次元跳躍による一瞬の浮遊感を超えると、葉月の周囲の光景が一変する。
ただっぴろい和室。
例えば、時代劇に登場する武家屋敷のような、もしくは平安貴族の屋敷のような。
今までにも、何度か来ているがその度にスケールの大きさに驚かされる。
板張りの床の上に畳が敷かれ、その周囲を天蓋が覆う。
畳の上には座布団のようなものが一枚。
天蓋の後ろには、煌びやかな屏風が置かれている。
葉月のアパートの部屋が丸々八つは入りそうな広々とした部屋の中に、それしか置かれていない。
けれど、そんなスペースの有効活用を提唱したくなるような状態からはむしろ、淋しさよりも強い風格を感じる。
というのは、ここ以外にも多くの部屋があり、そこには多くの煌びやかな装飾品が所狭しと飾られているのを知っているからだろうか。
ここは、葉月がライダーの召喚を行った建設途中放置ビル。だった場所。
いつの間にか、どこから得たのかわからない資源を投じて、彼女は好き放題にリフォームを行った。
その結果、現代に純和風な屋敷が突如として組まれることになった。
ただ唯一、こんな非常識の中に救いがあるとするならば、ライダーなりの良識が働いたのか、残されていた無骨な灰色のシートは残されたままになっているということだけ。
そのおかげで、周辺住民には、まだバレておらず噂になっていない。はずである。
「マスター様、キャスターのマスターを連れて、こちらに付いてきてくださいませ」
どうやら最終的な目的地は違ったようで、ライダーが部屋を出ようとする。
「了解、ライダー。あなた、聞いてた?」
「はい」
メイド服の少女が小さく頷く。
和の色が強いこの場には、彼女の姿は異物であるかのように映る。
「そ。じゃあ、付いてきて」
逃げられないように、不意を突かれないように注意しながら、少女を伴ってライダーに付いていく。
の前に、ここ数日の間に何度かそうしているように、ポケットから不思議な色合いの液体が入った硝子瓶を取り出す。
ライダーから渡されたものだ。
蓋をすぽりと抜きとり、瓶の口に付いていた一滴を舐めとり、再び蓋をする。
今一度、その何とも言えない色を確認するように目を落とし、手に握り込み、ポケットに戻し入れる。
そこそこに長い道案内の末に辿り着いたのは、ある目的で作られた部屋だった。
途中、幾つかの大きな部屋を通り抜け、下り階段を挟んだのもあって、改めてこの建造物の大きさを認識させられた。
ここまでの道程にあったのは、明らかに廊下用の部屋と様々な価値あるものが置かれた部屋。廊下用の部屋にだって、幾つかの目を引く屏風が飾られたりしていた。
それに対して、その部屋にはそのような装飾品は何もなかった。
あえて、そう造られたかのように。
否、それにある意味の芸術性を見いだせるなら一つだけ。
木製の檻。
格子状に木の柱が組まれて形作られた壁。
その端に錠することができる扉が備え付けられている。
そう、ここは座敷牢と呼ばれるような施設であった。
「マスター様、どうぞ」
ライダーは、自分の役目はここまでとばかりに、もう興味無さげにしている。
「ほら、入って」
「はい」
人を閉じ込めるという行為に対して、少なからずの躊躇いを覚えながらも、扉を開けて少女を誘導する。
人質の少女は、一切の抵抗をする気がないとばかりに躊躇なく中に入っていく。
暴れられたらどう対処しようかという葉月の考えは杞憂に終わる。
拍子抜けするくらい楽なものだった。
と同時に、一切の表情を崩さない彼女の姿に、心を揺さぶられ続けている葉月は当てつけされたような、あるいは上から見下されているかのような思いを覚える。
被害妄想。重々承知している。
けれど、心と連結したところにある身体は、理性で制御できないことがある。
葉月は、少女の無防備な背中に、強く蹴りを入れた。
その結果、少女は無様に顔から床にダイブする形になった。
自分のしたことに驚愕する。
バツが悪くなって、さっさと扉を閉じて錠をかけた。
「あら、マスター様。尋問などはされないのでしょうか?」
「一辺、家に帰る」
これは別に逃げているわけではない。
元から、様子見から戻ってきたら、葉月はアパートに戻るつもりだったのだ。
本来の構想とは大きくかけ離れた状況になってしまったとはいえ、次の予定は変更するわけにはいかない。
本日は休日。
世間はもちろん、葉月の母にとっても。とても貴重な休日。
ただし、日が落ちたら夜勤のために出ていく。これを本当に休日と呼ぶのかは怪しい気もする。
それでも、稀にしかない母と一緒にいられる時間であり、すでに過ぎ去った葉月の誕生日に一番近い特別な休日である。
だからこそ、今日はいつもよりちょっとだけ豪華な料理を用意して、母を労うつもりなのだ。
途中でスーパーに寄らなければいけない。
チラシに書いていた特売品は頭の中にすっかり刻まれている。
すべて成し遂げて、料理をふるまい、母の喜ぶ顔を想像する。
それだけで、葉月は大きな幸福を感じることができる。
「何、どうかした?」
視線を感じた。
木の檻の向こう側から。
少女は壁に背を付けて座っていた。
感情がないような瞳で、こちらのことを見つめていた。
「……特に何もありません」
もしかしたら、ちょっと顔が緩んでいたかもしれない。
それに対する気恥ずかしさが一つ。
彼女の住んでいるという家が大きな洋館であるという情報を思い出して、葉月と母の小さな幸福をバカにされたかのような被害妄想が一つ。
二つを足し合わせて、ちょっとだけ嫌な気分になったので、思わず皮肉めいた不幸自慢が口に出る。
「あなたには、父親に捨てられた母娘の気持ちなんて分からないでしょうね」
別に、何か答えを期待して言った言葉でもない。
そのまま去ろうとしていた。
そんな葉月の背中を追いかけるように一言。
「そうですね。分からないです」
相変わらず何を考えているのかよく分からない口調だ。
けれど、それは何となく、あえて多くを言わないでいるこれまでの少女の態度と同じものではない。
動揺して言葉が見つからないでいるような印象を受けた気がした。
だから、少しだけ勝ったようないい気分がした。
一体、何に勝ったのかは分からないけれど。
前園弥生は、生来の寂しがりやの気質を持っている。
昔は、今ほど無口でも、こそこそとする性格でもなかった。
活発的な方であったとは言えないまでも。
弥生の父親は資産家であった。
起業し一山当てたのを元手にして、投資を行い、そこでも当たりを掴み続けていたらしい。
らしいというのも、父親の仕事なんて、弥生の関心の向くところではなかったのだ。少なくとも幼い当時は。
弥生にとって重要だったのは、両親ともに温厚な性格で、一人っ子である弥生にいつでも優しくしてくれていたこと。
大好きだった。
今でも、当時の記憶を掘り起こすと、温かいものが自分の身体を駆け巡るのを感じる。
幸せはいつまでも続くと思っていた。
けれど、変化のない日常なんてものはどこにもない。
ある日、いつものように自分の部屋で、買い与えられた玩具で遊んでいた時。
雇っていた家政婦さんに、「弥生ちゃん、大事な話があるの」と、とても辛そうな顔で話を切り出される。
両親の乗っていた車が交通事故を起こして、二人とも亡くなる。
即死だったらしい。
そのことを聞かされたとき、弥生は特に悲しみを覚えなかった。
というよりも、意味をよく理解できなかったのだ。
二人が数日の間、家を空けるというのはザラにあることだったので。理解できないでいる弥生は、
「ねえ、パパとママは、いつ帰ってくるのかな?」
なんて、聞いてしまう。
そのときの、家政婦さんの非常に困った顔を時々思い出す。
弥生が何も分からないまま、周りの大人がセッティングした通夜、葬儀、告別式が行われる。弥生も黒い喪服を着せてもらい出席する。
たまに家に来ていた人から、特に面識のない人まで。
弥生に会う人たちは皆、口をそろえたように。
「可哀そうに」
「まだこんなに幼いのに」
「これから大変だろうけど」
「いつでも力になるから」
「可哀そうに」
「可哀そうに」
「可哀そうに」
「可哀そうに」
両親のことをよく知っている人で、弥生の前で生前を偲んで涙を見せる人も少なくなかった。
泣いている人を放っておくのは良くないことだと教えられていた。
だから、ハグをしたり、笑いかけたりして、泣き止んでもらおうとした。
「弥生ちゃんは強いのね」
大人たちの目には、そのように映ったらしい。
実際は、ただ無知を晒しているだけに過ぎないのに。
弥生を引き取ったのは、父親の従弟夫婦だった。
弥生と両親の思い出が詰まった家に、亡くなった両親と入れ替わるように入ってきた。
彼らは、まるで両親の代わりのように、両親の残した家で暮らす。それが当然のように。
それが続くようになって、ようやく弥生は両親が戻ってこないことに気づいた。
葬式の意味。会った大人が全員、弥生のことを憐れんだ意味。それが理解できた。
弥生は夕食の最中に突然泣き出した。
従弟夫婦と家政婦は、その姿に驚き慌てる。
なぜ泣いているのかを問われたが、最後まで意味のある答えは返せなかった。
しばらく、亡くなった両親のことを偲んで泣きはらす夜が続いた。
それでも、ひと月ほどすると泣く涙も尽き果て、子供ながらに心の整理も付き、大好きだった両親の死をようやっと受け入れることができた。
そこで、弥生は両親との決別を果たした。
だから、ここからは幼くして両親を亡くした悲しみとは別の話。
弥生の両親の死からしばらくたって、従弟夫婦は豪勢な暮らしを始めるようになった。
毎日のように高級な料理を食べ酒を飲み、仕事にもいかず、日がな友人たちを家に招いてはパーティーを行った。
弥生は、二人が幸せそうなので、いいことなのだと思っていた。
彼らはたびたび、弥生のことを呼び出しては、「弥生ちゃん、ここにお名前書いてくれる」「ここにハンコ押してくれる」と言う。
弥生がそれに従うと、彼らはとても嬉しそうな顔をする。
だから、弥生も快く、その要求に従い続けた。
そんな状況は半年ほど続いただろうか。
ある日から、従弟夫婦は屋敷に帰ってくることが無くなった。
豪遊していたのが、親戚たちの目に付いたということらしい。
その日も、パーティーをするために用意されていた豪華な料理を、ゴミ袋に放っていく家政婦さんの姿が印象的だった。
それからは、住み込みで働いてくれる家政婦さんと二人、大きな屋敷で生活を続けていく。
時々、遠い親戚らしい人が、家政婦さんが買い物に出かけて、いない時間帯を見計らって家を訪れる。
「どうか借金を肩代わりしてくれないか?」
「新しい事業を始めようと思っていて、お金を貸してはくれないか?」
「息子を大学に行かせるためのお金が足りなくて……」
また営業に来る人もいた。
「絶対に儲かるから、投資しないか?」
「今、この土地がとても格安で手に入る」
「いい芸術品があって、将来絶対に価値が出るから……」
弥生が勢いに押されて、契約を交わしそうになる直前に、いつも家政婦さんが戻ってきて追い返してくれた。
昔から、この屋敷で働いてくれている家政婦さん以外の大人は、弥生のことをお金を見るように扱う。
そのことに、薄々と気づいてきた。
親戚を名乗る人。
おいしい話を持ってくる人。
学校の先生までも。
弥生はいつの間にか、人の目を見ることで、その人が弥生をお金として見ているか否かを判断できる特技を身に付けていた。
両親の死から、すっかり年月が経ち、弥生の歳も二桁を数えるまでになった。
その頃には、幼いころには知らなかった、知りたくもなかったことを、幾つも知りえることになる。
弥生には、両親が残した莫大な財産がまだ多く残っていること。
近寄ってくる人間のほとんどが、それを目当てにしていること。
だから、会う人全員を最初から疑ってかからなければいけないこと。
それでも、まだお金ではなく弥生のことを見てくれている人がいることを信じていた。
例えば、幼い日から親身になって一緒に暮らしてきた家政婦さん。
彼女だけは、弥生を弥生と見てくれている。そして、弥生が今、純粋に甘えていられるただ一人の人。
だけど、それも裏切られることになる。
「何してるの?」
それは偶然、家政婦さんのことを驚かそうと、クローゼットの中で隠れていた時に発覚した。
弥生が食材や日用品など、屋敷の生活に必要な買い物をするために渡しているお財布から数枚の紙幣を抜き取り、彼女のプライベートな財布に移し替えている姿だった。
家政婦さんは、膝から崩れ落ちる。
「ごめんなさい、弥生ちゃん」
言い訳はなく、ただ謝罪を繰り返し続ける。
後で聞いた話によると、彼女の娘が大きな借金を作ってしまって、その返済のあてがなく、当月の返済分だけ毎月抜き取っていたらしい。
総額も、従弟夫婦が豪遊に使ったお金や、持ちかけられる投資話と比べると非常に少額だった。
言ってくれれば、建て替えるくらいはしたのに、と弥生は今でも思ってしまう。
彼女は弥生にとっての、残された唯一の家族であった。
だから、両親の残してくれた財産の半分を渡すことになったって、何も問題なかった。
家政婦さんは、罪悪感に耐えかねて辞めていった。
それから、弥生が新たに家政婦を雇うことはなかった。
また裏切られるのかと思うと、誰かを屋敷に招き入れるという行為そのものに拒否感があった。
必要に駆られて、すべての家事を独学で覚えた。
何もかもを一人だけでこなして、一人で生きていけるようになった。
時折、一人きりのベッドで、両親や家政婦さんの温もりを思い出して、ひっそりと枕を涙にぬらす。
そんな、一人きりの生活が五年以上続いたある日。
庭で夜空を見つめていた。
何年かに一回という、皆既月食を見るために。
幻想的な赤い月を眺めていると、自分がある能力に目覚めたことを自覚した。
弥生は、その能力で迷いなく自宅である洋館を、周囲の認識外に追いやることにした。
なぜなら、未だに度々訪ねてくる遠い親戚や、営業の人を煩わしく感じていたからである。
弥生にとっては、所詮その煩わしさから解消される程度の能力。
日は変わって、弥生は日課である屋敷全体の掃除を行う。
今は誰も使っていない部屋も例外なく掃除する。
そんな部屋の一つ。亡くなった父親の書斎。
「昨日までは無かった」
不思議な円形の文様が部屋の中央に描かれていた。
奇妙に思いながらも、汚れなら拭き取らねばと、調べるために伸ばした指先。
文様は触れた途端に、怪しく輝き始める。
しばらくして輝きが止んだ、その中心には、いつのまにか初老の男性の姿があった。
「ワシを呼び出したのは、君で間違いないかね?」
意味は良く分からなかったが、弥生はとりあえず小さく頷いた。
初老の男性はキャスターと名乗った。
キャスターは聖杯戦争に召喚されたサーヴァントの一人で、真名をミシェル・ド・ノートルダムというらしい。
しかし、弥生にとって、それはかなりどうでもよいことだった。
悪意を持って弥生に近づいてくる大人とは違う、別の目的で一緒にいてくれる人。
一緒にいるのに、疑わないでいれる存在。
ずっとずっと弥生が望んできたものだった。
だから、別に聖杯なんて手に入れなくても、弥生の願いは叶っている。
後はもう、かつてのように弥生の元を離れて行ってしまわないようにするだけ。
だから、弥生はキャスターに尽くすことにした。
弥生が家族に向ける無償の愛以外で知っている、他人への愛の向け方。
使用人の服を着て、身の回りのお世話を全てすること。
かつてとは逆の立場で、これまでの五年の経験をもってして。
ありとあらゆる家事が身に付いていることを、初めてありがたいと思った。
それから少し経って、キャスターを訪ねて神無がやってきた。
神無は、圭人と波彦とセイバーを連れてきた。
バーサーカーとの戦いを経て、睦月もそこに加わった。
最初は、誰かを屋敷に上げることに対して、心に大きい抵抗を持っていた。
けれど、それもキャスターの連れてきた人ならと、徐々に薄れていった。
未だに、外の門を開け続けるのが怖くて、神経質なくらいに鍵が掛かっているかを確認してしまう。
それでも、弥生の心に張り続けていた氷が少しずつ溶かされていくのを感じていた。
いつしか、キャスターが作ってくれた空間を、連れてきてくれた人たちのことを、自分の本当の家族のように思う気持ちが芽生え始めていた。
その家族の一人が攫われたと聞いたとき、弥生の心は五年前のあの日と同じくらいに乱れた。
そうしたら、居ても立っても居られなくなった。
だから、自分を犠牲にしてでも圭人を救いに行くことに決めた。
弥生は、座敷牢に入れられた。
それでも、この結果に満足だったから、自分を犠牲に家族を守れたことが嬉しかった。