犬吠埼睦月は、社会落伍者である。
別に初めからそうだったわけじゃない。
きっかけがあって転落したのだ。
ただきっと、そのときではなくても、どこかの時点で転んでいたのだろう。
社会は、どんくさい人間に対して生きづらい。
失敗してもやり直せる。全ての人に救いの手は必ず差し伸べられる。という綺麗ごとが、世の中にはびこっている。
けれど、実際のところ失敗した人間には、救いの手を掴めるほどの握力がない。それを掴める人間は、救いの手なんか差し伸べられなくても、いつか貪欲に闇の中から這い出すだけの胆力を持っている。
きっかけは、些細なことだった。
クラスの中心にいる女子の一人と廊下でぶつかって、こかしてしまったことが原因。
先に言っておくと、この女子は加害者ではない。純然たる被害者。周りの人間が彼女の気持ちを勝手に想像して、大きな話に持っていった。
火打石が小さな火花を生んでも、受け止める火口がなければ火種は生まれず、燃料を与えなければ大火にはならないのだ。
彼女をこかしたとき睦月は、慌ててキョドって、
「その、ごっ……ごめ、ごめ……」
と、壊れたレコードのように上手く言えなかった。
そして、そのことが、大義名分となったのである。
すなわち、『発端はあいつにあって、やられているあいつも悪い。俺たちは正しいことだと考えてした』という言い訳。
最初からハードなことをされたわけではない。
最初は、やられている睦月自身も気付かないようなこと。思い返せばこれもそうだったのかも、と考えられる程度のことだった。
例えば、給食のときに、盛り付けられる肉の量が少ないとか。掃除のときに露骨じゃない量の集めた埃を、ゴミ箱に捨てないで、睦月の席の下に集めるとか。
睦月がやった分だけの報いを受けさせようと思ってやったこと。
しかし、睦月が動じてないように振る舞い続けたことが、行為のエスカレートに繋がった。
発端が相手にあるため正義の行為としての心地よさがあったことと、どんどんエスカレートしていく行為の中で許されるギリギリを攻めるチキンレース的なゲーム性があったこと。これが、段々と歯止めを効かなくした。
一か月経つ頃には、最初の遠慮はどこにもなくなっていた。
漫画やドラマの典型的なイジメ行為を模倣したと思われるものから、まったくもって独創的な行為まで。
身体的な被害のあるもの、物質的な被害のあるもの。最終的には、一歩間違えれば死んでいたのではないかと思われるものまであった。
そんな中で、睦月が最も嫌だと思っていたのは、所持品に被害の出る行為だった。なぜなら、失われた所持品の補填をしなければいけないから。なぜなら、そのことで教師とか親とかに見つかってしまう可能性が高かったから。
そう、それだけのことを受けていながら、睦月はイジメられていることが露呈するのを何よりも恐れた。
理由は、恥ずかしかったから。
イジメられているということが、恥ずかしかったのだ。
そのまま二か月が過ぎた。
自分ではうまく隠せていたと思っていたのだが、今思い返すと、両親はともかく教員たちは見て見ぬふりをしていたのかも知れない。
二か月経って、学校に向かう足取りが重くなって、ふとサボることにした。
そうして、代わりの場所にしたのが市営の図書館。
きっと、学校をサボったとしても、学ぶことをサボることへの後ろめたさがあったからなのだろう。
居心地がよくて、翌日も翌々日も図書館に脚を向かわせた。
ようやく見つけた安寧の場所がなくなるのは早かった。
連日休みが続いたことを、学校が両親に知らせたのだ。
そこで、睦月は諦めた。
最初は仮病で理由をつけて部屋から出なかった。何日も何日も。
だが、次第にそんな理由すらもなくなっていく。やがて、母親も暗黙の了解のように何も聞いてこなくなった。
数日前。
その日は、あまりにも普通の日だった。
変わったことと言えば、前日に皆既月食があってニュースに流れていたことくらい。
ただ、外に一切出ない睦月には関係ないことであった。
それに、その類の天体ショーは一年に一回くらいは珍しい巡り合わせだと理由をつけて開催されるし、凄惨な事故は繰り返されるし、世界情勢は何かしらの問題を抱えている。
つまり、何でもない日のはずだった。
コン、コン、
「睦月、部屋の前にご飯置いておくね」
今日も母親が、二階の睦月の部屋にご飯を乗せたプレートを持ってくる。
睦月は、いつものように何も返事はせず、かといって何かに没頭しているわけでもなく、ぼーっと天井をにらみ続ける。
今日もきっと、ご飯と一緒にメッセージードが付いているのだ。
その内容は多種多様。純粋に睦月を心配する内容から、今日はこんな面白いことがあったという世間話とか。
ようするに天岩戸作戦なのだろう。
常々、煩わしいと思って破り捨てている。
今日も、それを思ってイライラした。
だから、ほんの気まぐれで母親が階段から足を踏み外して転倒する想像をした。
そして、そのまま打ち所が悪くて、家の中で頭を打って死んでしまうというバカげた想像だ。一笑に付して終わり。
――ガッ、ガガガガッ。ど……。
大きくて鈍い音が、部屋の外から響いた。
悪い予感がした。
父は、とっくに会社で仕事をしている時間。家には睦月と母以外いない。
ここ数か月で初めて、トイレ以外で自発的に部屋の外に出ることにした。
階段の下で、母が頭から血を流しながらうずくまっていた。
身動き一つない。
近づいて様子を見る。
息をしてない。
心臓の鼓動も弱い。
睦月は慌てて電話を取り、生まれて初めて、誰もが知っているその番号に電話をした。
促されるままに状況を説明する。
心臓マッサージをする。
久々に動かした身体は、それだけで疲労困憊になった。
サイレンの音が近づいてきて。
チャイムが鳴って。
扉を開けて。
玄関から、数人の大人が母の体を運ぶのを見届けて。
一緒に救急車に乗って。
病院の待合室でぼーっとして。
スーツの父が慌てた顔でやってきて。
医者が口の端を噛み締めた顔をして。
使い古された「手はつくしましたが……」が使われるところを初めて見て。
父の膝が崩れ堕ちるのを初めて見た。
そんな、どうしようもない現実が待ち構えていた。
母の葬儀はしめやかに行われた。
あれから、睦月はそれ以前と比べると驚くほど外に出るようになった。
まるで、母の存在が楔となっていたかのように。
しかし、それは間違いである。
本当の楔は、睦月自身の心の中にある。
だから、今の頻繁に外に出ているのは異常事態。
きっと全てが終わったら、また一人の殻の中に閉じ籠る。
誰にも迷惑をかけないために。
そんな風に生きていくのだと信じていた。
母との別れの中、睦月は泣いた。
イジメられているときは、すっかり無にしていた心が、哀しみを覚えた。
あまりにも大きな異常事態は、睦月が外部刺激のすべてを拒絶していた膜を、破り裂いたのだ。
葬儀からの帰り道、睦月は久しぶりに外の世界を見た。
外の世界は、相も変わらず他者の幸せに満ちていた。
往来は、その空気をもって不幸者を排除して、幸せ者と不幸ではない者だけ存在を許可されているように見えた。
自分は、きっとこの世界で最も不幸な人間だ。とそんな卑屈な考えを引き起こさせる。
そんな考えは、醜い妬みの感情を生む。
睦月の通っていた学校の制服を見つけた。
男女数人のグループが、楽しそうな談笑をしている姿を見つけた。
よく見れば、見たことのある顔のような気がした。睦月のいたクラスにいるのが何人かいると思う。
「なんであいつらばっかり、幸せそうに……」
彼らは何も悪くない。
それでも、安穏として生きているのが許せなかった。
これは、睦月の八つ当たり。
だとしても、彼らが不幸になる想像くらいは許されるはずだ。
近くを走っている大型トラックが転倒して、それに潰される。
――想像をすると、それに追随するように、近くを走っていた大型トラックが転倒した。
周囲の人の唖然とした顔が見渡せた。
誰も、そこにいた学生たちの命が残っているとは思えないほどの現場だった。
トラックの底から、新鮮な目覚ましい赤が滲み出る。
殆ど全ての遺体が、トラックに完全に隠されて見えない。
そんな中、半端に逃げられたせいで、胸像のようになって、それより下の部分がプレスされたものもあった。地面に強打したせいか、鼻の骨が折れて平らになった顔は、恐ろしい形相のまま絶命している。
群衆から、悲鳴が上がった。
誰もが、今発生した大型の不幸に恐怖し、胸を痛めていた。
そんな恐ろしい世界の中。
睦月は連鎖する不幸を想像してしまう。
事故現場を確認しようと近づく人を跳ね飛ばす青い車。
起きた。
恐怖で暴走し、電柱に正面から当たり、潰れる赤い軽自動車。
起きた。
この場から離れようと急いで逃げる人々が、将棋倒しになる様。
起きた。
そこに、ビルのガラス拭き作業員を吊るワイヤーが切れて、降ってくる。
起きた。
起きた。起きた。起きた。起きた。起きた。起きた。起きた。起きた。――。
ここまで来ると、確信を得られずにはいられなかった。
この凄惨な事故の数々を起こしてしまっているのは睦月だと。
卑屈な睦月は、想像の連鎖を止めることができない。
そして、思い至らずにはいられなかった。
母が死んだときのこと。
睦月が、あのとき何を考えていたのか。
だとしたら、母を殺したのは……。
「うあぁああああああああああ!」
走り出した。
後ろから、父の静止の声が聞こえた気がした。
止まることはできなかった。
それ以上、不幸な想像をしないため、誰も巻き込まないために、精いっぱいに急いで誰もいない場所に向かっていく。
あまり遠くに辿り着くことはできなかった。
当然だ。
部屋に引きこもり、ここ数か月、運動はおろか、まともに歩いた記憶さえない。
辿り着いたのは、近くにあった公園の、汚いトイレの個室。
そこに、何もかもが終わるまで閉じ籠ろうと思った。
簡素な鍵をかけて密室になると生きた心地がした。
ふと、閉めたトイレの扉に不思議な文様が描かれていることに気づいた。
惹かれるように触れてしまう。
眩い閃光が眼を焼く。
犬吠埼睦月の不幸は、未だ終わることを許されない。