ちょうど陽の落ちた空に満月が輝く。
アパートから建設放棄ビルに向かうにつれて、住宅の光が少なくなるからなのか、少しずつ月が大きくなったかのような錯覚を覚えていた。
葉月は、母を労うために料理をふるまって、夜勤に行くのを見送った。
それから、再び自転車に乗って戻ってきた。
往復三十分の道も、全くもって苦に思わない。
それに、今日で全てが終わるのだから。
終わらせて、新しく時を動かし始めるのだから。
だから、ここに来るのも今日でおしまい。
そう思うと、余計にペダルを回す足は軽く感じるのだった。
「よし、まだちゃんと居たわね」
座敷牢の部屋まで向かい、人質の少女の姿がまだあることを確認して、ひとまず安堵の気持ちを覚える。
「それは、当然おります。妾が、退屈ながらも、じっと見ておりましたもの。何かありましたら、すぐにマスター様をお呼びしておりました」
「それは、どうもありがと」
恩着せがましい態度をとるライダーに、適当に感謝の意を示しておく。
「しかし、本当に何を考えているのか読めないわね」
というのは、檻の中でじっと座っている少女。
数時間前に葉月がここを出たときから、全く姿勢を変えていないのではと思われた。
葉月がやってきたことには気づいているみたいで、先程入室した葉月の方にちらと視線が送られていたのを確認している。
「まあ、別にあなたが何を考えているかなんて、私には興味がないことなんだけど」
「ふふ、マスター様、ご出陣ですか?」
「ええ、そうよ。さっさと屋上に行きましょう」
少女のことは檻に入れたまま放っておいて、本来行う予定だったことを今から始める。
そもそも、人質なんて取るつもりはなかったのだ。
場所さえ確認できればよかった。
葉月たちにはタイムリミットがあるために、敵の位置情報だけはしっかりと把握しておきたかっただけなのである。
結局、現在居場所が掴めているのは、キャスターとセイバーのみだけど。
それは気がかりな部分だけど、他はもう虱潰しにすればいい。
ライダーの能力のことを考えると、策を弄する必要など、元よりなかった。
時間的な制約が強いがゆえに強力な力を発揮することができる。
加えて、葉月が持つ、最初は無駄だと思われた夜空を意のままに操る能力。
これが非常に相性のいいサーヴァント。
その二つの強みを組み合わせれば、ただ蹂躙するだけで、聖杯戦争を終わらせることができる。
「月が大きく見える」
純和風屋敷の階段を登り続けて、戸を開けると外に繋がっていた。
屋上に訪れるのは、これで二度目。
板張りの床を進んで、縁に近いところまで行く。
柵が付けられていないので、ギリギリのところまで行く勇気はなかった。
「さて、マスター様?」
「いや、ちょっと待って」
葉月はポケットから、ガラス瓶を取り出す。
「あら、覚悟をお決めになさったのですね」
「ええ、元からそのつもりよ」
この瓶の正体は、ライダーの宝具の一つ『不老不死の霊薬』。
ライダー――かぐや姫が、地上に残していく帝に送った、飲んだものを不老不死にする奇跡の薬。
ただし、不老不死なんてものは、本物の聖杯がないと実現不可なもの。
ゆえに、物語の霊薬が持つ不老不死の効能はない。
その代わりとして、サーヴァントとして召喚されるかぐや姫の霊薬には、服用したものの魔力の量と質を高める力を持つ。ただし、それなりに大きな副作用を伴うけれど。
だから、葉月はこれまで渡されながらも、景気付けに一滴舐める程度にしか使用してこなかった。
けれど、今。
瓶の蓋をすぽりと取り去り、不思議な色合いの薬を今一度確認した後。
瓶の口を、自らの唇に突き当てて、一気に傾けた。
口の中に溢れてくる液体を、そのまま喉に通す。
これまで少量ずつしか摂取していなかったため、初めて感じる味。
いや、味のほどは殆ど無味無臭だ。
けれど、魂の部分で異物を受け入れるような、なんとも言い難い気持ち悪さ。
それを耐えきり、瓶の中を空にした。
「よし、じゃあ始めるわよ、ライダー」
「ええ、マスター様」
かぐや姫は、平均と比べて数多くの宝具を有するサーヴァントである。
求婚者たちへの無理難題として出した五つの秘宝。
帝へと残した不老不死の霊薬。
しかし、彼女の心の切り札というべき宝具は別にある。
かぐや姫というサーヴァントは月人の姫であり、月の光によって加護を受ける。その加護の量は月の満ち欠けによって増減する。
そして、月の加護が最大となる満月の夜のみ、使用可能となる宝具がある。
――それは、物語の再現。
求婚者たちに難題を付けて断った後、かぐや姫の美貌の噂は帝にまで届くことになる。
その帝にさえ、かぐや姫は素っ気のない態度を取るのだが、文通を重ねるとともに、互いに心惹かれていくことになる。
文通の始まりから数年の歳月が経った頃、かぐや姫は夜な夜な月を見て涙をする。
『妾は、この国の人ではなく、月の都の民。今まで長くこの国におりましたが、次の満月の日には、月の都に帰らなければなりません』
その話を聞いた帝は、私兵を派遣してそれを阻止しようとする。
しかし、その日現れた月の都の天人たちの前に為す術なく敗れ、かぐや姫は月に帰ることになる。
その物語の再現としての宝具。
「さて、それではこれより終幕。いざ出迎え。『月姫帰郷・十五夜天人行列』」
ライダーの声に応じて現れ出るは、百あまりの顔無き軍勢。
しかし、その一人一人から滲み出る美しさは、ライダーの持つ美までには及ばずとも、常人には直視できないほどの浮世離れしたもの。
そして、彼らはかぐや姫を月に還すための神秘なる色に輝く車を連れている。
それこそが、彼女がライダーである証。
戦車に乗り戦場を蹂躙するのではなく、軍勢に守られ仰がれるために騎乗するライダー。
ゆえに、その車自身に直接の戦闘能力はあらず。
けれど、乗るという行為それだけで、効果の及ぶ宝具であった。
「では、マスター様。妾は車に乗り、天人たちを敵の元へと差し向けます。何かありましたら、気兼ねなくお呼びください。汝の行く末に幸の多からんことを」
言いたいことだけ言って、ライダーはすっと天人たちにエスコートされながら、車に入っていった。
「じゃあ、私の方も頑張らなきゃいけないな」
ライダーの真価を発揮させるためには、大量の魔力が必要。
霊薬で強化されたはずの葉月の持つ力が、時間単位でごっそりと持っていかれているのを感じる。
そして、これと同じ感覚を葉月は数日前に経験していた。
ライダーが月の加護を受けるという話を聞いて、ならばと試したこと。
葉月があの日手に入れた、『夜空を意のままに変える力』。
それは現実にはありえない状態にさえ変えることが可能。
月の光によって、力をもたらされるというのならば、その月の光を二倍にしたらどうなるのか……。
果たして、その目論見は正しかったことが証明される。
ただし、数十秒での魔力枯渇というおまけ付きで。
葉月の持つ空想を具現化する力は、ライダーのようなサーヴァントを持たなければ無意味な割に、非常に燃費が悪かった。
その解決方法として、今回葉月が用意したのは、足りないならば増やせばいいという非常に単純な解。
今夜いっぱいだけ、十全に力を発揮できたなら、それで終わってもよい。
だから、後のことは考えずに霊薬を飲み干した。
そして今宵、葉月は大きくて丸い本物の月に、寄り添うように同じ大きさの満月を浮かべた。