眠らない街は今、非日常の異界と化していた。
いつもの、ワイワイとした賑わいはそこにはない。
存在するのは、恐怖の渦。
悲鳴。苦痛。怨恨。諦観。疑心。
負のエネルギーが渦を巻いていた。
その渦の中心にいたのは、怯えうずくまり嗚咽する少年。
明らかに、少年を中心に災禍は広がっていて、近づいてはいけないという空気が伝染している。
通行人だけではなく、車でさえ近づきたくないと動きを止めて、渋滞を作っていた。
だが、クラクションの一つさえ鳴らない。
そもそも、後ろの車も先に行きたくないのだから鳴らす意味がない。
終いには、車をそのまま置き去りにして、逃げ出すものまで現れる。
人々の反応は大きく分けて三つに分かれる。
とにかく遠くへと逃げ惑う者。
どうすればいいかわからず、その場で取り乱す者。
そして、騒ぎの元凶を確認しようと、少年を遠巻きに見ようとする人の輪。
喚き逃げ惑う人々が街に溢れる中、その渦の中心部は、現在驚くほどに静かだった。
「うっ……くっ……」
と、少年が発する声と、ひそひそと人々が話し合う声のみ。
いつもと変わらない横断歩道の機械音のみが静寂の夜に響き渡る。
「セイバー、あの通りを越えたところ!」
「承知しました」
神無は、車椅子ごとセイバーに抱えられながら、誘導を行う。
最初に壊れた高層ビルだけではなく、幾つかの建造物が倒壊していた。
崩れてはいないが、ガラスが割れて砕けているところも多い。
街路樹が台風に薙ぎ払われたように倒れている。
舗装された道路の、そこかしこに穴が開いている。
中には、その災禍と関係なさそうな破壊の残滓がある。例えば、デパートの宝石売り場のショーケースが破壊され、ご丁寧に商品がなくなっている。火事場泥棒の逞しさに、神無は苦笑する。
ともかくは、そうして砕け散ったアスファルトの破片が、晩夏の風に乗って辺りに立ち込めていて、空気が粉っぽい。
職務に熱心な街灯の光も、ぼやけて広がっている。
「まるで、違う街みたい……」
恐らく、ここにいる人の多くが思っていることで、出来ることなら目覚めてほしい悪夢の光景だった。
「見えました」
小太りの少年は、街で一番大きな交差点の中心にいた。
周囲はぐるっと人に取り囲まれているために、セイバーは低めのビルの屋上に立って、それを見下ろす。
「どうするの? 多分、近寄ったら、バーサーカーと同じ、もしかしたらもっと強い攻撃がきそう」
何しろ、巨大な建造物を簡単に破壊するような力なのだ。
「問題ありません。拙者の眼は、普通は視えないようなものも捕らえる特別性ですので」
と言うセイバーの両眼が、夜の闇の下、青白く光る。
「まあ、その前に、なるべく気付かれないように努力してみましょう」
それだけ言い残して、神無を屋上に残し、ビルからすっと飛び降りるセイバー。
タイミングが悪いことに、今まで地面にうずくまっていた少年が顔を上げ、助けを乞い縋るように目線を泳がす。
すると、それに対応したように、彼の視線に移ったファッションビルが、苦しみ、のたうち回るように崩れていった。
変化しない状況に沈黙を保っていた観客たちは、自分達が災禍の中心にいるということを思い出し、悲鳴を上げて逃げだす。
そんな中、セイバーは、少年の視線の動きとシンクロして、後ろをとるように回避をしながら、あっさりとその傍まで駆け寄った。
そして、みねうちで少年の意識を落とす。
壊滅状態になるまで街を騒がせた災害は、波音一つ立てないような静かさとともに終わりを告げた。
セイバーが気を失った少年を支えて、抱える。
最初に周囲に広がったのは困惑だった。
何が起きたのか分からない。
突如現れた袴姿に刀を持った侍と、今まで災厄をまき散らしていた少年の気を失った姿。
悪夢の終わり。
そのことに気づいたものから、歓喜の感情を溢れさせる。
そして、それが周囲に伝播していき、大きな一つの歓声となった。
群衆は一体となっていた。
そんな群衆の一角から、ふと一つの声が上がった。
「そいつが悪者なんだろ?」
それに食いつくように同調したのが、直接的な被害を被った者たちだった。
「そいつに、私は子供を殺されたのよ!」
「勤務先がなくなって。これからどうやって生きていけばいいんだよ!」
「あのマンション、まだまだローン残ってるのに!」
どうしようもない事態が起こった時、自分の手の届く範囲に格好の的がある時、それを悪と断定する同調圧力がはたらく。
同調圧力は、行き過ぎた勧善懲悪を願う方向へと向かい始める。
「なんで、まだそいつは生きてるんだよ」
「これだけ多くの人の命を奪ったくせに」
「どれだけの人が被害を受けたと思ってるんだ」
「頼む、そいつを殺してくれよ」
「そうだ」「そうだ、そうだ」
「殺せ!」「殺せ!」「殺せ!」「殺せ!」「殺せ!」「殺せ!」「殺せ!」「殺せ!」「殺せ!」「殺せ!」「殺せ!」「殺せ!」「殺せ!」「殺せ!」「殺せ!」「殺せ!」「殺せ!」「殺せ!」「殺せ!」「殺せ!」
声はどんどん大きくなっていって、群衆全体を包むシュプレヒコールへと発展する。
やりすぎだと思う人が少数いたとしても、その流れを止めることはかなわない。
この激流は、確かな成果を生み出さないことには止まらない。
少年の死をもってしか……。
――けれど、それを止めたのは、輪の中心にいるセイバーの、ひと睨みであった。
常人には発せぬ剣幕でひと撫でされ、一斉に声を発するのをやめる群衆。
「あなた方は、いったい何を見ていたのか? 今、あなた方が壊そうとしているのは、そこまで邪悪な存在なのでしょうか? ここにいたのは、一人の怯えた童ではなかったのでしょうか?」
セイバーは問いかける。
そして、激憤の表情を、和らげて彼がいつも見せているような優しい顔に変えて、群衆に懇願する。
「先ほどまでのあなた方と一緒に怯えていたではありませんか。なのに、一度優位に立ったら、その一人に途端に攻撃的になる。そんな悲しいことはないでしょう。例え、原因が彼にあるとしても、きちんとやり直すチャンスを与えてはいただけないでござるか?」
人々の反応はそれぞれであった。
いまだ怒りの感情を持ちながらも、それを一人の少年に向けようとしたことを恥じ入り顔を伏せる。
セイバーの柔らかな表情にほだされて、少年のことを許すことにする。
一人の少年のことなどに興味を失い、この惨状を修復するための苦労を想像して、天にため息をつく。
その反応を見届けたのち、セイバーは少年を抱えたまま跳躍した。
神無の元に戻ってきて、早々。
「神無殿、申し訳ないが……」
「うん、セイバーは早く戻って。波彦くんが待ってるんでしょ」
神無に見透かされていることを知って、セイバーは敵わないなと小さく笑む。
「この子のことは、あたしが責任を持って見ておきます。だから早くいってあげて」
「感謝します」
セイバーは少年を神無に預けると、一礼して、その場を後にする。
自分と主人との間に確かにある繋がりに導かれるままに。