波彦はビルから少し離れた、高台にある見晴らしのいい公園まで来ていた。
後に控えた神経を張る仕事の前に体力を減らさないようにと言われて、走らないように早足でここまで来たが、待ち受ける大役への緊張と坂を登りきった疲れで、心臓の鼓動と息が同時に早くなってしまっていた。
それらを押さえつけるのに、たっぷり二分間ほどかかった。
セイバーが戦っているであろうビルの屋上を、落ち着いて見据えられるようになった。
ポケットから携帯を取り出す。
通話履歴から、ここ最近頻繁に繋いでいる番号にコールする。
一コールも終わらないうちに、繋がり声が聞こえてくる。
『はい、もしもし、こちら神無です』
「準備OK。いつでも行けるよ」
『うん、見てた。大丈夫なら、キャスターさんに合図送ってもらうね』
「本当は、もう一回段取りを確認したいところだけど……そんな時間ないだろ?」
『そだね。結構ギリギリかも』
「じゃあ、やってくれ」
『それじゃあ、キャスターさんお願い』
神無が電話先にいるキャスターに伝える。
波彦は、その数秒先に起こる出来事のタイミングをコンマ秒も見過ごさないように、ビルの方を食い入るように見つめる。
そして、その瞬間は、
『今!』
ビルに被せられていた灰色の養生シートが、夜空に次々と舞い上がる。
今の時間までに、アーチャーがシートを簡単に外れるように細工していた。それを今、キャスターから出された合図を持って、如月が双子に手分けして打ち上げさせている。
建物を覆っていたベールが剥がされていく。
これまでに内部の豪華絢爛な和風建築ぶりは確認しているが、隠されていた外観部分も壮観なものであった。
例えるならそれは、平安の平たく広い貴族屋敷を無理やり角柱のビル型に詰めたもの。
建物内部から発生する不可思議色の光で、夜の町にきらびやかに映える。
『……見とれてないで始めるよ、波彦くん』
「……ああ、サポートの方は頼んだよ」
自分も見とれてちょっと固まってただろ、とは言わないでおくことにする。
気を取り直して、波彦は打ち上げられた養生シートに目を向ける。
まずはバラバラに散らばっているシートを、屋上を覆う大きなドームを形成するように念動力で移動させる。
キャスターが立案し、神無が波彦たちに伝えた作戦は、ライダーのいる屋上の空間ごとシートのドームで覆うことによって、月の光を遮断して弱体化を図るというものだった。
全てのシートを夜空に一斉に持ち上げるほどの念動力は発揮できない波彦のために、アーチャーによるシートの打ち上げが行われた。
その空中にいるシートの群れを波彦が念動力で動かして、シートのドームを作り上げた。
しかし、今作られたドームは不完全。
ところどころ穴あきで、そこから月光が内部に漏れ出てしまっている。
そのため、穴を塞ぐように微修正をかける必要があり、それを的確に指示してもらう必要があった。
『上の方……今動かしたのの二つ右側……それを傾けて左側にぴったりとくっつけて』
「……こうかな?」
『OK。次は奥側の横面。少し左下よりの……』
「ここ?」
『おしい。後もう一個下のめくれ上がってるのを、ぴんと伸ばしてもうちょっと内側に詰めて――』
その指示の適任者は言うまでもなく、千里眼を持っている神無であった。
ドームの状態を都度確認して、電話越しに波彦に指示を出して調整を行っていく。
指示を具体的に言語化するのが難しいらしく、作業は中々に混迷していく。
『そこじゃなくて、一つ隣の……逆逆、逆だってば……』
「そう言われてもなあ」
『感じて』
「流石に、そういうエスパーじみたことは……」
それでも次第に息があってくる。
現実の視界が邪魔に思えてきて、目を閉じ電話越しの神無の声に意識を集中させる。
そのうち、少し曖昧な言葉でも、神無の言いたいことが分かるようになってくる。
『手前左下の――』
「ああ」
『右下のちょっと奥側――』
「これかな」
『奥側の――』
「ここだ」
神無の声が、波彦の視界になっていく。
まるで感覚を共有しているかのように感じる。
そして、シートが夜空に打ち上げられてから一分足らず。正確には五十二秒経過したところ。
『そこを閉じて……』
「うん」
『………………うん、どこも問題なし。全部塞がったよ』
屋敷の屋上に月光を遮る養生シートのドームが完成した。
後はセイバーがトドメを刺してくれることを、祈って待つだけ。
「そうだ、ここで使うって決めてたんだったな」
セイバーのことを考えて思い出す。
右手の甲、そこに描かれた文様に目を落とす。
たった三画。
貧乏性の波彦は置いておきたくなる衝動を振り切って、意を決する。
「令呪をもって命じる。セイバーの身体を万全の状態に回復して、立ちはだかる敵を打ち倒す力を」
波彦の願いを聞き届け、一画の令呪が宙に霧となって消えていく。
これで本当にやれることを全てした。
今度こそ本当に、波彦たちにはセイバーの勝利を信じて待つことだけしかできなくなった。
ライダー。なよたけのかぐや姫。彼女は日本最古の物語である『竹取物語』に登場する月人の姫。
竹取の翁が偶然山で見つけた光る竹を切ったその中にいるのを保護されたところから、彼女の人としての生は始まる。
人としてはありえない速度で成長していくかぐや姫を、翁は不思議に思いながらも実の子のように大切に扱い、またたく間に絶世の美女へと成長していく。
かぐやには、物心ついたころより自分の出自に対しての自覚があった。
姫でありながら月を追放された身。
いつか自分が許されて故郷の月に戻るその日まで、せいぜいこの老人を利用してやろう。
人とは違うかぐやのことを奇妙がったとしても瞳に宿る魅了の力を使って。
そういうつもりで、翁が世話をすることを許していた。
けれど、人とはまるで成長速度の違うかぐやを見て、きっと気持ち悪くなって捨てるに違いないという懸念を抱いていたかぐやに対して、魅了するまでもなく翁は変わりなく本当の子に向けるような純粋な愛情を持って接してくる。
それでも、一度二度のことで、かぐやの心が氷解するようなことはなかった。
五年。
その長い期間、変わらぬ愛情を受けてようやく、かぐやは観念して、翁を育ての親として認めることにした。
だから、この後の翁に対して、中々に無碍にできなかったところがある。
「かぐや、お前にまた客人が来ている」
「またですか。お断りいたしたいのですが……」
「そう言わずに一度会ってくれないか?」
「もう仕方ありませんね」
こんな調子で、かぐや姫の美貌を聞きつけた貴族たちと面会を行うことが何度となくあった。
この数年で、かぐやが金運を引き寄せたので、翁は裕福な暮らしができるまでになっていた。
それでも、貴族たちには頭が上がらず、逆らったら殺されるがために、なくなく貴族の要望に沿うようにかぐやとの間を取り持つようなことをしなければならなかった。
ただそんな貴族たちも大半は、かぐやがずっと素っ気ない態度を取っていると、いくら美貌があってもあんな愛想のない女はいらないと去っていった。
けれどそうやっても引き下がらないやっかいなのが、五人ほどいたので、それらには暇つぶしで絶対に入手できない貴重品の入手を条件にあげて追っ払ったりもした。
「かぐや、お前に会いたいという方が――」
「またですか。懲りませんね。今度はどこの貴族のお方でしょうか? 断ってくれませんか」
流石に飽き飽きしてきたかぐやは、その頃になると貴族相手でも、翁に断りを入れさせるように頼んでいた。
かぐやがそう言うと、この頃には貴族に対抗できるほどの富を有していた翁は、かぐやのことを尊重して、貴族相手にも門前払いをするようになっていた。
けれど、その日の翁は食い下がってくる。
「かぐや、今日の相手はそういうわけにはいかないのだ」
「お爺さまが、昔にお世話になった相手の子供とかでしょうか?」
「その程度の相手なら、断っている」
「では、どなたなのでしょう?」
「とにかく会ってくれ」
と頭を下げて頼まれるので、断りきれずに会うこととなる。
とにかく部屋に居てくれ、来てもらうからということなので、かぐやは一つその客人とやらをからかってみることにする。
人には決して真似できない月人の持つ力で脅してみるも、その客人は怯えはせず姿を見せてくれないか、どうか自分とともに来てくれないかと誘ってくるような変わった人物であった。
後にそれが、宮に住まう帝であったことを、かぐや姫は知る。
帝はその訪問の後から、流石に訪問しに来るほど暇ではないようだったが、そこそこの頻度で手紙やら歌やらを送ってきた。
かぐや姫は、最初の頃は面白がって皮肉を交えて返信を行っていた。
どうせ帝ほどの人ならば、かぐや姫のことなど、二、三月もすれば忘れてしまうに違いない。そう思って、それまでの間ならばと付き合ってみることにしたのだ。
けれど、三月どころか、一年、二年経っても帝は、誠実にかぐや姫との文通を続けている。いつしか、この人はどういった人なのだろうかと、こういったことを書けばどんな返答が返ってくるのだろうと、楽しみにするようになった。
きっと、気づかぬうちにその気持ちを抱かされていた頃から、かぐや姫は帝に惹かれていたのだろう。
そうして帝との文通から三年経った頃、忘れかけていた場所からの連絡が来た。
『もう戻ってきて良い。次の満月の日に迎えに行く』
本当の故郷である月からの連絡であった。
かぐやは戸惑う。昔は待ち遠しくて仕方なかった月への帰郷。
けれど、今は幾人かの大切な人が地上にできてしまった。
だから、彼らとの別れが近づいて、かぐや姫は柄にもなく夜な夜な涙を流すことになった。
夜泣きに気づいた翁に迎えに来る話をし、それを聞きつけた帝が月人がかぐやを連れて行くのを阻止しようと私兵を使わせることになった。
しかし、それではどうしようもないことを、月人の兵たちを退けるには敵わないことを、かぐや姫は分かっていた。
だから、どうにかできないか、考えに考えて一縷の希望を、月の世界でも飛び切りの秘宝である不死の霊薬を帝に渡すことによって、繋ごうと考えた。
かぐや姫の思ったとおり、地上の者に月人の邪魔はできずに、帰郷の車に乗ることになる。
だが無事に帝に不死の霊薬を渡すことが叶った。
これはかぐや姫からの暗のメッセージの籠もったものだった。
かぐや姫が、月の民たちを説得して、月から今度地球に行くことができるようになるのは、途方もなく先のことになるだろう。それこそ人の生の長さでは待ちえないほどに。
だからどうか不死の霊薬を飲み、長い長い年月を待っていて欲しい。
その後に結ばれましょう。
そう思って渡したものだった。
けれど、帝はかぐや姫を失った悲しみで、不死の霊薬を焼いて捨ててしまう。
ああ、違うのに。
そうじゃなくて、不死を受け入れて、いつまでも待っていて欲しかったのに。
そうしたら、いつしかあなたにもう一度月から遥々逢いに来ましたのに。
そのようにして終えてしまった恋を取り戻すのが、かぐや姫の聖杯にかける願いである。
分岐点である帝の選択肢。
それをどうにかして捻じ曲げて、帝に地球で自分のことを待っていてもらう。
それこそが、かぐや姫の願いであった。
落ちていく。
月の加護を失ったライダーは、空中にとどまっていることができずに、為す術なく落ちていく。
そして月の力によって形作られていた百余りの月人も、原型を維持できずに空の中に融けるように消えていく。
「ああ、どうして。月が消えていく。妾の力が失われていく」
もがくように天に空を伸ばす。
けれど、見えなくなった月に届くわけもなく、溺れるように落下を続けていく。
「やり遂げたのですね、マスター殿」
セイバーは、ドームに月光を遮られて、もはや薄れつつある月人の発光しかない暗闇の中で、自らのマスターに対して称賛を送る。
後はセイバーがしくじらないように、一振り浴びせれば終わり。
それを後押しするように、令呪の援護によって、戦いで受けた傷が回復していく。
「真っ向勝負という形では、拙者の勝利はなかったでしょう。そこに答えてあげられなかったのは、武人として心苦しいところではありますが……」
ライダーの落下位置を見定めるように、セイバーは剣を構え直す。
「せめて一太刀で終わらせましょう。これこそは、形なきものを捉える退魔の力」
セイバーは、その瞳に青白く光る雷神の力を宿す。
いくら身体が回復したとはいえ、燃費の悪いその力をもう何度も使えるほどの余裕はない。
すなわちそれこそが、次の一撃でこの戦いを終わらせるという決意の証。
「一之太刀」
セイバーの絶技が、落下してきたライダーの急所を的確に断ち切る。
二つに裂かれたライダーの上半身と下半身とが、別々の場所に同時に落ちる。
もはや、妖か精霊の類と化していたライダーに対して、実体を捉えるセイバーの退魔の力は効果てきめんだった。
ライダーは、天に向けて手を伸ばしたまま事切れる。
そして、空に解けゆく月人とともに、夜空に霧のように消失していった。
役目を失った養生シートのドームが力尽きたかのように崩れ、夜風にはためきながらゆっくりと落ちてくるのを横目に、セイバーはもう一つの落下物を受け止めに向かう。