咄嗟に舌を噛んで抑えた。少し勢いよく歯を下ろしすぎたか、口の中に痛みと鉄臭さがじんわりと滲んだ。
「クラス別々になっちゃったからさ、ひょっとしたら2人だけじゃ距離感じてるんじゃないかと思って……」。薄紅色の瞳は、ウルウルと揺れていた。幼馴染の千歌と曜とは違って、梨子ちゃんは"千歌と曜の友人"から始まっている。仲立ちがあった2年と違う状況に、彼女は心配しているようだった。
しばらく考え、浮かんできた唇を噛むような記憶は振り払って、口を開いた。
「大丈夫だよ。休憩時間にもよく話すし、それに千歌たちがいたときだって普通に会話してたでしょ?」
「それは、そうなんだけど……」
腑に落ちていないのか、千歌は口許をモゴモゴとさせ、視線の行き場を忘れていた。
「あぅう……」。さきほどまで右往左往していたしいたけは、千歌の足にすり寄るようにしていた。その表情は、やはり目元が毛に隠れていてわからないが、一瞬、僕を睨み付けたように見えた。
「なにか、心配事でもある?」
「う、ううん!二人のこと信用してないわけじゃないんだけど、やっぱり本当に大丈夫なのかなって心配で……ほら、かなちゃんも梨子ちゃんだし」
「な、なんかその言い方は酷くない?」
「わ、悪い意味ではないんだよ……一応」
「なら、その一応をとってほしいかな」
苦笑いしながら頭をかいた。そのときに、チクリと胸が痛んだ気がしたが、さきほどの記憶と同様に振り払ってやった。
また歩みを始める。しかし、今度は無言でお互い目を合わせることはしなかった。しいたけは濁った唸りをあげ続けた。
「…………着いちゃったね」
「そう、だね」
気がつけば、僕の家の前だった。楽しい時間はあっという間に過ぎ去る。何度も体験し、寂しくなるこの言葉を偽物だと思った。今は辛い時間があっという間に過ぎたからだ。なんて好都合なんだ、と皮肉にも笑ってしまいそうになった。
ふと、計画のことを思い出す。場の雰囲気は最悪かもしれないが、このままならばさりげなく話題に出せるのではないか。そんなことを考え付いた。
『本当に千歌ちゃんのこと好きなの?』
そんな言葉にまたイラッときて、感情的に口を開いた。
『あのさ! あ……』
反らしていたはずの目線は、引かれ合う磁石のようにして、交差した。ピクピクと表情筋が動く。千歌も引きつった笑みを浮かべていた。
「そ、そのぉーかなちゃんからどうぞ!」
「え? あ、いやー、全然千歌からでいいよ?」
「ううん、私のそこまで大切なことじゃないし、かなちゃんから」と千歌が。「それでもいいから、千歌から」と僕も。
すると、千歌がぷくぅと頬を膨らませる。それに僕もムッとする。
「かなちゃんから!」
「いいや、千歌からだ!」
「かなちゃん!」
「千歌!」
そんな押し問答をさらに2度、3度と繰り返してお互いに睨み合う。絶対に譲りたがらない。そんな性格は、自分でもまして相手でもわかりきっていた。だからか、そんな状態が続けば自然と吹き出していた。
「はーっはーっ……!こんなことで笑ったの何時ぶりだろ?」
「どうだろうね?でも、すっごい懐かしかった」
どこか張り詰めていた空気は一変した。
こんなに心からどうでもいいと笑い飛ばせたのは久しぶりで、重たいものが落ちたような気がして。
「それでさ、話って? 本当に千歌からでいいから」
「ちぇー。かなちゃんはこういうときに譲らないよね」
「ま、そこがカッコいいけどね」。えへへー、と笑いながら鼻下を指で撫でる千歌。うっすらと上気した頬と相まって、ドキリとした。
「えっとさ、今日の放課後って空いてる?」
「うん、空いてるよ」
「ほんと?じゃあじゃあ今日、千歌の家に来て!」
「わ、わかった」。リードを握った手をグッと握り込んで上下させながら前のめりになってくる千歌に、少し身を引きながら首肯した。
「じゃあ次、かなちゃんだよ!」
深呼吸して、決意を促す。ここが最大のチャンスだと自分に言い聞かせる。
「あのさ……っ!?」
瞬間、唇に滲むような痛みが走る。
『じゃあ、千歌ちゃんって好きな人いるんだ』。『うん……。すっごく優しくて、頼れる人なんだ』。
いくら自分を律しても、同じ言葉のエンドレス。ついには、声すら出てこない。
「かなちゃん?」
千歌の声にハッとする。不安そうにこちらを覗き込んでいる。顔の温度が感覚が狂いに狂った。
「あ、いや……あのさ、進路って決めた?」
「進路? まだ、かな。でも、たぶん進学するかな。もっといろんなこと知ってみたいから」
「そっか」
「かなちゃんは?」
「僕は……」
返答なんて考えてなかった。そもそも今の僕にあるのは、君の恋人になりたいくらいだ。そもそも将来のことなんて……。
「…………僕もまだ決めてないや」
「えー訊いといてそれなのー?」
訝しげな目で見てくる千歌に愛想笑いで返す。
「んじゃ、また学校で」
「うん。じゃあね」
「しいたけもまた」。そう言って軽く腰を屈め、頭を撫でる。いつも通りのフワリとした毛触りが手を包む。しかし、その感触が一瞬で空に代わってしまう。しいたけは僕の手を振り払っていた。
「わふっ!!」
「え?っ、いた!」
鋭い痛みが左手に走る。異物が骨に、皮膚に食い込んでくる感覚に顔をしかめた。咄嗟に手を引き離し、身も引き離す。赤が滲む手のひらをマジマジと見ながら、今起こったことが信じられなかった。
しいたけに噛まれた。遅れてその事実を理解した。
「なにしてんのバカしいたけ!!」
千歌の顔色は真っ青だった。そして、今までに聴いたことのない焦燥感のある声色に、なぜか僕の体までもが震えた。
叱られたことがまったくないしいたけは、千歌の声に怯え地面に伏せていた。
「かなちゃん大丈夫!?」
「だ、大丈夫。大したことはないよ」
出血は大したことはなかった。しかし、手にはしいたけの歯形に沿った穴が浅く空いていた。
垂れている赤色。ジワジワと押し寄せる痛みに、視線は自然と吸い寄せられた。
「本当にごめんね……しいたけはよく叱っておくから」
「……え、あ。い、いいよ本当に大丈夫だから。しいたけも少し嬉しくなっちゃっただけだと思うし」
「でも……」
「いいの」と噛まれてない右手で、しいたけの頭を撫でてやる。すると、ごめんなさいの意を示してか、しいたけはぺろぺろとその手を舐め始めた。
しかし、高海家に来てから一度たりとも人を噛んだことなかった、あの大人しいしいたけがどうして噛んできたりしたのだろうか。不思議で仕方なかった。